2008.07.17

殺人者の健康法

20080717_010 歪みに歪んだ屈折した幻想は幻想のままに。果てしない追憶は追憶のままに。こころのうちに留めておくことが正しいのかも知れない。いや、果たして正しいのか。わたしたちの記憶の果てにあるのは、散りばめられた煌めくような美化された思い出ばかりであるのだから。或いは、執念深くたまりにたまった苦々しい思い出ばかりであるから。アメリー・ノートン著、柴田都志子訳『殺人者の健康法』(文藝春秋)を読んでそんなことを思ったのは、物語に登場する男のあまりの身勝手で、かつ滑稽ですらある卑屈さに、ある種の人間の本心を見たような気がしたからだ。もちろん、男の身勝手な幻想にわたしは同調しかねるのだが、それでもどこか本能的な部分で作品に惹かれずにはいられなかったのだ。

 物語は、ノーベル文学賞作家として世に知られる存在ながら、これまでほとんど人との接触を避けてきた、醜悪なまでの巨漢の男プレテクスタ・タシュが主人公だ。だが、余命二ヶ月との宣告を受け、隠居生活から脱するかのごとく、何人かの記者のインタビューに応じようとする。だが、毎朝代わる代わる訪れる記者は、タシュの饒舌で質問をはぐらかしたような毒舌に次々と退散してしまう。そんな中、挑んできた一人の女性記者だけはタシュから一歩も引かない態度を見せ、二人の対話はかなりの毒気を含みながらも、痛快なものとなるのである。タシュがなぜ執筆をやめてしまったのか。未完の小説に関する謎とは。女性記者の企みとは…。二人のやり取りの中で、次第に明らかになってゆく。

 読書人として興味深いのは、タシュがセリーヌの「夜の果ての旅」を絶賛しているところ。ただ、大半の読者はそれを読んだからといって、何かを得たり、すぐさま何かが変わったりすることはない、ということをタシュは言う。多少なりとも影響を受けたとしても、一読して、感想を述べて、わたしたちは皆また日常生活に戻ってゆくのだから。それは当然のことながら、作家という職業の悲劇を感じずにはいられず、何だか妙に切なくなる。もちろん、例外はあって、もの凄く刺激的で影響を与える本だってこの世の中にはたくさんあるに違いない。けれど、タシュの言う論理はわからないでもない。“結局、人々は本を読まない。もしくは読んでも理解しない。もしくは理解しても忘れてしまう”のだと。

4163165304殺人者の健康法
Am´elie Nothomb 柴田 都志子
文藝春秋 1996-10

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  ≪Am´elie Nothombの本に関する過去記事≫
  『午後四時の男』(2006-12-21)
  『愛執』(2006-12-04)
  『幽閉』(2006-12-10)

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2008.07.04

ポケットから出てきたミステリー

20080704_023 次々と代わる代わる語られてゆくささやかでありふれた話やある一人の人生のエピソードが、物語帯びてくる瞬間を垣間見た気がする。日常にはこんなにも語るべきことが溢れていて、わたしたちの思考をぐるぐるとさせるほどのおかしさに満ちているということを、今さらながら痛感したのだった。カレル・チャペック著、田才益夫訳『ポケットから出てきたミステリー』(晶文社)は、ミステリーと題されていながらも、ミステリー色のないものから、ミステリーに終わらない著者の深い洞察を感じさせるものまで多岐に渡る、ユーモアとウィットに富んだ痛快で味わい深いショート・ミステリー二十四篇を収録している。口語体を通りこした話し言葉だけで展開するせいか、全体的にやわらかな印象が残る一冊だ。

 例えば、こんな話がある。サボテン泥棒に仕掛けられた罠の話である「盗まれたサボテン」、赤ん坊を盗まれた若い母親に翻弄される警察署長の話である「赤ん坊誘拐事件」、抑圧された観念が招く悲劇を描いた「めまい」、何が書かれているのかわからない娘からの一通の電報に家族がそれぞれに心乱される「電報」、スパイ行為を繰り返した女の意地とプライドについての話である「伯爵夫人」などなど。どれもがある種わたしたちの日常に寄り添う事件ながら、人間のおかしさや愚かさ、悲哀のようなものを、あたたかな語り口で読ませてくれる展開だ。ほうほう、その話もいいですがね、そうそう、こんな話もあるんです……なんて、いつまでも尽きることを知らない静かな盛り上がりもまた楽しめる。

