64 海外作家の本(その他&分類不可)

2016.03.28

プニン

20160326_5007doris 読むほどに愛おしさが募ってゆく。プニンという人を語る視線は親しみに満ちている。われらがプニン。そう語る言葉は、だからこそ時に容赦ない。愛があるゆえに容赦ない。見つめる目はあたたかい。だからこそどんな部分をも語る。語り尽くすべく語る。どんなに哀れであろうと、滑稽であろうと、われらがプニンはプニンであるがゆえに愛おしい。そうしてはたと気づく。プニンの物語に寄り添う、人を見つめてゆく行為の先にある愛情を。人を見つめること。そうして知ってゆくこと。そこにあるべき愛のこと。人は人であるがゆえに愛おしいということを。

 ウラジーミル・ナボコフ著、大橋吉之輔訳『プニン』(文遊社)。プニンという人物を語る視線は、どこか優位に立ちながらも、そこに親しみが満ちている。“われらがプニン”、“わが哀れなプニン”、“わが友プニン”“われらが友”という言葉は、だからこそ時に容赦ない。けれど漂ってくるのは、人間愛を思わせる愛があるゆえの容赦のなさのように思えてくる。見つめる目はあたたかい。だからこそどんな部分をも語る。語り尽くすべく語る。どんなに哀れな姿であろうとも、どんなに滑稽な姿であろうとも、われらがプニンはプニンであるがゆえに愛おしい。そんなふうに感じるのは、プニンに対するナボコフ自身の思いと、そこに人生を重ねる姿を見るからかもしれない。亡命のこと。時代のこと。文学に対する思いのこと。心を添わせたくなる人生のこと。物語の端々で、ナボコフを思わずにはいられなくなる。

 そうしてはたと気づくのは、プニンの物語に寄り添っている読み手のこと、自分自身のことへと向かう思いだ。プニンに限らず、人を見つめてゆくその行為の先にある愛情について。人を見つめること。そうして知ってゆくこと。そこにあるべき友愛のこと。人は人であるがゆえに愛おしいという人間愛のこと。物語のひとつひとつのエピソードやそれを語る人物の存在をまるごと全部信じられなくとも、信じられるのはそういうことだ。プニンの物語を、ナボコフのひそやかなる企みを含めて愛おしく思う、それが素直な私の感想だ。

 細かな部分では、“プニン的な”とか“プニン化”という表現も物語の中で目を引いた。プニン、という名前自体も、ぱぴぷぺぽの語感が好きな私にとっては特別な愛おしさを覚えるが、何度も登場するプニンという響きと、人物への愛着を呼ぶ描かれ方がとても魅力的に感じた。それからプニンが静かにさめざめと泣く場面。不必要なほどがっしりした両肩を震わせる場面。大きく鼻をすすりあげながら泣き叫ぶ場面。何か言おうとして結局口に出さずサラダを食べ続ける場面。少年時代を涙ながらに思い出す場面。プニンへの愛おしさが増すのは、こういう場面でプニンの心を知ってゆくからかもしれない。

 物語の中ではっと目を引く、銀器が布巾からすべり抜けて、屋根から人間が落ちるように落下した部分。ハーゲンに宛てた手紙の続きに押し込めた気持ち。人生の中の哀しみが、プニンをさらに愛おしい存在にさせるようで、その二重の哀しさが、余計に物語を愛おしくする。そうして、ジャック・コッカレルのプニンの真似。それも少なくとも二時間もの完璧な。結局皆、プニンのことが愛おしかったのではないか。そう感じられて、いっそう愛すべき物語に思えてくるのだった。

 “われらがプニン”という言い回しがすごく好きだ。”わが哀れなプニン”と書かれていても、わたしの中では脳内でいつのまにやら「わたしの愛しのプニン」にまで変換されてしまっている。考えてみれば、その時点でもう、ナボコフの企みにはまってしまっている気もする。油断ならない『プニン』。

4892570745プニン
ウラジーミル・ナボコフ 大橋 吉之輔
文遊社 2012-09-26

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2016.03.27

冬の物語

20160118_4001ma_2 こんな話があるのです、と次々語られるがごとくここにある十一もの物語、そのまた物語に、著者の人間性の深き魅力を感じる。物語られる人生の中にある無数の感情は、推し量る以上に、書かれていること以上に溢れてくる。そしてそこにある気高さは、きっと登場人物たちだけでなく、著者自身でもあるのだろうと、ひとつひとつの物語を読み重ねるほどに思い至る。そうして心の在り方は、真っ当であるべきだと強く感じ入る。人生と世界への深い洞察は、読みながら何だか試されている心地にもなる。過去、今、その先。そこにいる自分を、そこにあるものが語り出すのを思わず見つめたくなる。

