2008.05.09

ヨハネスブルクへの旅

20070421_004 学ぼうとしなければ知り得ないことが、この世界にはあふれている。もちろん、知りたくても知り得ないこともあふれている。知らなければならない、目を背けてはいけない事柄はたくさんあるのに、ちっぽけなわたしはその多くを知らないまま日々をのらりくらりと生きてしまっているような気がする。ビヴァリー・ナイヴァー作、もりうちすみこ訳、橋本礼奈画『ヨハネスブルクへの旅』(さ・え・ら書房)に描かれるアパルトヘイト体制下の南アフリカの暮らしもまた、そんな学ぼうとしなければ知り得ないことの一つだろう。時が流れてもなお、拭い去ることのできない世界史における悲劇の傷跡は、そこに暮らす人々の中に深く刻まれているに違いない。

 物語の舞台は、アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アフリカ共和国。重い病気にかかった赤ん坊の妹を助けるために、姉のナレディと弟のティロは三百キロも離れたヨハネスブルクへ、住み込みで働く母親を連れに行こうと決意する。それまで黒人居留地の中での生活しか知らずにいた二人は、旅の途中でさまざまな人と出会い、社会に満ちる矛盾や差別をはじめとする問題と直面してゆく。なぜ、両親と離れて暮らさなければならないのか。なぜ、パスを常に持ち歩かなければならない人々がいるのか。なぜ、黒人と白人で乗るバスが違うのか……など尽きることのない疑問。やがてナレディたちは、グレースと知り合い、“自由”を求めてデモを起こした子どもたちの悲劇を知るのである。

 訳者のあとがきには、読者である少女の言葉がこう記されている。“わたしたち子どもだって、この世界でおこっている本当のことを学びたい。どうしてそれを制限するのでしょう? わたしたちが早く知れば知るほど、わたしたちは知性的な強い人間になる。それが、この世界を平和にする方法なのに”と。人として当然のはずの営み、権利。それすらも奪われていた人々の声に耳を傾けること。アパルトヘイトに限らず過去の過ちを知ることで、わたしたちは何かを得ることができる。何かが変わり始める。それはささやかなものかもしれない。けれど、一人が知ることによって「知る」は広がり始めるのだ。そうしていつしか大きな「知る」となり、本当の平和というのがいつか訪れるかも知れない。

4378014777ヨハネスブルクへの旅
ビヴァリー・ナイドゥー もりうち すみこ 橋本 礼奈
さ・え・ら書房 2008-04

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2007.11.13

空から兵隊がふってきた

20071109_020 自分が選ばなかった、選ぼうとしなかった選択肢に、わたしはもっと目を向けるべきなのかもしれない。歳を重ねるほどに少なくなってゆく選択肢にまみれながら、ふとそんなことを思ったのは、今回、ベン・ライス著、清水由貴子訳『空から兵隊がふってきた』(アーティストハウス)を読んだからである。この短い物語の中には、いくつもの選択肢が浮上する。兵士たちを受け入れるか、受け入れないかにはじまって、さまざまな選択肢が。そして最終的には、生か死か、過去か未来かというようなものに結びついてゆく。物語は、そういう人間の本質に迫る問いかけを含みつつ、シュールに展開し、何とも不思議な読後感を残すのだった。

 男の子のような少女・ライダー。彼女は、母親と美しい姉と三人暮らしをしていた。ある日のこと、突然、大空からピンクのパラシュートで兵士たちが庭に降りてきた。それも15人。彼らは正体を隠したまま滞在することになり(何しろ機密事項!)、父親が出ていったばかりの女所帯の一家に違う色をもたらすことになるのだが、何やらどこかがおかしいことに、ライダーは早々と気づいてしまう。母親は、常識や魅力、規律、節操の整っている兵士たちとは正反対の、男性(父親)しか知らないからだと、ライダーを諭すのだが…。物語は、予期しなかった展開と結末へと向かってゆくのだった。大人のための、シュールでファンタジックなストーリーである。

 また、この物語。前作の『ポビーとディンガン』同様に、幻想的な部分と現実とが混ざり合った物語でもある。今までシュールさばかりを強調してしまったが、物語の語り口は、ちょっと生意気な、男の子っぽい女の子のライダーであるから、思わず読みながらふふっと笑ってしまう場面だってあるのだ。また、前作同様に、キュートな物語であると言ってもはずれていないと思う。そして、これまた前作同様に、この物語も映画化されているらしい。あのシュールさ(ネタバレになるので、詳しくは語れないのが残念だが)と可愛らしい部分とが、どんな映像になるのか、ぜひ観てみたいと思う。

