25 佐野洋子の本

2010.02.02

クク氏の結婚、キキ夫人の幸福

20100131_4009 誰かと関係を持つことに、どうしたって痛みは付きまとう。その関係が深まれば深まるほどに、わたしたちは無傷ではいられない。想えば想うほどに、わたしたちはずたずたになる。痛みをともなってはじめてわかる、その傷の深さ。その想いの深さに、わたしたちは自分でも気づかなかった自分自身を見る。佐野洋子著『クク氏の結婚、キキ夫人の幸福』(朝日新聞出版)。「クク氏の結婚」「キキ夫人の幸福」の2篇を収録している。ここで描かれる男女関係は、誰かを愛することの痛みに満ちている。著者独特のユーモアは、その痛みをもてあそぶようにごろりごろりと転がしてしまう。痛快という言葉がよく似合う物語は、わたしたちの胸の奥をちくりちくりと刺激してゆく。

 「クク氏の結婚」は、同時に3人の恋人がいるクク氏の物語。細かなことには何の感想も持たずに、何とはなしに彼女たちと付き合っていた。女房に家を追い出されたときすら何の感想も持たず、失ってはじめて何となく惜しい気がした。そんなクク氏が果たしてちゃんとした暮らしを手に入れられるのか…。流れるままに、流されるままに。そういういい加減なところも、よい加減に思えてしまうくらいに、どことなく憎めないクク氏。たぶん、クク氏と付き合ってしまう女性たちは皆、そうやって彼を許してしまうのだろう。甘い蜜を吸えるのは、いつだって想われている方だ。けれど、その立場が逆転してしまうことだって、この世の中にはあるのだ。そんな関係の妙が面白い。

 もうひとつの物語、「キキ夫人の幸福」。キキ夫人はキキ氏と二度目の結婚をした。2人は失敗した結婚者の持つ互いへのいたわりを充分に持ち、細心に注意を払ってそうっと暮らしていた。ところがある日をさかいに、キキ夫人はキキ氏とその元恋人との過去の姿が見えるようになってしまう。キキ夫人の目の前で、あまりにも濃密な日々が繰り広げられてゆく…。キキ夫人にしてみれば、あまりにも残酷な日々。けれど、長く続く結婚生活の中ではむしろ幸せでいられる時間なのかもしれない。来る日も来る日もはらはらドキドキして、嫉妬心をギラギラとたぎらせていられるのだから。キキ氏への焦がれるような気持ちこそが、ある意味キキ夫人の幸せのかたちの表れなのだろうか。

 人が誰かと関係を持つことに、どうしたって痛みは付きまとう。その関係が深まれば深まるほどに、わたしたちは無傷ではいられない。想えば想うほどに、わたしたちはずたずたになる。痛みをともなってはじめてわかる、その傷の深さ。その想いの深さに、わたしたちは自分でも気づかなかった自分自身を見る。たとえば、誰かを想って。たとえば、誰かを愛して。それにともなう痛みを知って。わたしたちは強くなる。強く強く、愛を知る。そうして、幸せの意味を、幸せのかたちを、さまざまに見出しはじめる。誰かを想えば想うほどに。誰かを愛すれば愛するほどに。痛みをこえて、生きてゆける。どうしたって痛みからは逃れられないから。どうしたって無傷ではいられないから。

4022506482クク氏の結婚、キキ夫人の幸福
朝日新聞出版 2009-10-07

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2009.05.05

あの庭の扉をあけたとき

20090422_074 夢のように脆く淡い小さな奇跡は、それでも確かなものとしていつまでも心に残る。そのほろ苦さ、やわらかな心地よい感触、どこか懐かしさを呼ぶ光景…すべてが愛おしい。ありとあらゆる何もかもが愛おしくなる。もう戻れない日々だから。残酷にも時は確実に流れ、わたしたちの記憶はいつしか薄れてしまうものだから。どんなに大切な記憶も色褪せ、やがては消えゆくものだから。佐野洋子著『あの庭の扉をあけたとき』(偕成社)には、そんなやわらかな記憶への思いが詰まった物語が紡がれている。そうして、リアルな世界からするりとファンタジーの世界へ誘い、著者独特のユーモアと力強いタッチで描かれる物語は、どこかひねくれていておかしさをも誘う。1987年刊の改訂版である。

