63 海外作家の本(ロシア)

2012.02.23

いいなずけ

20100828_003jpg_effected 生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることだろう。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは並大抵のことではない。今を生きる時代において、女性が社会で働くということは当然の権利としてそこにある。まだまだ女性の活躍する場は少ないかもしれないが、多くの女性が教育を受ける権利を与えられて、勉学に勤しみ、やがて働く機会を与えられるようになる。けれどかつて、そうでない時代があったこともわたしたちは知っている。アントン・P.チェーホフ作、ラリーサ・ゼネーヴィチ絵、児島宏子訳『いいなずけ』(未知谷)に描かれる時代は、まさにその時代の物語である。女性が学ぶこと、働くこと、自由に夢見ることすらできなかった時代に、一歩を踏み出そうとする、チェーホフ作品としては大胆な女性の物語である。

 16歳の頃から結婚することだけを恋焦がれるように夢見ていたロシアの地主の娘ナージャには、周囲から評価の高い許婚のアンドレイがいる。けれど、23歳となったナージャの前に芸術家の青年サーシャが現れ、新しい刺激を受ける。本当に結婚してしまっていいのか、このままの暮らしでいいのか……と繰り返し言われるのだ。これまで疑問など何も感じたことのなかったナージャだったが、繰り返しサーシャに言われ続けるたびに自分自身を、周囲を、見つめ直すことになる。そしてこれまで彼女を取り巻いてきた幸福というものが、見せかけのようにすら思えてくるのだ。そうして、マリッジブルーなのか、サーシャの囁きのせいなのか、ナージャは何不自由ない地主暮らしと訣別し、自立を目指しペテルブルクへと旅立つことになるのだった。

 あらすじだけを追ってゆくと、今の時代にもよくありがちなマリッジブルーの物語にも思えないこともない。けれど、そこはやはりチェーホフの作品、ひとひねりあって読ませてくれる。物語はナージャとサーシャとの関係の立場の逆転を用意していたりもする。ナージャが一歩踏み出すきっかけを懸命に与えてくれるサーシャが、なぜこんなにも彼女を今の暮らしから一歩踏み出させたかったのかということが後半になって明らかになってゆく、そして……。という仕掛けもあるのだ。彼がどうしても彼女を踏み出させたかったことを思うと、胸の奥がじんと熱いもので込み上げてくるほどに。まだ女性が新しい時代を担う道が平坦ではなかった時代背景を思うと、さらに込み上げるものがある。

 人は皆、今ある生活を変えることは、とても難しい。このままでいいのか、今のままでいいのか、その疑問を感じつつも、なかなか前へ一歩は踏み出せない。生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることに、今も昔も変わることはない。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは、並大抵のことではないのだ。物語の中で、ナージャが少しずつ何かを見出し、淡い恋心のようなものを覚える様子、そして、やがて一人の自立した女性へと向かう逞しい姿には、決して古びない今を生きるわたしたちにも通ずる何かを感じてしまう。今を、これからを、どうしたいのか、どう生きたいのか、どんな幸福を求めているのか。それをチェーホフは読み手に問いかけてくるのだ。

4896421922いいなずけ (チェーホフ・コレクション)
アントン・P. チェーホフ ラリーサ ゼネーヴィチ
未知谷 2011-12

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2009.06.16

箱に入った男

20090615_053 現実社会を象徴的に描き出し、ロシア社会の様々な様相を描き出した、狭い箱に押し込められたように自分の殻に閉じこもった男の滑稽な物語、アントンP.チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、中村喜和訳『箱に入った男』(未知谷)。晴天の日でもオーバーシューズ、こうもり傘を必ず持参、シャツを着れば顔が見えなくなるほどに襟を立て、身の回りに膜をつくるかのように自分の殻に閉じこもる箱男…そんなギリシャ語教師のベリコフの前に彼とは正反対の活発なウクライナ女性のワーレンカが現れて、周囲を息苦しくしていた彼の生活が変わると思われたが、周囲の期待を裏切ることになってしまう。晩年のチェーホフらしい、落ち着いた深い洞察と卓抜なユーモア溢れる物語になっている。