 ≪ベン・ライスの本に関する過去のレビュー≫
  『ポビーとディンガン』(2005-10-22)

490114295X空から兵隊がふってきた
Ben Rice 清水 由貴子
アーティストハウスパブリッシャーズ 2002-12

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2007.10.24

ヘヴンアイズ

20070811_007 すべてはそう悪いものじゃない。きっと、この場所も。きっと、ここにいるわたしも。そして、今日という日も。たとえ、今目の前に広がる世界が明日には揺らごうとも。そんなことをふいに思い立ったのは、ディヴィッド・アーモンド著『ヘヴンアイズ』(河出書房新社)を読んだからである。孤児院を脱走して、筏で川を下る三人の子どもたちを描いた作品である。子どもたちは真っ黒な泥が広がるブラック・ミドゥンで座礁し、手に水かきのあるヘヴンアイズという女の子に出会う。女の子は、おかしな行動をとる老人と共に、崩れかけた倉庫や工場の並ぶ一画で暮らしていたのだった。子どもたちはそこで過ごし、いくつもの不思議な体験を通して、自分自身や他者を見つめてゆく。

 物語は、子どもたちの心に真摯寄り添いながら、彼らに何らかの気づきを与える展開になっている。もちろん、著者は決してきれい事を並べているわけではない。それは熱すぎず、冷たすぎず、心地よい刺激でわたしにも迫ってきたのだった。そして、すっとわたしの中に入ってきたかと思うと、もぞもぞっとうごめいて耳打ちしたのだ。「大丈夫。大丈夫」と。その、あたたかでやわらかな声に誘われるようにして、わたしの手は物語のページをめくり続けた。これまでのたくさんの悲しみも、たくさんの罪も、何もかもをひっくるめて、すべてを許されたような心地になりながら。そうして気づけば、ほろりとわたしは涙を流していたのだった。

 物語の中でも、語りを努めているエリンが、亡くなった母親と繰り返し対話している場面が印象的である。もうずいぶんと遠い記憶。それも、想像上にしかないかもしれない、淡くも切ない記憶である。そういう記憶をたびたび手繰り寄せることに対して、人は否定的な意見を持つかもしれない。或いは子どもっぽいだとか、感傷的だとか、愚かだとか言うだろうか。けれど、そうすることで救われる思いがあることに、そうすることで日々を繋げることに、この物語を読むと気づいてしまうのだ。そして自分自身にもそういう類の記憶が、いくつも存在していることに気づかされるのだった。明日を迎えるために。明日を生きるために。

4309203841ヘヴン・アイズ
デイヴィッド アーモンド 金原 瑞人
河出書房新社 2003-06-20

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2007.08.27

夢みるピーターの七つの冒険

20070825_037 ほろほろと甦る愛おしい記憶。あの時の光景、あの時の感覚、そしてあの時抱いた思い。哀しくて切なくて、それでいて甘酸っぱい。子どもでいることにも、大人になることにも怯えていた、ひどく憶病だった頃のこと。わたしは確かに、あの時成長の真っ只中にいたと思うのだった。ちょうど思春期を目前に控えて、とびきり夢中に日々を過ごして。イアン・マキューアン著、真野泰訳『夢みるピーターの七つの冒険』(中公文庫)は、子どもから大人へと成長を遂げる時期の少年を主人公にした物語である。夢見がちな少年の想像力は逞しく、かつて子どもだったわたしたちの記憶をありありと甦らせ、心地よく子ども時代に浸らせてくれる。

 この物語の主人公・ピーターの視点は、ひどくやわらかい。それを支えているのは、彼の豊かな空想力・想像力というものである。夢見がちな少年は、ことある事にその世界にどっぷりと浸り、なにげない日々をより楽しいものへと変える力を持っているのだった。妹の人形たちにいじめられてしまったり、飼っている長老猫と体を入れ替えたり、消えるクリームで家族を消してしまったり、泥棒をつかまえ損ねてしまったり、赤ん坊と入れ替わってしまったり、未来の自分になってみたり…。そして、世界が自分の夢にすぎないのだとしたら、世界で起こるすべてのことは、自分が引きおこしているのではないか…という壮大な想像までしてしまうのだ。

