沖で待つ
今さら、惚れても無駄だよ。そんな言葉が繰り返し聞こえてきて、“わかってるもん”と涙を堪えるので精一杯なわたしがいた。絲山秋子著『沖で待つ』(文藝春秋)を読んで、その余韻を引きずる、或る夜の深みの中に。1人との出会いにしても、一生の別れにしても、それは世の中に溢れている。日々溢れ過ぎて心が平板化するほどに…。実に身近なところに、死というのはごろごろ転がっているのだ。けれど、太っちゃん。どうしてあなたが逝くのよ。どうして、あなたじゃなきゃ駄目なのよ。あなたのその存在そのものが、その名の通りの温かでやわらかな身体というものに、過去のトラウマ的な傷跡を一瞬にして忘れてしまうくらいに惚れちゃったじゃないか。悔しいな、もう。太っちゃんの、バカヤロウ。
芥川賞受賞作「沖で待つ」。最高だった。ここまで登場人物に愛しさを覚えたのは、もしかしたら久しぶりのことかもしれない。絲山さんの作品には、これまでにも何度も泣かせられたわたしだ。そして、絲山さんのように身を削るようにして書かれた文章ほど、胸に響く作品はないと思っている。だからこそ、余計に語り手に寄り添ってしまう。3ヶ月前に亡くなったという太っちゃんを、まるで自分の信頼できる友人のように思ってしまう。彼のことを知りたいと思うから、読む。彼のことを語りたいと思うから、読む。彼のことをどれだけ大事に思っているのかを、だれかれ構わず話してみたくなるから、読む。それから思考をめぐらせてみる。愛しい。たまらなく愛おしい。太っちゃん。その存在はきっと、もうこの物語を読んだ誰もの愛おしい人に違いないはずだ。
物語は、太っちゃん亡き後の部屋を最後に見ておこうと赴いた、同期入社の女性の回想である。彼女はあくまでも同期の仲間。けれども、恋でも愛でもない特別な繋がりを抱き合っていた関係でもある。時を経て再会し、どちらかが先に死ぬようなことがあったら、お互いのPCのHDDを破壊して欲しい。そんなことを言い出す太っちゃん。それに伴う道具をしっかり準備して送り、ある意味で、究極の密約に思えたそれ。そして、あまりにも早く、それを実行することになってしまう。その緊張感たるや、細やかな描写からぢんぢん痛いほどに伝わってくる。だが、実際には、HDDを壊したところで、現実はさほど変化しない。あっけないほどに、死はただそこに在る。生も死も、ただ横たわっているだけだ。だからこそわたしは、人や動物や世の中を、あらゆるものが愛おしくなった。
また、『沖で待つ』の表題作より、先に収録されている「勤労感謝の日」も味わい深い作品だ。働くこと、働かないことに対する意識。今いる自分の立ち位置の不安定さ。俗悪に流れゆこうとする社会の行く末。年代は違えども、そんなことをはっと思わせる物語である。無職になってしまった36歳の主人公の、やり場のない苛立ちのようなものや、深刻だけれど何となく穏やかな愚痴。愚痴を言い合える友がいること。その中に描かれている、温度というものが印象的だった。様々な魅力的な登場人物が出てくるが、中でも商売気のないマスターの営む店での場面は、格別だ。そっけなくも温かで、何気ないのにしっかり残る。この雰囲気は何だろう。そして、思う。わたしはまだまだ経験値が足りないな、と。“やれるとこまでやるだけだね、それでだめだったら、そのときさ”なんて、とてもまだ思えないのだから。
![]() | 沖で待つ 絲山 秋子 文藝春秋 2006-02-23 by G-Tools |
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