22 河野多恵子の本

2007.01.21

赤い脣 黒い髪

20070106_44028 執着というもの。その心を捕らえる響きに、思わずうっとりとする。それは、姿を変えては、しばしば日常の中に蠢く。ふとめぐらせる幻想の中に。わき出る欲望や願望というものの中に。秘めておきたいフェティシズム的な視点の中に。ここにある日常と異常なまでの感覚。その狭間で揺れる想いを軸にして、河野多恵子著『赤い脣 黒い髪』(新潮文庫)は描かれてゆく。その妖しいまでの美しきものに、はっと胸を何かがかすめてゆく。危うい何かが。秘め事のように、そっと。ひそやかに。それでいて強い主張を持って。収録されている7つの短編の中でも、とりわけ表題作「赤い脣」や「片冷え」の視点は、揺らぐ想いが鮮明で、なおかつ淡く脆く、なんとも言えない心地が残るのだった。

 表題作「赤い脣」。紅葉狩りに出かけた先での出来事が、細やかに描かれた作品である。主人公の女性は、見事なまでの紅葉の赤にはしゃいだふりをする。その紅葉以上に美しく思えた、孫娘の唇の赤に戸惑いながら。その色に魅せられる感覚というものは、ひどく危険を孕んでいる。どうかすると、その赤を奪うがごとくの。そんな危険を。惹かれる気持ち次第でその状況は移り変わるだろうが、物語は決して余計なことを語らせない。それゆえに、読み手側をぐらぐらと揺する。危うい方へ、危うい方へと。そして、その赤を見た心地にさせる。魅せられた心地にもさせる。そして、この偏愛というものを正しいと思わせる。無防備な赤ほど、愛らしく魅せられるものはないとすら。

 続いては「片冷え」。右手の妙な刺激を感じ取ったところから、物語は始まる。その刺激はやがて、冷たさへと変わり、右半身にまで至ってしまう。不自由なことは何もない。ただ、右半身だけが冷たいのだ。その異常を、主人公の女性は外国にいる恋人にゆだね、夢見心地になるのである。これは、恋人への執着が為せるわざなのか。その不思議な世界に浸ってゆけばゆくほどに、女性の心持ちがわたしを覆うように迫り来る。その冷たさというものが、幸福の証のようにすら思えてくるほどに。その大いなる幻想は、幻想を超えていつのまにか現実のものとして認知される。これが、愛なのか。それとも執着に過ぎないのか、その微妙な一線を危ういながら均衡を持って、物語は展開する。

 他にも、愛と執着との狭間で揺れる物語は多数ある。描かれ方は違うものの、ある言葉への執着だったり、ある願望への執着だったり、生への執着だったり…。いずれも、深いこだわりに他ならない。そこに蠢く感情は、いずれも日常に根ざしていながら、非日常を呼び起こさせる。或いは、幻想を。或いは孤独を。そもそも執着というものは、共有するものではないのだろう。秘めているからこその悦楽。一人きりならではの、娯楽なのかもしれない。大人だけに許された、ある種のエロティシズム。そんなふうに考えながら読むと、抑制の効いた文章がさらに深いものへと変わるだろうか。それとも、年月を重ねてみないことには深まらないものだろうか。さてはて。

4101161038赤い唇・黒い髪
河野 多恵子
新潮社 2001-09

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2006.01.22

半所有者

20050815_166 ひどく美しい本である。その佇まいは読み手を選び、安易に近づくことをよしとしない。手にとってめくって感じて、その美しさに触れるべき。そういう類の作品である、河野多恵子著『半所有者』(新潮社)。妻の遺体を前に繰り広げられる、夫の妻への最後の執着。愛情と云うには、あまりに歪んでいる。悲しみと云うには、あまりに憎しみが感じられる。憎しみと云うには、あまりに愛が溢れている。ある意味、窮極の。ある意味、ただの身勝手な。そんな浅くも深い部分に根ざしたある男の思いが、文章に満ちている。その思いを受け入れるか受け入れないか、認めるか認めないか、読み手によって違うのだろう。

