36 多和田葉子の本

2007.05.26

ゴットハルト鉄道

20070526_016 文字に貫かれる、少女の影。文字の渦は、<わたし>という概念を揺るがすように大口を開けてくる。幻想と現実の境界の曖昧さに呑み込まれながら、<わたし>のイメージは変化し続けるのだ。その間きっと、想像もつかぬようなことが起きているに違いない。だから、襞と襞をぐっと押し分けてその中に溶け込む。いや、同化しようと努めてみる。わたしのいる場所と、いない場所。本当は、ただそれだけのことなのに、思考せずにはいられない。これは、たぶん日常という無意識の営みへのささやかな抵抗でもある。さあと両手を拡げられて、何の自覚もなしに飛び込めるほど、わたしはもう若くない。それでも、少女という器をいつまでも捨てきれずにいるのだ。

 多和田葉子著『ゴットハルト鉄道』(講談社文芸文庫)は、微妙な身体感覚を捉えている。ヨーロッパの中央にある、山塊ゴットハルト。その長いトンネルを列車で旅することを“聖人のお腹”を通り抜ける陶酔と感じながら、主人公<わたし>のどこまでも揺らぐ心情と寄り添うことができる。国境も生も性も、何もかもの既成概念を覆す展開は、文字の渦に呑まれるに最適だ。とりわけ、日本の国旗を、“まわりから孤立して、自分をこっそりと世界の中心に据えた島の自己欺瞞”と表現したあたりにぐっときた。それはお国柄と言うよりも、異国での<わたし>という存在に近しい気がする。そして、主人公はなおも“閉じこめられたい”という感情を吐き出すのだ。

 次に収録されている「無精卵」でも、この姿勢は貫かれているように思う。女は閉じこもるようにして暮らし、できるかぎり他者を拒絶して自分の世界に入り込む。突然現れた、正体のわからない少女は、まるで満たされずに生きてきてしまった女の自己投影のようでもあり、ときどきその性的な欲望に対して思わずぞっとしてしまう。女は日々、ひたすら文字を連ねることを自分に課し、少女はそれを夢中になって模写してゆく。その狂わんばかりの作業は、周囲の人々にとっては脅威のように映っていたのだろうか。なんの利益も名誉も求めないもの。その衝動にはっとさせられつつ、ある種の恐怖さえ感じる展開だ。書かずにはいられない女の、日常への抵抗の物語である。

 最後に収録されている「隅田川の皺男」。マユコという得体の知れない女性が、見知らぬ地区の襞を押し分けるようにして彷徨ってみたいという願望を描く物語である。細い路地をさらに細い方へと、皮膚のぬくもりが感じられるまで。たどり着いた街では、女は皆自分が得ることができるものとそうでないものを確かめに訪れ、少年たちはその要求に応えるべくして仕事をするのだった。マユコは行く先々で霊的な存在感を放つ皺男に遭遇し、その肌に魅せられてゆく。皺に対する執着はやがて地区の襞と重なり、自分のいるべき場所とそうでない場所を自覚してゆくことになる。これもある意味、(地区に)閉じこめられたい、閉じこもっていたいという心理を思わせる物語だ。

4061984020ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)
多和田 葉子
講談社 2005-04

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2007.03.27

聖女伝説

20050421_999028 美しい死。それは、少女が一度は憧れるものではないだろうか。そしてこれは、少女であることの特権でもある。その儚さに、その煌めきに、そのはっとするほどの無垢さに、わたしたちはきっと、心を打たれる。涙まで流すかもしれない。ため息が自然と洩れるかもしれない。けれど、多和田葉子著『聖女伝説』(太田出版)には、肝心の“美しい死”を奪われた少女がいる。自由な身体感覚までも奪われて、頼りなげなその肢体は漂うように宙に呑まれてしまうのだ。少女であることの潔癖さも、夢見がちであることも、きっともう、ほんの僅かしか残されてはいないのだろう。それでも、少女というだけで無条件に愛おしい気持ちがするのは、わたしもかつて少女だったからに違いない。

