69 アート・絵本

2012.05.30

かみさまはいる いない?

20120528_4016jpg_effected 神様はいるのか、いないのか。その問いの答えを説明するのはとても難しい。その問いの答えは容易には見つからないし、答えはひとつではないからだ。ひとりひとり答えが違っていてもいいし、答えが見つからなくても、無限にあってもいい。そもそも、この問いには答えなどないのかもしれない。自分が信じたもの、考えたもの、それが答えになるのだろう。けれど、谷川俊太郎・文、清川あさみ・絵『かみさまはいる いない?』(クレヨンハウス)は、敢えてその問いについて今考えてみよう、という強い意志を読み手に伝えてくる。さまざまな考えを持つ人々がいる世界で、自分自身を、その生き方を、その考え方を、改めて見つめなおそうと思わせてくれる。平易だけれど強く響く哲学的な言葉と、幻想的な刺繍などによる絵の見事なコラボレーションの1冊である。

 神様はいるのか、いないのか。もしかするとその問いの答えは、自分自身の生き方や考え方がそのまま反映されるものなのかもしれない。すんなり答えられる人はぶれない自分を持つ人なのかもしれないし、答えに迷いがある人は確固たる自分自身がまだ確立できていない人なのかもしれない。もちろん、答えはひとつではないし、いろんな考え方があってもいい。神様の存在を信じる人、信じない人、たくさんの神様がいると思っている人、信じられるのは自分だけだという人もいるかもしれない。でも、この世界の成り立ちを思うとき、確かに創造主はいたのかもしれないと、どこかで思う人もいるかもしれない。わたしたちを試すような出来事が起こるたびに、自分以外の誰かにその責任をぶつけてみたくもなる人もいるだろう。きっと、いろいろでいいのだろう。

 この『かみさまはいる いない?』には、複雑な感情を抱かせる最後の一文があって、わたしはそこの部分が気になって仕方ない。読む人それぞれがその一文をどう読むかで、この本に対する感情は違ってくるのかもしれないし、日本の今の状況、世界のあり方について、それらをどう捉えているか、その考え方によっても、感じ方が違ってくる一文である気がする。著者が投げかける一文、その問題提起に、わたしはわたし自身の迷いを感じてしまった。今置かれている現状を信じたくない自分を、どこか楽観的に物事を考えている自分を、そこに見てしまった。どうにかなる、なんとかなる、どうにでもなる……そうやって何かをおざなりにしてきた自分自身を見つけてしまった。

 本当は今こそ、もっと考えるべきなのだ。もっと真剣になるべきなのだ。今を、未来を、見つめるべきなのだ。そんなことを思った。神様がいても、神様がいなくても、神様を信じていても、信じていなくても、もはやそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。今、この時に、わたしたちが、今について、未来について、考えることが大事なのだと、この本が訴えかけているようにも感じられる。この本をきっかけに、いろいろな問いについて、考える時間を、思案に暮れる時間を、ただただ考える時間を、立ち止まってたとえ僅かでも、ほんの少しでも持つことが大事なのかもしれないと思わせるのだ。この本を前にすると、わたしたちは大人でも子どもでもないのだ。わたしたちは一人の人間として、考える必要性を感じるのだ。ただ考える。今この時に、ただただ考える。それでいい。それだけでいい。そんな時があっていい。そんなふうにも思うのだ。

かみさまはいる いない? (谷川俊太郎さんのあかちゃんから絵本)
谷川俊太郎/文 清川あさみ/絵
4861012201

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2012.03.06

王国のない王女のおはなし

20110721_4009jpg_effected 上質なおとぎ話を読んだような、やわらかく甘い気持ちの読後感を味わった、アーシュラ・ジョーンズ文、サラ・ギブ絵、石井睦美訳による『王国のない王女のおはなし』(BL出版)。王国のない王女、という設定だけでも驚きの型破りのお話だけれど、彼女の持ち物はプリティという名前の子馬と、その子馬が引く荷台だけ、という点も型破り。ポストに入らないようなやっかいな荷物を運んで、少しばかりのお金を稼いで、どこかにあるはずの自分の王国をさがして旅している王女のお話である。周囲も王国がなくても礼儀正しい彼女を“プリンセス”として認めてはいるのだが、決して最高のもてなしをするのではなく、必ず二番目に上等なもので歓迎する。ちょっと見下された王女のお話なのである。

