21 小池昌代の本

2009.12.06

転生回遊女

20090326_012 ゆく、ゆく。とどまることを知らない、奔放な生を抱えて。ゆく、ゆく。果てしない、あてのない旅に向かって。ゆく、ゆく。転がるように、羽ばたくように。ゆく、ゆく。めぐりめぐる日々を、存分に楽しみながら。ゆく、ゆく。そのまっすぐな魂を、自由に遊ばせて。ゆく、ゆく。焦がれるように、惹かれ合って。ゆく、ゆく。誰かと寄り添い、心通わせて。小池昌代著『転生回遊女』(小学館)の主人公のゆく先は、どこまでものびやかに転がっている。ここではないどこかへと進む生は、次々と異性を惹きつけ、人々を魅了する。その正直な関係性を目の前に、いつしかため息がこぼれる。人と人。いや、一人と一人。わたしたちの関係の根本は、常にそういうはじまり方をしていると。

 物語の主人公・桂子(かつらこ)は樹木に強く惹かれ、心通わすように親しんでいた。役者の母親が事故死したために、母子二人の生活から一人きりになってしまう。生前の母親を知る男に促されるままに、芝居に出演することになる桂子。ひと月後にはじまる稽古の日まで、亡き母と同じく旅に出ることにする。桂子の向かった先は、駆け落ちした親友のいる宮古島。旅する先々で異性を魅了して交わる彼女は、多くの人との出会いによって、新たな自分自身を見出してゆく。そうして、タイトルのごとく、どこまでも転がり落ちてゆく。日々、生まれ変わりながら。どこまでも、どこまでも。自由自在に生きる彼女を止めるものはいない。その若さを、そのまっすぐさを、止められない。

 桂子の奔放さには、この人でなければないという、絶対唯一のものはない。唐突にはじまり、自分の意志を持つ前に、植物同士のように自然に絡み合う。受け入れることにためらいは少しもない。そんな彼女に対して、みだらだと言うのは容易い。だが、彼女の結ぶ関係は、どんなときも一対一であり続ける。混在はしない。どこまでも一人と一人で向き合っている。そこには濃密な時間が漂う。隙間なく、ただ二人の時間だ。桂子という人物がそこに生きているということ。ただそれだけで充分なくらいに、わたしたちは彼女に目を奪われる。その、若さゆえのしなやかさ。その、生のまっすぐな貫き。その、途切れることのない煌き。それは、わたしたちの忘れかけた生き方のような気がする。

 とどまることを知らない、奔放な生を抱えてわたしたちはゆく。果てしない、あてのない旅に向かって。転がるように、羽ばたくように。めぐりめぐる日々を、存分に楽しみながら。そのまっすぐな魂を、自由に遊ばせて。焦がれるように、惹かれ合って。誰かと寄り添い、心通わせて。そうやってわたしたちは、どこまでものびやかに転がり続ける。ここではないどこかへと魂をふるわせながら。人と人が出会うとき、一人と一人が交わるとき、わたしたちは気づくだろう。ただ、身をたゆたわせる快感を。ただ、今という瞬間を生きる喜びを。明日のことはわからない。わからないからこそ、生きる意義を見出す。そうして未知なる日々は、ささやかな関係性の後押しをするのだ。

4093862656転生回遊女
小学館 2009-11-30

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.03.26

生きのびろ、ことば

20090326_007 ことば。それはときに人を傷つけ、傷つけられる魔物。ことば。それは、ときに人の心をあたたかにも幸せにもする魔法。ことば。それは、今となっては、人が生きる上での必要不可欠なコミュニケーションツールのひとつ。そんな魔物にも魔法にもなり得ることばについて、ことばのプロフェッショナルである詩人たちがことばの問題について考察した、小池昌代、林浩平、吉田文憲・編著『生きのびろ、ことば』(三省堂)。13名による現代詩人と共に、読みながらことばとは何ものか、その正体を探るべく読んだ一冊である。ことばと笑い、文語、エロス、肉体、挨拶、間、方言、死語、まじない、翻訳、ネット詩まで…様々な視点でことばというものに立ち向かう現代詩人の考えに、思わず前のめりになる。