 ときに少女は、男だけの共同体に違和感を覚える。ときに少女は、想像だけで妊娠だってする。ときに少女は、罪深い女性の思想に囚われる。ときに少女は、無防備に誰かに寄り添う…思いめぐらす思考の自由は、様々な人によって影響され、次第に逞しくなってゆく。その逞しさで、人を傷つけ殺めることだって、容易になってしまうに違いない。少女の存在は至高のもの。向かうところ敵なし。完全無敵の存在になる。そのしぶといまでの目線。そして、態度。それを用いて、いつだって物語の主人公でいられるのだ。逃れられない定めと共に。いつまでも、いつまでも、少女は少女であることを続けなければならない。そうすることで、果てようとするかのように。

 この物語の漂うような浮遊感は、読んでいてある種の酔いを思わせる。心地よくも嫌悪を呼び、それでも愛おしさを感じさせるような。そこにはもちろん、少女ならではの鋭利な感覚がある。忘れかけていた懐かしいもの。身体を貫く、やわらかな痛み。確かに掴んだはずなのに、手のひらからこぼれ落ちるような儚さ。そんなものたちがひしめき合い、揺れにまかせて心の芯を熱くするような気がしてくる。わたしも少女だった。かつて少女に違いなかった。そして、いつしか老いゆくこの身は、まだ無垢で白く、やわらかさを残しているけれども、少女だった頃はもう二度と戻らないのだということ。わたしのため息の理由は、そんなところであるに違いないと思うのだった。

4872332857聖女伝説
多和田 葉子
太田出版 1996-06

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2007.03.22

旅をする裸の眼

20070125_999022 あなたとわたし。あなたを見つけたその日から、あなたとわたしの境はどんどん曖昧になってゆく。わたしはきっと、誰よりもあなたを知っていたし、いつだってあなたをじっと見つめていた。視力という名の裂け目から、あなたをいつだって探し出せた。つまりは、境界の向こう側に見えるものを、わたしは見ていたのだ。多和田葉子著『旅をする裸の眼』(講談社)は、少女の視点から、見えるものすべてを生理的感覚として捉え、物語を展開してゆく。ベトナムから東ベルリン、そしてボーフムへ。やがて逃げ出すようにしてパリへ。言語も人種も国家も政治体制も、あらゆるものの境を越えて、少女はカトリーヌ・ドヌーヴの映画と出会い、その世界にのめり込んでゆく。

 少女の旅を言い表すのは、とても難しい。何しろ少女は小さな世界に満足していたから。生まれ育ったベトナムの生活。家族が嘆いたくらいの東ベルリン行き。少女は、何の躊躇いもなく旅立った。そして、連れ去られていった先のボーフムにも、よく馴染んだ。少女という無垢な存在。それは、無防備ながら恐れを知らず、その土地の空気に染まりゆく。けれど、若さゆえの好奇心というものや、満ち足りない思いというものは、捨て去ることはできない。彼女のそこを埋めてくれたのは、パリでの映画鑑賞だった。言葉がわからないながらに懸命に観た映画は、彼女の中の視力を刺激し、するするとその世界へと導いてゆく。<あなた>と<わたし>。<わたし>と<あなた>。その境界はもはや、ない。

 少女が導かれた映画の世界。そこでの<あなた>は、さまざまな役柄を演じている。もちろん、物語の舞台も、時代背景も、変化する。言語のわからない世界で頼りなのは、視覚的なもの。つまりは、<あなた>自身だったというわけだ。一見、映画スターに憧れる夢見る少女を連想しがちな設定だが、物語にそういう色はほとんどないと言っていいと思う。もっと根源的なもの。もっと深いところでの、<あなた>と<わたし>のつながり、はじまりがあるように感じられるのだ。言語のない世界での。限られた世界だからこその、深み。ただの小さな世界での安住とは違う、何か。少女の視点の自由自在さに、読みながら酔いしれたようにうっとりとなるのは、わたしだけではないはずだ。

406275942X旅をする裸の眼 (講談社文庫 た 74-2)
多和田 葉子
講談社 2008-01-16

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2007.03.19

ヒナギクのお茶の場合

20060806_999033 いやおうなしに、こびりつく色。その色の波間にたゆたうように、浸る。漂う。揺れ惑う。ティーバッグからしたたり落ちる何滴もの淡くも確かな色は、わたしを心地よく物語の世界に誘い、引き込み、じわじわと現実を侵食してゆく。ゆるやかなスピードで。戻れなくなる、一歩手前まで。多和田葉子著『ヒナギクのお茶の場合』(新潮社)は、そんな夢うつつの感覚に陥る、短編小説集である。気がつけばまどろんで、覚醒しては読み、読んではまどろむ。そうして、わたしはまどろみの中で物語をあたりまえのように思い描き、違和感なく紡ぎ、それをおかしみに変えてゆく。もちろん、この小説の世界自体も、そういう雰囲気のもので、何とも言えぬ浮遊感が漂うのだった。