 けれど、最後に収録されている「人間の最後のもの」だけは、他の話に満ちている和やかな雰囲気がない。クララ氏の死刑宣告される夢の話に始まって、スクジヴァーネク氏のかつて自殺を思ったことの話に繋がってゆくのだ。背負った病に耐えかねて苦しみから逃れようとしたその姿は、同じように病に苦しんだ著者カレル・チャペック、その人に通じるものなのかも知れない。スクジヴァーネク氏の肉体の痛みに苦しみもがく語りは、鋭利なリアリティの中にあって、そのゆれにゆれる精神の蠢きをそのまま見事に描ききったように感じられる。本当の痛みを知る人は強い。同時にそれを知る人は、弱さをもよく知っている。自分の器というものも。自分の一生をかけて抱えるべき物事も。

4794965079ポケットから出てきたミステリー
Karel Capek 田才 益夫
晶文社 2001-11

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2008.05.09

ヨハネスブルクへの旅

20070421_004 学ぼうとしなければ知り得ないことが、この世界にはあふれている。もちろん、知りたくても知り得ないこともあふれている。知らなければならない、目を背けてはいけない事柄はたくさんあるのに、ちっぽけなわたしはその多くを知らないまま日々をのらりくらりと生きてしまっているような気がする。ビヴァリー・ナイヴァー作、もりうちすみこ訳、橋本礼奈画『ヨハネスブルクへの旅』(さ・え・ら書房)に描かれるアパルトヘイト体制下の南アフリカの暮らしもまた、そんな学ぼうとしなければ知り得ないことの一つだろう。時が流れてもなお、拭い去ることのできない世界史における悲劇の傷跡は、そこに暮らす人々の中に深く刻まれているに違いない。

 物語の舞台は、アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アフリカ共和国。重い病気にかかった赤ん坊の妹を助けるために、姉のナレディと弟のティロは三百キロも離れたヨハネスブルクへ、住み込みで働く母親を連れに行こうと決意する。それまで黒人居留地の中での生活しか知らずにいた二人は、旅の途中でさまざまな人と出会い、社会に満ちる矛盾や差別をはじめとする問題と直面してゆく。なぜ、両親と離れて暮らさなければならないのか。なぜ、パスを常に持ち歩かなければならない人々がいるのか。なぜ、黒人と白人で乗るバスが違うのか……など尽きることのない疑問。やがてナレディたちは、グレースと知り合い、“自由”を求めてデモを起こした子どもたちの悲劇を知るのである。

 訳者のあとがきには、読者である少女の言葉がこう記されている。“わたしたち子どもだって、この世界でおこっている本当のことを学びたい。どうしてそれを制限するのでしょう? わたしたちが早く知れば知るほど、わたしたちは知性的な強い人間になる。それが、この世界を平和にする方法なのに”と。人として当然のはずの営み、権利。それすらも奪われていた人々の声に耳を傾けること。アパルトヘイトに限らず過去の過ちを知ることで、わたしたちは何かを得ることができる。何かが変わり始める。それはささやかなものかもしれない。けれど、一人が知ることによって「知る」は広がり始めるのだ。そうしていつしか大きな「知る」となり、本当の平和というのがいつか訪れるかも知れない。

4378014777ヨハネスブルクへの旅
ビヴァリー・ナイドゥー もりうち すみこ 橋本 礼奈
さ・え・ら書房 2008-04

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2008.02.13

あかいろの童話集

20050227_007 小さな頃から書物にふれて育ったというのに、わたしは意外にも童話というものを知らない。大人になってからペローやアンデルセンを少々読んだものの、それとこのアンドルー・ラングがヴィクトリア時代のイギリスで、世界各地の伝承文学からよりすぐりの作品を子どもたちに提供しようとした『あおいろの童話集』との違いも、実はよくわかっていなかったりする(日本では、川端康成訳で出版されてもいたようだ)。あまりにも残虐で暴力的なものや、根底に差別的な態度があると思われるものを避けたという編集から考えると、確かに表現はやわらかでまろやかなくちあたりではあるものの、あっさりと首が飛び、人が死ぬあたりは、さすが童話だと唸らざるを得ない。