 5歳の<わたし>と70歳のおばあさん。父親との散歩の途中で見かけるおばあさんを怖がりながらも、興味津々な<わたし>。ふたりはどこか似た部分を持っていた。ある時ジフテリアで入院した<わたし>は、病院で見知らぬ強情な少女と出会う。強情な似た者の同士の心が通い合うとき、小さな奇跡が起こる。<わたし>が少女に差し出されてかけたメガネで目にしたのは、強情だった少女と強情だった少年の遠い日の記憶だった…。強情ゆえのその切なさったら、ないのである。けれど当の本人は、その強情さを楽しんでいるかのよう。物語はこの後思わぬ展開を迎えるわけだけれど、さり気なく毒も含んでいて、児童書といえど、なかなか侮れない。妙なリアリティを持って読み手の心を揺さぶる。

 物語の中でおばあさんがこんなことを言う。“わたしは七十になったけど、七十だけってわけじゃないんだね。生まれてから七十までの年を全部持っているんだよ。だからわたしは七歳のわたしも十二歳のわたしも持っているんだよ。”と。記憶は年々薄れてゆくものだけれど、確かにわたしの中にも何歳もの自分があるのだ…とはっとさせられる言葉である。大人になり過ぎてしまったわたしも子どものままでいるわたしも、まるごとすべてわたし。わたしという構成要素を作るかけらたちなのだろう。どれが欠けてもわたしじゃない。わたしはこれまでの日々すべてがあって、今のわたしなのだ。そんなふうに思うと、何だかとてもほっとする。今の自分がほんのりと好きになる。そして、もっと好きになる。

 表題作の他に収録されている「金色の赤ちゃん」。こちらは、ちょっと他の友だちより成長の遅れているとも子ちゃんの世話を頼まれた<わたし>の物語。本当はとも子ちゃんの面倒を見ずに、他の友だちと遊びたい。ほんのり気になっている男の子もいる。そんな中、<わたし>は子どもならではの残酷さで、とも子ちゃんをひそやかにいじめてみたりする。けれど、とも子ちゃんは遊んでもらえると思っているらしく無邪気に喜んでいる様子。ある日、とも子ちゃんがいなくなって、探し回ることになる<わたし>は、不可思議な光景を目にするのである。現実から一気にファンタジーに変化する展開は、夢をみているかのように脆くて淡い小さな奇跡のよう。けれど、鮮やかに脳裏に焼きついて離れない。

4036430505あの庭の扉をあけたとき
佐野 洋子
偕成社 2009-04

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2009.01.21

天使のとき

20090120_055 きっと誰もが自分の存在を肯定して欲しいと願っている。この世界に生まれ落ちてきたことを。親から無条件に愛されることを。そして、いつしか血の繋がらない第三者にもその存在を認めてもらえることを。願い、乞い、欲する。それは、人間としてはあたりまえの欲望であり、衝動に違いない。けれど、生身の人間同士の付き合いだからこそ、衝突して憎しみ合うこともある。佐野洋子著『天使のとき』(朝日新聞出版)は、家族間の憎悪や葛藤をシュールなタッチで描いた物語である。春画のような色気ある挿絵とともに展開される物語は、ハハに愛されているがチチの存在に苦しむアニと、ハハに憎まれているがチチに可愛がられる妹のナナの、近親相姦を思わせるほどの密な関係の中で進む。

 けれど、この仲睦まじいアニと妹のナナの関係は、死者と生者という違いがある。アニが発する“ナナちゃんは死んでく方に行くんだよ。僕は死んだ方から来た。だから僕は一度ちゃんと死んだことあるんだからね。つまんないよ、生きてることなんか”という言葉は、どこか虚しさを誘う。だが、読み手はそこで立ち止まってはいられない。彼らは逞しくもチチとハハの交わりを目にして、どちらも捨ててやろうと決めるのである。蹴飛ばして小さくしたチチとハハを、あの世に捨てに行こうとするのだ。だが、ハハには逃げられて、もはやチチは死んでいることがわかる。兄妹はチチの最期を見せてもらうためにカミのもとを訪ねる。このカミの存在が、すっとぼけていながらもなかなか印象的だ。