 物語は、獣医のイワン・イワーヌイチと中学教師のブールキンが狩りに行く途中、ブールキンがイワン・イワーヌイチに亡くなった同僚のことを語る形式で進む。その同僚というのは、ベリコフというギリシャ語教師のことで、彼は周囲の人目につかぬように、もし可能ならば頭まですっぽり穴倉にでも入って暮らしたいという欲望を持っていた。彼の一種の願望は異様な外見にはっきり表れており、それは前述したとおりであるが、ベリコフの防御壁はさらにエスカレートしてゆく。彼が安心して受け入れられるものは、何かを禁止したり制限を設けたりする通知や新聞の論説だけだった。そして何かが許されるたびに“あとで何か起こらなければいいが”と陰気臭く何度も繰り返すのが癖だった。

 このようにして、ベリコフは本人も気づかぬうちに町の注目の人物となっていき、あるとき結婚話が持ち込まれる。相手の女性というのはベリコフの同僚の姉で、30過ぎの、いたって陽気な騒々しい性格のワーレンカで、ベリコフは人間の義務として承諾した。だが、この出来事のため、彼はますますやせ細り、その姿はますます箱の中にすっぽり入り込んでしまったようだった。けれど、この結婚話は、ひょんなことで御破算を迎える。それどころかベリコフの生命まで奪ってしまうのである。同僚たちや町の人々はベリコフから解放されたことを不謹慎ながら心から喜んだ。長年自分たちを縛っていた規則からようやく放たれたときのようなのびのびとした気持ちで葬儀から帰ってきたほどである。

 けれど1週間たっても2週間たっても生活は相変わらず息苦しく、無味乾燥で、無意味な毎日であった。彼らは自分たちを縛っていたのがベリコフ一人ではなくて、まだ町のいたるところに大勢残っているベリコフであり、自分たちの中にいるベリコフであることに気がつくのだった。しかし、どんなふうに生きればよいのか。その答えは簡単には見つからないし、見つかるはずもない。だがこんな問いかけが生じるということは、停滞した古臭い生活にうんざりし、この疑問に新しい答えを求めようとする人間が少しずつ生まれはじめたことを意味していると言えるのではないだろうか。ベリコフのような存在は、ロシア中にも、下手をすると自分の中にも恐ろしくもいるのかもしれないのである。

4896422376箱に入った男
イリーナ ザトゥロフスカヤ 中村 喜和
未知谷 2008-09

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 ≪チェーホフの本に関する過去記事≫
 ・『中二階のある家 ある画家の物語』(2006-10-02)
 ・『ロスチャイルドのバイオリン』(2006-10-08)
 ・『大学生』(2006-10-21)
 ・『可愛い女』(2006-10-28)
 ・『たわむれ』(2006-11-01)
 ・『カシタンカ』(2006-11-09)
 ・『すぐり』(2006-11-19)
 ・『少年たち』(2007-02-02)


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2007.02.02

少年たち

20061110_44014 どこか懐かしさを呼ぶ光景。それに魅せられて、しばし追憶に耽る。心地よいまどろみと共に。冬のつんざくような寒さに、ほんのりと春めいた風を感じながら。まさに至福の時。チェーホフ・コレクションシリーズの、アントン・P・チェーホフ作、エカテリーナ・タバーフ絵、児島宏子訳『少年たち』(未知谷)を読むと、そんな時間を楽しめる。収録されている「少年たち」と「小さな逃亡」は、いずれも子ども時代の感覚を刺激する作品で、物語の端々に思わず笑みをもらしてしまうのである。わたしたちがいつだったか思い描いていたこと。夢見ていたこと。どきどきわくわくしながら、胸をふくらませていたこと。そういったことが描かれているのだ。