 イサク・ディネセン著、横山貞子訳『冬の物語』(新潮社)。思わず物語を語り出す姿を想像しながら読んだ、最初に収録されている「少年水夫の話」は、少年とハヤブサの関係のおとぎ話のような展開と再会に加え、そこに無鉄砲なまでの恋心の一途さゆえの殺人まで絡んで、少年の人生のひと時を、一瞬にして最後の一行で老人にする描き方にはっとする。“生きながらえた”という言葉の重みを、この短い物語に感じて、思わず深く溜息。きっと語られる少年の人生には、書かれていない感情が沢山ある。語られなかった人生も当然ながら長きに渡って続くのだ。起こった出来事から人が生きながらえる、というその過程と、語れるようになるまでの人生というものの果てしなさに、思いを馳せてしまった。
 
 続く「カーネーションの若者」は、何といっても物語展開に魅せられる。映像としてひとつひとつの人物の感情の動きや場面の動きが魅力的に感じられそうなほどドラマチック。青年の抱え続けている思考、それゆえに見つめる先にあるもの、カーネーションを胸に挿した若者に見た人生の意義となる栄光、つぶさに捉える妻の様子、出会う人々との会話、ひと晩の中に繰り広げられる思考の為せる人生の変化に、自然と惹き付けられてゆく。そうして、やがて人生の中で過去になってゆく出来事の境を覗き見てしまったような心地になりながら、こうして文章を書き留める自分自身の思考にも何だか呑まれそうになる。

 続く「真珠」の思考が行き着く先の“百年もたてば、みんなおなじことになる”という言葉に、人生の無常に近いものを感じました。この先百年たって、そのまま残るのは真珠の首飾りだけ。百年後には、自分はその真珠の首飾りに纏わる話の登場人物になっている。百年の単位で物事や人を見れば、何もかもが悲しくもやわらかな思いになる。幸せにも優しくもなれる。こういう思考が生きてゆくすべなのかもしれない。そんな思いを抱かせる。続く「無敵の奴隷所有者たち」では、“人間とは、なんと奇妙な生きものだろう”という言葉が後を引く。観察の人、アクセルの見つめる視線、その思考、その行き着く思いが見せてゆく真実、偽り続ける二人の姉妹の姿の滑稽さは、滝の姿やフーガの形式を前に、愚かしくも不調和で滅びゆく姿だからこそ、それぞれに違う人生を見せる人間の魅惑を感じさせる。

 続く「女の英雄」では、思わずはっと時の流れと、その流れの中でも変わらぬものを大切に感じていた。人の気高さというものは、この物語の人々の中にあると思い至って、悲しき時代の中において、それでも守るべきものや心の在り方というのは、真っ当であるべきだと強く感じ入った。ディネセンの人生と世界への深い洞察は、読みながら何だか試されているような心地にもなる。続く「夢を見る子」では、“人生で、この子は私とおなじくらい孤独なのだ”そうエミーリエが感じ取る場面が忘れ難い。夢を見、そして実現した人の魅力を放つ子供との関係の中で心の中に生まれてくるエミーリエの感情の動きが、胸を締め付けるよう。“あの子を愛せなかった”そんなふうに思う言葉以上の感情が、行間からあふれてくるようで。過去、今、その先。その狭間にある感情は誰しもあることにはっと気づく。そして、ここにいる自分を、ここにあるものすべてが語り出し、何かを顕わし始めるのを見つめたい心地になる。

 続く「アルクメーネ」のイェンスというのはその前の「夢を見る子」とも繋がっているのか。物語の共通項をめぐらせた。そして、時の流れと人生というものの中にある無数の感情を思っていた。文章が無駄なく紡ぎ出されるほどに、推し量れないほどの感情がそこにある気がして。その気高さは、きっと登場人物たちだけでなく、書き手である著者、ディネセン自身でもあるのだろうと、ここまで読んできて思い至ってはっとする。続く「魚」では、事の顚末、というものの定めを思う物語のように感じた。出来事というのは心の在り様でどんなふうにも変化する。幸せを求める気持ちも、そこにある孤独も。ならばそれは、真っ当であるべきだと。たとえ時が流れようと変わらずに真っ当であるべきだと。王ならばなおさらだと。そんなふうにこの短い物語に思った。

 続く「ペーターとローサ」は、誰かの心を理解したいという気持ちと、それを妨げかねない自分の抱える気持ちとの狭間での葛藤、心の在りようの果てしなさを感じながら読んだ。推し量ることのできない人の心の深さは、もしかすると海よりもずっと深いのかもしれない。永遠に知り尽くせない。心にある感情は、一人一人皆違う。他者と自分との関係の狭間に思いを馳せながら、ペーターとローサの行方を追っていた。そして真っ当である二人が、その狭間をこえて抱き合い、だからこそ海の深みに呑み込まれていったのだと、ただただ信じたくなった。