 この物語にはタイトルからは想像できないほどに、救いという救いがほとんどないに等しい。最初からおしまいまで生々しくシュールで、ページをめくるほどに募ってゆく憎悪や葛藤の行き場がどこにもない。どうしたら、この重たい塊を消化させることができるのか、悩みあぐねた結果が、この物語のエンディングに繋がっているように思う。決して清々しい結末ではないけれど、それでも著者ならではのやわらかな毒気のあるユーモアは発表時期からだいぶ経っても色褪せることなく、読み手の心に染み入ってくるから不思議な心地になる。そして思う。憎悪や葛藤のやり場のなさを。生まれてきたからには、いつかは自分でそれと向き合い、折り合いをつけて、なんとしても生きねばならないことを。

 “この世は、はき気を覚える匂いに満ち、私はそれを飲み込む事が生きることであると知ったからである”というのは、赤ん坊にして悟った主人公ナナの思いだ。ハハをひたすら求めて思い続けたアニを、必死に守ろうとするナナ。そして、アニがチチを憎むなら、ちっとも自分を愛してくれないハハと<私>は戦おう。だから、二人は助け合って生きねばならない…そう誓うのである。こんな切ない子ども心とは対照的に、もはや過去のことなど忘れてしまった老いたハハの姿も、物語には描かれる。一番近くにいるのに、愛を乞えば乞うほどにすれ違い、もはや胸の内に秘めるしかすべがない。それでも、娘としての役割を果たそうとする。そうせずにはいられない思いが、胸にいつまでも響くのだ。

402250451X天使のとき
佐野 洋子
朝日新聞出版 2008-12-05

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2008.10.09

シズコさん

20080824_013 愛情の裏に秘められた憎悪。尊敬しながらも、隠し通せない恨み辛み。感謝しつつも、いつまでも根ざす怒りという激しい感情。ねじれたままの関係は、生涯自責の念となって追いかけてくる。愛されたかったのではなく、愛せなかったことを悔いるのだ。とりわけ、肉親ならなおさらのこと。家族だから。いや、家族だからこそ、その思いは強く重くのしかかる。佐野洋子著『シズコさん』(新潮社)には、そういった母親との確執を抱えた著者の、まっすぐな思いが綴られている。一生誰にも、ありがとうやごめんなさいを言わなかった、著者の母親。敗戦を迎えて一家で北京から引き揚げ、四十二歳で未亡人になりながらも、常に身ぎれいにし、女手ひとつで四人の子どもを大学にまで入れたという。

 著者は四歳にして、母から邪険に手を振り払われ、そこから母親との確執がはじまるわけだが、わたしはこの箇所を読んで、幼き頃の記憶が噴き出すような心地になった。母と娘。その関係は、何とも不可思議なものである。同性だからなのか奇妙なる嫉妬心を覚えることすらあるし、父親よりも密接なせいなのか間違った深入りの仕方をしてしまうこともある。そうして、生まれてしまったわだかまりは、長い年月を経てもなお、消えることを知らない。むしろ、大人になってからの方が、鮮明に記憶としてよみがえることの方が多い気がする。それに加えて厄介なことに、記憶というのは自分の都合のいいようにできているから、積み重なったわだかまりをさらなる闇へと陥れてしまう。

 母親の呆けが進行するにつれて、著者はやがてある種“ゆるし”の感情を抱き始める。高価な介護施設に入れたことを“私は金で母を捨てたのだ”とまで思っていた著者の心が、ほんの少し解放されてゆくのである。母親がまるで別人のように柔和になってゆく様、そして、まるで生まれたばかりの赤子とその母のように一緒に寄り添って眠る様なんかには、胸が締めつけられる思いがした。五十年以上もの歳月を経て、ようやく向き合えた母と娘の姿。それがどんなかたちであろうとも、向き合えないままおしまいを迎えるよりはずっといい。けれど、著者も述べているとおり“それぞれの関係に同じものは二つとない”。自分なりのやり方で自分なりの見切りをつけて、ただ今を生きるしかないのだ。

