台所の詩人たち
ずんと響いてじんと残るもの。わたしにとって、そういうものは何だろう。考え始めてぱっとひらめかないのは、あまりにも多いからか、少ないからか。どちらにしても、それほど大きなものはないらしい。つまりは、無に等しいということ。些細ながらも少しの間しゅんとして、活字の渦に呑まれてみた。呑まれるしかなかった。そして、そんなときにするりと入ってきた、岩阪恵子著『台所の詩人たち』(岩波書店)に、はっとする言葉を見つけた。“私たちの心にこげついて根を一生にのこす処のものは、日常のくだらぬ事ばかりがなかなか生きている”というものである。小出楢重の随筆にある言葉だ。ああ、そうか。そうだったのか。意味する言葉とわたしなりの解釈。そこにぴんと張られた糸を感じた瞬間だった。
この本は、わたしにとって3冊目の岩阪作品になる。ふるさとのこと。日々の暮らしのこと。自然へのさまざまな思い。それから、よむこと。みること。きくこと。1976年から2001年までの随想集である。長短それぞれ。味わい深い、なんとも心地よい文章の流れを感じる。これはまさに、日常。くだらないとは言い難いが、たわいもない日常である。そして、わたし自身が“ああ、そうか。そうだったのか”と思った日常に、とてもよく似ていたのだった。読みながら気づく。わたしは、大きな出来事などなくてもいいや、と。注意しなければ目に止まらないくらいの、何気ない日常やささやかな喜び。それの方がずっとずっといとおしいじゃないか、と。
日常。そこで交わされる言葉について、語られている部分がいくつかある。中でも、人との距離を考慮した言葉のはさみ方の部分が興味深かった。著者はわたし同様に話し下手らしく、黙って微笑めばいいところで余計なことを言い、親しくなった途端にその人との距離をはかりかねるのだとか。言葉を交わす瞬間は流動的でありながら、どうもその瞬間というものを掴みきれない。そこで登場するのが、“人と話すとは、いかに話さないか”である。言葉を惜しむ。気持ちの高ぶりをつい言葉によって用いてしまうわたしたちには、少々痛い部分でもある。言葉は万能ではない。働きも不自由。ときには有害となる。だから惜しむ。惜しまなければ、と思ったのだった。
著者の言葉の中に心地よさを覚えた部分が、もうひとつある。それは、自分自身への折り合いのつけ方が語られた部分である。少女から思春期。その時期に、著者はひどく戸惑ったという。生きづらさの根源。それを何とか収めることができたのは、最近のことらしい。わたしがほっとしたのは、そういう悩める時期というものが、決して一時ではないこと。無駄ではないと知れたからだろう。著者はそういう時期を“濃い時間”と表現する。そして、今もまだその濃い時間は続いているという雰囲気を漂わせて、文章は結ばれる。闇の深さ。光りの長さ。押し寄せるものに耐える日々。何とかやり過ごす時間。きっと、ゆるやかだけれど、確実に流れる。流れている。世の中も。人も。景色も。まさしくそれは、わたしの中にずんと響かせて、じんと残すべきものである。
![]() | 台所の詩人たち 岩阪 恵子 岩波書店 2001-08 by G-Tools |
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