 今回、某所の献本で同時発売の『あおいろの童話集』『あかいろの童話集』(東京創元社)のうち、『あかいろの童話集』のみを読んだ限りでは、無理難題を言いつける王様と、愚かにも従順で純粋すぎる姫、そして意地の悪い魔女という組み合わせが目を引く。もちろん、美しい王子と、美しい姫という構図も多い。或いは、何らかの魔術によって醜い姿に変えられている、という場合もあるのだが。そうして、時代背景から見えてくるのは、顔も知らぬ人を待ち焦がれたり、一瞬にしてよろめいて“愛しています”という、王子や姫のあまりにも非現実的なロマンティシズムだったりする。周囲はおどろおどろしく、血なまぐさく、獣の匂いが立ち込めていようとも、ものともしないほどの。

 けれど、さすがは世界各地からの伝承文学だけあって、ロマンティシズムばかりを語るわけではない。人々はときに憎しみに身をよじり、それでも厭きたらずに散り散りになり、欲望の深さに愕然ともなるのである。いつでも正義が勝つとは限らない。もちろん、いつでも悪が滅びるとも限らない。運命は誰の手の中にもないのかもしれないのだった。めでたし、めでたし、で終わる童話の背景には、必ずと言っていいほど、多くの犠牲や不幸がある。いくら美しく生まれようが、いくら賢さを備えていようが、童話の中でさえこんなにも残酷ならば、この世の中の方がよっぽど楽は楽である。そんなことをついぞ思ってしまうのは、わたしが甘い蜜の中にいるからかもしれない。

★収録作品「サンザシ姫」「ソリア・モリア城」「不死身のコシチェイの死」「黒い盗っ人と谷間の騎士」「泥棒の親方」「ロゼット姫」「ブタと結婚した王女」「ノルカ」「小さなやさしいネズミ」「六人のばか」「木の衣のカーリ」「アヒルのドレイクステイル」「ハーメルンのふえふき男」「金ずきんちゃんのほんとうの話」「金の枝」「マダラオウ」「イラクサをつむぐむすめ」「ファーマー・ウェザービアード」「木のはえた花嫁」「七頭の子馬」


あかいろの童話集 (アンドルー・ラング世界童話集 第 2巻)

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2007.12.26

永い夜

20070106_009 眠れぬ夜の悶々で、めぐる思考はぐるぐると。底なし沼の自己嫌悪。ときに途切れてひらめいて。いつしか想いは宙の果て。目覚めと眠りの狭間では、おかしなねじれの中にある。ゆらめき謎めく夜のとき。それでもわたしを見てくれる?それでもわたしを愛してくれる?想いはただただ駆けめぐり、何も変わらないまま朝が来る。ミシェル・レミュー作、森絵都訳『永い夜』(講談社)は、眠れぬ一夜を描いた作品である。愛犬と眠ろうとする少女の頭の中には、不思議な想いがぐるぐるしてくるのだ。シンプルな問いから、哲学的な問いまで。そうして永い夜の物語が、ときどきはっとするほどに迫力ある線画と共に描かれてゆくのである。

 少女の問い。それは、“永遠の果てはどこ?”にはじまり、人が生きていく上で抱えうる、不安や孤独といったものである。そんな問いからは、微妙な年頃のアンバランスに揺れる想いが切実に伝わってくる。例えば“自分で自分がどうにもならないとき だれかにぎゅっと抱きしめてほしいと思う”とか、“だれか どこか上のほうからわたしを見ていてくれる? いつもすべてお見通しのママ以外の、だれか”とか。もちろん、これらはある意味大人になった者にとっても同じ想いに違いない。それも、永遠の。とりわけ、眠れぬ夜には誰かに寄り添っていてほしいものだし、ぎゅっと抱きしめていてほしい。強がりなどは捨ててしまいたいと思う。