 その中でもとりわけ印象的なのは、ピーターが未来の自分になる最後の章である。ここでのピーターの視点は、大人の世界と子どもの世界両方にわたっており、その狭間で揺れる微妙な心の変化をつぶさに伝えてくれている。子どもから見た大人の姿というもの。大人から見た子どもの姿というもの。そのどちらにも属さないでいる、微妙な存在の自分自身をも。確かに。鮮明に。そして、大人の年齢になった今だからこそわかる、楽しさみたいなものをとびきり愛おしくも思わせてくれる展開なのだ。そうして、いつからか、いつのまにか大人になってしまった自分自身を大切にしたい気持ちが、不思議とすくっとわいてくるのを感じたのだった。

≪イアン・マキューアンの本に関する過去記事≫
 『アムステルダム』(2007-02-15)
 『セメント・ガーデン』(2007-07-02)

4122046017夢みるピーターの七つの冒険 (中公文庫)
Ian McEwan 真野 泰
中央公論新社 2005-10

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2007.08.23

ビロードのうさぎ

20070820_033 本物になること。それは、心から愛されることで叶う夢。子ども部屋のおもちゃたちは皆、男の子が自分を遊び相手に選んでくれる日を待ち望んでいるのだ。いつしか本物になるために。子ども部屋の住人の中で最もかしこいウマはいう、「ほんものというのはね、ながいあいだに 子どもの ほんとうの ともだちになった おもちゃが なるものなのだ。ただ あそぶだけではなく、こころから たいせつに だいじにおもわれた おもちゃは ほんとうのものになる。たとえ そのころには ふるくなって ボロボロになっていたとしてもね。おまえさんだって そうなるかも しれないよ。子どもべやには ときどき まほうが おこる ものなのだ」と。

 こんなふうにして始まる、ぬいぐるみのうさぎの物語は、1922年に初版が刊行されて以来、多くのこどもたちを魅了し続けてきた。マージェリィ・W・ビアンコ原作、酒井駒子絵・抄訳『ビロードのうさぎ』(ブロンズ新社)は、センチメンタルな古典名作を新たに甦らせ、ここにこうして佇んでいるのである。やわらかく滑らかな文章は、語りかけるように綴られており、読み手の心にすっと染み込んでくる。また、美しい絵は、物語にあらたな息吹をもたらし、ただただうっとりするほどに愛らしく、うさぎの存在感を際立たせている。そして、黒色によって引き締められた場面の一つ一つが、神秘的にもリアルにも見えるのが興味深いところである。

 描かれる「本物」になるまでの過程は、決して平坦なものではない。ときとして子どもは残酷であり、それに輪をかけたように大人はもっと残酷であるから。たかが、ぬいぐるみ。そんなふうに思って手放してきたいくつものおもちゃを思うとき、この物語はひどく胸を刺すものへと変わってゆく。大切に、大事にしなかった多くのもの。きっとそれは、ぬいぐるみに留まらないはずだ。書き損じた紙一枚にしたって、朽ちた鉛筆一本にしたって、一度読んだきりになっている本にしたって…同じことではないだろうか。わたしは、そういうありとあらゆるものの扱い方を省みて愕然とした。このままではいけない。絵本を片手に、危機感を募らせたのだった。

4893094084ビロードのうさぎ
マージェリィ W.ビアンコ 酒井 駒子
ブロンズ新社 2007-04

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2007.07.02

セメント・ガーデン

20070520_012 明けない夜がないように、醒めない夢はない。子どもの頃に憧れた楽園も、ある種の酔いが冷めてしまえば、何てことはないのと同じように。社会的コントロールが解かれた状況を描いた、イアン・マキューアン著、宮脇孝雄訳『セメント・ガーデン』(早川書房)は、両親が相次いで亡くなり、不意に自由を手に入れた子どもたちを描いている。ここでの子どもたちは、どこか感覚を麻痺している。時の流れ、生活というもの、他者との関わり合いなど、生きる上で重要なことを忘れてしまっている。なおかつ、罪の意識は全くと言っていいほどないのである。無法地帯と化した大きな家の中で、道徳的判断を停止したままの子どもたちは、それぞれに変化してゆく。