 この王女プリンセスは、自分の欲しい物を手に入れるために、積極的に行動しているところがとても共感が持てる。他力本願の夢物語とは違うのである。働いて、頭を使って、自分の願いを叶えようと努力を惜しまない。現代を生きるプリンセスのお手本のような、そして、それはプリンセスではないわたしたちにも通ずる何かを思わせてくれる。たとえ、どれほどまでに見下され、失礼に扱われようとも、自分の目標や夢を見失わずにまっすぐ前を見つめている姿は、真のプリンセスと言うべきかもしれない。物語の展開は思わぬところに行き着くけれど、ありきたりではない結末がなんとも幸福そうなところは、やはり安心のハッピーエンドで、ほっと安堵する。

 繊細で美しいサラ・ギブの絵は色鮮やかなページと、シルエットのみで描く影絵のようなページとで書き分けられている。とりわけ、シルエットのみの絵での効果的なピンク色や赤色の使い方が素晴らしく美しく、むしろシルエットだけのほうがより人物の内面を描き出しているようでもあり、そっと物語に寄り添う。甘い色使いなので、女性好みの絵本なのだが、決して甘すぎるということはない。物語自体が古典的なシンデレラストーリーとは違っている点もとてもよいのだが、訳文の丁寧な言葉遣いも、どこか品があってとても心地よいのが印象的である。王女プリンセスの気品と穏やかさが絵本全体から漂ってくるようでもあり、読んでいてとても幸福な気持ちに浸れる。

 物質的な豊かさを求めがちな現代社会や、裕福さを強調するかつてのシンデレラストーリーとは一味もふた味も違う結末が、とてもいい。人と運命的に出会うこと、そして心が豊かであること、それらの尊さを諭してくれるような、そんな一冊なのだ。既存の価値観にとらわれない、新しいプリンセスのかたちがここには描かれている。可愛らしい表紙に誘われるようにして手に取った絵本だったのだが、思わぬところで本当の意味での幸福を教えられたような気もした。ここかしこ、いたるところに、わたしたちの幸福はあるのだということ。そして、それは思わぬところに転がっているということ。それに気づくことのできる者だけが、きっと本物の幸福を手にするのかもしれない。

4776404893王国のない王女のおはなし
アーシュラ ジョーンズ サラ ギブ
BL出版 2011-10

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2012.02.24

うきわねこ

20110309_003jpg_effected ふわふわとしたやわらかさのあるタッチで、きょとんとしたあどけない表情で大きなうきわを手にしている小さな猫のパステル画の表紙に、猫好きならずとも多くの人が強く惹きつけられる、蜂飼耳・文、牧野千穂・絵による『うきわねこ』(ブロンズ新社)。しかも物語はただの猫のお話ではないのである。猫の名は「えびお」。猫なのに「えびお」。そして、猫なのに猫としては描かれていない。猫の姿をしているけれど、一人の男の子として描かれている一冊だ。満月の夜のおじいちゃんとえびおの不思議な冒険を、臨場感溢れる丁寧なタッチのパステル画と独特の鮮やかな言葉遣いの文章とで楽しませてくれる。とても素敵な世界へと読み手を誘ってくれる絵本である。

 ある日、えびおの元におじいちゃんから誕生日プレゼントが届く。開けてみると、赤と白の縞模様のうきわである。えびおの住む街には海も川もプールもない。どうしてうきわなのだろうと、えびおもえびおの両親も不思議がる。けれど、プレゼントのうきわにはそっと手紙が添えられていた。えびおはとっさに手紙を取り出して、こっそり一人で読む。“とくべつなうきわです。つぎのまんげつのよるをたのしみにしていてください”と、おじいちゃんの言葉がある。そして待ちに待った満月の夜、えびおはうきわをふくらませてベランダへ。不思議なことに、体がふわりと浮かび、月に引き寄せられるように空に向かって飛ぶことができたのだった。