 「少年たち」。この作品には、アメリカへ行くことを夢見て、逃亡を計画する2人の少年が描かれる。これまで興味を持っていたことに見向きもせずに、少し背伸びして見せる少年の姿や言動が、なんだか妙に可愛らしく映る。周囲がふと、子ども染みた世界に見える瞬間というものが、確かにわたしにもあったなと思い出す。ほんの少しの背伸び。それが人としての成長というものなのだろうか。少年たちの冒険が、いつの日かなんらかの糧になり、振り返る日が来ること。そういう日の愛おしさを、じんわりと思ってはっとする。わたしも確実に歳を重ねているということに。もう、大人になってしまったということに。今、生きているということに。

 「小さな逃亡」では、幼い少年が一人病院で過ごす時間が鮮明に描かれている。親と離れるということ。いわば、その分離不安というものの心の動きを、切実に思う展開だ。病院で過ごす一夜。たった一夜。されど一夜。小さな胸の鼓動が、とくんとくんと伝わってくる。少年が経験した出来事。それがさも読み手である、わたしの経験であったかのようにすら思えるくらいに。そうして、少年の記憶とわたしの記憶を重ね合わせて、ほんのりと厚みを持たせてみるのだ。少しでもしゃんと立っていられるように。もう少しでも強くいられるように。歳を重ねてもなお、弱い部分があることをひしひしと感じながら。わたしという存在を愛おしく思うのだった。

4896421787少年たち
アントン・P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2006-12

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2006.11.19

すぐり

20061119_018 幸福というものが不幸あってこそのものだと知ったとき、世界の不公平を見出した気がした。幸福な人々。彼らが幸福であるのは、不幸な人々あってのものである。世の中には裕福な人々がいて、貧しい人々がいる。極端な話をすれば、貧しい人々がその不幸を放棄してしまったら、たちまち誰のものの裕福もなくなるわけだ。下があるからこその上。つまり、上下関係ある構造によって作られた社会は、弱者を支えとして成り立っているというわけだ。けれど、弱者に属するだろう者がじっと耐え抜いて生きるには、この世界はあまりにも困難ではないのか。アントン・P. チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、児島宏子訳による『すぐり』(未知谷)には、そんなことを思わせる物語が紡がれている。

 「すぐり」。この短編は、説話形式で展開される。獣医の男と中学教師の男二人が、長いこと歩き続けているうちに、雨宿りをする必要にかられる。そして、広い土地の地主である男の家にたどりつき、そこである話を獣医の男が始めるのである。それは、弟の話だった。弟は地道に乞食のような倹約生活を続けて、いつしか地主屋敷を手に入れ、そこにすぐりの木を植えたというのだ。その様子を確かめに行ったところ、弟の姿はすっかり変わり果てていた。それも、いい意味合いで。その威厳に怯んだわけではないものの、獣医の男の中で何かが変化するのを、自ら感じ取ってしまったのだった。それもすぐりを愛おしそうに食べる、幸福に満ちた弟を目の前にして。

 獣医の男が感じ取ったこと。内面の変化。それは、幸福というものを目の前にした途端に、浮かび上がる。自分の夢を実現し、満足げに微笑む人々がいる。圧倒的な強さで。その存在感で。ただし、それは、少数の不幸な人々あってこそのものだと気づくのである。“幸せな人々が自分を快く感じることができるのも、不幸せな人々が自分の重荷をただ黙ったまま背負っているからです”と。そういう秩序あってこその、世の中だと知りつつも、不本意に思うのは、なぜだろう。自分の身をわきまえているからなのか。自分のことを知り尽くしているからなのか。自分のことをないがしろにしているからなのか。それとも、自分自身が幸福である側に属しているからなのだろうか。はたまた、老いからか。

 不公平。それを言い出したら、きりがない。それでもわたしは自分自身に問うてみた。わたしは幸福か、不幸かと。けれど、それはあまりにも曖昧な位置ゆえに、はっきりとはわからないのだった。どちらも持ち合わせているわたしがいて、どちらにも属するわたしがいて、わたしというものを形作っている。そう思うのだった。要は、一般的なのか。標準的なのか。それとも、どちらにも当てはまらない、単なる脱落者であるだけなのかもしれないが。少しずつ起きている、わたしの中の変化というもの。内面の変化。そのひとつひとつのひだを確かめるようにして、そっと思考をめぐらせてみるのも悪くない。特に今日みたいな、しとしとと雨の降る日には。

