2008.06.04

イオマンテ―めぐるいのちの贈り物

20070329_0222 ぐるりとめぐる命のことを、思って、感じて、涙して。命を喰らわずには生きられないから、もっと思って、感じて、涙して。何しろわたしたちは、命と魂との大きな大きなめぐりの中にいるのだから。生かされて、生き抜いて。だからもっと思って、感じて、涙して。そうしてわきあがるやわらかな気持ちは、ぐるりとめぐって届いてゆく。還ってくる。あなたのもとへ。わたしのもとへ。寮美千子文、小林敏也画『イオマンテ―めぐるいのちの贈り物』(パロル舎)は、アイヌ民族の荘厳な儀式であるイオマンテを題材に、命の重さや尊さを痛いほどに感じさせる物語である。そして、肉ばかりではなく、魚も野菜も米もすべてに命があり、あらゆる物が“めぐるいのちの贈り物”なのだと気づかされる。

 イオマンテ。“熊送り”というこの儀式は、つまりは熊の死を意味する。母熊のみを獲物とするアイヌの人々は、冬眠中の熊を狩る際、残された子熊を村に連れ帰り、カムイ(神)の国からの賓客として大切に育てる。そして数年後、大きく育った子熊を、カムイの国にいる母熊のもとに送り返すのだ。そうして、その肉を感謝していただく。何とも残酷に思える儀式だが、よく考えてみれば、わたしたちの多くは、その手を汚さずに多くの肉を喰らっている。それを思えば、アイヌの人々は、わたしたちよりずっと命を重んじて生きているではないか。命の見える肉を喰らうことは、云うまでもなく苦しく悲しいことだ。けれどだからこそ、命をいただくありがたさ、重みを知ってゆくのだろう。

 物語は、子熊と共に育ったアイヌの少年の語りと、子熊の語りとが交互に展開し、やがてひとつの大きな物語へと繋がってゆく。少年の目に映る厳しい現実と、子熊によって語られる神話世界と…。少年と子熊との出会い、子熊との日々、イオマンテの儀式、子熊のカムイの国への旅立ち…と物語は進み、やがて老いゆくかつての少年はこんなことを口にする。“ひと粒のあわもひえも、ひと切れの肉も魚も、みんないのち。わたしたちは、いのちをたべている。いのちと魂との、おおきなめぐりのなかにいる。すべては、めぐるいのちのめぐみ”と。この思いこそ、わたしたちが忘れてはならないこと。生きる、ということ。アイヌの人々が伝え続けてきた深い深い智慧だと思うのだった。

4894190311イオマンテ―めぐるいのちの贈り物 (北の大地の物語)
寮 美千子
パロル舎 2005-03

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2008.05.31

つづきのねこ

20070514_015 失った哀しみは、そうっと癒えてゆく。ゆっくり、ゆっくりと。そうして、繰り返し嘆くわたしを許すみたいに、ささやかな訪れが何かを諭すのだ。吉田稔美著『つづきのねこ』(講談社)は、猫を亡くした哀しみに暮れる<わたし>のところへ、“つづき”と云って戻ってきたそっくりな猫の話である。同じ毛色に曲がったしっぽ、同じ軽さに同じ病気。前の猫に教えたことは、覚えているのか悪さもしない。だから、つづき。同じ名前で呼んでしまう。生まれ変わりということが、本当にあるのかどうかはわからない。けれど、いつでも思っていたい。もしかしたら、また出会えるかもしれないから。また深く結ばれるかもしれないから。猫好きにとってはたまらなく愛おしい一冊である。

 この作品の魅力は、何と云ってもその詩的な文章にある。詩のような物語、物語のような詩。何とも絶妙なバランスのリズムがあるのだ。そして、そのシンプルな言葉たちは、読み手にそっと語りかけてくるようでもある。少しずつ哀しみがやわらぐ様子をつぶさに描きながら、感傷的になりすぎない。失った哀しみと、出会えた喜び。その両極にある感情に中立な姿勢が伺えるのだ。まるで、猫とわたしたちとの、つかず離れずの関係にも通ずるみたいに。また、この作品において、猫がシルエットで描かれているのが、何とも心憎い。思わず自分の愛猫を重ねてしまい、涙する人は多いに違いない。だって、猫は必ずと云っていいほど、先に逝ってしまうから。