 この世から死にゆくことで、地上に遺される身体。体温を奪われた空虚にも似たもの。焼かれるのを待つ、或いは葬り去られるのを待つ亡骸。持ち主をなくしたそれは、一体誰の者になるのか。物語のテーマは、そんな問いを読み手に問う。夫は妻の遺体を自分のものにしてしまいたい。だから六法全書をひらく。1つ1つの項目を辿り、自分の求める答えを見つけようとする。けれどない。明確にそれを記す法律は存在しないのだ。配偶者である自分が、妻の死亡届や火葬を知らぬことは充分にあり得ることなのだと知る。その落胆。その曖昧。それが彼の心を掻き立てたのか、ただの衝動であったのか、亡骸となった妻を抱く。声なき声は、聞こえることなしに。

 私たちの持つ身体。すなわち自分自身の、あなた自身のその身体のことである。それが自分のものでなくなる瞬間というものについて、しばし思いを巡らせた。例えばその腕が切り離されたとする。事故によってかもしれないし、病巣のためにやむを得ずかもしれない。抑えきれない衝動によって、という場合も考えられる。そんなとき、切り離されたそれはもはや自分自身のものではないのではないか、と。それが腕じゃなく、指の先だったらどうなのか。或いは、伸びたから切っただけの爪だったら。シャンプーのたびに抜け落ちる髪だったら。そこまで考えると、どこまでが自分の持ち物なのか曖昧になるのは、私だけではないはずだ。そして混乱を感じるのも。

 この物語を、そんなふうに解釈するのはきっと間違っている。美しいと感じたものは、美しいままにしておくべきなのかもしれない。愛ゆえの行為だと、一言で片付けてしまえばいい。亡骸と化した妻だって、それを否定したりはしないだろうと。けれど、妻はもういないのだ。夫の前にいるのは、冷たくなった抜け殻だ。意思もない。感情もない。答える声もない。何も返してこない、無機質とも思えるくらい無力なものだ。ある瞬間をもって変わり果てたその姿を、私は“男の妻”だとは言い切れない。生と死はあまりにも異なるものだから。あまりにもかけ離れているものだから。男の意のままになんて、させてはならないのだ。それは私が女であるからかもしれないが。

4103078073半所有者
河野 多恵子
新潮社 2001-11

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2005.04.08

幼児狩り・蟹

20050407_010guto 久しぶりに再読した河野多恵子著『幼児狩り・蟹』(新潮文庫・廃盤)。男の子に異常な関心を示す子供のない女性の内面を掘り下げた表題作「幼児狩り」、外房海岸を背景に小学1年生の甥と蟹を求めて波打ち際で戯れる中年女性の屈折した心理を描く直木賞受賞作である「蟹」など、日常の欺瞞性を剥ぎ取り、歪みの中に人間性の正確な把握を試みた短編6編を収録している。

 河野多恵子の小説のモチーフとなっているのは、幼児誘拐にもよく似た危険さを秘めた男の子への執着である。1961年に発表された「幼児狩り」以降、このテーマによる小説がいくつか描かれているのだが、それは母性本能とはかけ離れたものであった。子供のいない中年女性が、他人の幼い男の子にただならぬ関心を抱く。それは、我が子を持ちたいとか単純に可愛いとかいうものではなく、加虐的な欲情の対象として少年たちを密かにうかがうものである。その不気味さや異常さは、エロティックでありながらなぜか不思議と乱れがない。だから、すっと物語の世界へ引き込まれてしまう。

 特に、女性の心理は興味深い。どこか孤独さを秘めていたり、迷いや戸惑いを秘めていたりする。ちょっとした悪戯心だとか。それは、とても人間的で好ましい。冷静に考えてみれば、危険で勝手で欲求のかたまりでしかないとも言えるのであるが…。そういえば、誰しも何らかの欲求を秘めながら生きているのだったっけと思い出させるのだった。

 危険さや異常さを含みながら、どうしてこんなにもさらりと読めてしまうのか…と考えてみると、やはり作者の書き方によるのではないかと思った。丁寧に細部にわたって描きながらも、グロテスクではないと読み手に感じさせる書き方。感情的になったり、文体が乱れたりすることなく描かれているためなのだろうか。歩調が乱れないので、心地よくすら感じてしまう。こういう歪みの中に人間性を感じる物語は、なかなか好みの作風である。

4101161011幼児狩り,蟹 (新潮文庫 こ 9-1)
河野 多惠子
新潮社 1973-04

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