4896421604すぐり
アントン・P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2006-10

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2006.11.09

カシタンカ

20060805_008 目に見えない闇。そこに、一生の縮図を見た気がした。嗚呼、カシタンカ。嗚呼、カシタンカ。わたしは何度も何度も、繰り返し呟かずにはいられなかった。あまりにも愛おしすぎて。チェーホフ没後100周年記念出版である、アントン・P・チェーホフ作、ナターリャ・デェミードヴァ絵、児島宏子訳による『カシタンカ』(未知谷)を読んで、そんなことを思った。決して忠犬の一生を描いた作品ではないのに、だ。それでもカシタンカは、やはりイヌであり、イヌらしく生きているから。イヌとしての生き方というものを、ちゃんと理解しているから。きっと、この物語の愛おしさは、そこからくるものだと思うのだ。自分の生き方をよく知らないわたしにとっては、なおさら。

 カシタンカ。それは、“栗”の意味だそうである。赤毛の雌イヌのカシタンカは、ダックスフントと野良犬との雑種で、キツネのような風貌をしている。ある日、主人と共に街へ出かけ、あまりの嬉しさにはしゃぎすぎてしまうのである。そして、あっけないくらいに迷子になる。凍えるような闇の中で、新たなる主人と出会い、そこでの奇妙なる生活が始まるのだった。新しい生活。その中で、学ぶべきことは山ほどあって、カシタンカはひとつひとつをしっかりと見つめている。中でも、仲間と呼ぶべき他の動物たちとの関係には、はっとするものを感じてしまう。特別、ある夜の見えない闇の恐怖というものには、イヌとしての本能のようなものを見ることができる。

 本能。つまりは、鋭い五感のようなものだろうか。その見えない闇というものを、すばやく感じ取ることができたカシタンカ。その正体を知ったとき、カシタンカは多くを学ぶ。それはまるで、人生の縮図と同じように思えるものだ。だからわたしは、嗚呼、カシタンカ。愛おしいカシタンカ。そんなふうに呟きたくなってしまったのだった。そして、そんなときでもマイペースに振る舞うネコにも、見えない闇に支配されてゆくガチョウにも、やわらかな一面を垣間見せた主人にも、この物語自体にも、何もかもに対して、愛おしさを感じずにはいられなくなったのだった。今ここに生きているということ。それが、どうしてこんなにも愛おしいのか。不思議なくらいに胸がいっぱいになったのだった。

 けれど、物語はまだ続く。新たなる生活の中で様々なことを学び、自分の才能というものを見出したにもかかわらず、カシタンカはかつての主人と出会ってしまうのである。そして、その本能のままにそちらの方へと向かってしまうのだ。そこはやはり、イヌなのだろうか。かつての暮らしを懐かしむ心のままに動いてしまった、カシタンカ。そこでもまた、わたしは“嗚呼、カシタンカ。嗚呼、カシタンカ…”そう呟いてしまっていた。別れと出会いとが一緒くたになってやってきて、悲しみと喜びとが一緒くたにやってきて。わたしはそれに対して、立ち止まっては迷い、怯えてばかりいるというのに…。嗚呼、カシタンカ。嗚呼、カシタンカ…やはりいつまでも、呟かずにはいられない。

4896421140カシタンカ
アントン・P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2004-11

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2006.11.01

たわむれ

20050729_44020 ささやかなる戯れ。それをわたしは何と想おうか。初恋とも微妙に違う、甘酸っぱいけれども切なくて、決して寂しさではないのだ。もちろん、悲しくもない。想いは想いのままに。憧れは憧れのままに。冬が長く、雪の多い土地で繰り広げられる、アントン・P・チェーホフ作、ユーリー・リブハーベル絵、児島宏子訳による『たわむれ』(未知谷)は、まさにそんな、ささやかなる戯れの時間を描いているのだ。淡く短い儚き想い。それは、あまりにもあっという間に過ぎ去ってしまう。季節の移り変わりと共に。そっと。ひそやかに。雪解けと共に。ささやかなる戯れは、そこでいつまでもじっと残る雪のごとく、心の中に刻み込まれる。そして、再び季節の訪れと共に思い出されることもあるだろう。