 さて、わたしの愛猫たちは、もうかなりの高齢で持病がある。一緒に過ごせる時間は、長くてもあと数年といったところだろう。そんなことを考えていると、今共に過ごせる時間が、とてつもなく愛おしいものに思えてくる。ベタベタした関係ではないけれど、それでも確かに深いところで繋がっていることは、疑いようもない愛猫とわたし。その関係がいつまでもいつまでも続くことを祈りながら、この作品を読んだのだった。そしてこの作品のように、“つづき”と云って現れるつぎの猫を見失わないように、しっかり目を見開いていたいと思ったのだった。だって今も、こんなにも寄り添っているわたしたちが、また出会えないはずはないのだもの、と。

4062121824つづきのねこ
吉田 稔美
講談社 2004-05

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2008.05.13

夕闇の川のざくろ

20070514_009 ぐるぐると渦巻く嘘の中で思う。わたしはこの嘘の世界がとても好きだと。そうして、嘘の中に埋もれて、いつまでもいつまでも浸っていたいのだと気づく。嘘の世界。それは虚構。あるいは物語。けれど、そこに見え隠れする物事の本質は、わたしの暮らす現実よりもより真に迫ってくるようにも思えるから不思議だ。江國香織著、守屋恵子絵『夕闇の川のざくろ』(ポプラ文庫)に描かれる嘘は、孤独な一人の女性・しおんの姿を浮き彫りにする。“人なんてもともとほんとじゃないのよ”そう言って、次から次へと嘘の物語を紡ぎ出す彼女に振り回される幼馴染みの<私>。読み進めるうちに、<私>同様にいつしかしおんの心に寄り添いたいと思っている。

 しおんはこうも言う。“物語の中にしか真実は存在しないのよ”と。そして、現実なんてちっとも意味がない、とも言うのだ。なぜなら現実は作為的な錯覚にすぎず、人はみな物語に便乗して、知り合いのようなふりをしてうろうろしているから、だと。すべては錯覚。そんなふうに考えることが、どれほど寂しく悲しいことなのか、物語に添えられているしおんの物憂げな表情を見つめるほどに胸をしめつけられる。だが、これこそまさに真実をついている言葉ではないだろうか。誰かを信じるということ。それは、不確かなものを信じようとする意思からはじまる。裏切られて傷つくのは、裏切られないという錯覚が為せるもの。わたしたちは日々たくさんの錯覚の中で生きているのだ。

 また、この物語の魅力は、しおんの語る物語に耳を傾ける<私>もまた、嘘の中に生きている、というところにある。噛みしめるように、繰り返し物語を読んでみると気づくそれは、どうかすると見逃しがちなほどにささやかで淡い小さな嘘だ。この小さな小さな嘘に呑み込まれそうになるとき、この物語にすっぽりと閉じこめられて、わたしはぐるりぐるりと大きな嘘の中に埋もれてゆく。そうしてわたしは現実逃避のように、こうして物語に浸ることの罪悪感も忘れて、そこに深く横たわる真実を見出そうと躍起になる。日常の中に無数にある作為的な錯覚によらない真実を。確かなものとしての真実を。どこかにある本物の真実を一つくらいは手にして、全身全霊で信じてやろうと。

4591102963夕闇の川のざくろ (ポプラ文庫 え 1-1)
江國 香織 守屋 恵子
ポプラ社 2008-04

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2008.04.23

壜の中の鳥

20070421_035 人は、ひとところには留まっていられない。時の流れと共に、その心も身体も変化するものだ。生きるほどに悲しみは積み重なり、何かを得るほどに大事なものをひとつ、またひとつと失ってゆこうとも。とめどなくあふれる悲しみを目の前に、意欲をなくすわたしがいようとも。俯き、ため息をつき、そうして何もかもを諦めようとも。わたしは止まることを知らない。無意識のうちに動き出す。前を見据えて、新たな一歩を踏み出している。寺山修司+宇野亜喜良著『壜の中の鳥』(アートン)は、1977年に書かれたメルヘンと22のアフォリズムを収録している。寺山修司の紡ぎ出すユーモアに満ちた言葉たちは、生きるということの悲しみとそれに伴う喪失感を感じさせ、どこまでも深く染み入ってくる。