 表題作「ヒナギクのお茶の場合」は、舞台美術家のハンナと小説家の<わたし>との、交友を描いた作品だ。ハンナの緑色の髪。ウイキョウの色。ヒナギクの色…物語の端々で登場する色たちが、とても印象的である。思わずその色の波に呑み込まれそうになる場面もあるほどだ。ふたりは、ティーバッグで結びついた仲であるけれど、きっかけはどうあれ、それ以上に深い結びつきを見せてくれる。例えば、ハンナにあって、<わたし>にないもの。<わたし>にあって、ハンナにないもの。対照的だからこそ惹かれ合い、関わり合う。そんな関係があるのだ。けれど、互いにどっぷりと染まることはない。ティーバッグからしたたり落ちる色のように、ほんのりと染まり合うのだった。

 最初に収録されている「枕木」。ここでの舞台は電車の中である。どこか異国の地をひた走る電車。その中で頭をよぎる妄想と現実とが絡まり合い、不思議なる感覚を呼ぶ作品である。主人公の<わたし>の思考そのものが物語を進行させ、時には現実から放り出されるようにして覚醒する。はっと我に返る感じで。どこへ向かおうとしているのかわからない<わたし>。それでも進み続ける電車。一方が立ち止まっても、一方は走り続ける。いや、走り続けてくれる。その事実は、「乗り物に乗るわたしたち」というものを、根本から違和感へと引きずり込むようでもある。宙ぶらりんのわたしでも、どこかへ運んでくれる箱。便利な世の中は、不思議な感覚に満ちていたのだった。

4104361011ヒナギクのお茶の場合
多和田 葉子
新潮社 2000-03

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2007.01.15

アメリカ 非道の大陸

20070106_44023 あなたという名の迷宮は、わたしという名の迷宮に寄り添っている。もちろん、あなたはわたしではないし、わたしはあなたではない。だからといって、あなたがわたしとは無関係だという証拠にはならない。あなたがわたしと一対であるという証拠にもならないのだ。だが、わかる。あなたは確かにわたしを知っているし、わたしも確かにあなたを知っていると。道ゆく人々の群れの中に、あなたを見つけること。それは案外、容易いことなのだ。あなたの姿は、まるでわたし。わたしの姿は、まるであなた。合わせ鏡で見たように、よく似ているのだから。それに気づくのは、きっとあなたとわたし。ただ、それだけ。他の人にはわからない。だってほら、誰もわたしたちに気づかない。

 あなた。それを主人公にした、多和田葉子著『アメリカ 非道の大陸』(青土社)。これは、あなたとわたしを結ぶ、迷宮のような小説だ。<あなた>は、アメリカを旅する。いや、何かに掻き立てられるように、旅へと誘われるのだ。どこまで行っても、<あなた>はあなたであり続け、同時に<あなた>はわたしかも知れない錯覚へと陥らせる。この新たなる感覚。どこからか呼び覚まされたと言うべき想いに、戸惑いつつも呑み込まれてゆくのだ。異国の地で、次々と出会う友人。そして、その知り合いの人々。そのまた知り合いの人々…と、どこまでも続く人間関係の連なりは、留まることを知らず、ますますわたしかもしれない<あなた>という名の迷宮に、巻き込まれてゆくのだった。

 非道の大陸。その“非道”という言葉を、わたしはほとんど意識せずに読んでいた。そもそも、“非道”という言葉自体を曖昧にしか知らなかったからでもあるわけだが、辞書を引いて頷くことになった。どこまでも続く旅と、それに纏わる人間関係の連なりというもの。それらがまさに非道のもののように思えたからだ。アメリカそのものが非道なのではなく、そこで彷徨い、佇む人々。もちろん、<あなた>もわたしも誰も彼もが、非道の枠組みに入り込んでしまっているのだと。それは、もしかしたら人種や種族を指すのかも知れないし、巨大な大陸を旅することそのものを指すのかも知れない。それでも確かなことは、読了後に残るじわんと疼く胸の中にあるように思えたのだった。