4103068418シズコさん
佐野 洋子
新潮社 2008-04

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2008.01.09

乙女ちゃん―愛と幻想の小さな物語

20071204_060 刻一刻と移り変わる時間のように、横顔は自由自在に変化する。すべては愛か。はたまた幻想か。果たしてどんな結末が待っているのか。読み終えるまでどきどきが止まない、佐野洋子著『乙女ちゃん―愛と幻想の小さな物語』(講談社文庫)。収録されている29もの小品は、いずれも先の見えないものばかり。いつ終わるとも知れず、どんな結末になるのかも見えず。変幻自在の物語は、現実を軽く飛び越えてどこへでもゆく。ぱっと見せられたイメージの渦をよい意味で裏切りもする。そうして、どこかエロティックでとぼけた感じのある独特の絵と共に、魅惑の世界へと誘われてしまうのである。その深みに呑み込まれてゆくほどに、時間を忘れてしまうのだった。

 一番はじめに収録されている「犀」。これは、人間であらざる犀(さい)相手にときめく女の物語だ。ひた隠しにしている本音と、表の何喰わぬ顔の描き方が面白い。また、犀と女の淡々とした会話が何だかとても心地よく思える。結末の映画のワンシーンのようなもの悲しさを思えば、その会話やしぐさひとつひとつが何だかあまりにも切なく感じられもする。例えば、やけに丁寧な言葉遣いだとか、礼儀正しい握手だとか…。感情を押し殺した先にあるものを、思わず想像してしまうのだ。犀とは一体何者なのか。貴族の犀とはいかなるものか。そして、犀に惹かれる女の悲しさを思うのだ。人間にないものを求めたわけを。そのどこまでも深く根ざした悲しみを。

 もうひとつ、「汽車」を挙げておく。女の感情の動きが切々と綴られる物語である。汽車の中、沈黙の内に様々な思考を巡らす女。目は様々なものを追いかけ、観察する。誰かと視線がぶつかるのを避ける。ときには夢うつつになりながら。そうやって時間をやり過ごす中、目の前には少女が座っている。まるで、自分の分身のような存在として。寝たふりをしようとする女。しきりに話しかけてくる少女。鋭い観察眼に圧倒されながら、その可笑しくも不気味で、どこか幻想的な物語に酔いしれてしまう。また「ラジオ体操」「鳥と蝉」「銅像」も印象的な作品だった。結末がどこかもの悲しいものばかりだけれども。何はともあれ、どれもこれも味わい深いのだ。

4062645319乙女ちゃん―愛と幻想の小さな物語 (講談社文庫)
佐野 洋子
講談社 1999-02

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2007.12.31

嘘ばっか―新釈・世界おとぎ話

20070109_027 幼い頃耳に届いた物語は、どれもこれもが“めでたし、めでたし”で終わっていた気がする。或いは、悲劇的な感動物語として。一体何がめでたいのか、一体何が感動なのか、それを深く考えることもなく、疑うことをちっとも知らなかった。わたしの主観は語り手の思うつぼだったに違いない。誰もが知っている26篇ものおとぎ話をパロディにした、佐野洋子著『嘘ばっか―新釈・世界おとぎ話』(講談社文庫)は、わたしのように物語を鵜呑みにしてきたような者にとって、ある種のショックを抱く一冊である。こんなにも痛くて、可笑しくて、官能的で、自由な解釈があることに驚かされるのだ。著者の独特のユーモアとからっとした語り口も、とても魅力的だ。

 とりわけ、母親の言いつけを守って、純潔のまま30になる女に設定されている「赤ずきん」、あまりにも官能に満ちた痛みを描いた「ラプンツェル」、いつまでも大人になろうとせずにやがて心を病んでゆく「親指姫」、どこまでも悲劇のヒロイン気取りの「マッチ売りの少女」に心奪われた。また、「羽衣」の男の心情は、夫婦の倦怠期を描いたような物語で、思わずにんまりしてしまった。無言のうちに吐き出される内面は、「羽衣」そのものの世界観を保ちながらも、現代のわたしたちの生活感を匂わせる。ある意味で非現実的なおとぎ話と生活感。それを同時に描き出してしまう著者の力量に圧倒される。そして、そこには毒も忘れないのだから、もう唸るしかない。