 この作品、“もしもこの世界がすべて夢で、夢のほうが現実だったら……?”という問いから、一気に迫力を増すのだが、その絵のタッチがたまらなく繊細である。稲妻に怪獣にもののけ、地獄、宇宙などなど、どれもこれもが素敵なのだ。そして、結末までの展開がなんともたまらず…。ここでは敢えて詳細は書かないが、永い夜にも終わりがあるものなのだなぁとしみじみしてしまうのだった。そうして、わたしたちは皆生きているんだなぁと。また、この作品、絵本と言いつつも、かなりの分厚さである。当然ながら、読み応えもある。タイトルが「永い夜」だけに、ページ数もそれだけあるのだろう。眠れぬ夜、悶々としながら、捲りたい一冊だ。

406209665X永い夜
Lemieux Mich`ele 森 絵都
講談社 1999-05

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2007.08.21

ヨアキム 夜の鳥2

20070820_013 危うい中で展開されてきた家族のかたちが、変わろうとしている。パパ、ママ、そしてヨアキム。三人きりだった関係は、次第に新たな家族のかたちを生み出すのだ。あしたのために。これからの三人のために。或いは、それぞれのために。始終つきまとっていた不安の影を、どこかへ追いやるために。トールモー・ハウゲン著、山口卓文訳『ヨアキム 夜の鳥2』は、『夜の鳥』の続編として書かれた作品である。物語は、ヨアキムの父親が精神病院へ入院するところからはじまり、ヨアキムの心を満たしている不安感は前作の時よりも強まっている。いよいよヨアキムは自分の寝室で眠れなくなり、ママのベッドで精神の安定を取り戻すのだった。

 物語の中で、印象的な場面がある。ヨアキムが、自分を小さくなったように感じる場面である。その頃、ヨアキムの周りは秘密に満ちていた。その秘密が大きくなればなるほどに、不安感は募り、ヨアキムはそれらに押し潰されそうになるのだった。そして、ヨアキムはこれまで押し殺していた感情を、一気に父親へとぶちまけるのである。その場面の言葉ひとつひとつが、痛く心に染み入るのは、きっとかつてのわたしも抱いたことのある感情だからに違いない。そして、かつての子ども心が、大人と呼ばれる年齢に達してしまったわたしに、ひどく突き刺さるものだったからに他ならない。著者はどこまでも容赦なく、子どもと大人とを結びつけてゆくのである。

 まだ、ヨアキムは小さな子どもである。だが、子どもは子どもなりにいろいろなことを考えている。両親のこと。友だちのこと。学校のこと。よその家族のこと…。そうして、漂う雰囲気の変化を、違いを敏感にキャッチして、子どもなりに懸命に思い悩んでいるのである。ヨアキムの周りの子どもたちも例外なく皆、それぞれにさまざまな思いを抱えていることからも、それは窺い知れる。そして、その様子から気づく。大人の問題だから、子どもの問題だから…そんな区分など本当は存在しないのだろうと。子どもと大人の境界線が曖昧なのと同じように。きっと著者の描いた物語の視点は、その幅広い視野に支えられ、読み手の心の奥底にまで届くのだろう。

4309203825ヨアキム 夜の鳥2
山口 卓文
河出書房新社 2003-06-21

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2007.08.20

夜の鳥

20070820_058 季節の足音と共に、少年の心にそっと歩み寄るもの。不安。そして、哀しみの影。やがてそれらは、少年の抱いた幻想を現実のものへと変えるほど、大きく、大きくなってゆく。ゆっくりと。ひそやかに。でも、確実に。そうして立ちこめた不安は、さらなる不安を呼び、哀しみの色を濃くさせるのだ。どこまでも深く、深く根をおろすように。世界の果てにある光など、もはや闇にまぎれてほんの少しだって見えやしないのだ。トールモー・ハウゲン著、山口卓文訳『夜の鳥』(河出書房新社)に始終漂うそんな危うげな雰囲気に、はっと呑み込まれた。無駄を削ぎ落とした文章は、読み手の想像を掻き立て、さらなる物語の深みに浸らせてくれる。