 厳しい寒さの冬のロシア。いずれはこの地を離れる主人公と、彼の愛するナージャとの物語は、その雪原のそりの上で展開される。そりにひどく怯えるナージャ。そこにある恐怖と興奮の入り混じった中で、風のごとく聞く「愛しています」という声。もちろん、これは主人公の言葉に違いないのだけれど、ナージャは愛の囁きどころの心境ではないのだ。だから、何度も何度も恐怖に怯えながら、そりに果敢にも挑むのだった。忘我の中にいるナージャは、誰の囁きなのかもわからぬまま、1人でもその声が聞こえるのかどうか、試してみたりもする。実に可愛い乙女である。純粋過ぎるのか、ただ単に鈍感なのか。それでもやはり、乙女然としていることに間違いはない。

 成就することのない想いというものを、あえてナージャの苦手なそりの滑降の真っ只中に囁くということ。わたしはそこに、ある意味、戯れを超越したものを感じてしまう。切実なる囁きながら、ささやかなる戯れの中に、一瞬でも至福の時を希求するような。なんとももどかしいものではないだろうか、と。一方では、当人には直接何も訊かぬまま、その愛の言葉を胸に秘めているナージャもまた、この想いが淡く儚いものだと知っているような気もする。或いは、まだ幼すぎたからなのかもしれないが。チェーホフの云わんとするところの乙女。それが垣間見られる物語である。それは、『可愛い女』にしても『中二階のある家』などでも感じられることである。

 この物語。実は何度か結末をチェーホフ自身が変えているらしい。解説によると、最初の設定では、主人公とナージャが結ばれることになっていたというのだ。けれど、最終的には、この絵本版の『たわむれ』のように、惹かれ合う2人は永遠に別れたままの物語になったそうである。その違いは、この物語の余韻を確かに左右するもので、どちらにしても美しくありながら、読み手の受け取り方をだいぶ変化させてしまうことだろう。また、翻訳に関しても、これまでのものとはだいぶ異なる点が多く見受けられる。簡潔で読みやすく、あれこれと装飾がないのだ。しかも、美しい絵と共に楽しめる。チェーホフが最終的に求めた文章というものをかなり意識して翻訳されたことが、これまでのチェーホフの作品とは違う印象を与えている気がする。新しいチェーホフ。一読あれ、の作品なのである。

4896421493たわむれ
アントン・P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2006-02

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2006.10.28

可愛い女

20051130_44009 乙女としたら、一度は言われてみたい“可愛い”。けれど、アントン・P・チェーホフ作、ナターリャ・デェミードヴァ絵、児島宏子訳『可愛い女』(未知谷)でいうところの、“可愛い”は、少し雰囲気の異なるものである。それは、ある意味究極の“可愛い女”なのだ。ロシアというお国柄もあるのかもしれないが、どこまでも従順。どこまでも愛する人に属し、その色に染まる。自分という概念をも忘れて、あるいは見失って、その分身のようにもなってしまう類の“可愛い”なのである。男性側としたら、そういう自分に対する絶対的な肯定に対して、喜ぶ者もいるかもしれないし、ただ単に面白味のなさを感じて退屈に思うかもしれない。鬱陶しいとまで、言う人もいるだろう。究極の“可愛い女”。そのデフォルメ的に理想化された女性の物語が、この作品なのである。