 続く「悲しみの畑」は、“愛するもののために死ぬ/その苦しみは甘やか”悲しくも美しく響く旋律が、そこにある人の姿が、いつまでも胸を締め付けた。言葉に尽くせないほどに甘美なわざは、同時に人間の奥深さであり、その人生の奥深さだと感じ入ってしまう。繰り返される対話の行き着く悲しさは、どれだけの時が流れても悲しさであってほしい。悲しみとして、心に刻まれるべきだと思わずにはいられなかった。続く「心を慰める話」は、物語の中の物語の魅惑に捕らわれた心地になった物語。これまでの物語にも、物語の中で物語られることはあっても、ここまで大胆に語られると、思わず前のめりで惹き付けられてゆく。ディネセンの求める物語の果てしなさ、そこにあり、続いてゆく魅力を、改めて知った心地になったのだった。

4105069810冬の物語
イサク ディネセン Isak Dinesen
新潮社 2015-12-18

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2012.06.25

明日は遠すぎて

20090429_006jpg_effected ときになんとも切なく、ときにコミカルに、ときにほろ苦く、ときに強い意志を持って、心深く響く物語たちがつまった、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著、くぼたのぞみ訳『明日は遠すぎて』(河出書房新社)。O・ヘンリー賞、オレンジ賞などを受賞した1977年生まれのナイジェリア出身のまだ若い作家の邦訳三冊目の本書は、2006年から2010年までに発表された九作品を収録した日本オリジナルの短編集である。ナイジェリアとアメリカを往復しながら旺盛に活動しているということもあり、それぞれの作品の世界に奥行きと幅の広さを感じ、ページをめくるほどにどんな世界が展開するのか、とても興味深く面白く読んだ。

 表題作の「明日は遠すぎて」では、少女の頃の記憶とその十八年後が交錯する。まぶしいほどの鮮烈な夏の記憶と今になって思い出される当時の記憶の中にあった、直系の長男ばかりを贔屓することへの強い反発と憎悪、初恋、芽生え始めた自意識が、切なく焦がれるほどに心にいつまでも響く。たった十数ページの物語の中に、ナイジェリアを知らない読み手にまで、物語に描かれた場所を鮮やかに伝えてくる。タイトルは、蛇にかまれると十分後にはお陀仏だからと“エチ・エテカ(明日は遠すぎて)”と言い伝えられていることから。短い物語ながら、少女の時間とその十八年後が行き来する構成が心地よく、この短編集の中で強い煌きを放って読み手を一気にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家への強い興味へと引き込んでゆく。

 そのほか、アメリカで不法滞在を続ける男性と失恋した相手を引きずる女性とのやりとりと、信仰に関して印象的な「震え」、母と娘の衝突を描く「クオリティ・ストリート」、現代アメリカとナイジェリアを行き来する著者自身の心情を端々で窺い知れる「先週の月曜日に」、ナイジェリアが舞台の「鳥の歌」と「シーリング」、アフリカ人の若い作家たちの参加するワークショップの話である「ジャンピング・モンキー・ヒル」、ナイジェリア社会の抱える問題を描く「セル・ワン」も、それぞれに違う表情で読み手を引き込んでゆく。ストーリー・テリングの名手と言われているだけにあきさせずに、ナイジェリアとナイジェリアに纏わる事象を鮮やかに切り取っている。

 最後に収録されている「がんこな歴史家」では、アフリカ人の視点で歴史が次々と刻まれてゆく様を見せられているようで、夢中になって文字を追った。奪われた土地を取り戻すために息子に英語を学ばせたいと思う母親の意図に反し、成長とともに西欧化して母親から離れてゆく息子。けれど、その息子の娘は祖母の頑固な部分を受け継ぎ、民族の誇りを見出して、その意志を継ぐことになる、というユニークな顛末を描いている。歴史を絡めて展開してゆく物語の過程自体もある種の頑固さを感じる凝った構成で描かれており、二重三重に物語に面白い含みを持たせているようにも感じられる。血を受け継ぐということの真の意味、自分が何者であるのかということをこの物語を通じて考えさせられる。

4309205917明日は遠すぎて
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ くぼた のぞみ
河出書房新社 2012-03-13