 すると、やはりえびおと同じようにうきわにつかまったおじいちゃんが、満月の前で待っていた。そしてふたりは海へ行く。えびおにとっては、はじめての海である。そうして不思議な特別な忘れられない体験をする。海で釣りをする場面では、釣った大きな魚を貪るように食べるさまだけは、リアルな猫らしさが漂う。いや、面白いことに野生の猫そのものなのだ。ああ、やはり猫だったのだ……読み手はどこかそのことにほっとする。そして、澄ました顔でおむすびなんかを食べていたえびおにも、そのえびおという名前にも、これまで男の子としてしか描かれていなかった部分も含めて、猫の姿をしたえびおとおじいちゃんを、特別な“うきわねこ”として認識するようになる。

 おじいちゃんと孫。そのふたりだけの秘密の出来事を描いたこの物語を読み終えて、この旅はとてもわくわく感に満ち溢れた特別な夢物語だけれど、どこか悲しさも含んでいるようにわたしには読み取れた。この出来事は、えびおにとってもおじいちゃんにとっても、かけがえのない思い出となるだろう。でも、おじいちゃんはもしかすると、この夢のような体験をのこして、去りゆく人なのではないかと思うこともできる。たとえばどこか遠くへと旅立ってしまう前のふたりの時間なのかもしれない、と。おじいちゃんは孫であるえびおに大事なバトンを渡す、先にこの世を去る人なのだ。語られない部分に思いをさまざまにめぐらせて、読み手がいろいろに解釈できる、とても奥行きある物語である。

4893095234うきわねこ
蜂飼 耳 牧野 千穂
ブロンズ新社 2011-07

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2012.02.23

いいなずけ

20100828_003jpg_effected 生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることだろう。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは並大抵のことではない。今を生きる時代において、女性が社会で働くということは当然の権利としてそこにある。まだまだ女性の活躍する場は少ないかもしれないが、多くの女性が教育を受ける権利を与えられて、勉学に勤しみ、やがて働く機会を与えられるようになる。けれどかつて、そうでない時代があったこともわたしたちは知っている。アントン・P.チェーホフ作、ラリーサ・ゼネーヴィチ絵、児島宏子訳『いいなずけ』(未知谷)に描かれる時代は、まさにその時代の物語である。女性が学ぶこと、働くこと、自由に夢見ることすらできなかった時代に、一歩を踏み出そうとする、チェーホフ作品としては大胆な女性の物語である。

 16歳の頃から結婚することだけを恋焦がれるように夢見ていたロシアの地主の娘ナージャには、周囲から評価の高い許婚のアンドレイがいる。けれど、23歳となったナージャの前に芸術家の青年サーシャが現れ、新しい刺激を受ける。本当に結婚してしまっていいのか、このままの暮らしでいいのか……と繰り返し言われるのだ。これまで疑問など何も感じたことのなかったナージャだったが、繰り返しサーシャに言われ続けるたびに自分自身を、周囲を、見つめ直すことになる。そしてこれまで彼女を取り巻いてきた幸福というものが、見せかけのようにすら思えてくるのだ。そうして、マリッジブルーなのか、サーシャの囁きのせいなのか、ナージャは何不自由ない地主暮らしと訣別し、自立を目指しペテルブルクへと旅立つことになるのだった。

 あらすじだけを追ってゆくと、今の時代にもよくありがちなマリッジブルーの物語にも思えないこともない。けれど、そこはやはりチェーホフの作品、ひとひねりあって読ませてくれる。物語はナージャとサーシャとの関係の立場の逆転を用意していたりもする。ナージャが一歩踏み出すきっかけを懸命に与えてくれるサーシャが、なぜこんなにも彼女を今の暮らしから一歩踏み出させたかったのかということが後半になって明らかになってゆく、そして……。という仕掛けもあるのだ。彼がどうしても彼女を踏み出させたかったことを思うと、胸の奥がじんと熱いもので込み上げてくるほどに。まだ女性が新しい時代を担う道が平坦ではなかった時代背景を思うと、さらに込み上げるものがある。