 この「嘘ばっか」。著者による装画は、どの物語に添えられた画も、もれなくエロティックで大胆である。まるで、何百年も生き残るおとぎ話の呪縛から解き放たれたかのように。そしてそれは、幼い頃に聞かせられたおとぎ話に纏わる記憶の呪縛からも、解き放ってくれるような力強さである。おとぎ話は耳にこびりつく。いつまでも、いつまでも。多くの物語がある中で、どうしてこうも心を鷲掴みにされるのか定かではないが、幼いながらに感じたその衝撃と共に、何度も繰り返し読み聞かせられたことに影響しているように思う。そのしぶとさに感服しつつも、人を惹きつけて止まない魅力を認めるしかない。同時に、おとぎ話に深く根づく痛みをも。

406263757X嘘ばっか―新釈・世界おとぎ話 (講談社文庫)
佐野 洋子
講談社 1998-03

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2007.11.24

猫ばっか

1010133_444ggrr わたしはよく泣く。たいていはひっそりと孤独に。ときには盛大に。そしてなぜか泣いているときに限って、傍には猫がいることが多い。慰めるわけでもなく、心配するわけでもなく、ただこちらをじっと見つめている。涙目でぼやけた視界からでも、はっきりそれとわかるのは、その眼孔の鋭さゆえに違いなく、わたしはその痛いほどの視線ではっと我に返るのだ。わたしは一体何を嘆いているのだっけ、と。こんなとき、猫が何を考えているのか切実に知りたいと思う。だから涙をふきふき、その鋭い眼孔を覗き込んでみるのだ。けれど、もう若くない眼は何かを語るようで、何も語ってはいない。ただじっと、わたしを見つめるばかりである。

 猫はただのペットにあらず。きっと猫を愛する人なら、そう思っている人は多いに違いない。猫という名称を超えて、猫を猫以上に思う。ときには人間と同類に。あるいは、人間以上に思うことだってある。佐野洋子著『猫ばっか』(講談社文庫)は、まさにそんな猫様々的な人には、たまらない一冊となっている。実用品としての猫、命の恩人としての猫、帰らぬままとなった猫、色気のある猫・・・様々な猫についてのエピソードの数々は、どれもこれもしみじみと猫との時間を思い出させるものばかりだ。文章と共に添えられたたくさんの猫の絵も、それぞれに味わい深く、思わずくくくっと笑ってしまう。究極の猫本という宣伝文句も頷ける。

 こうしてこの文章を書いている間にも、わたしの傍には猫がまあるくなって眠り惚けている。わたしが御主たちのことを、どれほど愛しているのかも知らずに…。ハロゲンヒーターで暖まった部屋の中、ふかふかの毛布に包まれて、当然のようにわたしのベッドを占領して。ときどき「くはぁ」とか「ううぅ」とか寝言をこぼしながら、実に甘い時間を過ごしている。わたしはその寝顔を盗み見ながら、気がつけばにんまりとして、また文章をしたため始めている。そうして思う。夕べの涙の理由など、もうどうでもいいことではないか、と。涙が乾いている今の、この“にんまり”が大事なのだと。わたしは再び猫を盗み見て、一人にんまりとする。

4062730790猫ばっか (講談社文庫)
佐野 洋子
講談社 2001-02

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2006.07.18

わたし いる

20060712_019 遥か昔の、幼き頃の記憶のかけら。断片的にある、その小さなひとつひとつの想いを繋ぐように読み手を導く、佐野洋子著『わたし いる』(講談社文庫)。子どもの視点で描かれる7つもの物語は、どれも愛おしくてどこか懐かしくて。きゅうんと切ない気持ちにさせる。そして、大人になるということ。それが、純真無垢でいられなくなった、ということではないことを思い知るのだ。わたしたちはそもそも、純真無垢なんかじゃなかったのだと。無垢であることを装って、残酷な想いを抱くのは、むしろ子どもの方。それに対して目を背けているのは、大人の方だろう。そんなことを思わずにはいられない。わたしだって、そんな狡い子どもであったに違いないのだから。