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2012.04.06

夢宮殿

20120313_4012 夢という無意識のものに対して、国民と国家を結び付けてしまうという恐ろしい悪夢のような世界を描いた、イスマイル・カダレ著、村上光彦訳『夢宮殿』(東京創元社)。物語の舞台となるのは、19世紀のオスマン・トルコらしき世界。国民の見る夢を収集する巨大な官僚機構、夢宮殿<ダビル・サライ>である。謎に包まれたそこには、全国から膨大な数の夢が収集される。集まる膨大な数の夢の報告を受け取る<受理>、それを重要性で分類する<選別>、夢に隠された意味を読み取る<解釈>、そして夢宮殿の最高機関<親夢>がある。<親夢>には、国家の存亡に関わる深い意味を持つ予兆を含む夢が選び出されてゆく。国の名門出の青年キョプリュリュ家に生まれたマルク=アレムは夢宮殿に就職し、大臣や知事を親戚に持つ家柄の力でとんとんと出世の階段を昇ってゆく。驚きと畏れに戸惑いながらも自らの仕事に没頭してゆき、やがて夢宮殿をめぐる権力の謀略に巻き込まれてゆく。

 物語が進むほどに顕わになってくるのは、国家に奉仕する巨大な夢宮殿の存在の恐ろしさと滑稽さである。夢宮殿という巨大な組織の中で働く官僚たちは、自分が組織の中でどのような役割を果たしているのかわからぬまま、知ろうとしないまま、目の前の仕事にただ追われている。名前も顔もはっきりとせず、意味のあることなのか無意味なことなのか、その基準も曖昧なまま、夢宮殿に集められた夥しい数の夢を無意味なルールで選別し、ときに恣意的に解釈してゆく。そして、それらに基づいて重要とされた夢に関わる者たちの運命を決めてしまうのである。見えない大きな権力の不気味さ、現実世界ではあり得ないような世界の物語の中に、次第に浮かび上がるテーマの重みに、ゆっくりとじわじわと呑み込まれてゆくような読後感が残る。語り口が重くない分、余計に物語の余韻があとを引く魅力的な作品である。

 『夢宮殿』というタイトルから安易に想像できる物語をいい意味でこの作品は裏切る。迷宮のような構造を持つ建物のあまりの巨大さ、そして知らぬ間にその歯車に組み込まれ、運命に呑み込まれ、地位を上りつめてゆくことの恐ろしさ。国家が個人の無意識の世界である夢にまで管理の手をのばす恐るべき世界は、特殊な設定ながらどこか現実社会とつながっているようで、それを思い始めると、夢から夢へ、そしてまた次の夢へとさまよい歩くマルク=アレムと一緒になって、この巨大組織の中に巻き込まれた心地を覚える。自分の無力さにうなだれ、押しつぶされるような虚しさ。巨大組織に翻弄されるしかない人間の運命と、掴みどころのない無意識が国家組織の枠組みの中にいつしか取り込まれてしまう恐怖と狂気、幻想の渦を象徴的に描いている。

 夢によって国民と国家を結び付けてしまうという恐ろしさ。無意識を管理される国で自由に夢見ることを奪われ、さらには自分が国家の重大事に関わっているかもしれないという恐怖は、まさに究極的な悪夢に違いない。読み始める前に想像していたタイトルから連想される幻想小説とは一味異なる物語だったが、夢中になって読んだ。物語ならではの特殊な設定も、宮殿をさまよい歩くような語り口も、夢宮殿で働く職員達の画一的で無機質な様子も、無数の廻廊が縦横に這う迷宮じみた夢宮殿の構造も魅力的だ。マルク=アレムが夢に取り組みながら袋小路の中で今にも発狂しそうになる様子、システムの一部になることに対する安楽と喪失、恐怖などを暗示しているようなくだり、不条理さを象徴するような夢宮殿の中の道案内も印象的。どうせ行き着くところは同じ。その、端的な無力感を思うとき、この世界の不条理が深く深く身にしみてくる。

4488070701夢宮殿 (創元ライブラリ)
イスマイル・カダレ 村上 光彦
東京創元社 2012-02-28

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2012.03.05

怪物はささやく

20110721_4006jpg_effected 物語の力強さと可能性を信じたくなる本と出会った。一人の少年の喪失と孤独、そして救いの中に寄り添ううちに、物語の奥の奥に秘められた、書き手の熱き思いを感じたような気がしたのだ。パトリック・ネス著、シヴォーン・ダウド原案、池田真紀子訳『怪物はささやく』(あすなろ書房)は、早世した作家シヴォーン・ダウドの遺した原案を、パトリック・ネスが作品化したもの。異なる持ち味の作家の組み合わせとイラストレーションを手がけた、ジム・ケイの力強いタッチのモノクロの画も加わって、見事な化学反応を起こしている一冊である。物語が思う存分に暴れ、蠢き、油断ならない確かな存在として、こうして本というかたちをしている。それは、どんな奇跡よりもフィクションでありながらも、本物の真実として、ここにあるようにすら思えるほどだ。