 人は皆、今ある生活を変えることは、とても難しい。このままでいいのか、今のままでいいのか、その疑問を感じつつも、なかなか前へ一歩は踏み出せない。生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることに、今も昔も変わることはない。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは、並大抵のことではないのだ。物語の中で、ナージャが少しずつ何かを見出し、淡い恋心のようなものを覚える様子、そして、やがて一人の自立した女性へと向かう逞しい姿には、決して古びない今を生きるわたしたちにも通ずる何かを感じてしまう。今を、これからを、どうしたいのか、どう生きたいのか、どんな幸福を求めているのか。それをチェーホフは読み手に問いかけてくるのだ。

4896421922いいなずけ (チェーホフ・コレクション)
アントン・P. チェーホフ ラリーサ ゼネーヴィチ
未知谷 2011-12

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2012.02.21

なかないで、毒きのこちゃん 森のむすめカテジナのはなし

20110412dsc_40040jpg_effected 森に生きる少女の子どもらしい感受性で、いのちを学び、喜び、さまざまな動植物と戯れ、美しい森で生きてゆくこと、生きとし生けるものすべてに対するあたたかな愛おしさを感じる、デイジー・ムラースコヴァー作、関沢明子訳『なかないで、毒きのこちゃん 森のむすめカテジナのはなし』(理論社)。ときに胸の芯をぐいぐいつかまれるような哲学的な思考を展開したかと思えば、ときに森での生きるすべそのものは、わたしたちのすべてに通ずる暮らしの営みを思わせてくれる。森というものの偉大な豊かさを、生きてゆく喜びを、たくさんの生き物たちの鼓動を、30もの掌編によって、読み手であるわたしたちは少しずつ少しずつ知ってゆくのだ。

 あまえぼうの子バト、泣き虫のベニテングダケ、口の達者なウサギ、金色の目を持ちながら本当の金色を知らないカゲロウ、くいしんぼうのオオカミ……などなど、挙げ出したらきりがないほど魅力的な個性的な森の動植物たちとカテジナとのふれあいは、どれもがとてもあたたかな物語となっている。猟師でありながら、猟によっていのちを無駄に奪うことを決してせずに、カテジナの素朴な疑問に対してやわらかく答える父親の存在、そしていつだってあたたかくのびやかにそっとカテジナを見守るやさしい母親の存在にも支えられて、カテジナは自分の中に強い意志をしっかり持ち合わせた、いのちを思うことのできるやさしく逞しい少女として物語の中にいる。

 例えば、真っ赤な頭の毒キノコが自分はみんなに嫌われていると泣いていると、カテジナはいろんな手を尽くして毒キノコを励まし、思いやり、毎日のようにお話を聞かせにゆく。いつも醜いと言われても決して怒らないヒキガエルには、尊敬のまなざしを向けながらも、ときには本当のことを言わないほうがいいこともあるのだとヒキガエルにそっと言い放つ。ときには地球の反対側を思って、そこにカテジナと同じように森で暮らし、今このときにも同じことをしている少女がいるのではないかと想像をめぐらせたりもする。アリのゆく道をどこまでも追って、自分が果たして大きいのか小さいのかわからなくなることもある。もじもじしているオオカミにはぴしゃりと言葉を放つ。

 自然とともに、森とともに、そこに暮らす動植物たちを敬いながら生きること。それは森からはかりしれないほどの恵みをもらって、森が生活の一部になっていなければ、忘れがちのことなのかもしれない。細い道をのぼりにのぼってゆく日本の森とは違って、この物語の舞台となるチェコの森は、奥深い森もあるらしいが、多くは身近な野原や畑の続きにあって、いきなり森がはじまるのだそうだ。そして、きちんと管理され、森林保安官、猟師、森番などの専門家たちに守られて人々と共存しているという。まるで物語の中のように、静かにそっと森はほほえんで息づいているに違いない。物語に添えられた作者による画も物語の雰囲気とぴったり寄り添うように素敵で、お気に入りの1冊となった。

4652079702なかないで、毒きのこちゃん―森のむすめカテジナのはなし
デイジー ムラースコヴァー Daisy Mr´azkov´a
理論社 2010-05

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2009.09.08

大きな木のような人

20090907_026jpg_effected 木々はわたしたちを包み込む。何百年もの間地面に根を張って息づき、そよそよと風に揺れながら見守ってくれている。言葉などなくても、いつだってやさしい。いつだってあたたかい。いつだって寄り添ってくれる。木々の存在は慰め。そして救いでもある。“人はみな心の中に、1本の木をもっている”という言葉が印象的に響く、いせひでこ著『大きな木のような人』(講談社)。美しい木々の緑に思わずため息がもれるほどに魅了された。確かにいつか見たはずの緑。親しみ感じる緑。でも、それだけじゃない。ぬくもりがあるのだ。樹齢何百年もの貫禄ある木々も花々もどれもこれもがやわらかな水彩で描かれ、心によく馴染む。何度も読み返したくなる素敵な一冊である。