 7つの物語から、特に心を寄せた物語について書く。まずは「じーじーかたん」。学校からの帰り道を描いたものだ。主人公の少女は、同じ方向へ帰るの友だちがいないから、ひとりきりでのらりくらりと行くのである。その行動は、純真無垢でありながら、残酷さを秘めている。なおかつ、深い喪失もそこには横たわる。同時に、ぞくっとする怖さも。道草は物語の宝庫。わたし自身の帰り道もそうだった。ひとりきりでこわごわ彷徨う朽ち果てた廃屋、ゴルフボールとビービー弾拾い、木イチゴと湧き水探し。理想的な死に場所まで見つけるような、そんな子どもだったのだ。それでもちっとも孤独ではなかった。辺り一面すべてが、わたしの興味の対象であったから。

 そして、続いては「あな」。ここで描かれているのは、ある種の衝動だ。繊細で壊れそうなものがあったら、思わず触ってみたくなる。僅かなほころびを見つけたら、もっとそのほころびを押し広げてみたくなる。まだ乾ききっていないかさぶたを、剥がしてみたくなる。ぐっすりと眠りの中にいる愛猫を、ついいじくりたくなる。そういう類の衝動に近いものがある。衝動のまま動く人差し指は、やはり純真無垢ではない。悪戯に留まらない、残酷なる凶器と化した指だ。衝動の根をさぐれば、じっと対象を見つめる目があると気づく。じりじりと見つめる目。それは、見つめても見つめても足りないくらいの執着というものである。見つめるほどに魅せられて。魅せられるからこそ、衝動となるのだと。そんな物語。

 最後に「ばかみたい」について。いつも通るたびに、門の鉄格子につかまって<わたし>を見つめる白いワンピースの少女。2人の少女は、互いに互いを“ばかみたい”と言い合うのである。学校へ行く少女と、行かない少女。勉強する少女と、しない少女。少しずつ近づいて、けれど少しずつ遠ざかって。幼い少女であるゆえに、もどかしいやり取りが続く物語だ。もしも少女たちがもう少しだけ大人であったならば、もう少しだけ言葉が足りていたならば…。あり得ない“もしも”をめぐらせながら、わたしは思う。これでいいのだ、と。明かされない具体的な事情が少なければ少ないほど、寄り添えることもあるのではないか、と。“ばかみたい”。その言葉は2人を繋ぐ秘密の合い言葉なのだ、と。

4062734109わたしいる
佐野 洋子
講談社 2002-04

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2005.11.26

あっちの女 こっちの猫

20051010_002 “おれ、今のままでいい”という言葉に、胸がズキンとなった。もっとこうしたいとか、ああしたいとか、そういう思いばかりが自分の中を支配しているように感じたからなのだろうか。ここ数年は、大きな希望や期待を捨て去ることに気を取られているものの、私がそういう気持ちを抱かなくとも、周囲は私にそれを無言で期待する。何も望まれなくなるのは寂しいが、自分のギリギリの限界を知ることはひどく恐い。そんな私だから、冒頭の言葉の出てくるしたたかな猫と女のモノローグである、佐野洋子画文集『あっちの女 こっちの猫』(講談社)は、なかなか痛いところを突いてくる作品だった。大胆なスケッチは言葉以上に多くを語り、ずんずんと迫ってくる。

 猫のことが書いてある本は、猫狂ゆえ何でもかんでも手に取ってしまう私だけれど、猫の視線がひどく痛くなってしまうことはなかなかない。これを書いている今この瞬間も、愛猫の視線が痛くて痛くて堪らない。かなり眠たげで、だけれど相当不満げな様子で、1メートルほど離れた場所から私の方を見ている。いや、もしかしたら私のことなんかちっとも見ていないのかも知れない。何となくこちらの方向に顔があるだけで、今朝見つけた美味しそうな草だとか、獲物になりそうな小鳥のことだとか、ライバルの黒猫のことだとか、ちょっと頭の悪そうな雌犬のことだとか、そんなことを考えているのかも知れない。

 佐野洋子の作品の中で、女はときどき猫のふりをして眠るのだと言う。何も考えずに済むからと。猫は思う。“おれは人間の真似なんて何一つしたくないのに”と。猫がすり寄っていくと、女は言う“ごはん食べたばっかでしょ”と。ただ、猫はそうしただけ。ただ、女は言っただけ。猫と女は交わることがない。一緒の時間を過ごしているのに。猫も女もしたたかなのに。きっと猫は思ってるのだろう。“おれの方が上だろ”なんて。喉をゴロゴロ鳴らすツボを心得ている私を、都合のいいマッサージ師みたいに思っているに違いない。「可愛い」を連発して、写真を撮りまくる私をうざったく感じているんでしょう?