 この物語の中での確かなこと。それを想いとして紡ぐならば、冒頭のような文章が浮かんだわたしだ。けれど、よくよく思い返してみれば、これはわたしの中だけの身勝手な解釈に過ぎない。読み手に与えられた特権で、自由気ままに紡いだだけのこと。この作品を読んだ人に、「なんなんだこれは?」と思われかねないことを承知で。あらすじの説明なんて不要だ。<あなた>はわたしのすぐ傍に寄り添っている。<あなた>という迷宮は、わたしという迷宮に、とてもよく似ている。だから大丈夫。たゆたうように身を任せて、この物語に酔いしれればいい。思う存分、旅を楽しめばいい。脳内をめぐる数々の出来事は、決してひとつも無駄なことではないのだ。さあ、出発!

4791763041アメリカ―非道の大陸
多和田 葉子
青土社 2006-11

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2007.01.08

犬婿入り

20070106_009 時として言葉は、勝手に一人歩きをする。時として言葉は、何の役にも立たない。強い意志を持っているかと思いきや、全く無力な存在でもあるのだ。表裏一体とでも言うべきか。世界を相手にしてみれば、言語はツールとして1つしかない場合、その威力は極めて弱いものだと言えるだろう。そんな時に頼りになるのは、もしかしたら視覚的なコミュニケーションだけかもしれない。いわゆる物事の表層の部分。人の表情、である。多和田葉子著『犬婿入り』(講談社文庫)に収録されている「ペルソナ」は、まさにその言語を切り離した世界を描き、独特の雰囲気を感じさせる作品である。相反するように表題作「犬婿入り」では、言語が強固に異物を弾き出すイメージが始終付きまとう。

 はじめに収録されている「ペルソナ」。ドイツを舞台に描かれる、東アジアの人々に対する偏見は、なかなか根深いものがある。多種多様な人々と言語が用いられる環境における個人というものは、なんとちっぽけなものだろうか。物語の中で、姉弟で留学している道子は、言語を切り離した表層の部分でひどく混乱し、戸惑うことになる。中国人も韓国人もベトナム人も日本人も、ドイツ人から見れば区別がつかない。わたしたち日本人が、外人イコールアメリカ人的発想をするのと同様に。日本人であるはずの道子は、そんな中、同じ日本人に“ベトナム人みたい”と言われる。元恋人には“東アジアの人間には表情がない”とも言われる。また、日本人イコールトヨタ的発想をされること、しばしば。

そんな状況の中でいくらドイツ語や英語が話せても、人は人の表層しか見ないし、通用しない。つまりは、佇まいや醸し出す雰囲気。要は、顔がモノを言うわけである。物語の中では、セオンリョンという人物が誤解されてしまうことになるわけだが、彼もやはり人柄よりも表情が乏しいとされる東アジア人の顔で、陥れられてしまうのだ。わたし自身、人からよく“メンクイ”という言葉を放たれるが、決して美男子がタイプというわけではない。内面から溢れてくる雰囲気というもの。つまりは、その人と成りを表す“顔”というものが好きかどうかを重要視しているわけだ。別の角度から見れば、それは物事の表層しか見ていないことにもなるわけだが、持論を言えば、“顔”は人を物語るものである。

 さて、表題作の「犬婿入り」。これはもう、言葉の力をひしひしと感じさせる物語だ。共同体というひとつのカテゴリーにおける、異物というものを徹底的に排除する傾向が鮮明に描かれている。日本で言うところの、古くを言えば部落。昔ながらの町内会や団地という組織は、まさにそういうものを代表する共同体だろう。そこに組み込まれている無意識のルールを逸脱するものは、疎まれる。物語では、奇妙な“犬婿入り”の話をして聞かせる、キタムラ塾の北村みつこという女性をめぐる数々の噂話を中心に描かれていて、物事の本質よりも言葉が人格化してゆくという、なんともユニークな作品となっているわけだが、よくよく考えてみると、その恐ろしさにぞっとするのであった。言葉は魔物だ、と思わずにはいられない。