 物語の舞台はパリの植物園。さえらという少女は、スケッチブックを手にして植物園に通っている。ある日、おじいちゃんの誕生日プレゼントにしたいと、植物園の黄色い花を引き抜いてしまう。そんな少女に植物学者は怒るでもなくひまわりの種を与え、さえらは大切に育てるのだった。植物学者は植物園を案内したり、植物の不思議さや魅力をさえらに語りかけたりする。すると、さえらの心にも小さな芽が育ち始める。ちょうどさえらが育てたひまわりのように。季節の移り変わりとともに様々な表情を見せる植物園の様子とさえらの心の変化をやわらかに淡いタッチで描いてゆく。さえらの好奇心と興味の広がり、植物に対する植物学者の思いなどなど、読むたびに発見がある。

 だが、夏が終わろうとする頃になると、さえらは無口になっていった。日本に帰ることになったのである。植物学者はそんなさえらにプラタナスの木を背にして語りかける。“きみは、じょうずにひまわりを育てただろう。ひまわりは、きみの心の中にしっかりと根をおろしたんだよ。ごらん、このプラタナス、250年もここで根をはってきた”と。見開きページを縦に使って描かれた大胆な構図のこの場面はとても印象深く残る。そして、静かな余韻を残してゆく。うつむき加減のさえらを包み込むような大きなプラタナスの木。250年という長い年月がこの木を逞しくしたことを思い知る場面でもある。出会いも別れも喜びも悲しみも、すべてを受け止めてひたむきに生きる姿があったと。

 一人の少女の心の成長と偉大な木々とそっと見守ってくれている植物学者。なんとも素敵な関係である。穏やかな特別な時間が流れていたのだな…そんなことを思う。さえらという少女がどんな大人の女性へと変わってゆくのか、とても楽しみになってくる。ちなみにこの“さえら”という少女の名前は、フランス語では“あちこち”という意味だそう。植物園のあちこちに出没して、植物学者や庭師をてこずらせる“さえら”=“あちこちちゃん”。物語にぴったりの名前だと思う。さえらが育てたひまわりの種を、今度はどんな子どもが育てるのだろうか。第二のさえらがあちこちに出没して、たくさんの芽を育てて欲しいものだ。そのときはプラタナスの木がきっと守ってくれる。

406132392X大きな木のような人 (講談社の創作絵本)
講談社 2009-03-19

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 ≪いせひでこの本に関する記事≫
  ・『ルリユールおじさん』(2007-08-30)


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2009.07.18

カエルの王さま グリム童話 あるいは鉄のハインリヒ

20090615_4041 少女は、いつまでも何でも言うことを聞く可愛いお人形ではいられない。いつかは今いる場所から巣立って、成長するときがくるのだ。自分自身をさらけ出し、父親の支配を断ち切り、一人の人間として、自立した人間として、少女から大人の女性へと変容のプロセスをたどるのである。江國香織文、宇野亜喜良絵『カエルの王さま グリム童話 あるいは鉄のハインリヒ』(フェリシモ出版)は、一見メルヘンな童話に思えるが、深読みすると、自分の中の醜い面ととことんまで向き合わされる物語である。抑圧された自分の心、今まで枠にはめられてきた思いを痛感し、もっと楽に自分を表現してもよいのだと言っているかのようにも思えてくる。物憂げなお姫さまの表情が何とも言えず、よい。