 物語の主人公の少年・コナーは13歳。死期が近い母親を持ち、周囲からそのことが原因で変に特別な存在として見られてしまい、いじめの対象にもなっており、孤立している。父親は再婚相手とアメリカで暮らし、別に家族を持っている。祖母がいるが、あまりコナーとはよい関係とはいえない。ある夜、そんな孤独なコナーのもとに、母親と暮らす家から見えるイチイの木の姿をした怪物が現れる。“わたしが三つの物語を語り終えたら、今度はおまえが四つめの物語をわたしに話すのだ”と。そして、それは真実の物語でなければならないという。不思議と怪物をあまり恐ろしく思わなかったコナー。なぜならコナーは、もっと恐ろしい怪物を知っていたから。やがて、怪物は決まって深夜0時7分ぴったりにやってくるようになる。

 何のために怪物はコナーのもとへやってくるのか、そしてコナーに何を語らせようというのか。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。その狭間でコナーは、一人もがきあがきながら、真実の物語へと少しずつ立ち向かってゆく。恐怖と戦うためにさらなる恐怖と戦うような、そんな激しさを秘めている、つらく厳しい日々と向き合わなくてはならなくなる。物語はヤングアダルト向けのファンタジーのかたちをしていながらも、深く心の奥に響く言葉と感情のうねりを感じる。読み手は、誰もが直面する、生きてゆくつらさを思い知らされる。理不尽で矛盾に満ちたこの世界に、それでも生きる、生きてゆく、そんな本当の意味を問いかけるような、奥深き物語世界なのである。

 少年の喪失と孤独、そして救いの物語は、死と生とをつなぐ物語でもある。普段は目をそらしがちなわたしたちの身近にある問題でもあるのだ。死の影に怯える少年の孤独と恐怖、痛み……それらは、子どもでなくとも感じる当たり前の感情であり、大切な人を失うときに誰もが経験しなくてはならないことである。誰かを失いたくないという気持ち、それと同時に、その人が苦しんでいる姿をこれ以上見ていたくないという気持ちも、看取る側としてはある。そうして、目の前に置かれた現実と自分の中にある認めたくない思いとの間で葛藤する。矛盾した二つの気持ちでのゆらぎが、この物語にはしっかりと描かれていて、はっとさせられるのである。“物語はこの世の何よりも凶暴な生き物だ”という怪物の言葉は、まさに真実を意味しているように思うのだ。

4751522221怪物はささやく
パトリック ネス シヴォーン ダウド Patrick Ness
あすなろ書房 2011-11-07

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2012.02.29

灯台へ/サルガッソーの広い海

20110721_5012 濃密な時間が流れてゆく。意識の奥底を。そのまた奥の奥にある意識の底を。そっといつまでもたゆたうようになでられてゆく。ささやかながら幸福を感じる物語とやりきれない悲しみに満ちた物語と。間逆の物語でありながら、2つの物語は寄り添うようにして一冊の本としてここにある。なんとも心地よい感触で。ああ、このまま浸っていたい。浸っていたいけれど、その先を知りたい。物語の行く先を、その先を知りたい。自分の中の葛藤とページをめくるほどに格闘することになるとは思いも知らずに、わたしは物語たちに踏み込んでしまった。そんなふうに感じた、池澤夏樹個人編集による世界文学全集のヴァージニア・ウルフ著、鴻巣友季子訳『灯台へ』、ジーン・リース著、小沢瑞穂訳『サルガッソーの広い海』(河出書房新社)という2作品。

 ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』。ここにはあらすじらしいあらすじはあまりない。ひとつの家族があり、それに関わる人たちがいて、灯台へ行こうと計画する。けれど、その計画はなかなか実現しないまま、時だけは確実に過ぎてゆく。小さな幸福を描く第一部、あっけないほどの驚きが待ち受けている第二部、ようやくたどりつく灯台の第三部。読みながら、ただただ眩暈を覚えるほどゆらゆらとする意識の奥底を漂うような流れが、なんとも心地よい。人の心の中というものの面白さを味わいながら、意識の奥深さを思わせてくれる。小説でありながら、絵画のような美しさもある文体なのだ。これまでウルフ作品をあまり読んでこなかったことが悔やまれるほど、一気に物語に魅せられていた。

 読みながら、第一部でメインの登場人物であるラムジー夫人の存在感、あるいは不在の存在感に圧倒される。あっけないほどに描かれるラムジー夫人の不在は、物語の中でとても多くを占めていると思う。彼女のいた時間、彼女のいない時間、いない人を思えば思うほどに、その存在感は増してゆく。幾重にも折り重なる濃密な時間が流れて、ただただ圧倒され、読み手の心に奥深く分け入ってくる。どうしてもラムジー夫人の存在感は色濃く残るが、実は脇役と思われるリリーが重要人物なのかもしれなかった、そうはっと気づくのは最後のページに至ってからである。満ち足りた読後感の読み心地や、最後に光を見出すところもすばらしく、物語によい流れを生み出していると思う。