 「壜の中の鳥」。次々と人が鳥になってしまうという事件が起こる中、愛し合う若い恋人・ムギとサキの身にも事件は起こってしまう。まだ悲しみを知らない二人。たくさんの幸福を夢みていた二人。そんな二人にも、運命は残酷だ。ここに登場する、北ニューギニアの二度神(にどしん)は、生涯に二度だけ願いを叶えてくれて死んでしまう神さま。そんな見たこともない神さまのことを空想して、何をお願いしようかと思いめぐらすサキの無垢さは、その後の展開を思えばあまりにも儚いものだ。ムギとサキは相手を思うがゆえにすれ違い、その悲しみをさらに深くする。そこで次のようななぞなぞが紡ぎ出される。“同じ鳥でも飛ばない鳥はなあんだ?/それはひとり という鳥だ(p26)”

 ひとり。飛ばない鳥。飛べない鳥。“ひとり”であるわたしたちには、たくさんの幸福を夢みていた頃の思いはなくなっている。空の青さ、赤ちゃん、家、二人の幸福……といった夢は薄れ、一度知ってしまった悲しみは、いつまでも奥深くこびりついて、そう簡単に離れるものではない。生きるほどに募る悲しみ、大事なものを失った喪失感に、いつしかわたしたちは怯えて暮らしている。そういう人間の姿を寓話として、この「壜の中の鳥」で描いているように思うのだ。だが、忘れてはならない。わたしたちは生きている限り、ひとところに留まってはいられない生き物である。“ひとり”ではいられないわたしたちは、知らぬ間に誰かを求めて、もう一歩を踏み出しているのである。

 ≪寺山修司+宇野亜喜良の本≫
  『踊りたいけど踊れない』(2007-12-01)

4901006614壜の中の鳥
寺山 修司
アートン 2003-11

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2008.03.10

頭のうちどころが悪かった熊の話

20060805_001 日がな一日繰り返し、繰り返し、誰もが一度は問うてみたくもなるものだ。何のために生きるのか。何のために在るのか。そもそも人生というものの意味とはなんぞや、と。けれど、答えの見えない問いかけは終わりなく続くものだから、極端な話、わたしたちに許されるのは「ま、いいか」という答えだったり、オチだったりする。そこに意味などはない。ただ生きているだけで充分であるかのように。安東みきえ著、下和田サチヨ絵『頭のうちどころが悪かった熊の話』(理論社)は、7つの動物たちの寓話からなる一冊である。シュールでシニカルな物語展開は、自分自身を省みさせて笑みを誘ったかと思うと、身をぐぐっと乗り出してしまうほどに痛快でもある。

 表題作「頭のうちどころが悪かった熊の話」は、どこかでぶつけたことは記憶しているのに、レディベアを探しているという一点以外のことをまるきり忘れてしまった熊が主人公である。おぼろげな記憶を頼りに、いつも傍にいてくれた気がしたこと、あたたかだったことなどを思い出し、次々と出会う動物たちに声をかけてゆくのだった。その様子は、ある種の切実さを感じずにはいられないものがあった。そして、結末のシュールさを思えば、はじまりから既にいくつもの伏線のようなものが張りめぐらせてあったことがわかるのだが、ここでは敢えて言うまい。わたしは読みながら、ただただ熊のこれから向かう先が素晴らしいものでありますようにと願うばかりである。

 他に収録されている「池の中の王様」は、おたまじゃくしのハテが主人公。似たような兄弟たちが無数にいる中で、ハテだけがなぜなぜ坊やだった。何に対しても疑問を抱き、反発する。やがてハテは一人、仲間から離れ、旅立ってゆく。そうして出会ったヤゴのおかげで、ハテは救われるのである。“たとえどんなに離れたって、おれはおまえを見つけられる。友だちってそういうもんだぜ(p95)”“たとえどんなに姿を変えても、ぼくはきみを見つけられるさ。友だちってそういうもんさ(p96)”というふうに。ふたりの友情は、結末でさらに深い友情へと変化してゆくのだが、そこまでの道のりは一見ほのぼのと描かれていながらも、かなりヘビーだったりするのだった。