 物語ははるか昔のこと。一人の王様のとびきり美しい末娘のお姫さまが、鬱蒼とした森の中で金色の毬で遊んでいると、その毬を底が見えないくらい深い泉に落としてしまう。泣きじゃくっているお姫さまの前にやってきたのは一匹のカエル。そして、お姫様は、毬を取ってくれたら、カエルを相棒にすることを約束してしまうのだ。毬を無事手にしたお姫さまは、カエルを置いてさっさと逃げ帰ってしまうが、次の日になるとカエルが玄関まできて要求を迫る。“約束したことは実行しなければならん”という王様の言葉のままに、従うだけのお姫さま。カエルの要求は強引で権威的で狡猾である。やがて、お姫さまは激しい怒りを覚えて、とうとうある行動に出ることになるわけだが…果たして…。

 この物語のお姫さまは、男性社会の中で父、つまりは王様の可愛い人形としての教育を受け、自分らしさを抑圧されて疎外してきたと考えていい。だからこそお姫さまは少女のときを鬱蒼とした森の中で一人過ごすことに、喜びを見出していたのかもしれない。そして、金色の毬を泉に落としてしまったとき、石の心を揺さぶるほどに泣きじゃくることができたのではないだろうか。そうして、魔法をかけられたカエルとの関わりが始まるのである。また、お姫さまは興味深いことに、毬を取ってきてくれたお礼に、自分の服でも、真珠でも、宝石でも、金の冠でもあげると言ったのである。金色の毬は、日頃押し殺している自分の分身のような、唯一の慰め物のひとつだったのかもしれないのだ。

 けれど、カエルが欲しいのはそんなものではない。お姫さまからの愛情や親密さ、特別な関係である。人間がすぐに欲しがるようなものではなく、心や関係性を求めているところに注目したい。それでもやはり、どこまでもずうずうしい支配的なカエル、そして理不尽な王様に、お姫さまの怒りは爆発する。この物語では、お姫さまが自分自身を取り戻して、自分に正直になり、感情をさらけ出すことで、一人の人間として自立して現実に向き合うという、少女から一人の女性としての変容のプロセスが描かれているのである。もちろん、結末はするするとハッピーエンドへと転じるのであるが、そこまでの過程が、何とも切なく、どこかもの悲しく、自分の中の醜さを痛感させられるのだった。

489432492Xカエルの王さま―グリム童話 あるいは鉄のハインリヒ (おはなしのたからばこ 3)
宇野 亜喜良
フェリシモ 2009-07

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2009.07.14

ジャック・プレヴェール 鳥への挨拶

20090529_052jpg_effected 大人になりきれなくてもいいじゃないか。いつまでも子どもでいたっていいじゃないか。子どものままの視線で、わたしなりの視線でさまざまなものを見て、感じて、思って、考える。背伸びする必要などどこにもない。ありのままの自分で、ありのままの感性で、物事を見つめる。ただそれだけでいい。そうして自然と見えてきたもの、浮かんだものは、わたし自身の何よりも強みになる。そんなことを思わせてくれる、20世紀フランスの最大の詩人ジャック・プレヴェールの言葉たち。高畑勲編・訳、奈良美智絵による『ジャック・プレヴェール 鳥への挨拶』(ぴあ)は、21世紀になっても世界中で読み継がれているプレヴェールの詩と奈良美智の絵が不思議に響きあう、魅力的な一冊である。

 表題にもなっているとおり、プレヴェールの詩には鳥が多く登場する。自由を求めて、大空を飛び廻る鳥のごとく生きられたら…そんなプレヴェールの思いを強く意識させられるぴったりの表題だと思う。ときには残酷なまでに真実を伝え、ときにはユーモアを込めて言葉遊びを楽しむ。そして、率直に伝えたいことを語り出す。そんな詩やお話の数々を収録。「灯台守は鳥たちを愛しすぎる」では、どんなふうにしても幾千羽もの鳥たちが死んでしまう。火に向かって飛ぶ鳥たちをどうにかしようと、さまざまな犠牲を覚悟で灯台のあかりをみんな消してしまう。けれど、幾千羽もの鳥を乗せた貨物船が難破することになってしまうのだ。救う命あれば、救われない命がどこかに必ずあることに愕然となる。