 さて、ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』。名作として読み継がれている『ジェイン・エア』の異聞ながら、この物語だけで完成された物語として描かれていると思う。わたしは『ジェイン・エア』を読んでいないので、そう思うのかもしれないけれど、植民地生まれと差別され、貧困と暴力に苦しみ、故郷が人生に暗い影を落とすことの苦しさが重たくのしかかる物語にもかかわらず、とても夢中になって一気に読んだ。ある種の人の狂気というものを思うとき、誰もがそれを自分の中に見つけるときの悲しさを思うと、やりきれない。そして、それを秘めた自分の中に流れている血の恐ろしさに対しても、やりきれない。けれど、物語を最後まで読み終えて思うのは、この物語の時代ほど、今の世の中には偏見や差別というものがないと、信じたいということだ。強く、強く。

4309709532灯台へ/サルガッソーの広い海 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1)
ヴァージニア・ウルフ ジーン・リース 鴻巣 友季子
河出書房新社 2009-01-17

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2012.02.21

なかないで、毒きのこちゃん 森のむすめカテジナのはなし

20110412dsc_40040jpg_effected 森に生きる少女の子どもらしい感受性で、いのちを学び、喜び、さまざまな動植物と戯れ、美しい森で生きてゆくこと、生きとし生けるものすべてに対するあたたかな愛おしさを感じる、デイジー・ムラースコヴァー作、関沢明子訳『なかないで、毒きのこちゃん 森のむすめカテジナのはなし』(理論社)。ときに胸の芯をぐいぐいつかまれるような哲学的な思考を展開したかと思えば、ときに森での生きるすべそのものは、わたしたちのすべてに通ずる暮らしの営みを思わせてくれる。森というものの偉大な豊かさを、生きてゆく喜びを、たくさんの生き物たちの鼓動を、30もの掌編によって、読み手であるわたしたちは少しずつ少しずつ知ってゆくのだ。

 あまえぼうの子バト、泣き虫のベニテングダケ、口の達者なウサギ、金色の目を持ちながら本当の金色を知らないカゲロウ、くいしんぼうのオオカミ……などなど、挙げ出したらきりがないほど魅力的な個性的な森の動植物たちとカテジナとのふれあいは、どれもがとてもあたたかな物語となっている。猟師でありながら、猟によっていのちを無駄に奪うことを決してせずに、カテジナの素朴な疑問に対してやわらかく答える父親の存在、そしていつだってあたたかくのびやかにそっとカテジナを見守るやさしい母親の存在にも支えられて、カテジナは自分の中に強い意志をしっかり持ち合わせた、いのちを思うことのできるやさしく逞しい少女として物語の中にいる。

 例えば、真っ赤な頭の毒キノコが自分はみんなに嫌われていると泣いていると、カテジナはいろんな手を尽くして毒キノコを励まし、思いやり、毎日のようにお話を聞かせにゆく。いつも醜いと言われても決して怒らないヒキガエルには、尊敬のまなざしを向けながらも、ときには本当のことを言わないほうがいいこともあるのだとヒキガエルにそっと言い放つ。ときには地球の反対側を思って、そこにカテジナと同じように森で暮らし、今このときにも同じことをしている少女がいるのではないかと想像をめぐらせたりもする。アリのゆく道をどこまでも追って、自分が果たして大きいのか小さいのかわからなくなることもある。もじもじしているオオカミにはぴしゃりと言葉を放つ。

 自然とともに、森とともに、そこに暮らす動植物たちを敬いながら生きること。それは森からはかりしれないほどの恵みをもらって、森が生活の一部になっていなければ、忘れがちのことなのかもしれない。細い道をのぼりにのぼってゆく日本の森とは違って、この物語の舞台となるチェコの森は、奥深い森もあるらしいが、多くは身近な野原や畑の続きにあって、いきなり森がはじまるのだそうだ。そして、きちんと管理され、森林保安官、猟師、森番などの専門家たちに守られて人々と共存しているという。まるで物語の中のように、静かにそっと森はほほえんで息づいているに違いない。物語に添えられた作者による画も物語の雰囲気とぴったり寄り添うように素敵で、お気に入りの1冊となった。