 主人公のヨアキムは、都会のアパートで両親と暮らしている。精神を病んだ父親は、さびしさから逃れようと、ふらっとどこかへ行ってしまうこと、しばしば。そんな中、ヨアキムの不安は次第に大きくなってゆく。“夜の鳥”の幻想として。この夜の鳥は、ヨアキムの部屋の洋服だんすの中に住んでいて、しっかり鍵をかけておかなければ、その大きな翼を押し広げてヨアキムの世界をすっかり闇に覆ってしまうのだ。この物語に始終漂う不安の影。それは、ヨアキムの両親の不安に違いなく、子どもはそれを否が応でも感じ取ってしまうものである。多感であるがゆえに。敏感に。著者はそのことを、現実世界だけにとどまらせずに読み手に伝えてくる。

 また、この物語を語る上で見逃せないのは、ヨアキムを取り巻く子どもたちである。哀しいトーンを貫く物語の中で、生き生きとした子どもたちは、ほんのりとあたたかな救いのような存在である。そこには、日々誰かと誰かが喧嘩し、その関わり合いにびくびくし、ときどき過ちを犯しながら、確かな成長を遂げる姿があるのだ。子どもたちのユーモア溢れる語り口は、ふっと一瞬ヨアキムの心を解放してゆくようでもある。季節の足音と共に、そっと歩み寄るもの。哀しみや不安。けれど、もちろんそれだけじゃない。ヨアキムの中に染み入るように入り込んださまざまな思いは、きっとどこかへ向かうはず。物語は、そんな余韻を残してゆくのだった。

4309203817夜の鳥
山口 卓文
河出書房新社 2003-06-21

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2007.08.10

ぼくによろしく

20070807_039 どうかすると見失ってしまうわたし。どうかすると目を背けたくなるわたし。自分と向き合うというのは、実はとても難しい。とりわけ、苛立ちやモヤモヤを抱えた10代の頃の子どもにとっては、なおさらのことである。日記を書くことによってもう一人の自分を知る物語である、ガリラ・ロンフェデル・アミット作、樋口範子訳『ぼくによろしく』(さ・え・ら書房)を読みながら、そんなことを感じた。大人になった今でさえも、どこかでわたしは、自分自身を見つめることから逃れようとしている気がして。いくつになっても大人になりきれないわたしにとって、この作品はとても心に痛かった。未熟なわたしは、日記をつけることからすら、逃れようとしていたのだから。

 父親は刑務所、母親は再婚。それに加えて8人もの兄弟。貧しい暮らしの中にいた主人公のシオンは、生まれ育った所とは環境の違うシロニー家に里子としてやってきた。言葉遣いも、遊び方も、生活スタイルも、何もかもが異なることに、毎日戸惑う日々である。そんなある日のこと、シロニー先生の薦めで日記を書くことになったシオン。いつのまにか同じ歳のニルと競うように、日記に夢中になってゆく。そして、自分の気持ちを言葉にしていくうちに、もう一人の自分と出会うことになる。シオンの心の奥底がつぶさに感じ取れるような瑞々しい言葉の数々は、忘れかけていた子ども心そのもので、ときどきはっとするほどきらめいているのが印象的だ。

 シオンの心の奥底。それを知っていたのは、誰でもなくシオン自身だったのだろう。胸に秘めた思いを言語化することによって、はじめて明らかになってゆくこともあることに、今さらながら驚いてしまう。“思いは言葉にしなければ伝わらない”とは、よく言ったものである。もしかしたら、わたし自身にとっても、わたしの知らない思いが、心の奥底に潜んでいるのかもしれない。こうしてブログに言葉を紡ぐうちにひらめく気持ちがあるのと同じように。もちろん、日記を書くことだけが、言語化することではない。誰かに宛てた手紙でもいい。誰かに話すことでもいい。そうして、思いを言葉にすることで、新たな自分自身を自らの手で見つけてゆくのである。