 荒れ果てた郊外の住宅地に一軒だけ建っている。地下と2階のある大きな家だ。周囲には取り壊された家々の跡が広がり、隣人はいない。その家で体の弱かった父親、続いて母親が亡くなり、残された4人の子どもは、施設に入れられたりばらばらにされたりするのが嫌なあまり、母親の死体をコンクリート詰めにして地下室に隠し、子どもだけで暮らし始めるのである。語り手の少年は自慰にふけり、妹は部屋に閉じこもって読書と日記に耽り、幼い弟は赤ちゃんがえりをし、長女は一人だけ先に大人になってゆく。自我も超自我も混沌とした未分化な状態の彼らが、あらぬ方向へと速度を上げて進んでしまう様子は、ページをめくる指を止めさせない。

 この物語。冒頭に述べたように、ある種の楽園から酔いが冷めるまでの様を描いている。ここで言うところの楽園は、罪の意識のないままの無邪気な幸福感を確認するためのものである。だが、その楽園の庭はいわば、セメント・ガーデンであり、一時の至福の後に花がしぼみ、水が涸れ、あっという間に朽ちていってしまうのである。秘密を守りきろうという強い思いもなく、それぞれがそれぞれに自由気儘な時間を過ごしたゆえの誤算なのか。それとも、罪は罪としていずれは明るみになってしまうものなのか。やはり、明けない夜がないように、醒めない夢はないのだろうか。子どもたちの行き先がどうなってしまうのか、実に気になるところである。

4152082674セメント・ガーデン (Hayakawa novels)
Ian McEwan 宮脇 孝雄
早川書房 2000-03

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2007.02.15

アムステルダム

20070212_4019 今、音を立てて何かが崩れ落ちようとしている。誰かの陰謀によって。或いは、自ら招いた誤算によって。どちらであろうとなかろうと、その結末はあまりにも脆い。おしまいの時が来てしまえば、死人に口なしというもの。どうしたって、取り戻しようがない。後悔すらできない。反省も弁解もできないのだ。誰がほくそ笑もうとも、もはや神のみぞ知るというべきか。死の淵に来てしまったのなら、崩れ落ちるままに身を任せて、その流れに漂うしかないのだろう。一人の女性の遺したものに翻弄される男たちを描いた、イアン・マキューアン著、小山太一訳『アムステルダム』(新潮文庫)は、そんなことを思わせる物語である。あっという間に呑み込まれるその渦に、流されるままに読んだ1冊だ。

 充分に老いることなく、痴呆によりモリーという女性が亡くなったところから、物語は始まる。彼女の葬儀に集ったのは、その数々の愛人たち。中には、英国を代表する作曲家や大新聞社の編集長、外務大臣らの顔があった。とりわけ、作曲家のクライヴと新聞編集長のヴァーノンは、モリーとの付き合いも長く、古くからの親友でもあるという複雑ながら、深い間柄にあった。やがて、モリーの遺したスキャンダラスな写真をめぐって、ふたりの仲はあらぬ方向へと発展し、過酷な運命に翻弄されることになってしまう。人の善悪やモラルというもの。友情というもの。人は誰しも100%の正しさを持ち得ていないことなど、様々な問いを感じさせる展開である。

 クライヴとヴァーノン。作曲家と新聞社の編集長。友にはとことん尽くすクライヴと、どこかで一線を引く付き合い方をするヴァーノン。相対するようで、ふたりはとてもよく互いのことを知っている。どこか似ているからこそ通ずるものがあり、異なるからこそ相手をよく見つめることができるとでも言おうか。だから、信じる友の言葉は重く響き、ときとしてその運命を大きく左右することがあったのだろう。もしもそれが、たった一人でもいて欲しい見方であるのなら、なおさらのことである。ある意味ふたりにとっての最も怖い相手というのは、クライヴであり、ヴァーノンであったとも言えるかも知れない。見方でいて欲しい相手は、敵にしたくない相手でもあるのだ。

 この物語核となる、人の善悪やモラル。それらは、友情を壊すには容易かった。けれど、わたしはどこかでまだ、信じていたい気持ちを抱いている。物語のように運命に翻弄されてしまうには、あまりにも切な過ぎるゆえに。あまりにも滑稽ゆえに。物語として楽しめたそれらは、実際問題としたら痛烈過ぎるゆえに。音を立てて崩れ落ちようとしているもの。その値打ちを思うがために、わたしは信じたいのだ。無駄な抵抗と言われようとも、形ないものを信じる無かれと言われようとも、一方的な思いで終わりを迎えようとも。そんな報われない気持ちを、人であるからこそ抱き続けていたい。そうして、死の淵まで一緒に抱えていくのである。無くさずにずっと。