4062639106犬婿入り
多和田 葉子
講談社 1998-10

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2006.12.19

海に落とした名前

20041212_9999007 時間と時間を縫うように紡がれた文章は、なんとも不思議な心地にさせてくれる。その無限なる連なり。或いは繋がりを思うとき、わたしはただ呆然と立ちつくす。自分の生きている世界の小ささに。世の中をあまりに知らないということに。そして、いつからか組み込まれたわたしの思考回路は、混乱をきたすのだ。わたしは一体、これまで何をしてきたのだろう、と。多和田葉子著『海に落とした名前』(新潮社)は、そんな思いを掻き立てる一冊だった。ここにある世界は、どこまでも遠くへ伸びゆくように思えたから。どこまでも深みにはまってゆくように感じられたから。そう、この人は知っている。わたしの足りない部分を、すべて見透かしているのだ、と。

 表題作「海に落とした名前」は、飛行機事故のショックから、自分に関する記憶を失ってしまった女性が主人公である。自分を証明する手段は、たった一週間分のレシートだけ。モノの名前や概念は忘れていないのに、自分に纏わるあらゆるものが欠落してしまったのだ。その女性を熱心に世話する兄妹が現れて、彼女の過去を探ろうとするものの、<わたし>という存在はますます曖昧にぼかされてしまう。誰を信じればよいのか。誰を頼ればいいのか。自分の存在がわからないゆえに、彼女は一人苦悩する。だが、苦悩すればするほどに、何もかもが曖昧になってゆく。過去の自分を取り戻すべきか。新しい自分を受け入れるべきか。そもそも自分とは何者か。難しい問題である。

 ここでの苦悩は、深刻ながら思わず笑みを誘う。主人公は自分に纏わるすべての記憶をなくしてしまったゆえに、どこかとぼけているようでもあるし、あくまでも他人事のように身を構えているところがあるからだ。そして、彼女の思考は様々なものに影響を受けやすく、つい誰かの言葉に流されてしまう。また、誰かを疑いだしたら、何もかもが信じられなくなってしまう。自分という確固たる存在がないということが、そうさせるのだとしたら、恐ろしくも滑稽である。そんな中で、彼女が彼女なりに考えるすべをほんの少し読みとれる後半部分は、とてもほっとする。もしかしたら、それは間違った道かもしれないけれども。それでも、彼女自身が決めたことに違いないから。

 他に収録されている「時差」「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」「土木計画」も、それぞれ味わい深い作品である。中でも「土木計画」の妙には、ぐっと引き込まれた。雑多なモノをすべて排除した生活の中にある、なんとも言えない寂しさと孤独とを、感じてしまったゆえに。この物語の世界には、もはや人と猫との区別も曖昧になり、人間関係は希薄になり過ぎている。それは、主人公が望んだことでありながら、彼女はどこかでそれを否定したい衝動にかられているように感じられる。「時差」での、濃密なまでの人間関係とは真逆の話である。人はどこまでの濃さで関わり合うべきか、どこまでの束縛が許されるのか、ごく個人的な問題だけに、その解釈はますます難解になってゆくことだろう。

4104361038海に落とした名前
多和田 葉子
新潮社 2006-11-29

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2006.12.15

文字移植

20061108_010 時間の経過を感じながら、夢の中にいるかのような不本意さを目の前に突きつけられていた。それでも夢の中からは自らの力ではどうにも抜け出せないのと同じように、いつまでもわたしの腕を、或いは脚を掴んで離さない何かを感じてもいた。そんな不思議な読書体験が、多和田葉子著『文字移植』(河出文庫)では得ることができる。実験的な要素を多く含むこの作品は、執拗なまでに<わたし>という存在を主張しながらも、その存在感を曖昧にしてゆく。そこには、文字の連なりというものが、何も役に立たないのではないかとすら感じさせる蠢きがあるのだ。それゆえの、快感。幻想。それらに酔いしれるようにして、わたしは一心に読み耽らずにはいられなかった。

 物語は、現代版の聖ゲオルク伝説の翻訳をするために火山島を訪れた<わたし>について描かれている。<わたし>は翻訳の仕事に努めようとするものの、訳された文字はただの断片にすぎず、途方もなく散らばって見えるだけである。やがて文字の群れは姿を変えて<わたし>を悩ませ、不安を掻き立ててゆく。その不安は、始終読み手にも伝わってくるほどにリアルなもので、それでいてどこか夢の中に引きずり込まれたかのように薄い靄に包まれている。それが、この物語の魅力であり、難解なところでもある。けれど、断片的に紡がれた文字の連なりを思うとき、これから無限に広がるだろう新たな物語を想像して、歓喜せずにはいられないわたしがいることに気づくのだった。