4378007959ぼくによろしく
Galila Ron‐Feder‐Amit 樋口 範子
さえら書房 2006-04

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2007.04.24

落葉 他12篇

20050525_021 生と死。そこに横たわる、逃れようもない孤独。そして、滅びゆく予感というもの。重たく立ちこめる雰囲気と共に、時間の流れを確かに感じた気がする。G・ガルシア=マルケス著、高見英一他訳『落葉 他12篇』(新潮社)。若き日のマルケスの作品群は、不条理だったり、オカルト的だったりするものが多く、始終不気味な印象がつきまとう。表題作「落葉」に関しては、マルケス作品として有名な「百年の孤独」と同様の、“マコンドもの”と言われる作品の1つで、人々の心情を豊潤に描いてあることが目を引く。後年の作品に見られる切れ味の良さは感じられないが、こういうマルケスも読めることが、なんだかとても贅沢のようでもあり、新鮮でもあり、面白く読んだ。

 表題作である「落葉」。この物語は、ある博士の自殺からその葬儀に至るまでを物語の軸とし、博士と関わりのあったある家族と、舞台となっているマコンドの人々に深く根ざす孤独を描き出してゆくもの。三人の人々によって代わる代わる語られる出来事を通じて、読み手はしばし混乱しつつも、重く暗い闇に呑み込まれてゆくよう。生と死に翻弄されるわたしたちを、そこに見た気がして、誰もが抱えうる逃れることができない宿命のようなものを感じた。生きているからには、必ず訪れる死。そして、栄えたからには、いつしか滅びゆく可能性のある街。満たされた今を生きるわたしたちの中には、どこか危機感というものが欠けていると、改めて感じた。

 また、作品の中で比較的読みやすかった「六時に来た女」については、全く違う印象を抱いた。この作品での魅力は、会話の絶妙さであり、テンポよく進む会話のリズムは、後年の作品に見られる簡潔な文章で描写され、ぐいぐいと読み手を引き込んだ。押し問答のような、男と女の言葉。そのコンビネーションの良さに、わたしはとても惹かれた。こういう作品こそ、物語として在るべき姿なのかもしれない…と考えたほどに。重苦しい雰囲気の作品が多かっただけに、とりわけ印象に残ったのかもしれないが…。他にも語りたい作品は多数あるが、語り尽くせないので(何しろ全部で13篇もある!)、ここまででお終わりする。わたしはもうすっかり、マルケスの虜だ。

4105090097落葉 他12篇
高見 英一 他
新潮社 2007-02-24

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2007.03.02

あなたになら言える秘密のこと

20070226_55005 時を経てもなお、癒えない痛みというものがある。心の奥底に封印したそれは、ときに人生をがらりと変えてしまう。閉ざした心を開く手段は、容易に見つかるわけでもなければ、誰かが差し伸べる手に救いを求めるには、あまりにも重たく、忌まわしい記憶はひどくのしかかる。それでも、諦めずに懸命に痛みと向き合おうとする人の姿というのは、無条件に美しい。たとえその足掻きというものが無駄に終わろうとも。きっと「生きる」ということは、そういうものなのかもしれない。イサベル・コイシェ原案、藤井清美著『あなたになら言える秘密のこと』(アーティストハウス)は、悩めるわたしたちにとって、ほのかな光を指し示してくれているような1冊である。

 物語は、ただ生きるために休みなく働き、日々を消化するだけの生活を繰り返す、ハンナを中心に進む。食べるのは、白米とチキンナゲットと、変色したリンゴ半分。彼女がどこの出身なのか、どんな過去を持ち合わせているのか、周囲の人間は何も知らない。一人きりの人生を生きる彼女は、なんらかの罪の意識を抱えながら、ただ生を消化するだけだ。そんな彼女が、あるとき1ヶ月の休暇を与えられて、見知らぬ海辺の街にたどり着く。そこで、かつて彼女が看護師をしていたことから、油田掘削所での事故で重傷患者となったジョセフの看護をすることになるのだった。もうすぐ閉鎖される掘削所には、様々な重い過去や心の傷を抱えた者がおり、ハンナは次第に心を開き始める。