 中でもわたしが心惹かれたのは、吉田文憲による「方言」についての章。以前、わたしは自分の故郷の方言が嫌でたまらなかった。方言を知らずに育ったわたしは、幼稚園から地元の保育園に転入したときに、方言を話せないという理由で仲間に入れてもらえなかった記憶がある。標準語=気取っている都会人という構図が、田舎の子どもには根深い。祖父に方言の辞書で調べてもらいながら、話す練習をした5歳児だったわたし。今となっては懐かしい思い出だが、わざわざ方言を勉強するなんて、思えばおかしな体験である。吉田氏は方言とは、“母語、生地の言葉”と言いつつも、“懐かしい郷愁の対象ではない”と言う。“母語を求めて、むしろそこからの追放を生きる”とは実に興味深い言葉である。

 祖父が亡くなった今、わたしにとっては懐かしさを伴うものでありながら、本当の方言を知らないゆえに、吉田氏の言う意味とはまた違った追放の中を生きている。祖父が教えてくれたことば。理解できなくとも、そこにはほんのりとあたたかなぬくみがあった気がする。自分のことばをさがすとき、こうした幼少期の記憶や今まで出会った人々のことばが脳裏をよぎってゆく。方言を持っていることは、もうひとつの言語持っていること。もうひとつの世界を知っていること。自分とは一体何者であるのか。そのルーツはどこにあるのか。そして、自分が今どこに立っているのか。それを指し示す指標のようなものでもあるような気がするのだ。だから、方言をほとんど持たないわたしの世界は狭く乏しい。

 また、小池昌代さんによる「言葉とエロス」も興味深い。人はことばを持っているけれど、自然はことばを持たない。けれど、そこにはことばの予感を充分に含んでいる。そこには意味がある。そして、ことばが生まれる可能性を秘めている。そして、ああことばはここから生まれたのではないか…と思うわけである。人はことばのある世界とない世界との瀬戸際を歩いて、ことばを紡ぐのかもしれない。人はことばによって傷つき、傷つけられて生きている。だからときどき自然にふれて、ことばに頼らずに伝わる何かを感じる時間も必要なのかもしれない。“あうんの呼吸”とでも言おうか。ことばなしでもつながれる関係は、わたしの理想だ。そうして、感じるままに身をたゆたわせてみたいと思う。

4385363811生きのびろ、ことば
小池 昌代
三省堂 2009-01

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.03.10

やさしい現代詩

20090218_011 言葉は無限の存在か、はたまたちっぽけなものでしかないのか。自分の内に秘めた言葉は、自分だけのものに過ぎない。けれど、その言葉をほんの少し放ったらどうだろう。言葉は放った先から、別人のものになる。わたし以外の誰かの。あるいは、わたしも含む誰かの。言葉は、そうやって届く。あらゆる人々へと。そしてまた、ただ放たれたまま、消えゆく言葉もあるだろうと思う。悲しいかな、言葉というものには限りがあることも認めざるを得ない。そんな言葉を自由自在に操る詩人たちの言葉がひそやかに煌めく、小池昌代、林浩平、吉田文憲・編著『やさしい現代詩』(三省堂)。自作朗読CD付きで、目で、耳で詩人たちの思いや息づかいを楽しむことができる17の詩が一冊となっている。

 谷川俊太郎の「私は私」。“私”という概念が心地よくゆらぐ作品である。<私>はもちろん<私>でありながら、<私>以外の誰かにも流れ出す。<私>はとどまることを知らず、<あなた>へとはみ出してゆくのだ。それは自分以外の誰か、つまり他者とのつながりのようにも思える。名前は知らなくても、どこにも戸籍がなくても、<あなた>を知っている。なぜなら他者とのつながりなしに、<私>は存在しないから。“私はほとんどあなたです”という一言が、やわらかに読み手に絡みつく。谷川氏のあたたかな声もまた、読み手の心にすとんと落ちゆく。ああ、この声の主がこの言葉たちを生んだのだと納得する。そして途端に、この世のすべての人々が、身近に転がる物たちが愛おしくなるのだ。