 「花屋にて」では、ある男が花を買う。男がポケットからお金を探ると同時に、急に心臓に手を当てて倒れてしまう。男が倒れると同時に床に転がるお金と、落ちる花束。花屋の女は立ちつくして、為すすべもなく、ただ死んだ男とだめになった花束と転がり続けるお金のことを見つめている。どこから手をつけるべきなのかわからずに。これは、リアルな感情を伝える詩だと思う。こういう時、すばやく行動できる人こそ人生経験を積んだ大人なのかもしれないが、ただただ立ちつくす花屋の女は正直だ。真実味がある。もはや救えない命が目の前にあること。そこには、自分の無力さや弱さ、儚い人間の命と花の命が一瞬にして浮かび上がる。そして、同時に自分が今ここに生きている、ということも。

 戦争の悲しさを綴る「家庭的」。母親は編物をする。父親は事業をする。当然のこととして息子は戦争をする。何の疑いもなしに命が続くと思っている家庭の光景。戦争が終わったら、父親の事業を自分もするだろうと思っている。けれど、母親が編物を続けるように、父親が事業を続けるように、戦争も続き、息子は戦死してしまう。彼の命は続かない。そしてやがて、墓地のある暮らしが当然のことになる。悲しいかな、母親と父親の暮らしは続いてゆくから。簡素な言葉で紡がれた言葉に、強く重くのしかかる。皮肉ったようなタイトルも、すべてがわたしたちのすぐ目の前にある、現実を照らし出す。目を背けたくなるようなことも。あますところなく伝える。プレヴェールは鋭い観察者だと思う。

4835616359ジャック・プレヴェール 鳥への挨拶
奈良 美智 Jacques Pr´evert 高畑 勲
ぴあ 2006-07

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2009.07.11

ミヒャエル・ゾーヴァの仕事

20090617_016 “仕事が仕事を呼び、人が人につながり、新たな扉を開く。そう考えてみると、僕にとって仕事は、あるいは人生の縮図そのものなのかもしれない”そんな序章からはじまる、ミヒャエル・ゾーヴァ画・文『ミヒャエル・ゾーヴァの仕事』(講談社)。出版、広告、ポストカード、映像、舞台…様々な領域で活躍する、現代ドイツを代表する画家が日本の読者のために再び語りおろしたという、ゾーヴァのこれまでの仕事のすべてがわかる一冊である。「出版」「広告とポストカード」「舞台と映画」「モチーフ」「風刺」の5章からなる語りと画は、ゾーヴァのファンならば、たまらなくなるに違いない。猫好きのわたしは、序章のあとに、ぎゅっと猫を抱きしめているゾーヴァを見ただけで、思わずくらくらとした。

 遅ればせながら最近になって知った画家、ミヒャエル・ゾーヴァ。たまたま図書館で『ちいさなちいさな王様』という本と出会って、その挿画に惹きつけられたのがきっかけだ。想像力をかき立てるストーリーを感じさせる画と、風刺や洒落の効いた画風は、ぱっと目を惹き、挿画といえども言葉よりも何かを物語る力を持っているように感じられた。そんなゾーヴァの仕事について語られた本ということで手にした今回の一冊。ゾーヴァの仕事だけでなく、私生活にもふれられていて、一ファンとしてはその素顔をほんの少し垣間見られた気がしてとても嬉しい。公私共に長きにわたって相棒だったという、亡きミヒャエル・エッターに捧げられたためか、彼とのエピソードには熱がこもって語られている。

 何といっても、贅沢なまでに画が載っているかと思えば、その画が既に世に出た後だというのに、上塗りしてしまっているというところが、ゾーヴァの作品への強いこだわりを感じる点である。上塗り中の画を一緒に載せているあたりが、ファンサービスというのだろうか。普段お目にかかれない創作の現場を見せられた気がして、たまらなくなる。また、仕事が軌道に乗るまでの日々を綴ったところでは、今は亡き相棒ミヒャエル・エッターとの強い絆を感じてほろりときた。様々な仕事をする上での葛藤、困惑、喜びなどなど、画家としての自分のあり方のようなものに、一時期は悩んだのだろう。“僕はずっと画家だったし、これからも画家であり続けるだろう…”という言葉の裏には、強い決意を感じる。