 この物語は、拷問被害者の心の傷をテーマに描かれている。こんなふうに書くと、いかにも重たい内容のものだと思われるかもしれない。確かにテーマは重たく、ハンナの告白はひどく胸にせまりくるものがある。一生抱え続けるだろう痛みは、読み手の心までもじんじんと疼かせるくらいだ。けれど、物語の中では、ハンナ以外の登場人物たちにも、悩むことを許している。痛みの重さは違っても、誰しも何らかの過去を背負い、それでも生きてゆかねばならないこと。「生きる」とはどんなことなのか。その本当の意味を知らしめて、悩めるわたしたちを、もっともっと悩みながら生きてもいいのだと囁きかけるようでもあるのだ。もっと悩んで、そして生きるのだ、と。

 物語の中では、食べ物に関する描写が印象的である。はじめ、ハンナは毎日決まったものしか食べなかった。何のこだわりもなく、ただ生きるために胃の中に食べ物を押し込むような、そんな食べ方だったのだ。けれど、油田掘削所での食事をほおばるハンナは、生き生きとしている。心の変化と共に、少しずつ心の封印を解いてゆく様子が、食事の場面によって、見事に表現されているのである。そこにはやはり、「生きる」ということが、ただ生を繋ぐことではなくて、「生きよう」とする心情がよく表れているように思うのだ。もちろん、簡単に封印が解かれるわけではない。物語は、これからのさらなる困難を予期させながら、おしまいを迎えるのだ。そして、ハンナの変化は、きっと終わらない。

4862340601あなたになら言える秘密のこと
イサベル・コイシェ 藤井 清美
アーティストハウスパブリッシャーズ 2007-02-02

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2007.01.25

木曜日に生まれた子ども

20070125_020 逃れようもない波が押し寄せてくる。生まれついたもとの運命を睨みつけようとも、どうしようもないくらいの勢いを持って。そんなときには、何をしても上手くゆかない。何にすがっても救われない。もがき足掻いてみせたところで、なんの解決にもならないのだ。だから、待つ。じっと。膝を抱えながら、波が退いてゆくのを待つのだ。ソーニャ・ハートネット著、金原瑞人訳『木曜日に生まれた子ども』(河出書房新社)は、そんなわたしの歯車をほんの少しあたたかにしてくれた。時間がとろとろ流れ、やがて波が穏やかになるまで。ゆっくりと。ゆっくりと噛みしめるように読んだ。だからこそ響いた先にあったものは、やわらかにわたしを包む。包み込む。これまでのわたしを。これからのわたしを。

 物語の舞台となるのは、オーストラリアの開拓地。厳しい自然の中で暮らす貧しい家族の日々を、一人の少女の視点で丁寧に紡いでゆくのだ。次々と起こる災難や大恐慌。それらによって、散り散りになる家族たちを見守るように、不思議な才能を持つ弟ティンが存在する。ある出来事をきっかけにして、ひたすら穴を掘り続け、ひとりで地下に暮らすようになりながら。物語は、悲しいのになぜか力強い雰囲気を漂わせ、清々しいとすら思わせる。そのあたたかさと。そのやわらかな心地。それがとてつもなく愛おしいものとして、わたしの中にとくんと入っていったのだった。そして、逃れようもない波と共に生きる姿を通して、わたしに囁きかける。まだまだ。まだまだ、と。

 ティン。彼こそがタイトルの「木曜日に生まれた子ども」。その名の響きを聞くだけで思い出す。彼の存在を。彼のいる土の冷たさを。ティンは何も話さない。ティンは一緒にいない。それでも、ティンがいつでも寄り添うようにすぐ傍にいると感じるのだ。それは、血の為せるわざを超えている。もはや、ただの血の繋がりだけじゃない、何か。家族愛と一括りするには困難な、何か。そういうものを伝えてくるのだ。「ティンの不在」という明らかなる事実。それを覆うように、誰もがティンのことを覚えている。だからきっとティンも、誰かのことを感じている。思っている。それゆえに、苦悩する。それゆえに、胸に響くものがあるのだろう。そして、何より愛おしいのだろう。