 小池昌代の「夕日」では、淡き恋心を思い起こさせる。結婚したばかりの<私>の前に久しぶりに現れた片岡という男性。ぎこちないやりとりは、可笑しくも切実だ。結婚した<私>に“あ、あ、あい、あいませんか…”と迫る。もちろん、受け入れられない。だが、問いかけてみたい気もする。いつ?どこで?と。ほんの一瞬のゆらぎのドラマが、展開されている。平田俊子の「宝物」。こちらも恋心を描いたものだが、また一味違ったゆらぎがある。愛する人が放った“コンセルトヘボウ”という言葉。その愛しいやわらかな響きに夢中になる。オランダ語でコンサートホールというただそれだけの言葉が、まるで魔法をかけられたみたいになる。そして、潔い結末。読み手は言葉が変化する様を目にする。

 新川和江の「欠陥」には、人の心の隙間や空洞にこそ、受け入れる間口があることを教えてくれる言葉たちが紡がれる。空地に捨てられた瀬戸ものは、同じ場所にいて、ずっと同じものを見ている。何でもすべてを受け入れ、けれどそれ自体は変わらない存在でいる。空っぽでいながらにして、嬉しくすべてを照り返す。誰にでも。何に対しても。その受け皿は広がっている。欠けているわたしたちだからこそ、つながれるのだと。欠けているわたしたちだからこそ、伝えるための言葉があるのだと言っているかのように。言葉は放った先から、別人のものになる。わたし以外の誰かの。あるいは、わたしも含む誰かの。言葉は、そうやって届く。あらゆる人々へと。そしてきっと、わたしの元へも。

4385363838やさしい現代詩―自作朗読CD付き
小池 昌代
三省堂 2009-01

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.11.04

ことば汁

20081031_015 言葉の持つ、無限のイメージが紡ぎ出す物語たちがある。心のあわいまで深くえぐるように描写しながら、どこまでも冷酷に、どこまでも感覚を研ぎ澄まして。そして、自虐的なまでに鋭利な刃物を我が身に向ける。そうしてざわめくほどに不穏な空気を予感させながら、叶わない恋に、果てしない欲望に、嫉妬心に、諦めの後に幻想の渦に巻き込まれてゆく。小池昌代著『ことば汁』(中央公論新社)に収録されている六つの物語はいずれも、官能的な異世界へと繋がっていて、その主人公たちは皆、妖しげな世界に魅入られた者たちばかり。淡々と過ぎゆくはずだった日常を、ふとしたことから歪められてしまうのである。もはや後戻りなどできない。ぐいぐいとその世界に読み手までも溺れさせるのだ。

 どの物語も印象的で好きだったが、とりわけ「すずめ」が鮮烈だった。これは、五十代の孤独なカーテン専門店の女主人の話である。自分の生き方や仕事に対して、どこまでもストイックに自身を貫いてきた彼女。だが、新しい顧客である滝沢氏の屋敷でのパーティーに招かれたことから、見知らぬ欲望が目覚めてしまうのだ。珍しいという貝の料理を貪る人々、謎めいた美少年の存在、パーティーに顔をなかなか見せない滝沢氏の存在の不可解さ…などから一気に物語は加速してゆき、支配されて身を委ねるようになる欲望の果てを描く。どこまでが悪夢なのか、現実なのか、もはや最後はどうでもよくなる。いいや、すべては物語の一部になる。あなたもわたしも誰もが“すずめ”。嗚呼、おそろしや。

 「つの」では、詩人の先生の秘書である女性が主人公である。三十年以上先生に尽くしてきた日々のことを、誇りに思っている。手のかかる先生に対する思いは、もはや恋以上のもの。けれど、肝心の先生は恋多き人。一生叶わぬ恋慕は、先生をまるごと分身のように理解している彼女のバランスを不意打ちのように狂わせるのだった。“わたしはさびしい。わたしはむなしい”と。そんな、どこかケモノめいた心の果てにあるもの。それがどんなかたちであれ、ほんの少しでも叶えられたのならば、わたしたちは幸せである。息を呑むほどの後半部分の加速加減が何とも心地よく、その設定の妙に思わず納得してしまうから不思議である。三十年ごしの思いが届いたか否かは、読んでみてのお楽しみ。