 そう、わたしは翻訳ということをそもそも何もわかってはいない。学生時代に英文を訳したことくらいしかない上に、そもそも語学という分野には疎かった。今でも、もちろん疎い。それでも、翻訳小説を読む際は、翻訳者が誰であるのかをマメに確認してみたり、その経歴をじりじりと読んでみたりすることは忘れない。なんという浅ましさだろう。そして、思っていた。所詮、翻訳家は翻訳家。決して作家ではないのだわ…と。この物語の中にももちろん、そういう葛藤のような部分が多く描かれている。翻訳なんて、やめてしまいなさいな。翻訳して何をしたいというの。翻訳家なんてさっさとやめて、いっそ作家になりなさいな、と。けれど、<わたし>には確固たる意思があるのだった。

 この物語が面白いのは、そういう<わたし>の意思の強さとは矛盾して、時間というものが常に流れていることである。食料雑貨店へ向かうときも、河へ向かうときも、郵便局へとむかうときも、誰かに話しかけられるときも、翻訳しているときも…。物語に、或いは活字というものに、一定の流れを感じることは、稀な気がする。確かに時間が流れ、確かに<わたし>という人が存在し、確かに物語の舞台となっている火山島が実在している。そんなふうに思ったのだ。それは、一気に読み終えたからというよりは、物語に寄り添うようにして読んだ結果なのかもしれない。そして、物語の<わたし>が聖ゲオルクに寄り添ったのに近い状態だったのかもしれないとも、思うのだった。

430940586X文字移植
多和田 葉子
河出書房新社 1999-07

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2006.06.05

球形時間

20060601_44009 いくつもの思考が重なって共鳴する。1つが2つに。2つが1つに。いや、もしかしたらいくつにも思えたものが、たった1つにすらならない可能性だってある。要するに一方的な。独りよがりな。とりあえずはまあ、少しくらい考えてみるか。その程度だったら、ちっとも構わないはずだ。1つだろうと、2つだろうと、わたしの知った事じゃないのだから。多和田葉子・著『球形時間』(新潮社)は、そんな些細な戯言のよく似合う物語だ。ぐるぐると廻らせた思考は、内に秘められていると云っていい。外に向けられぬまま、あまりにも身勝手に廻る思考。それはもう、生意気にも、やけに大人びた若者たちによって。

 物語の主人公は、高校生のサヤ。いわゆる今どきの少女である。サヤの言葉遊びは始終続いて、周囲に向けられる視線は極めて鋭い。他者の抱いている思考をさまざまに結びつけては、その僅かな隙間にするりと入り込んで人々を混乱させる。周囲はもちろん、我が身までも混乱の中に置く。日常にある苛立ちというもの。それを丁寧に細やかに描かれてゆくさま。それがなぜだか、心地よい物語だ。心の中にだけ秘めた憎悪の塊は、誰もが皆そうであるように、些細なものまできっちりと脳内で語られる。ぐつぐつと煮え立つ頃にはもう、呑まれてしまう類の。わたしの声でありながら、わたしのものではない。ひどく醜くい、ひどく哀しい。けれど、憎悪という感情なしには、生きられるはずもないわたしたちがいる。

 苛立ちと憎悪。物語には、それを抱える者が多い。不良に見せつつも優秀なサヤは、自分とは頭のつくりの違うカツオが羨ましくてたまらない。恵まれた家族をはじめ、何もかもがクールゆえに。カツオなりに困難ながらも。また、少々変わったところのある、教師であるソノダについてもそこそこ気に入っていたサヤだが、誰もがサヤのようであるはずもなく、それぞれに苛立ち、それぞれに憎悪し、それぞれに日々はしんどいに違いない。思いは募るばかりである。サヤに向けて放たれた言葉、“インド人”。そのたった一言を“ドジン”と聞き違えたゆえに、サヤの日常は苛立ちと憎悪からほんの少しずつ遠のいてゆく。古風な雰囲気の喫茶店“ドジン”とそこに佇むイザベラとの出会いゆえである。