4102157212アムステルダム
イアン・マキューアン
新潮社 2005-07

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2006.10.25

いたずらハリー きかんぼのちいちゃいいもうと その3

20050527_44198 自分がいい。自分でよかった。だれかを羨むのではなく、そんなふうに思えることは、とても容易いようでひどく困難だ。羨む。すなわち、“恨む”という感情も含まれたこの言葉は、わたしが最近一番避けたい言葉の1つでもある。ドロシー・エドワーズさく、渡辺茂男やく、酒井駒子え、による『いたずらハリー きかんぼのちいちゃいいもうと その3』(福音館書店)では、まだ幼い少女よって、そんなことを気づかされる。ずっと追いかけてきた全3巻のシリーズも、これでおしまい。とてつもなくきかぼのちいちゃいいもうとに、もう振り回されずになるのかと思うと、少し寂しさを覚える。だからわたしは、彼女がきっと、素敵なレディに成長することを願って、大事に読んだ。1つ1つのエピソードを。

 いたずらハリー。彼は、ちいちゃいいもうとの親友である。前作『おとまり』にも、ちらっと登場したのだけれども、彼女に負けず劣らずの、きかんぼ少年である。しかも、彼女とはなかなかよいパートナーシップを発揮して、思わずふふふっと笑みがこぼれてしまった。自分の誕生日パーティーだというのに、ちいちゃいいもうと一緒に、悪巧みを計画するし、そうかと思えば、さまざまな遊びを思いついては、意固地なまでに自分を主張する。けれど、それは、彼なりの理論上ではきちんと成立していて、憎めないのである。ちいちゃいいもうとに関しても、それはいえることなのだけれども。子供はこれくらいじゃなきゃ…なんて思うまでに至ってしまう、読み手であるわたし。このきかんぼぶりが好きなのだ。

 この作品の中で印象的だったのは、小さな子供の想像力の果てしなさ。もう、大人の年齢になってしまった者としては、頭が下がるくらいのものである。さまざまな状況下において、なんでも遊びに変換してしまうことなど、わたしにはもうできない。いや、むしろ、子供の頃から、そういうことに関しては苦手な方だった気がするのだ。だから、写実的な絵は描けても、想像で何かを描くことなどちっともできなかったし、率先して遊びの輪の中に入ることもできなかった。わたしはたった1人ぽつんと取り残されて、みんなを眺めては先生と話して過ごすような、内気な想像力に乏しい子供時代を過ごしてばかりいたのだ。そう、つまりは遊ぶすべを知らなかったのだろう。

 それでも、わたしはわたしらしく日々を過ごし、歳を重ねてきた気がしている。わたしは他でもない、わたしであるからこそ、生きているのだから。きかんぼのちいちゃいいもうとだって、そのことを無意識ながら知っているはずなのだ。それは、この作品の結末が語っている。そして、そのきかんぼぶりに振り回される周囲の人々だって、そう思っているに違いないのだ。だって、あんなにも愛おしく接することができるのだから。叱りながらも心配して、抱きしめて、いい子じゃないところまで愛してくれる。語り手の姉の口調にも、その愛しさは満ち溢れている。たった1人きりの、きかんぼのちいちゃいいもうとに他ならず、きっとわたしたちも皆、たった1人の誰かにとっての存在なのだと思いたい。

 ≪このシリーズに関する過去記事≫
  『ぐらぐらの歯 きかんぼのちいちゃいいもうと その1』(2006-03-26)
  『おとまり きかんぼのちいちゃいいもうと その2』(2006-06-14)

いたずらハリー きかんぼのちいさいいもうと その3 おとまり―きかんぼのちいちゃいいもうと〈その2〉 ぐらぐらの歯―きかんぼのちいちゃいいもうと〈その1〉

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2006.07.07

不思議の国のアリス

20050227_012 イノセンスとナンセンス。その狭間にあるのが童話ではないのか。或いは、そのどちらをも満たすのが、童話ではないのか。わたしはずっと、そんなふうに思っていた。ルイス・キャロル著、高橋康也・迪訳による『不思議の国のアリス』(河出文庫)を読むまでは…。挿絵も本文においても、オリジナルに近いカタチを優先している、このキャロル研究の第一人者によるアリスの物語には、イノセンスもナンセンスもこえて、すべてがノンセンスの雰囲気を漂わせている。謎々遊びと言葉遊び。そして、意味をなさない無意味な言葉たちに満ちる物語。丁寧すぎるほどの注釈を頼りに物語を少しずつたどれば、わたしが物語に騙され、煙に巻かれていたことをはらりと知るのだ。嗚呼、それのなんと素敵なことか。