 もうひとつ、「野うさぎ」。こちらでは、小説が突然書けなくなってしまった女性作家が主人公だ。森に入って老婆と出会い、ぽつぽつと聞かされた話は、まるで自分がかつて書こうとしていた物語のようだと思う。物語は誰かがかわりに書いてくれる…そんなふうに様々なしがらみから少しずつ解き放たれてゆく彼女は、名前もなくし自由になり、やがて老婆に導かれるままにある仕事をするようになる。“日常は、死へと続くゆるやかな灰色の坂道。ゆっくり下りながら、たんたんと暮らしていく。それが動物たちの生き方…(省略)”…そうだ、わたしたちは皆どこかケモノとしての生き方を忘れている。もっとケモノであれ。どうか恐れずに。わたしのままであれ。そんなふうに思わせてくれる結末だ。

4120039749ことば汁
小池 昌代
中央公論新社 2008-09

by G-Tools

人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.04.21

ババ、バサラ、サラバ

20070421_042 気がつくと言葉を求めている。どんな言葉でもいい。生身の、血のかよった言葉なら、なおのこといい。小池昌代著『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)という現代詩集を読みながら、そんな心持ちになっていた。タイトルの意味は不明だ。だが、不明ながら濁音の言葉の響きが、ことさらあたたかなやさしさに満ちていることを教えてくれる。ババ、バサラ、サラバ。呪文のように、早口言葉のように声に出して、何度も何度も言ってみる。唇と唇がふれるたびに伝わる微かな振動が、何だかとてもくすぐったい。ババ、バサラ、サラバ。とりたててたぶん意味はないけれど、それでも確かに息づいている。求めていた生身の、血のかよった、そんな言葉だと思った。

 わたしはよく、変わらないね、と言われる。そのたびに変わらなくちゃいけない、と思う。同時に変わってはいけない、気もする。この身体に刻まれたひりひりするような感覚を、それをまだ忘れられずにいることを、どこかで肯定されたい、とも思う。だからだろうか。幼き頃の感覚を呼び起こされるような文章に出逢うと、心がざわつく。言葉が愛おしくてたまらなくなる。この詩集の中の「菊野先生」という一篇は、わたしにとってそんないつかのひりひりを思い出させるものだった。もちろん、そこには大人になった今だからこそ言語化できる感情の蠢きがあるのだが。記憶の中の過去と今とが繋がるとき、はじめて理解できることがあることに、はっと胸を突かれてしまう。

 「スター」という一篇では、鮮やかに光と闇とを描いている。舞台袖からスターを見つめ続ける語り手は、どこまでもどこまでもただ見つめ続ける。手を差し伸べることも、声をかけることもしないで。“わたしはここにいて ここにいないのだから”そんな哀しい立場のまま。スターのなれの果てまで見つめる視線は、どこまでも冷酷で、同時にあたたかい。「金魚」では、30年ぶりにやってきた金魚に振り回されながら、それでもその生を真正面から見つめる。夢にうなされるほどに金魚に支配されてゆく日常は、滑稽ながら危機迫るものがある。その結末を知るとき、ちくりと胸に痛みを覚える一篇である。全20篇を収録したこの一冊は、何度も何度も噛みしめたくなる言葉に満ちている。

4776804530ババ、バサラ、サラバ
小池 昌代
本阿弥書店 2008-01

by G-Tools

人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ←励みになりますので、宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.10.30

雨男、山男、豆をひく男

20071021_019 男の静けさの中には、確かな躍動があった。ささやかな、けれど確かな躍動である。生であり、性であるその躍動に、ひどく眩暈をおぼえたのは、きっとわたしがそれらと向き合うのを嫌うからであろう。生であり、性である。その、男という生き物に対して、わたしはかつてこれほどまでに躍動を感じたことがあっただろうか。穏やかで、無口な。そして、ひどく孤独な魂を持った。街のどこにでもいる、ありふれた男たちに対して。けれどわたしは、この男たちを知らない。どこにでもいるからこそ、ありふれた男たちであるからこそ、少しも知らないのだ。だからこそ、自分が女であることを恥じ入り、同時に相対する女であることを喜びに思う。