 いく人もの思考は廻る。始終、廻る。人との関わりというものを思うとき、そのほんの少しの瞬間、刹那に思いを馳せずにはいられないわたしたち。内に秘められたままのそれが、外に向かうとき。その時間こそが、深くなぜかいとおしい。不思議なくらいにずんと響く。小さなもの。些細なもの。ちょっとしたそれ。そういうものたちが心を揺さぶることも、もちろんだろう。すべての時間。タイトルになっている“球形時間”の意味するところは、あまりに刹那で、ひとまとまりの或る1つの世界で。口に出さずとも秘めている心持ちそのものを紡いだように思えてくる。わたしたちは1つを共有した。わたしたちは1つを思いめぐらせた。そんな言葉を云ってみたいくらいに、わたしはこの物語が好ましくて仕方ない。

410436102X球形時間
多和田 葉子
新潮社 2002-06

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2006.05.12

光とゼラチンのライプチッヒ

20050510_44002 インプットとアウトプット。そのバランスを思って、しばし息を止めてみる。入る、入らない。2つの事象の狭間で、なんとかしてここに居ようと強く踏みしめてみる。それがただの悪あがきでないことを祈って、わたしは目を閉じる。そして、いつか果てる脳内の思考に、ゆっくりとブレーキをかけ始める。多和田葉子著『光とゼラチンのライプチッヒ』(講談社)の企みは、そうやってわたしを不可思議な世界へと誘う作品だった。洗練された言葉は、密やかに笑みを洩らして遊び回り、ぐるぐると廻り進む終わりなき思考は読み手を心地よく乱す。これからどこへ行く。どこまで行く。どこから来た。どこに居る。わたしはわからぬままに、ただ旅する。はて。小説を読むとは、こんなにも愉しかっただろうか、と。

 この作品に収録されているのは、10の短篇。流れ続く思考と言葉遊びが愉快な「盗み読み」。きのこさんと“わたし”の奇妙な聞き違いと思考のよじれ。溶けゆく脳内を描いた「胞子」。靴を見失う「裸足の拝観者」。猫をきっかけに自分を知る「ころびねこ」。見知らぬものに囲まれることに慣れてしまった女性が、ふと気づきを見出す「砂漠の歓楽街」。観光客であることと、今居る地に馴染むこととの境界を思わせる「チャンティエン橋の手前で」。ひらがなの不思議を感じる「ちゅうりっひ」。燃えるゴミが100グラム100円となった世界で、いかに捨てないか思考をめぐらす「捨てない女」。舞台を模した「夜ヒカル鶴の仮面」。西と東。そこにある差と強い自意識を感じる、表題作「光とゼラチンのライプチッヒ」。

 中でも面白かったのが、「胞子」。“きのこさん”という個性的なキャラクターが生きている作品である。主人公ときのこさんの駆け引きというのは、言葉のニュアンスと創造とにあって、可笑しく奇妙に読み手を刺激する。“ききちがえた”と“きちがえた”。“かして”と“おかして”。間違った表現の中に見出す世界は、ときに想像力を高め、不思議の国へと思考をめぐらせる。きのこさんの言葉に触れてしまうと、ふと清く正しく美しい言葉というもののつまらなさを思う。もっと言葉は、やわらかなもの。自由に連ねるべきもの。なによりもわたし自身が愉しく。心地よく。気持ちよく。たまらなく。囚われずに。日常というのは案外、ちょっとしたことで面白いものになるのかも知れない。

 それから、もうひとつ。「チャンティエン橋の手前で」について。ここに描かれる滲みというものに、わたしは惹かれずにはいられなかった。ぼんやりと目の前にあるもの。文字らしきもの。その意味するところ。いつまにやら、わたしたちは学んで、知識を蓄えて、それらを意識せずともわかるようになってゆく。自分の中にあるいくつものキーワードは、その場その場で巧みに選ばれてゆく。例えば、ベトナムという単語。観光客という単語。そこに滲む思考は、わたしたちの行動を捕らえる。そして、決定する。わたしたちはそれらしく、その通りに振る舞うことになる。わたしという概念のままに。めぐらせた思考のままに。考えてみれば、不思議なくらい精密な回路だ。わたしたちは廻る。それは、いつか果てるまで続くのだろう。

4062100312光とゼラチンのライプチッヒ
多和田 葉子
講談社 2000-08

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