グ、ア、ム
何だか無性にせつなくなった。こんなにも痛快なのに。こんなにも可笑しいのに。きょうだいとは、一体何ぞや…としばし考えてしまったのである。“きょうだいは他人のはじまり”という言葉があるように、歳を重ねるにつれて疎遠になってゆくその間柄。そこに根深くある葛藤のようなものから、わたしは果たして目を背けてはいないだろうか…と、ふと思ったのだ。本谷有希子著『グ、ア、ム』(新潮社)に登場する姉妹と同じく、四つ違いのきょうだいがいるわたしとしては、いくら他の人が羨むくらいに小さな頃から仲睦まじかろうと、いずれは離れてゆくであろうきょうだいの存在のことを、今のうちから覚悟しておかなければなるまいと痛烈に思ったのだった。
これは、父親を留守番に母、長女、次女が初めての海外旅行に出かける物語なのだが、三者三様に個性的で様々な確執を抱えている。この長女の世代というのは、ちょうど今の二十五歳から三十五歳あたりまでの、バブル時代もぎりぎりに終わっているし、受験戦争時代をくぐり抜けなければならなかった年代。そうして、受験戦争から逃れられたかと思えば、就職氷河期が待っていたという、何とも可哀想な世代なのだ。いわゆる格差社会の犠牲者とも言える。そんな長女とはうって変わって、次女は堅実派で、姉に辟易することしばしば。何かと折り合いがつかない。そんな二人の間でただ右往左往する母。それに加えて、せっかくのバカンスに母は生理になるし、次女は歯痛、天候にも恵まれない。
三者の抱えるこころのうちは、なかなか後半まで言葉にはならない。家族旅行の目的すらもよくわからないまま、姉妹は感情をしだいに高ぶらせるのである。物語にはこんな箇所がある。“同じDNAから生まれ、同じ性別を持ち、同じ環境を与えられ、同じ両親に育てられた二人がいたとして、その差がたったの四年だとして、性格の、人生の、その違いはなんぞ?”と。ここには世代の問題以前の、根源的な問いかけがあるように思えてならない。もしも…という可能性。それに加えて、どうしてもきょうだいというのは必然的に比べられる。たとえ親が比べなくても、きょうだいはそれを意識せずにはいられないのだ。それはきっと、近くてもいつかは遠ざかる存在だからなのかも知れない。
![]() | グ、ア、ム 本谷 有希子 新潮社 2008-06 by G-Tools |
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ←宜しければクリックお願い致します。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

