 物語は、お姉さんの読んでいる絵も会話もない本への無関心から、ふいに先を急ぐ上着を着たウサギの姿を目にしたアリスが、その奇妙な光景に惹かれるところから始まる。ウサギの後を追い、その穴に落ち、どこまでも深く遠い世界へとたどりつき、奇妙でおかしな不思議の国でのアリスの物語が次々と展開されてゆく。そこでまず驚かされるのは、分離のモチーフである。物語の中で幾度も登場するそれは、自己というものの在り方を問うような、少しばかりムツカシイ解釈を誘う。アリスは、周知のごとく、大きくなったり小さくなったり、首ばかりが伸びたり、と。変化する自己に戸惑い嘆きながらも、それをコントロールするすべを身につけ、安堵さえ見出すのである。これは分離の習得か。はて。

 また、チェシャー猫の登場する場面からは、分離モチーフは言葉にまでも至り、言葉と実体、全体と部分、実体と属性をも分離させるのである。そう、つまりはすべてがノンセンスになるわけだ。奇妙な登場人物の中で、姿が消えつつもニヤニヤ笑いだけが残るチェシャー猫。その存在そのものが、この分離というものを象徴するかのようでもある。常識(コモンセンス)をこえたそれは、ファンタジーや童話にはつきものだけれど、読めば読むほどに味わい深くなる物語としての、この『不思議の国のアリス』には、ただただ頭を垂れるばかりだ。言葉の多義性と、言葉の重さと、言葉の組み立ての面白さ。物語は、それをもっとフルに使って“愉しめ”と云わんばかりではないか。

 このノンセンスな物語に、わたしはもうひとつ魅力を感じた部分がある。それは、なによりも“もどかしさ”である。言語を同じにしつつも、伝わらない。伝えられない。そのコミュニケーションに対する“もどかしさ”に、である。まだ幼いアリスには、自分の言葉の中に含まれた棘を知らない。不思議の国に迷い込んだアリスは、これまでの知識と経験とを使って、会話を成立させようと努めるものの、不条理な場所では言葉ほど役に立たないものはないのかも知れない。そして、そこが不思議の国であろうとなかろうと、わたしたちの日常においてもそれが起こり得ること。わたしはそれを思って、もどかしくてたまらなくなったのだった。幼いアリス。その存在はきっと、大人にも通ずるのであろう。

4309460550不思議の国のアリス
高橋 康也 高橋 迪 ルイス キャロル
河出書房新社 1988-10

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2006.07.02

地下の国のアリス

20050721_44134 わたしにとってのアリス。それはもう、ジョン・テニエルの挿絵のアリスだけだった。ひと目見て惚れた小学生の頃のわたしは、アリスのグッズを少しずつ集め始めた。小さな田舎町にたった一軒だけある、こぢんまりしたファンシーショップ。そこに並べられたアリスグッズに満足できなかったわたしは、当時原宿の地下にあった、隠れ家的なアリスショップにまで出かけたほどのアリス狂いだった。夢見がちな田舎娘にとっては、まさにそこはアリスの聖地のようでもあった。都会の人並みの中のオアシスみたいに。海外留学中だった従姉にも、おみやげにジョン・テニエルのアリスグッズをもらうという、アリスに恵まれたわたしだった。そして、読もう読もうと思いつつ、後回しにしてきたアリスの原型の物語にやっと手が届いたのだった。

 “アリス狂いのくせに、読むのが遅くないか…”とつっこまれたなら、それまでだ。何しろ、アリスに夢中だったのは、小学生の頃の話なのだ。今となっては、小さな頃に一度は憧れて、恋い焦がれるアイドルみたいな存在が“アリス”だと云った方がしっくりくる気がする。バービーでも、リカちゃんでも、シルバニアファミリーでもなく、アリスだったのだ、と。かの、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の原型となったのが、この『地下の国のアリス』(新書館)である。大学の同僚たちと共に、学寮長の3人の姉妹たちにせがまれて、ボートに乗りながら聞かせていたお話。それが、まさにこの物語なのである。そして、ルイス・キャロルはその後、一番のお気に入りだったアリスへのクリスマスプレゼントとして、世界にたったひとつしかない手書きの挿絵入りの絵本を贈ることになるのだ。

