雪の絵
つうんとした空気の中で、いくつもの言葉が心を埋めてゆくような心地になる。まるで、しんしんと降り積もる雪のように。けれどその余韻は、どこか虚しさにも似た静けさをしていて、いつの日か消えてしまうのだ。掴めないものを必死で掴もうと、希求することにも似ている気がする心地。だからきっと、心を埋めてゆく感覚というのは、まぼろし。あまりにも儚い夢なのだと思う。だから人は、孤独を感じる生き物なのだろうか。魚住陽子著『雪の絵』(新潮社)を読みながら、そんな思考をめぐらすわたしは、まぎれもなく一人で。孤独で。寂しい生き物なのだろう。それでも、心が埋まってゆく感覚を抱いていられるだけで、充分満たされている心地にもなっているのだった。
表題作「雪の絵」。この作品で少女の視点が捉えるものは、大人の“不毛”というものだ。なんらかの理由で上手くゆかなくなった夫婦関係。そこに子どもを巻き込むということの虚しさが、始終雰囲気として漂っている。妻は二人の子ども(少女)を連れて、あてもない旅をするわけだが、そのゆらゆらとした不確かな立場を敏感にも少女は感じ取ってしまう。そう、少女はちょうど世の中のいろんなことに対して敏感になる年頃なのだ。だからこそ、問うてはいけないことを知っている。多くを知ってはいけないことも、当然のように知っている。それは、無意識のことかもしれないし、意識してのことでもあるだろう。その心の動きというものに、はっとさせられる作品だ。
はじめに収録されている「別々の皿」。この作品にも虚しさは漂う。もちろん、孤独も。満たされない思いは、“食”に対して敏感になり、執拗なまでにそれを描き出している。それは、端から見れば痛々しいはずなのに、なぜか穏やかな日常の断片のようにも感じてしまうから不思議である。それは、他に収録されている「秋の指輪」や「雨の中で最初に濡れる」にも通じることで、どこか懐かしい印象すら漂う。そうして気づくのだ。ああ、そうだった。これは、わたしも感じたことのあることだった、と。いつのことだったのかはわからないけれど、わたしにも同じような気持ちを抱いたことがあったような…そんな気がしてしまうのだった。もちろん、誰もが、という意味ではない。
心を埋める。その作業は、きっとこの作品たちのようなものだと、わたしは思う。喜びでも、悲しみでも、愛おしさでも、寂しさでも、なんでもいい。一瞬でも心の片隅をよぎったものに、寄りかかってみたいのだ。ときには、そうして夢を見るのもいい。思い出して浸りきるのもいいだろう。そうやって、ほんの少しでも心を埋めることで、なんらかの呪縛から逃れることができるのならば、わたしは進んでそれをしたいとすら思う。その作業にいくら孤独や寂しさがつきまとおうとも、わたしはかまいやしない。わたしにはまだ、時間があるのだから。それは同時に、心を埋める作業が必要以上に多くなってしまうことにも違いないのだけれど。恐れていては、埋まるものも埋まらない。
![]() | 雪の絵 魚住 陽子 新潮社 1992-02 |
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