 ここまで述べてきたとおり、この可愛らしい風体の作品は、かなりブラックな要素を含んでいる。とぼけていながらもどこかシビアであり、それでいてあたたかく包み込む優しさも兼ね備えているのだ。だからこそ、ジャンルを決めかねる一冊だとも言えるのではないだろうか。扱っているテーマは、幅広く、重たいものであるが、それをさらりと読ませてしまうのは、美しい寓話に終わらずに、ひとつひとつに用意されているオチの面白さにある気がしている。その他、悩ましく自分探しをする鹿を描いた「りっぱな牡鹿」、食物連鎖の動物関係を描く「いただきます」、美への憧れとその友情を乞うカラスを描いた「ないものねだりのカラス」なども秀逸である。

4652079028頭のうちどころが悪かった熊の話
下和田 サチヨ
理論社 2007-04-02

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2008.01.15

タイコたたきの夢

20050601_919035 追い求めては、夢やぶれて。身を砕いては、散り散りになる。それでも夢に向かうことをやめられないわたしたちは、どこまでも前に進むしかない。本能の赴くままに。わき上がる欲求のままに。ライナー・チムニク文・画、矢川澄子訳『タイコたたきの夢』(パロル舎)は、“もっとよいくに よいくらし”を求めて前進するタイコたたきたちの物語である。ある日突然一人のタイコたたきが現れたかと思うと、いつしかその数は爆発的に増えてゆく。その増殖ぶりは、不気味といってよいくらいである。ある種の伝染病のような印象さえ与える。そして、行く手を阻む敵に対して果敢にも冷静に立ち向かい、あらゆる手段を用いて生き延びようとするのだった…。

 タイコたたきたちが“もっとよいくに よいくらし”を求めて前進するたびに、人々と争いが起こり、多くの者が死ぬ。皮肉にもそれはまるで、夢を抱いてはやぶれて、心を痛めているわたしたちの姿のようである。生きているからには、次々と欲求なるものがわたしたちの中には生まれてくる。だからこそ、それを叶えたい。そうやって大小さまざまな夢を抱いて、誰もが前進する。けれど、それが叶えられるのは、ほんの一握りの人間に過ぎないのだろう。夢に対して抱かれたいくつもの感情は、生まれては消えてゆく。あまりにも儚く、散ってゆくさだめにある。それでも、懲りないわたしたちは、次の夢を追い求めてしまう。厭きもせず、また次の夢を、と。

 だが、この物語には、他の要素も含んでいる。たった一人きりだったタイコたたきの行動が、多くの者の心を動かしたこと、である。だからといって、そこには代表なる者は存在していない。主人公がいないのである。皆、同じように夢を追う人々なのである。そこに、何だかとても救われる気がするのは、わたしも同様に夢を追う者だからなのだろう。叶う夢は僅かかもしれない。それでも、追い求め続けることは無駄なことではないと、どこかで信じていたいのだろう。追い求めては、夢やぶれて。身を砕いては、散り散りになる。それでも夢に向かうことをやめられないわたしたちは、どこまでも前に進むしかない。本能の赴くままに。わき上がる欲求のままに。

4894192284タイコたたきの夢
Reiner Zimnik 矢川 澄子
パロル舎 2000-12

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2008.01.14

セーヌの釣りびとヨナス

20070226_001 簡潔さの中にある、おかしみと哀しみ。奥底に根ざす、人の存在というものの根源的な部分。そういうものを、ライナー・チムニク文・画、矢川澄子訳『セーヌの釣りびとヨナス』(パロル舎)の中に感じた。チムニクのユーモラスな魅力たっぷりで、批評精神を感じる線画は、どのページでも味わい深く楽しめるものばかり。そのダイナミックな構図と発想に思わずじっと見入ってしまう。装幀は、さすがはパロル舎というだけあって、こだわりある凝ったつくりなのも、読み手としては嬉しいかぎりである。淡いグレーの紙は、厚くもなく薄くもなく、独特の手触りでチムニクの画を引き立てている。大人のための贅沢な書物といった感じである。