 小池昌代著『雨男、山男、豆をひく男』(新潮社)。男たち、女たち、水源への三部構成からなる詩集である。先に述べたように、男たちへのまなざしがとても強く残る1冊だ。著者のまっすぐに人やものを見据えたまなざしは、ボクシングジムの逞しい男たちにそそがれてはじまり、旅人に滝の場所を案内する山男にそそがれて終わる。ときに、人という生命の躍動を感じさせながら。ときに、躍動の裏側にありありと存在する孤独を照らしながら。日常を鮮明に語る言葉の端々には、何気なくも強く、芯のあるものが連なっているのだった。そうして、読み手の心に深く言葉を染み入らせて思わせるのだ。わたしは、こういうふうに生きていきたい、と。

 とりわけ、わたしが何度も繰り返し読んだ詩がある。「浮浪者と猫」という作品である。黒猫を抱くのがうまい浮浪者の話である。やがて浮浪者が死を迎えるとき、その腕から黒猫がするりと離れてゆく様子が、鮮やかに描かれている作品だ。生と死。それが分離したところを見た者は誰もいない。ただ紡がれる言葉だけが穏やかでやさしい。そして同時に、残酷でもある。そんな詩である。わたしが心打たれたのは、誰にでも起こり得る最期というものへの思い。著者のまなざしの深みに対してである。目の前にあるものを、見る。目を背けずに、見る。確かなものを、見る。それだけのことがひどく困難なことに気づくのは、わたしだけではないはずだ。

4104509019雨男、山男、豆をひく男
小池 昌代
新潮社 2001-12

by G-Tools

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.08.03

タタド

20070802_017 わたしたちは一気に決壊してしまった。心地よい波間にゆらりゆらりと身を委ね、溺れゆく貴方とわたし。もう、後戻りなどできない。この倦怠と甘い視線の交差と共に、その核心に触れてしまったから。小池昌代著『タタド』(新潮社)は、大人の官能を描いた短編集である。海辺の家に集った4人の男女の、あどけないような時間の果てにある交わり。そこに流れる、シゼル・アンドレセンの何かを滅ぼすような歌声。日常への鬱屈というもの。くらくら襲う戸惑いというもの。甘く切実な訴えは、どこまでも深く淡い官能の根を張りめぐらせてゆく。行く先など知らない。シゼルが歌っている。“I think it’s gonna rain today,”と。ただそれだけを。

 官能。いや、精神的官能と言った方がしっくりくるだろうか。この作品はとても大人である。露骨な表現は一切なく、めくるめく何かがあるわけでもない。それなのに、ひどく官能的で食い入るように引き込まれてしまうのだ。紡がれる言葉の選び方、その行間にある繊細な思いに、秘められたニュアンスを感じ取ってしまうのかもしれない。決して感情に流されることのない会話の数々は、穏やかな日常の1コマに相応しく、とりとめのないままに展開する。そこで交わされる視線は、容赦なく人をイキモノとして扱い、その目でまるごとすべてを見つめてゆくようでもある。広い意味での肯定のようなものが、始終張りめぐらせてあるかのように。

 表題作「タタド」の他に収録されている「波を待って」「45文字」にも、その官能は描かれている。波に向かってゆく背中、顔にあるしみやそばかす、いつのまにか筋肉質になった腕、肉づきのいいふくらはぎ、或いは心を集中させている姿そのものなど、イキモノの1つ1つの部位や姿にそれを感じてしまう。そもそも、“待つ”という行為自体に思いをめぐらせることが、何だかとても官能的なのだ。そして、しまいには、こうして紡ぎ出す言葉の1つにも、ゆらめく思いを傾けたくなるほどに、この作品を愛おしく思っていた。登場人物たちは皆、もう若くない。けれど、若くない分、若さにはない特別な魅力が満ち満ちているのだ。きっと、刻まれたシワの分だけ。