4652079702なかないで、毒きのこちゃん―森のむすめカテジナのはなし
デイジー ムラースコヴァー Daisy Mr´azkov´a
理論社 2010-05

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2012.02.16

トーイン クアルンゲの牛捕り

20111219_54043 千年以上も前に古代アイルランド語で書かれた伝説をキアラン・カーソンによって英語に翻訳され、それをさらに日本語に翻訳されたという重訳による本書『トーイン クアルンゲの牛捕り』(東京創元社)。血湧き肉踊るような英雄譚でありながら、もともとは語りものとして伝えられてきた神話だというせいなのか、口承の言葉たちが文字として連なり、あるときは詩のように歌うように、特徴あるリズムや言い回しを使っているせいなのか、深い友情を犠牲にしてまでの、生きるか死ぬかの殺し合いの決闘の最中にも、どこか悠長なのびやかな心地よい印象さえ残る不思議な物語である。あまりにも次々とあっさりと人が死にゆき、騙し騙され、人の愚かさが漂う物語にもかかわらず、のちの数々の物語に影響を与えるほどの英雄クー・フリンの真実が痛快なまでに面白く、夢中で読める。

 この英雄クー・フリンの英雄譚は、そもそもの話がコナハト国の王アリルとその強き女王メーヴのしょうもないような寝物語がきっかけではじまる。二人はそれぞれの持っている能力や権力、財産を列挙し、競い合う。夫が持っていて自分が持っていない唯一のものが、白い角を持つ雄牛フィンヴェナハと知るやいなや、女王メーヴはアルスター(アイルランド北部)にそれをしのぐ雄牛がいることを突き止めると、大軍を率いて力ずくで奪おうとするのだった。けれどアルスターの男たちには呪いがかかっており、戦うことができない。そこで、呪いを免れていたクー・フリンが国を守るため、たったひとりきりで戦いをはじめることになるのだ。このクー・フリン、子どもの頃から様々な武勇伝を持つ、向かうところ敵なしの若者だったのである。

 女王メーヴはクー・フリンを倒さなければいずれ国が滅ぼされかねないと、実にさまざまな手段を用いる。けれどルールを無視したゲリラ戦術にも、一対一の対決にも、だまし討ちなどにも、やはり圧倒的な強さでクー・フリンが勝利してしまう。その犠牲となる人々の数ときたらすごい数である。女王メーヴはとうとう最後の悪巧みとして、クー・フリンと義兄弟で彼と共に武術を学んだことのある互角の相手であるフェル・ディアズを巧みに言いくるめて決闘を挑ませる。その何日間にも及ぶ戦いは物語の中での一番の見せ場かもしれない。互いに互いを思い合い、かつての友情を懐かしみ、戦わねばならぬことに苦悩する姿には、ひどく心打たれる。狂戦士のようにさえ端々で感じるほど、人間離れした存在だったクー・フリンの、人間らしさの見える場面のようにも思える。

 この神話物語の面白さは、壮大なスケールでエンターテイメントとして描かれている、というだけに終わらない。今この時代に読み物として、文字として、こうして読めるからこその味わいもある。たびたび人々は詩のような、歌のような掛け合いによって心の奥にある思いを語り、土地の地名の由来となった出来事を明かす。独特の反復表現や、“両軍ともに三かける二十は六十人の戦士が倒れた”などというような数字の表現が繰り返し効果的に使われていることも見逃せない。わたしが個人的に好きだった箇所は、“そこでどんなことが起きたかはここでは語らない(P186)”というところ。こういう読み手に想像をゆだねる部分も、口承で長きにわたり語られ、今の世にも受け継がれ残ってきた昔ながらの神話らしさを感じる。多くの命を犠牲にして血を流す物語ながら、読み心地が決して生臭くなく、どこか悠長な、心地よい爽快感さえ覚えるほどに。

4488016510トーイン クアルンゲの牛捕り (海外文学セレクション)
キアラン・カーソン 栩木 伸明
東京創元社 2011-12-21

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2010.12.26

ムントゥリャサ通りで

20101114_55014 翻弄されて、ぐるぐるぐると混乱するわたしがいる。翻弄されて、じりじりじりと心が急くわたしがいる。物語のその先を、その先の続きを、そう思うそばから物語はどんどんわたしの要求からいやいやをするように、じらすように逸れてゆく。謎めきは謎めきのまま、最後の最後まで物語の根底にあり続け、ぐいぐいとわたしの気持ちを引きつけて離さない。散りばめられたいくつもの神秘にゆらりゆらりとゆれながら、どっぷりと物語に呑み込まれてゆく。どこまでが真実の語りなのか、どこまでが信じるすべなのか、その深みに戸惑いながら、ミルチャ・エリアーデ著、直野敦訳『ムントゥリャサ通りで』(法政大学出版局)という物語にわたしはとてつもなく魅了されていた。こうして久しぶりに言葉を連ねたくなるくらいに、ひどく、強く。ひどく、強く。