 物語の舞台はパリ。セーヌの河岸では釣り人たちが年中座り込んで、ほんのちっぽけな魚を釣っている。そういう釣り人の一人であるヨナスは、ひとつの願いを持っていた。それは、一生に一度でいいから大きな魚を釣り上げること。ある晩、神さまによってアイディアを与えられたヨナスは、ついにその願いを叶えることになる。けれど、釣りそのものを楽しんでいた釣り仲間たちからの怒りを買い、街を追いやられてしまうのである。そうして、ヨナスは世界中をめぐり、釣りの名人ぶりを発揮してゆく。ついには、“釣りの王さま”にまでなってしまうヨナスである。だが、彼の中である時を境にして、ふっと何かが変わり始めるのだ。

 ヨナスが釣り人として世界中でその力を発揮してゆくさまは、人間のとどまることを知らない欲望を想起させる。もっと大きな魚を。もっともっと大きな魚を、と。ひとつ手に入れたら、もっと欲しがるのは、人の常というものか…。我が身を省みて、恥じ入ることばかり、である。きっとヨナスという人物像は、わたしたちの鏡のような存在なのだろう。また、この物語で面白いのは、その偉大なる欲望を満たす助けを、神さまがしている、というところにある。願いを叶えるというニュアンスと少々趣が異なるのは、わたしの深読みかもしれないが。こういう細かなところで、チムニクの独自の魅力を感じてしまうわたしなのだった。

4894192616セーヌの釣りびとヨナス
Reiner Zimnik 矢川 澄子
パロル舎 2002-09

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2007.12.26

永い夜

20070106_009 眠れぬ夜の悶々で、めぐる思考はぐるぐると。底なし沼の自己嫌悪。ときに途切れてひらめいて。いつしか想いは宙の果て。目覚めと眠りの狭間では、おかしなねじれの中にある。ゆらめき謎めく夜のとき。それでもわたしを見てくれる?それでもわたしを愛してくれる?想いはただただ駆けめぐり、何も変わらないまま朝が来る。ミシェル・レミュー作、森絵都訳『永い夜』(講談社)は、眠れぬ一夜を描いた作品である。愛犬と眠ろうとする少女の頭の中には、不思議な想いがぐるぐるしてくるのだ。シンプルな問いから、哲学的な問いまで。そうして永い夜の物語が、ときどきはっとするほどに迫力ある線画と共に描かれてゆくのである。

 少女の問い。それは、“永遠の果てはどこ?”にはじまり、人が生きていく上で抱えうる、不安や孤独といったものである。そんな問いからは、微妙な年頃のアンバランスに揺れる想いが切実に伝わってくる。例えば“自分で自分がどうにもならないとき だれかにぎゅっと抱きしめてほしいと思う”とか、“だれか どこか上のほうからわたしを見ていてくれる? いつもすべてお見通しのママ以外の、だれか”とか。もちろん、これらはある意味大人になった者にとっても同じ想いに違いない。それも、永遠の。とりわけ、眠れぬ夜には誰かに寄り添っていてほしいものだし、ぎゅっと抱きしめていてほしい。強がりなどは捨ててしまいたいと思う。

 この作品、“もしもこの世界がすべて夢で、夢のほうが現実だったら……?”という問いから、一気に迫力を増すのだが、その絵のタッチがたまらなく繊細である。稲妻に怪獣にもののけ、地獄、宇宙などなど、どれもこれもが素敵なのだ。そして、結末までの展開がなんともたまらず…。ここでは敢えて詳細は書かないが、永い夜にも終わりがあるものなのだなぁとしみじみしてしまうのだった。そうして、わたしたちは皆生きているんだなぁと。また、この作品、絵本と言いつつも、かなりの分厚さである。当然ながら、読み応えもある。タイトルが「永い夜」だけに、ページ数もそれだけあるのだろう。眠れぬ夜、悶々としながら、捲りたい一冊だ。