4104509027タタド
小池 昌代
新潮社 2007-07

by G-Tools

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007.06.19

裁縫師

20070526_045 肌をそっと撫でる、はたはたとなびくスカートの裾と。両の脚を惑わせる、なまあたたかな風。そして、ただ呆然と立ちすくむわたし。ほんのりと性を意識し始めた頃の記憶は、なぜか鮮明に残っている。まだほんの僅かも動くことを知らない部分と、ぞわぞわと今こそ動こうとする部分とが一緒くたになって、どう自分を収めればいいのかわからなかった頃のことを。小池昌代著『裁縫師』(角川書店)の表題作「裁縫師」には、そういう年頃のエロスを描いている。少女は、ときに早く女になる。女というものを知ってしまう。少女という、無垢さゆえに。その、残酷さゆえに。無意識に、或いは意識的に。秘められた世界への憧れゆえに。少女だから。女だから。両方を生きるから。

 物語は、広大なお屋敷の離れにアトリエを構える裁縫師の元を訪れたことのある、老いた女性の回想である。自分の服をあつらえてもらうことなど、贅沢だった頃のこと。採寸が終わって、その後アトリエを訪れたとき、これまで抱いたことのない感情を覚える少女。その心の動きが細やかに描かれてゆく。無機質的な存在感の裁縫師と、秘密めいたアトリエの雰囲気が、何だかとても懐かしい緊張感を呼んでいる気がする。詩人としても活躍する著者ならではの選び抜かれた言葉が煌めくようでもあり、ゆらめきを伝えるようでもあり、どきどきしながら読み進めたわたしだ。そして、ただただ愛おしさが込み上げてきた。この不穏さを好ましく思えてしまう自分に驚きつつ。

 その他に収録されている「女神」「空港」「左腕」「野ばら」も、それぞれに味わい深い作品である。どれにも共通しているのは、主人公が確固たる自分の世界を持っていることである。町に迷い込む青年も、待つことに酔う女性も、時間をぐるぐると迷い巡る女性も、ひとりの世界に生きる少女も、もちろん「裁縫師」の少女にも。ただの孤独とは違う何か、ただの自立とは違う何かが感じられるのだ。人としての芯というべきか、ゆらゆらゆらめきつつも、一人一人しゃんと心が据わっているのである。人というものが、ひとりきりで死に逝く感覚にも似たところがあるかもしれない。さらっと心地よい文体で、心髄を突いている気がしたのだった。耽読すべき1冊である。

4048737759裁縫師
小池 昌代
角川書店 2007-06

by G-Tools

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.04.04

ルーガ

20061224_041 或る境界を思うことがある。例えば、生と死、幸福と不幸の境界。そして、そこに根ざす、人間の持つ感情。ある種の狂気。恍惚…みたいなものを。あたりまえの日常の中に横たわるそれらは、わたしたちをいつだってどこかへ導こうとしているのだ。けれど、導かれてゆく人は極めて少ない。少ないからこそ、わたしたちはきっと、二次元的なものに、そういうものを求めてしまうように思う。小池昌代著『ルーガ』(講談社)は、まさにその境界を描いている。何気ない日常。その中に、どっと押し寄せる危うさ、人間の持つ奥深い感情の動き、鮮明に残る光景を、選び抜かれた言葉で紡がれているのである。このタッチは繊細だ。そして、心に染みゆく。上質な読書だったと素直に思えるのだった。

 表題作「ルーガ」。ルーガとは、ミシンの名前(2000系ルーガ)のこと。ある時ふと、ミシン熱が再燃してしまった蜜子。とりわけ、手先が器用というわけでもなく、大作を作れる腕もないのに、既にミシンを持っているというのに、ミシンの購入に走り、無心になってミシンに向かう、孤独な女の物語である。47歳、独身、恋人なし、スーパー勤めという、なんともぱっとしない人物だ。彼女はやがて、ミシンに取り憑かれるように、なりふり構わぬようになり、或る境界を越えてしまうことに…。その、ぞぞっとした感覚が、たまらなく印象的な作品である。そして、この作品に始終漂う、救いのない孤独が、妙に心地よくもあるのだった。恐るべし、ミシン。ミシンを侮るなかれ。