 一人の老人がある男を訪ねる。老人は元ムントゥリャサ小学校の校長ファルマで、ファルマが訪ねた男の名は教え子であるはずのボルザ。だがボルザはムントゥリャサ小学校には通ったことがないと説明する。次の日、ファルマは保安警察に叩き起こされ、取調べを受け、供述書を書くことになるのだ。そこでファルマは、かつての教え子たちや彼らにまつわる者たちの長い長い話をおもむろに語り出す。幾つものエピソードは幾重にも枝分かれし、物語の謎めきを深く深くしてゆく。ファルマの語り口は聞き手である人々の心を掴み、たちまち魅了する。だが、次から次へと話はその本筋から逸れて、聞き手や読み手であるわたしたちを翻弄し、その脳内をぐるぐると混乱させてもゆく。魅了されたが最後、ファルマの語る話の先を知りたいと心が急くのだ。

 ファルマの告げる事実はどこまで真実かわからない。わからぬまま、わたしたちは進んでゆく物語の展開のその先を、そのまた先を知りたいと強く願っている。そう渇望せずにはいられない。ファルマの語る話はときに時間をこえて、ときに空間をこえて、ときに現世から彼岸へと思いを馳せるまでに至る。ひどく神秘的な地下に暮らす者たちの世界の話も登場したり、端々には幻想的なモチーフも豊かに散りばめられたりして、実に味わい深く語られてゆく。物語全体に漂う謎めきは、最後までずっと変わらずにわからないままあり続けるゆえ、読み手の解釈はどこまでも自由だ。この物語の魅力は無限に広がっていると言っていい。小説を読むことの醍醐味がそのままかたちとなって目の前にあるとも言える。読書好きのための物語、そんなふうにも思う。

4588490249ムントゥリャサ通りで
ミルチャ エリアーデ Mircea Eliade
法政大学出版局 2003-10

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2010.01.03

わたしを離さないで

20100103_4003 強いられた運命を目の前に、悲しみに呑み込まれてはいけない、と思う。感傷に浸り込んでもいけない、と思う。ひそやかにただ、彼女たちの生を見届けること。それがわたしたちにできる唯一の手段であり、役割であり、慰めでもある。悲しみを悲しみとして処理することがためらわれるような心地は、うまく言葉にならない。言葉にならないからこそ、わたしたちの無力さや虚しさが、どうしようもなくおおいかぶさる。カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)の語り手の言葉に耳を傾ければ傾けるほど、その生を、その命を通して、我が身をまっすぐに見つめざるを得ない。“生きる”という、“生きてゆく”という、現実のやりきれない手ざわりを痛いほどに感じながら。

 物語は31歳になる"介護人“のキャシーが、“ヘールシャム”という施設で学んでいた頃の過去を主に回想してゆくかたちを取っている。彼女の語る記憶は、わたしたちが知り得るものとは似ているようでどこか異なり、奇妙なざらつきを残してゆく。キャシーたちを指導する教師たちの振る舞いや言動、施設内での生活習慣や行事をはじめ、冒頭から登場する“介護人”や“提供者”という言葉に、なんとなく胸騒ぎを覚える。外界との接触を遮断された“ヘールシャム”という施設とは一体何なのか、そこに集められている生徒たちは一体何者なのか…読み手であるわたしたちは、言葉にならないもどかしさを抱きながら、キャシーの記憶を手繰り寄せるように、恐る恐るただページをめくることになる。

 閉ざされたヘールシャムでの一見幸福そうに見える日々。けれど、わたしたちに与えられているような将来の夢や可能性という言葉は、キャシーたちには当てはまらない。なぜ生きるのか、どう生きるのかという模索は与えられていないのである。ただ生まれ、ただ生きることを許されたわたしたちとは異なるのだ。ある目的のまま生を受け、決められた自分の役割を果たす…終着地点をあらかじめ定められたキャシーたちは、その生について、不思議なくらい穏やかに受け入れている。ヘールシャムでの教育は、さりげなさを保ちながら、自分たちが特異な存在であることをするすると教えてゆく。そうして、悲しみも憤りも静かにそっと呑み込んで、ごくありふれたあたりまえのこととして読ませてゆく。

 それでもキャシーたちは、すべてをただまるごと納得したわけではない。あらかじめ決められた生であっても、確かに生きたのだという強い主張を重ねてゆく。どんな力がキャシーたちを縛ろうとも、彼女たちの内なる命は運命に抵抗しようと必死にもがいて、ただ生きるために生きようとする。物語の中に広がるその主張に、わたしたちは新鮮な驚きと深い感動を新たにする。キャシーたちが抱える悲しいさだめを、ただ単に悲しみとして処理することにためらいを覚えながら、その生を、その命を、まっすぐに見つめてしまう。ゆっくりとキャシーの口から語られてきた物語は、わたしたちが味わう“生きる”という現実のやりきれなさと、ほんのりと似た色を帯びてくる。そして、絡まり合って離さない。

4151200517わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
カズオ・イシグロ 土屋政雄
早川書房 2008-08-22

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