 この可愛い女である、オーレンカ。彼女は、誰かに属することにたけている。同時に、自分というものが欠けている。かつて、かの有名なフロイトは、精神構造の在り方というものを、無意識的な本能エネルギーであるイド、現実適応のための抑圧や防衛機能であるエゴ(自我)、倫理や良心や道徳にあたるスーパーエゴ(超自我)とに分類した。その役割のバランスの中で、無秩序で本能的なものであるイドとエゴは対立し、エゴはスーパーエゴとしばし葛藤を引き起こすとした。そういう観点に立って考えてみると、この“可愛い女”である、オーレンカは、自我というものの根本が変わっていると推測される。それゆえに、自分の意見というものがない。愛する人の言葉をそのまま吸収して、考えることなしにその言葉をただ繰り返すのである。

 小難しいことを書き出してしまったが、このオーレンカの精神構造が、あまりに特異なものであるから、わたしはそこにひどく興味を抱いてしまったのだ。オーレンカは、愛する人がいてこそ、輝き、“可愛い女”と周囲に思わせる能力にたけていた。けれど、同時に欠けるものがあった。それは、本来あるべき彼女という人間の自我や本能だった。物語の結末では、彼女が女盛りを過ぎたことを自覚した後、それに目覚めるところで終わっている。そんな中で、なんとも悲劇的な人生とも思えてならない部分がある。それは、彼女が誰かに属さずには生きることができない、ということである。幸福は長く続くものではない。けれど、残酷にもそれは、いつでも彼女のすぐ傍に横たわっているものであるから。彼女だけではない、けれども。

 彼女が最期にたどりつく場所。心の拠り所となるもの。それは、誰にもわからない。これまでおざなりにしてきたものに新たな何かを見出すかもしれないし、永遠に変わらぬ道を歩み続けるのかもしれない。そして、つい考えてしまう。自分の女性としての、在り方というものについて。わたしは本能に従っているだろうか。わたしは客観的に自分を見ることができているだろうか。世間でいうところの、人並みの欲求というものが、はたしてあるのだろうか、と。まだまだ発展途上(と思いたい)の未熟者のわたしには、それがどうも見えていない。見えてこないのである。それが決して、悪いことではないにしても、良きものでもないこと。そこに戸惑いつつも、ゆっくりでいいじゃないかと自分に言い聞かせて、今いる安住の場所についつい甘えたくなるのだ。

4896421469可愛い女 (チェーホフ・コレクション)
児島 宏子
未知谷 2005-12

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2006.10.21

大学生

20061017_44016 自分を誰かと重ね合わせるということ。そこで味わう奇妙なる追体験というもの。そして、生まれる新たなる気づき。アントン・P・チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、児島宏子訳『大学生』(未知谷)には、そういうことが描かれているように思う。激寒のロシアにて、焚き火に暖をとる人々。そこに加わった大学生は、かつて同じようにして手をかざしたであろうペトロ(パウロ)の苦悩に思いを馳せる。イエスを裏切ったユダ。また、同じように暖をとりながら、イエスとは無関係だと言い放ったペトロ。ペトロと同じような心境に追い込まれる錯覚とも言うべき出来事ののち、大学生はさまざまに思考をめぐらせて、現在と過去との繋がりを思うのである。

 わたしは信仰を持たない。だから、この大学生の苦悩というものを本当の意味で知ることはできないだろう。けれど、わかることもある。現在と過去との繋がりを思うとき、わたしもときどきはっとすることがあるからだ。例えば、誰かも見たであろう、どこかの風景を見て。例えば、友人がかつて読んだであろう、書物を手にして。そうやって思いを馳せて、わたしと他者とを繋ぎ合わせてみるのである。そっと。ときどきは、半ば強引に。そうしているうちに、わたしと誰かの区別はつかなくなり、瞬時にしてわたしが誰なのか、わからなくなる。わたしとは、一体…その正体を探すべく、わたしはまた、誰かと同じものに手を伸ばす。その繰り返しが続いているように思う。

 もしかしたら、人生というものは、そうやって永遠に繰り返されているのかもしれない。特別なことというのは、思えば極めて少ないのだから。同じものを見て、同じものを読んで、それぞれが異なって受け取るように思いつつも、その思考は誰かと確実に似ている。その存在を知らないだけで、わたしたちは皆、自分だけで満足しているのかもしれないのである。そんなふうに思考をめぐらせていると、こうして言葉を紡いでいるわたしの思考というものも、どこかの誰かと同じものであるに違いない。何しろわたしは、ごくありふれた存在であるに違いないし、特別な要素は多少なりともあれど、それはたいして格別とは言い難い。むしろ、様々なことに悩みつつも、平凡な日常を生きる人間の一人ではないだろうか。