406209665X永い夜
Lemieux Mich`ele 森 絵都
講談社 1999-05

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2007.12.18

カフカ 田舎医者

20061125_004 人間社会に渦巻く、さまざまな葛藤や不条理というもの。人はそういうものと対峙して、どうにかこうにか生きねばならない。いや、“生きよ”と、生まれ落ちた瞬間から呪縛のごとくに背負わされているのだ。その重き呪縛に苦悩するがゆえに、ときに人はふっと揺らぎを見せる。大きくその均衡を揺るがすほどに、ぐらぐらと揺れもする。そうして、ときにはほろほろっと思いを吐き出してみたくもなるものだ。そんな心情の揺れを、デフォルメされたキャラクターの歪みで描いた、文・絵=山村浩二による『カフカ 田舎医者』(プチグラパブリッシング)。『頭山』、『年をとった鰐』などの作品で知られる監督(著者)の同名短編映画の大人向け絵本バージョンである。

 猛吹雪の夜、急患の知らせが届く。けれど、馬がいない。女中が馬を探して歩くが何処も貸してはくれない。そんな中、壊れた豚小屋から馬と馬丁があらわれ、女中と引き換えに無理やり馬に乗せられてしまう主人公の医者。患者の少年は「先生、僕を死なせて」と囁く。やがて「僕を助けてくれるの?」と少年は問いかけてくるものの、脇腹には傷がぱっくり口を開けている。医者はどうにもできない現実を前に絶望感に苛まれ、自分の不運を嘆くのだった。主人公の心情に添うかたちで時間軸が揺れを見せる上に、著者がさらに絵画でキャラクターをグロテスクなまでにデフォルメし、頭部も身体も縦横無尽に伸びたり縮んだりして歪ませているのが印象的だ。

 この作品の冒頭にはカフカの蔵言のような言葉が添えられている。“本当の道は、一本の綱の上を通っているのだが、綱が張られているのは高いところではなく、地面すれすれである。それは歩かせるためというよりむしろ、つまずかせる為のものの様に見える”と。この言葉はまさに、人間社会の在り方、人生の縮図のように感じられる。生きよ、そう生まれ落ちた瞬間から命じられているわたしたち。苦悩するがゆえに危うい均衡の中に立たされるわたしたちに、その孤独で絶望的な道を、それでもゆくしかないのだと云わんばかりに。嗚呼、生きるのだ。生きるしかないのだ。どうにかこうにかして、日々を繋ぐのだ。カフカの言葉に、わたしはそんなことを思った。

 ★映画『カフカ 田舎医者』公式サイトはコチラ

4903267679カフカ田舎医者
山村 浩二 フランツ・カフカ
プチグラパブリッシング 2007-11

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2007.12.11

弦のないハープ または、イアブラス氏小説を書く。

20061124_022 何かを創り出すということの苦悩を、垣間見た気がした。そうして、その苦悩の報われることの少なさを思い知らされた気がした。エドワード・ゴーリー著、柴田元幸訳『弦のないハープ または、イアブラス氏小説を書く。』(河出書房新社)は、物語を創作するということの苦悩を描いた作品である。デビュー作であるこの作品においても、既にゴーリー作品ではお馴染みになっている、皮肉を込めたユーモアとある種の憂鬱が感じられる。独特のタッチで描かれる線画のあちこちには、もちろん遊び心も忘れない。作中で、自身の作品に対しての評価や、大衆の作品の扱い方等、思わずにんまりしてしまうくらいにユーモアたっぷりに皮肉るのだ。

 高名な作家であるイアブラス氏は、小説を書くのに苦悩している。タイトルは既に決めていて、その名も「弦のないハープ」。途中、ワゴンセールで自身の作品を二シリングで見つけてしまうという、何とも気持ちの萎えるエピソードを盛り込みながら、読者をぐぐっと引き込んでゆく。そして、作品の表紙カバーについての“この絵。この色。最低だ…(略)醜く、下品で、理解不能…破滅的に間違ってもいる”と評するあたりも、読者としては思わず笑みを洩らしてしまう部分である。何しろ、文章には、この作品自体とそっくりな表紙を眺めているイアブラス氏の絵が添えられているのだから。きっと、このオレンジ色の本を指しての思いに違いない…。