 続いては、「ニギヤカな岸辺」。月末の日曜日に、川辺へ行く話である。そこまでに至る、様々な細やかなエピソードが、次々と語られてゆく。人と人との奇妙なる出会いが絡み合い、結びつく。そんな当たり前のことが、なんだかとても微笑ましい。また、妊娠中の山子の心情というものの変化にも、目が離せない展開である。とりわけ、幸福というものに関する思考は、妙にはっとさせられた気がする。現実を構成するのが、退屈や不安や不幸であること。その合間に明滅する奇跡のような錯覚が、幸福ということ。言われてみれば、確かにわたしたちの日常はそんなものである。そして、ふと思う。錯覚でも何でもいい。わたしがわたしとして生きられるのなら、と。

 最後の「旗」。この物語は、幻想的な雰囲気が始終漂う。明け方前に、男女が連れ立って海に向かう話である。恋人でもなければ、友だちとも呼べないような、そんな2人の関係は、どことなく互いを探り合うようでもあり、遠慮し合うようでもあり、いい緊張感がある。脚が不自由で杖をつく葉子と、なかなかいい声をした青石。だが、2人の前に立ちはだかる世界は、どことなく忙しく、誰もまともに彼らを見てはくれない。もちろん、話も通じない。海も遥か遠くに在るようでもある。それでも、海までの道々、2人の話は愉快に弾み続ける。ときには悲しみを帯びながら。そうして読後に漂う雰囲気は、いつまでもじわじわと心に残るよう。寄せては返す波のごとく。

4062131153ルーガ
小池 昌代
講談社 2005-11-01

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.12.11

井戸の底に落ちた星

20050815_153 読めば読むほどに、何かを掻き立てられる文章。わたしの中には、曖昧ながらこう書きたいという理想のかたちというものがあって、それがまさに手に取った書物に描かれている場合、なんとも言えない歓喜と嫉妬が同時に芽生えることがある。表現方法だったり、文章のリズムだったり、それらは多岐にわたるのだけれども、小池昌代著『井戸の底に落ちた星』(みすず書房)には、まさにそういう要素すべてが含まれていると言ってもいい。書き下ろしの短編小説と書評、詩、エッセイからなる本書は、“本をめぐる本”である。その奥行きと、どこまでも深い思考に、わたしは魅せられずにはいられない。いや、もう既に読む前から魅せられていたのだと思う。

 濃密な時間。わたしはそれを、本に求めている。文章を紡ぐことにも求めているが。けれど、めぐりめぐって考えてみると、その独りよがりにも近い孤独さに、しばし押しつぶされそうになる自分がいることに気づくのだ。濃密な時間は、ただ愛おしいだけでは終わらない。決して、楽しいだけではないことに。本に翻弄されるように憎しみを抱き、悲しみに暮れる。そうして、あたかも自分が体験したかのように、記憶のすり替えを行うことにも繋がってゆくのかもしれない。やがて、<わたし>という輪郭もあやふやにぼかされて、わたしの思考は著者の紡いだ文章に侵食されてゆく。そんな<わたし>というものに、存在意義があるのだとしたら、妙な話である。

 書き下ろしの短編である「海の本」には、まさにそんな思考をめぐらされる。本のある生活と、本のない生活。その狭間で揺れ動く感情。自分自身にとって本というものは、いかなるものなのか。本を読むこととは、いかなる糧になるものなのか。活字に囚われたわたしには、あまりにも痛烈な作品なのであった。部屋中を埋め尽くす本の数だけ、動きにくくなったこの身を、どうしたものか。荷物を多く持つということは、生きづらさを増すだけではないのだろうか。それは、本に限った話ではないけれども…。そんな問いが浮かぶ。物語の中で一冊ずつ海に本を流す光景は、あまりにも清々しく、だからこそ悲しみを誘うのだった。そして、本に甘える自分を責めたくもなるのだった。