 この『大学生』。以前取り上げたチェーホフ作品同様に、大人のための絵本というかたちをしている。ロシア語の響きを大切に扱い、30頁以上にもわたる美しくも奔放な絵画と共に読む、チェーホフコレクションのうちの1冊である。戯曲で有名なチェーホフの短編を、こうしたかたちで読めることは、この上なく幸せなことである。中でも、この作品においては、黒と赤とのバランスが絶妙で、その赤たるや、なんとも言えない悲しみと苦しみを感じさせるものなのである。淡々と語られる物語の裏に潜む、激しい感情をまさに見事に表現していると言ってよいだろう。特に、両の手で顔を覆った絵が、わたしの中にこびりついて離れない。忘れられない1冊となりそうである。

4896421434大学生
アントン P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2005-10

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2006.10.08

ロスチャイルドのバイオリン

20061003_8844034 夜。わたしは思考する。今日という1日を思って。放った言葉を省みて。ただ振り返る。ただ後悔する。ただため息をつく。その繰り返しだ。どうして明日を思わないのか。なぜ未来を思わないのか。それはわからない。なぜか、毎晩省みてしまうのだ。そして、夢見る。もしもあのときこうしていたら…と。だから、アントン・P・チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、児島宏子訳『ロスチャイルドのバイオリン』(未知谷)に、はっとせずにはいられなかった。この物語の主人公であるヤーコフまでとはいかずとも、人生におけるマイナスの部分について考えることが、かなり多いことに気づいたからだ。もっと明日を。もっと未来を。そんなことを思わせる物語だからである。

 深い哀しみのバイオリンの音色を奏でることができる、ヤーコフ。彼がその才能を発揮できなかったことを嘆いてしまうのは、きっとわたしだけではないはずだ。彼は偏見と人生における損失。それを考え出したらきりがない性格の持ち主だった。小さな町で棺桶屋をやりつつ、オーケストラのメンバーとして、ときどき呼ばれてバイオリンを演奏する。そんな暮らしをしていた。妻のことなど思いやることもなく、毎日のように、莫大な損失を計算しては嘆き、特別、ロスチャイルドに対してユダヤ人だというだけで、偏見をぶつけて冷たくあたっていたのだった。そんなヤーコフが妻の死をきっかけにして、変化する様子が物語られてゆく。わたしはそれに、心乱されつつ食い入るように読む。読まずにはいられなくなる。そして、新たな思考をめぐらせる。

 人は皆、誰しも少なからず自分のことに夢中だ。例えば、自分の目の前にあることに。そのことに、目を奪われてしまいがちである。それは、たまった書類かもしれないし、科されたことかもしれない。日々の雑事は途方もなく続く。仕方のないことである。けれど、わたしたちは、そこで何かを見失ってはいないだろうか。大切な何か。見失った何かを。ヤーコフのめぐらせた思考は、そういうことを思わせてくれるのだ。“人は、生きることから損失と喪失を得て、死から得るのは利益ばかり。…でもやはり、くやしくて辛い。なんのためにこの世に、こんな妙な決まりがあるのだろうか”この言葉を、死を間近にして思ったヤーコフ。人は変われる。変わろうと思えば、変われるのである。そう信じてみたくなる、重い言葉である。

 この『ロスチャイルドのバイオリン』は、絵本という形態をしている。けれど、大人のための絵本である。チェーホフの文章と共に添えられた絵は、淡くも愛しさを込めて物語を描いた、なんとも味わい深いものである。どうやら、この絵本が企画され依頼をする以前に、既に自ら絵画化して作品としていたらしい。絵を見れば物語が思い出され、物語を読めば絵が思い出される。それほどまでに、この作品は見事なコラボレーションとなって、今わたしの手元にあるのだ。とりわけ、表紙にある寄り添う二人の胸に抱えられたバイオリンが、印象的である。これは、ヤーコフとロスチャイルドだろうか。それとも、長年連れ添った亡き妻の姿だろうか。二人に射す光は闇に満ちているけれど、胸元のバイオリンだけは明るい。哀愁以上のものを感じる絵である。