 その世界にたったひとつだけの絵本は、さまざまな謎を秘めていた。あらすじとしたら、有名な『不思議の国のアリス』と、それほど変わるところはないものの、よりシンプルなカタチであると云うべきだろう。童話らしい童話。そう云うべきところのグロテスクさも持ち合わせつつ、出版した作品と手書きの作品との違いに纏わる謎。アリスが地下へと続く穴の奥へ向かうところから、忙しないウサギを追いながらも見失って、自分をも見失うさま。それは、大人となって初めてアリスを読む者にとっても、ぐいぐいとその世界に引き込まれること間違いなしの展開だ。残念ながら、ジョン・テニエルの描くアリスにはほんの少ししかふれられていないものの、この『地下の国のアリス』に隠された謎を知れば知るほど、アリスに対しての興味がわくだろうと思う。きっと。必ず。

 わたしが思うに、この『地下の国のアリス』は、アリス好き向け。物語そのものよりも、ルイス・キャロルがどうやって『不思議の国のアリス』にまで至ったのか、という部分に出版社側の力が入っているのでは…と感じるゆえ。この作品を今こそ世に出そうと考えた人々の、アリスへの思い入れの深さ。ルイス・キャロルという人への熱き思い。それらを思わずにはいられないのだ。また、読者が何よりも嬉しいのは、ルイス・キャロルがアリスのモデルとなった、本物のいとしいアリスへと本を贈ったときの気持ちをほんのりと知れる、なんとも心憎いしかけがひとつ、あるからだ。嗚呼、この作品、大人になってもアリスに心惹かれる人にはたまらない1冊に違いない。愛ですよ、愛。物語に、この手の中にある1冊にも、それを思うのだから。

4403030335地下の国のアリス
ルイス キャロル Lewis Carroll 安井 泉
新書館 2005-02

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2006.06.14

おとまり きかんぼのちいちゃいいもうと その2

20060531_44021 “きかんぼ”であること。わたしはそれについて、歳を重ねるほどに失いゆくものであると思っていた。期間限定の、甘い言葉で囁いて誘ってくるお菓子みたいなものであると。けれど、ドロシー・エドワーズ著、渡辺茂男訳、酒井駒子画による『おとまり きかんぼのちいちゃいいもうと その2』(福音館書店)を読んで、この“きかんぼ”が歳を経てもなお、続くものであることを知った。やわらかに日々を過ごしつつも、ゆずれないものが1つでもあること。それはまさに“きかんぼ”の証拠だ。さまざまなものに揺られて、流されて。そういう生き方もよい。それでも1つきりくらいは、ゆずれないものを持ち得たい気がした。イギリス幼年童話の傑作シリーズは、これで2冊目。あと1冊でおしまいなのが、心なしか寂しい。

 シリーズ1冊目同様に、姉がいとおしい妹について語る形式。それがなんとも美しい姉妹愛で、語り手である姉をはじめとし、周囲の大人たちも含め皆、“きかんぼ”な妹が可愛くて可愛くてたまらない様子。2冊目のはじまりは、その“きかんぼ”ぶりが生まれた頃からであることを知ることができる。ここまで語られてしまったら、もうある種の才能というものかも知れぬほどの存在感。こんなにもあたたかで、やわらかに満ちた日常があるのならば、まだまだこの世界に生きる価値はあるに違いない。そんなふうに日々に疲れた大人の心を和ませる物語の数々である。対象年齢は5歳から。ちいちゃな女の子に読み聞かせてみたら、きっと素敵なレディになれるのでしょう…きっと。

 ここからは、冒頭で触れた“きかんぼ”の大人たちについて語ってゆこう。「『かがり火の夜』のプディング」に登場するおばあさんは、かがり火も花火も嫌いだというこだわりを見せ、ちいちゃいいもうとと一緒に、大イベントを無視してプディングを作る。それがもう、特別に愉快な時間で、いい雰囲気である。そして、「たいそうお年よりのたんじょう日」には、もっと“きかんぼ”な大人と云える存在の大おばあさんが登場。100歳を迎えるお祝いに、それぞれプレゼントを持ってかけつける話なのだが、この大おばあさんが素敵なのだ。少女のままの部分を残して、小さく小さく歳を重ねてきた日々を感じさせる佇まいで。やはり、このちいちゃいいもうと“きかんぼ”ぶりは血筋なのかもしれない。