 また、オペラ「魔笛」の美術監修や映画「アメリ」の画や小道具など、世界を広げていったゾーヴァ。その裏話を読んでみると、興行的に成功した作品に携わったのにも関わらず、契約をきちんとしていなかったために、あまり懐はあたたまらなかった様子。そんなぼやきも含めて、自分の作品についてのこだわりや性格というものを、率直に語る感じからは、画家としての人生をすごく楽しんでやっているのだなということが、まず一番に伝わってくる。画家という職業はまさに彼の天職であり、一生涯、いや、生まれ変わってもきっと彼は画家として生きてゆくのではないだろうか…と、読み手に思わせる。でも、あまりにこだわり過ぎて、締め切りを守らないのだけはどうにかしましょう、ゾーヴァさん。

4062154234ミヒャエル・ゾーヴァの仕事
ミヒャエル・ゾーヴァ 木本 栄 那須田 淳
講談社 2009-04-25

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 ≪ミヒャエル・ゾーヴァの本に関する過去記事≫
 ・『ちいさなちいさな王様』(2009-06-08)


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2009.07.03

ぶたばあちゃん

20090627_032 いつか必ず訪れる死。その逃れられない死を冷静に受け止めることはとても困難だ。けれど、悔いなく最期を穏やかに迎えるためには、冷静さは重要だ。自分の潮時を予感して、一番いい方法でこの世とさよならする。この世に生きる人とさよならする。そうできたら、どんなにいいだろう。マーガレット・ワイルド文、ロン・ブルックス絵、今村葦子訳『ぶたばあちゃん』(あすなろ書房)には、あるひとつの死の受け入れ方が描かれている。淡々とした語り口ながら、悲しみを必死に押し殺したふたりの一番いい方法での別れは、読み終えてもいつまでも胸の奥にじんと響いてくる。水彩画のやわらかな淡いタッチの絵と共に綴られる、ぶたばあちゃんと孫むすめの日々のやさしいさよならの物語である。

 ぶたばあちゃんと孫むすめは、ずっと長い間一緒に暮らしてきた。ふたりにはふたりならではの生活があって、役割分担があって、つつましやかに暮らしている。孫むすめが朝ごはんを作り、ぶたばあちゃんが昼ごはんを作る。そして、晩ごはんは一緒にしたくをするのだ。けれど、ある朝のこと、ぶたばあちゃんは普段どおりに起きてこず、孫むすめが朝ごはんを運んできたときも、眠り続けた。昼ごはんのときも。晩ごはんのときも。そうして、次の朝になると、ぶたばあちゃんはまだ回復していないのにもかかわらず、こう言う。“今日は、忙しくなるよ。わたしはしたくをするんだからね”と。何のしたくをするのか孫むすめに説明もなければ、細かなことは何にも言わないぶたばあちゃん。

 でも、いつも寄り添うようにして生きてきたふたりだから、互いに別れが近いことを察してしまう。孫むすめは、ぐっと悲しみをこらえて、ぶたばあちゃんの最後の散歩にゆっくりと付き合う。ふたり一緒に見る様々もの、景色が、やわらかにふたりを包み込むように美しくきらめく。多くの言葉がなくても伝わる思いがあること。それは、ふたりの絆の深さを物語っているようでもある。だからこそ、別れは悲しい。だからこそ、あたたかに胸に響く。ぶたばあちゃんは、最後の最後まで生きることと愛すること、与えること、受け入れること…そういったことを、生き様を通して教えてくれる。ふたりの優しい笑顔はまさに生の喜び。そして、最後の日のあっという間の時間はかけがえのないもの。

 ずっしりと重たいテーマを扱った物語。でもブタというキャラクターの愛らしさが、ほんのりと明るく物語を照らす。何よりも印象的なのは、自分の最期の日を予期したぶたばあちゃんの行動力と潔さ。なんて魅力的に描かれているのだろうと思う。そして同時に、人間はうじうじしていてこんなふうにさっぱりと死を受け入れられないだろうなぁなどと思ってしまう。ふたりの生き方を通して見えてくるのは、いつか訪れる死に対して、別れというものに対して、冷静であれ、ということだ。そうして思う存分、悔いなく生きよ、ということ。あたり前に周囲にあるもの、人々…そういったものを慈しみながら、日々を生きよ、ということ。きっと今この瞬間だって、かけがえのないものなのだから。

4751514458ぶたばあちゃん
マーガレット ワイルド ロン ブルックス
あすなろ書房 1995-10

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