 こんな思いを全て打ち砕くのは、やっぱり猫の言葉。“放っといてくれ。おれが木もれ日の木の下の椅子で眠っている時は。あの椅子がおれになじむまで、四年もかかっているのに。でも好きにしなよ。あんたは、おれに手出しをする時少なくともあんた自身を、お留守にすることが出来るのだから。人間って、自分に夢中になりすぎるんだもん”…負けました。私の負けです。私が自分の負けを認めたら、猫が近くに寄ってきた。何だ、このタイミング。もしやまるごと全部、お見通しなの?私が今キミのことを書いているのもわかってるの?キミが欲しがってるのがハロゲンヒーターの温もりだってことに、私は気づかないふりしなくちゃいけない。

406266366Xあっちの女こっちの猫―佐野洋子画文集 (アートルピナス)
佐野 洋子
講談社 1999-11

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2005.04.04

ふつうがえらい

tokitoki006 “正しくておもしろい”という河合隼雄の帯の言葉に誘われて佐野洋子著『ふつうがえらい』(新潮文庫)を読んだ。まさに痛快エッセイ。平成3年に出版された飾り気のない素直な気持ちを綴った書物には人間味が溢れており、暖かくするっとした何とも言い難い雰囲気を醸し出していた。おんおん泣いて、げらげら笑い、本音を吐いて生きるのを楽しむ著者の姿勢にはひれ伏してしまいそうなくらいである。そのくらいパワーを持ったおもしろいエッセイ集。笑える、泣ける、楽しめる、と三拍子揃った本である。

 “基本的にエッセイというのは世間話と思っている”著者の言葉どおりに自由に語られる七十三ものお話。「あーつかれた」では、美人ではない我及び同志に励ましの言葉をかける。ブスという言葉は好きではないが、目くじらを立てるほどのことでもない。ブスという言言葉がなくなっても、美人じゃない我及び同志が消滅することはない。人間が平等であるなんて幻想である。平等なんて気持ち悪い。退屈であると著者は言う。そういう差別こそを生きてきた私たちは、エリート特権階級にいる人たちよりも懸命に生きるエネルギーを与えられたのかもしれない。エリート特権階級は画一性を運命づけられも、われわれ同志は実に多様である。多様なことは豊潤であることである。世界が豊かであることに貢献しているとまで言う。その痛快さに思わずにんまりしてしまう。

 「私日本人です」では、何とも日本人らしい性格というか資質というかそういうものを感じさせる場面が描かれている。山の中にある2軒の家。奥さんとはかきね越しに野菜のやりとりをするつかずはなれずの大変よい近所付き合い。しかし、女所帯の著者宅で犬を飼っていたところ、隣の家のにわとりを犬が食べてしまった。「犬だもの仕方ないわよ」と言ってくれたお隣。その後、ちゃぼを飼うようになったお隣。著者はそのちゃぼに復讐されるようになってしまう。夜12時を過ぎると「コケコッコー」と鳴き始めるのである。1分間に6回も鳴くこともあり、朝5時まで眠れない日々。睡眠薬を飲むまで眠れない著者。泊まりに来る友人はさっさと帰ってしまう。だが、それでもお隣との交友関係を保ちたい著者なのである。そして、オチ…かなり笑える。何ともおかしい。

 「おばさんで何が悪い」では世のおばさんに対するある意味エールを送り、「もの言わぬから」では猫に対する密かな思いを語り、「茶ぶ台ではない、テーブルで」では著者の大好きな場所である台所にまつわる思いを語り、「母を殺せ」では男の子に対する母親の赤裸々な感情を語り、「性悪猫」では『性悪猫』の作者・やまだ紫にまつわるお話と、くそ真面目に生活してしまう女・母親について思いを巡らす。「性悪」に惹かれる著者は「性悪犬だったら何だか凶悪殺人と関係がありそうで下品だと語る。生まれながらの人間の資質というものは変わらないと思うのであった。

4101354111ふつうがえらい (新潮文庫)
佐野 洋子
新潮社 1995-03

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