4896421213ロスチャイルドのバイオリン
アントン P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2005-02

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2006.10.02

中二階のある家 ある画家の物語

20051010_44002 青。それに惹かれて、なんとなく手にした本がある。わたしはただ、青を求めていた。あのどこまでも澄んだ、果てしなく遠い空のような青を。そして、そこにある哀愁の物語を。それが、アントン・P・チェーホフ作、マイ・ミトゥーリチ絵、工藤正広訳・解説による『中二階のある家 ある画家の物語』(未知谷)という、チェーホフ没後100周年記念出版の作品だった。しかも、わたしにとっての初チェーホフが、この永遠の乙女像を描いたような魅惑の短篇になるとは…。偶然にしても、自称・まだまだ乙女のわたしには、なかなか素敵な出会いの1冊となったわけである。でも、もはや没後100周年は2年前のこと。2年遅れで読んだわたしは、世の中を知らな過ぎる。戯曲があまりに有名なだけに、避けてきたチェーホフ。読まず嫌いはいけないと痛感したわたしだ。

 さて、この物語は画家と裕福な地主の娘との、あまりに刹那の恋物語である。だが、一方では時代背景を考えれば、社会を風刺的に描いた思想の物語としても読めてしまう、なんとも不思議な読了感を残す作品である。優雅な暮らしと農民の暮らしとの落差というもの。農奴解放の時代にチェーホフは、なんとも鋭い視点で世の中を見つめていたに違いない。100年前という時代については、想像力に乏しいわたしにはよくわからないが、今もなお、通ずるところを感じさせる理論としても受け取れる。なおかつ、とろけさせられるようなロマンチックな主観がそこに挟まれてしまったら、もう絶賛せざるを得ない。さすがである。文学史に名を刻むほどの人の作品に、遅ればせながら触れることができただけでも有り難いと思ってしまう。

 話は戻って、青について書いてゆく。そう、この作品の表紙の青。なんともいい青なのだ。吸い込まれるような青。まさに青の中の青。一瞬にして魅了されるほどの、真っ青なのだ。この表紙、及び挿絵についてのエピソードは、訳者による解説を兼ねたエッセイに詳しく書かれており、やはり強く心惹かれたことが伺える。原画の美しいコバルトブルーをいかにして印刷できるものだろうか…。これにかなりの執着を見せたらしく、こんなにも懸命に作られ、出版された本に出会えたことが嬉しくてたまらなくなったほどだ。冒頭にあるとおり、わたしはこの青のおかげでチェーホフを読もうと思ったのだから。こだわりある本に手を伸ばした偶然に驚きつつ感謝し、本の表紙をそっと撫でてしばしの間、青の世界を堪能した。

 最後に、冒頭で使った言葉である“永遠の乙女像”について、少し述べておきたい。といっても、わたしの主観では、乙女は白く華奢で儚げで弱くあらねばならない。幸の薄さも大事である。しかも、必須アイテムとしたならば、もちろん書物である。散歩を楽しみつつ、木陰で読書。それはまさに、絵に描いたような乙女像である。そして、奥ゆかしくて恥じらいの心を持ち、“はい”としか言えない。そんな乙女が、まさにこの『中二階のある家』の中に登場しているのだ。それは、ある意味乙女を美化した究極のかたちなのかもしれないが、わたしはそれを心の奥底で焦がれている。本能なのか。いかなるものか。その点においては自分でも未だに謎であるが、チェーホフの描く乙女像を探るべくして、他の作品も読んでみたいと思っている。

4896421000中二階のある家―ある画家の物語
アントン・P. チェーホフ 工藤 正広
未知谷 2004-04

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