 また、他に収録されている、書評や詩、エッセイも考え深いものばかりである。既に新聞や雑誌などで発表されたものばかりなので既読のものが多かったのだが、読み返してみて思うのは、やはり、この人の書く文章というものに強く惹かれる自分自身ばかりであった。そう、わたしはこの人の紡ぐ言葉のリズムが好きなのだ。書評を読めば、その本を今すぐに読みたいと思ってしまう。そういう感情は、盲目的なものかもしれないが、好きなものは好きなのだから、仕方がない。この思いをここに紡がずにどこに紡ごうか。“読めば読むほどに、何かを掻き立てられる文章”というものが、確かに存在していて、確かに今手元にあるという実感。それは、この上ない喜びである。

4622072564井戸の底に落ちた星
小池 昌代
みすず書房 2006-11

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (4) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

01 安房直子の本 | 01 雨宮処凛の本 | 02 池澤夏樹の本 | 03 いしいしんじの本 | 03 石井睦美の本 | 03 絲山秋子の本 | 04 井上荒野の本 | 04 稲葉真弓の本 | 05 岩阪恵子の本 | 06 魚住陽子の本 | 07 江國香織の本 | 08 大島真寿美の本 | 09 小川洋子の本 | 09 長田弘の本 | 10 荻原浩の本 | 11 尾崎翠の本 | 12 恩田陸の本 | 13 角田光代の本 | 13 鹿島田真希の本 | 14 金井美恵子の本 | 14 金原ひとみの本 | 15 川上弘美の本 | 15 川端康成の本 | 16 北村薫の本 | 17 桐野夏生の本 | 18 久坂葉子の本 | 18 倉橋由美子の本 | 19 栗田有起の本 | 20 黒川創の本 | 21 小池昌代の本 | 22 河野多恵子の本 | 23 桜庭一樹の本 | 23 酒井駒子の本 | 24 佐藤亜有子の本 | 24 佐藤友哉の本 | 25 佐野洋子の本 | 26 重松清の本 | 27 澁澤龍彦の本 | 28 島田雅彦の本 | 29 島本理生の本 | 30 清水博子の本 | 31 庄野潤三の本 | 31 朱川湊人の本 | 31 笙野頼子の本 | 32 瀬尾まいこの本 | 33 嶽本野ばらの本 | 34 太宰治の本 | 35 田辺聖子の本 | 35 谷崎潤一郎の本 | 36 多和田葉子の本 | 36 津村記久子の本 | 37 中島たい子の本 | 37 中島京子の本 | 38 中島らもの本 | 39 長野まゆみの本 | 40 中原昌也の本 | 40 夏目漱石の本 | 41 中山可穂の本 | 41 中村文則の本 | 41 楡井亜木子の本 | 42 蜂飼耳の本 | 42 長谷川純子の本 | 43 服部まゆみの本 | 44 平田俊子の本 | 44 東直子の本 | 45 古川日出男の本 | 45 福永武彦の本 | 46 星野智幸の本 | 47 堀江敏幸の本 | 48 前川麻子の本 | 48 町田康の本 | 49 三浦しをんの本 | 50 皆川博子の本 | 51 村上春樹の本 | 52 本谷有希子の本 | 53 森絵都の本 | 54 山田詠美の本 | 54 湯本香樹実の本 | 54 矢川澄子の本 | 55 吉田篤弘の本 | 56 吉本ばななの本 | 57 吉行淳之介の本 | 58 海外作家の本(アメリカ) | 59 海外作家の本(イギリス) | 60 海外作家の本(フランス) | 61 海外作家の本(イタリア) | 62 海外作家の本(ドイツ) | 63 海外作家の本(ロシア) | 64 海外作家の本(その他&分類不可) | 65 新潮クレスト・ブックス | 66 Modern&Classicシリーズ | 67 白水Uブックス | 68 エッセイ・詩・ノンフィクション本 | 69 アート・絵本 | 70 漫画本 | 71 猫の本 | 72 犬の本 | 73 心理学・精神医学関連の本 | 74 その他の本 | ウェブログ・ココログ関連 | 日記・コラム・つぶやき | 書籍・雑誌