 そんなふうに作者自身から評される表紙をよく見てみると、裏表紙には“ゴーリー氏、イアブラス氏、博識の友人”というクレジットがある。そのゴーリー氏の絵は、毛皮に白いテニスシューズを履いているという、ファンにはお馴染みのスタイルである。既にデビュー作にも自身を登場させていたことがわかって、何だかほくほくと嬉しい気がしてしまった。他にも、線画の中の文字をたどってみると、いくつも面白い発見があり、細部にわたってゴーリーの洒落っ気を楽しめる作品になっていることがわかる。とりわけ、イアブラス氏の書き出しの一文に至っては、その推敲に推敲を重ねている様子が、はっきりとわかるのが興味深いところである。

≪エドワード・ゴーリーの本に関する過去記事≫
 『敬虔な幼子』(2005-11-29)
 『エドワード・ゴーリーの世界』(2005-11-30)
 『うろんな客』(2007-8-26)

4309266991弦のないハープ またはイアプラス氏小説を書く。
柴田 元幸
河出書房新社 2003-11-23

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2007.12.08

エスカルゴの夜明け

20071204_055 この世の中に起ころうとしていること。そのすべてを受け止める。食べて、笑って、愛して、喜んで、失って、泣いて…そうやって、まるごと全部を味わい尽くすのだ。たぶんきっと、それが人生の醍醐味。たぶんきっと、それが生きるということ。蜂飼耳・文、宇野亜喜良・絵『エスカルゴの夜明け』(アートン)には、限りない人の営みを存分に味わう少女の姿が描かれている。少女はもはや、大人が思っているほどには子どもではない。いつからかいつのまにか、少女時代から別れを告げる時が訪れるのだ。物憂げな大きな目で、確かなものを見据えているのだ。少女から一人の女性へ。その境界ははっきり知れないからこそ、魅惑のものに違いない。

 <わたし>を引き取ったおじさんは、エスカルゴを食べさせてくれない。売り物だからという理由で。でも<わたし>は、知っている。夜遅くにおじさんがエスカルゴを食べているのを。別にとりわけエスカルゴが食べたいわけではないのに、心は晴れないでいる。やがておじさんのことも、毎日世話をしているエスカルゴのことも嫌になった<わたし>のところへ、男の子が訪ねてきて――。少女の内面は物憂げながら、とても潔く描かれている。ちょっとぶっきらぼうで、それでいてときどき大人びた雰囲気を漂わせて。生きることに貪欲な様が窺い知れるほどに、固い決意を秘めて。そうしてきっと、少女は女性になってゆくのだろう。今、まさに。

 この『エスカルゴの夜明け』は、宇野亜喜良の「肉屋の娘」という作品にインスピレーションを受けた蜂飼耳の詩と、蜂飼耳の書いた物語「エスカルゴの夜明け」にインスピレーションを受けた宇野亜喜良の絵が一冊にまとめられたものである。絵が先の作品と、言葉が先の作品と。いずれの作品とも、あまりにも見事に完成されているので、違和感なくするりとその世界観に浸ることができる。とりわけ、最後に収録されている「銀河」という詩の“やりなおしはきかないが やりなおすようなことなどなにもない この世には”というフレーズに添えられた黒いドレスの少女の絵は何とも言えないものがある。残酷で。美しくて。なおかつ、凛としていて。

4861930685エスカルゴの夜明け
蜂飼 耳
アートン 2006-11

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2007.12.01

踊りたいけど踊れない

20050512_44007 わたしという名の躰に閉じこめられて、いくつもの小さなわたしを見つけ出す。無数に横たわる、わたし、わたし、わたし。本当のわたしはどこにいる。本当の言葉はどこにある――。寺山修司+宇野亜喜良による『踊りたいけど踊れない』(アートン)は、寺山修司没後20年を経てから出版された大人の女性のための絵本である。寺山氏の少女の淡い初恋を描いた童話と少女の内面を綴った詩に、宇野氏が独特の妖しくも美しい絵をつけ、何とも魅惑的な仕上がりになっている。時を経ても色褪せないものがあることに、愛おしさを感じつつ、眠れぬ夜にこっそりと開きたくなる。そして、かつて少女だったことに静かな笑みをこぼすだろう。