 この想いは、語りが為せるものなのだろうか。それとも、ティンという人物そのものに、魔法のような力が備わっているのだろうか。いや、魔法でも何でもいい。その正体など、知りたくない。この物語のことを、いつまでもそっと覚えていられるのならそれでいい。逃れようもないくらいに、わたしは今この物語に浸りきっているのだから。もはや、上手くゆかない日常と、刻々と流れる時間と、報われない想いと一緒くたに、まるごと包まれた心地になっているから。いつかは来る、時間の流れ方が変化するときを待ちながら、ひたすらに逃れようもない波を感じるのだ。そうして、たどり着いた先に、わたしの欲しがったものたちが見えてくる。きっと、見えてくるはずだと信じていたいのだ。

4309204066木曜日に生まれた子ども
ソーニャ・ハートネット 金原 瑞人
河出書房新社 2004-02-17

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2007.01.23

銀のロバ

20070123_006 春の朝、靄がかかったような白い世界に兵士は一人いる。手探りで人目を避けて森までたどり着いたものの、その先の足がかりは何もない。そんな中、兵士は2人の幼い少女たちに出会うことになるのだ。目の見えない兵士は、大人でも子どもでもなく、その中間に位置した佇まいをしているように思える。そして、少女たちが放っておけないほどの身なりで、なおかつ、とてつもなく空腹だった。やがて、兵士の存在を固く秘密にすると誓い合って、少女たちは自分たちの新たな秘密に嬉々としながら、兵士の元を訪れるようになる。戦争がすぐそばで起こっていることなど感じさせないくらいに、平穏なその森で。これが、ソーニャ・ハートネット著、野沢佳織訳『銀のロバ』(主婦の友社)のはじまりである。

 兵士という存在は、少女たちにとって新鮮だった。学校の授業で聞くどんな話よりも、兵士は素敵な話をしてくれるから。その話は、イエス・キリストの生誕に纏わるエピソードや、モンスーンを待つ人々の滑稽な姿を描く話、第1次世界大戦中の実話にもとづいた話、の3つ。どれにもロバが、キーとなる話をすることから、ロバに対する並々ならぬ思い入れの深さを感じずにはいられない。少女たちの関心は、語ってくれる話だけでなく、兵士が持っている小さな銀のロバへも向けられるのだが、これについての謎は深まるばかりだ。思わずわたしは、美しすぎる話のほころびを見つけたくなってしまったものの、どこにもそれを見つけることができなかった気がしている。

 3つの話は教訓めいたものではあるが、どれもすっと受け入れられるようなものばかりである。ときには、涙を誘うような話もある。ときには、人間の惨い行為に震えたりもする。とりわけ、戦争での話というのは、リアリティを持って語られているから、どこまでも恐ろしい心地になってしまう。また、その話と兵士の心持ちとが、重なり合う瞬間を感じて、胸にひどく疼く痛みを覚えてしまう。この物語は、それほどまでに生々しく描かれているのである。兵士の話から伺えるのは、わたしたちが考えるべきこと、まさにそのもの。人としてどうあるべきか。どう生きるべきか。そんな問いをも含んでいるように感じられた。愚かしい自分自身。それから目を背けてはいけないのである。

 物語は、兵士と少女たちの戯れに終わらない。兵士はいつかここを去らねばならないのである。それを意味することが悲しいことなのか、喜ばしいことなのかは、当人の行方次第である。それゆえに、わからない。わからないゆえに、悲しみの方を呼んでしまう。語りすぎないことで、読み手に考えさせるのだろう。この物語においては、知っておけばいいものだけを既に与えられている。だから後は、それをわたしたちがどう活かすか、だけである。わからないところを考えて、考えることで見つけて道を開いてゆく。そして、その先にあるものまで、手を伸ばせばいい。そうすれば、すぐ近くまでたどり着けるはずなのだ。ときには、そんなふうに勇敢になってみるのもいい。

4072497975銀のロバ
ソーニャ ハートネット Sonya Hartnett 野沢 佳織
主婦の友社 2006-09

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2007.01.14

小鳥たちが見たもの