 それから表題作である「おとまり」についても触れておかなくては…。遠くに住む名付け親のおばさんのもとへおとまりに行く姉を、羨ましく思ういもうと。けれど、ここでも“きかんぼ”ぶりがすごいのだ。いつもと違う絵がかかっている部屋で、いつもと違うベッドで、いつもと違うごちそうに、うちにはないピアノ。でも、それを求めて遠くまで行くのはイヤだと云うのだ。そこで周囲が思いつく、“きかんぼ”のためのおとまりメニュー。なんともあったかく、とてつもなくやわらかな眼差しを持つ人たちによる、本当に視野の広い案。このおとまりメニュー。かなり、実用性があるのではなかろうか。そういえば、3冊目にたくさん登場すると予想される、いもうとの友だちであるハリーがちらりと出てくる。ふふ。3冊目を楽しみに待とう。

4834022005おとまり―きかんぼのちいちゃいいもうと〈その2〉 (世界傑作童話シリーズ)
ドロシー・エドワーズ
福音館書店 2006-04-13

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2006.05.10

ねこのせんちょう

20050807_44123 どっかりした猫というのが、わたしは好きだ。歳を重ねたぶんだけしぶとくなって、たるんだ腹を揺らしてのそのそと歩く。人を格下と見なしているかのような目をして、プイと横を向く。神経質なくらいに触った先から毛繕いをして、ちょっと曲がった尾を不機嫌そうに動かしていたら、わたしはため息すらもらすだろう。マドレーヌ・フロイド作、木坂涼訳『ねこのせんちょう』(セーラー出版)は、わたしの好きなそういう猫が主役である。濃淡のコントラストが絶妙で、太い線と細い線との使い分けがいとおしくなる水彩画の猫。そのいとおしさはきっと、猫への愛としなやかなまなざしとを作者が持っているからに違いない。ここに描かれた猫は、わたしの好きな猫。あなたの好きな猫である。

 猫の“せんちょう”は、川の近くにある家で暮らしている。眠ること、食べること。それから、毛繕いを念入りにすることが好きな猫。せんちょうは、さまざまな場所で眠る。人間のベッド。本やノートの上。階段のてっぺん。物置小屋の上。青いお皿に入れられたツナやかりかりビスケットに満足せずに、人間の夕飯の残りをもらうこともある。毛繕いは、耳の後ろ。手足。背中。しっぽの先までも、くまなく。せんちょうの優雅なしぐさを切り取った絵は、猫好きにはたまらない。そして物語は、せんちょうのその他の好きなことをロマンチックに描いてゆく。せんちょう、あなたは猫の中の猫。そう言いたくなる、わたし。でも、一番はうちのGだと思っている猫バカである。

 猫派にしても犬派にしても、無条件に愛らしい時期というのがある。それは、動物だけでなく人間にも言えることだろう。小さいもの。頼りないもの。純真無垢なもの。子猫だとか子犬だとか、赤ん坊だとか。わたしたちはたいてい、そういうものを可愛らしいとか、抱きしめたいとか、いとおしいと思う。わたしがいくら、どっかりしたふてぶてしい猫が好きだと言っても、子猫が目の前にいたならば、そちらをカワイイカワイイと声のトーンを少し上げて繰り返し唱え始めるのだ。だからわたしは、子猫と猫は別の生き物だと認識しているところがある。人間でいうところの、お父さん側から見たところの、妻と娘みたいなものだと位置づけてみたりして。

 話を戻そう。猫の話である。“せんちょう”のどっかりは、わたしの傍にいる愛猫たちにも言えることだ。10歳を越えた猫たちは、去勢手術や避妊手術をしたとて、貫禄というものが出てくる。昼間の目つきは鋭いし、存在を主張するように耳に触る声で鳴く。猫特有の身体能力にも翳りが見え、人間の中年太りよろしく立派な腹になってくる。確かに歳を重ねて、経験を積んで。そうやって人よりも速く駆け抜けてしまう一生を思うと、傍にいるぬくい生き物がいとおしくてたまらなくなるのだ。そして、そうっと撫でるわたしの手にごろごろ喉を鳴らしつつも、忙しなく毛繕いを始めたとて、わたしの気持ちは続いてゆくのだ。それが一方通行の思いだとしても。

4883301575ねこのせんちょう
Madeleine Floyd 木坂 涼
セーラー出版 2006-04

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