 ある日突然、手も足も言うことを聞かなくなり、ミズエは自分の中に閉じこめられてしまう。でも果たして、言うことを聞かなくなったのは、手や足だけなのだろうか。本当は、手や足の方が正直で、それを考えている頭だけが逆らっているだけなのかもしれない。ミズエは自分の中に閉じこめられながら、そこでたくさんの小さな自分を見つけ、悩むことになる。一体本当のわたしはどこにいるのだろう、と。“あなたのことが好きです”そう一言告げるのにも、なかなか思うように事は運ばないのだった。そう、これはミズエの初恋。たよりなくも甘い初恋なのだった。ミズエは、少女が誰しも一度は通る道を今、まさに通過しようとしているのだ。

 ミズエが通る道。それは決して特別なものではないだろう。物語上だけではなく、少女たちは誰しも(或いは少年たちも、大人であるわたしたちも)、頭と躰のアンバランスに戸惑いながら、初恋を通過してきたに違いないのだ。ときには、頭で考えていたこととは別の言葉が口をついて出ては、誰かを傷つけてしまうことだってあったかもしれない。けれど悲しいかな、人は移ろいやすくできていて、かつて通ってきたはずの道筋を、あっという間に忘れてしまう。見失ってしまう。だからこそこの物語は、大人になったわたしたちにそっと囁きかけてくれる。あなたもかつて少女だったとき、こんなにも煌めくような時間を過ごしていたのだと。

4901006452踊りたいけど踊れない
寺山 修司 宇野 亜喜良
アートン 2003-04

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2007.09.02

アスピリンの恋

20070901_051 乙女ながら愛や恋に疎いわたしは、その移り気ゆえに、愛は幻想のまま、恋に恋するままがいい…などと日々考えている。かたちない想いに縛られてしまうのならば、いっそ何も叶わずに夢見心地でいたいのだ。これは憶病で勝手気ままな者の発想でしかないが、既にかの弾けるようなときめきなるものがない今、言い訳を繰り返すしかないだろう。今回、生涯恋を終わらせることのできなかったという、太宰治著『アスピリンの恋』(飯塚書店)を手に取り、文豪の真面目な恋愛論にふむふむと頷きつつ、その深みにはまった。これは「駈け込み訴え」「チャンス」「斜陽(部分)」「太田静子宛書簡」を収録した、テキストとイメージが響き合う文学アートブックなる一冊である。

 まずは「駈け込み訴え」。これは聖書をモチーフに、ユダがイエスを裏切るまでを描いた物語である。ユダの内面を通して、その一部始終とイエスへの切なる思いを綴っている。それはまさに恋にも似た感情であり、常に片想い的な満たされない想いは、やがて裏切り行為へと繋がってゆくのである。物語はユダの葛藤、言えなかった言葉たちなど、淡々と語られる聖書の裏に潜む人間の苦しみを顕わにしてゆく。小心者で、どこか憎めなくて、それでいてやはり罪人は罪人で、苦悩の人で。著者がそんなユダに心を寄せたのは、きっと同じ人間としての匂いを感じ取ったからなのだろう。聖書時代も、昭和時代も、いつの時代にも通ずる想いは必ずどこかにあるに違いない。

 続いては「チャンス」。ここで語られる大真面目な恋愛論は、少々ひねくれていて面白い。“恋というものは、チャンスによるものではない”ただそれだけのことを、くどいくらいに真摯に熱く語っているのである。たとえば、声高に恋愛論を語る前に、恋愛に夢中になる前に、恋がしたいとぼやく前に、一読する価値がありそうだ。著者曰く、恋愛とは「好色の念を文化的に新しく言いつくろいしたもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情(省略)」だという。こういう言葉で表現されると、恋愛に疎いわたしはそれだけでくらくらっとしてしまうのであるが、やはりまだ移り気ゆえに、愛は幻想のまま、恋に恋するままがいいなどと思ってしまうのであった。意気地なし。

4752260115アスピリンの恋―太宰治 [iz ART BOOKS] (iz ART BOOKS)
秋馬組★Blaue Blume部
飯塚書店 2007-07-21

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