04 井上荒野の本

2010.05.31

つやのよる

20100530_4002 愛されていたかもしれないという翳りを落として、一人の女の輪郭が少しずつぼうと浮かび上がってくる。その刹那に、その煌きに、そのゆらぎに、わたしはくらくらと眩暈をおぼえる。わたしの見知った誰かが、かつてどんなかたちであれその女と関わり合った……という、わたしの見知らぬ事実が横たわり、何とも言えぬ違和感を残してゆくのだ。容易には拭い去れないざらざらは、見知った誰かと今いるわたしの関係をほのかにゆさぶり、意識の下に眠るさまざまな感情までを呼び起こす。井上荒野著『つやのよる』(新潮社)は、病床にいてまもなく亡くなるという艶という女性をめぐる7つの物語で構成されている。第三者を通じて徐々にその存在感を大きくする艶という女は、一体どんな人物だったのか。

 艶の従兄の妻、艶の最初の夫の愛人、艶の愛人だったかもしれない男の妻、艶がストーカーしていた男の恋人、艶のために父親から捨てられた娘、艶を看取った看護師……。彼女たちの人生にはじめ、艶はいない。あまりにも唐突に、“艶”という存在が思考の中に入り込んでくる。どんな人物なのか、どんなふうに彼らは付き合っていたのか、知りたいと思いつつもそっけなく返されれば詳しくは聞けない。聞けないからこそ彼女たちはそれぞれに思い悩み、想像をたくましくする。得体の知れないわからない女ほどタチの悪いものはない。しかもその女は今まさに死にかけているというから、さらにタチが悪い。艶という女の影が落ちるほどに、よく見知った彼らはいつしか見知らぬ他人のように見えてくる。

 確かに今愛されている。その疑いようもない愛情の中にいながらも、人は100%を信じられない生き物だ。疑い出したらきりがない。小さなほころびはやがて大きな裂け目になる。それが、得体の知れない女に関することだったならなおさらのことだ。愛情であれ、憎しみであれ、何らかの執着を一度でも抱いてしまったことはなかなか消せない。人の関係性というものは相手あってのものゆえに、どちらか一方が覚えているかぎり、完全に関わりを断つこともできない。その上、艶と関係を断った後も、彼女と関わった男たちの物語は続いてゆく。そして、男たちが新たな女たちと出会えば出会うほどに物語は続いてしまうのだ。艶が死んだ後もなお、彼らの物語もわたしたちの物語も当然ながら続くのである。

 連作形式になっているこの物語。最終章だけが艶と直接的に関係のある男の物語になっていて、艶という人物像が鮮やかなまでに感じ取ることができる。それまでの物語の中で奔放に謎めいていた艶という女のイメージが、一人の女性としてどんな一生を生きたのかが最後の最後でよくわかるつくりなのだ。ダイレクトに艶自身の物語ではないにしろ、勝手に想像をふくらませてきたイメージの中の彼女が、妙なくらいに生き生きとして描かれている。確かにこの世界に艶という人物がいて、彼女と関わりあった人物たちがいて、間接的に彼女を知った女たちがいて、読み手であるわたしたちがここにいる。愛されていた、愛されていなかった……それぞれの思いを胸の中にしまって、ゆっくりそっと本を閉じる。

410473103Xつやのよる
新潮社 2010-04

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 ≪井上荒野の本に関する過去記事≫
 ・『静子の日常』(2009-08-12)
 ・『雉猫心中』(2009-03-18)
 ・『あなたの獣』(2008-12-27)
 ・『ベーコン』(2008-07-27)
 ・『切羽へ』(2008-07-10)
 ・『夜を着る』(2008-03-26)
 ・『ズームーデイズ』2007-08-12)
 ・『潤一』(2006-12-28)
 ・『誰よりも美しい妻』(2006-12-27)
 ・『不恰好な朝の馬』(2006-12-07)
 ・『ひどい感じ 父・井上光晴』(2005-10-21)
 ・『だりや荘』(2005-05-06)
 ・『ヌルイコイ』(2005-05-03)
 ・『しかたのない水』(2005-04-27)
 ・『もう切るわ』(2005-02-19)


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2009.08.12

静子の日常

20090726_007 取るに足りないこと、たわいないこと、ばかげたこと、そういったものたちは、ずばりわたしたちの日常そのものである。けれどそんな日常は、裏を返せば様々な痛快な事象に溢れている。取るに足りないことも、たわいないことも、ばかげたことも、何もかもすべてが、たくさんのおかしみを含んでいるのである。それに気づくか気づかないかは自分次第、わたし次第というものに違いない。その日常をどれだけ楽しめるかはわたしたちにかかっていると言っても言い過ぎではない。井上荒野著『静子の日常』(中央公論新社)は、老齢の静子を中心に、日々の取るに足りないこと、たわいないこと、ばかげたことを綴った物語。何しろ、広辞苑で“ばか”を一寸引いてみるところからはじまる物語なのだ。

 物語の中心となる静子は長年連れ添った夫に先立たれた75歳の女性。おちゃめな彼女は“おばあちゃん”と言われるように老いてもなお、思わぬところで注目を集めたり、信頼を得たり、フィットネスクラブで水泳を習ってみたり、息子の婚外デートを阻止してみたり、孫娘の淡い恋の応援だってしてみたりするのだ。そして、息子の嫁とはいい距離感を保って接してもいる。嫁と姑という関係でも、普通とは一寸違う。不思議な独特の方法で互いに互いを尊重し、認め合っているのである。信頼関係あってこその、さりげない関係と言えるだろう。そのさりげなさが、何とも自然で素敵なのである。押し付けがましくなくて、本当に一寸いい感じ。そんな静子さんの日常が展開してゆくのである。

 そんな取るに足りない、たわいない、ときにはばかげた日常の中でも、一寸ドラマチックな展開も待っている。静子さんが長年会うことを避けてきた男性と再会するのである。若い娘じゃないから、もうときめいたりなんてしない。決して、恋ではない。けれど、ずっと思い慕い続けてきた人物であることは確かである。チャーミングな静子さんのすることだから、それはもう素敵な、ある意味潔い結末が待っているのだけれど、取るに足りないと言われればそうであり、たわいないと言われればそうであり、ばかげていると言われればそうなのかもしれない。わたしたちの日常とそれほど変わらないと言われれば、そのとおりなのかもしれない。そう、日常なんてそんなもの…と思わせるのだった。

 けれど、日常の細かな事象に目を向けてみれば、だいたいそんなものではないだろうか。何かが過剰だったり、何かが足りなかったり、満たされるだけの日常なんてあり得ないのだ。だから取るに足りないことやたわいないこと、ばかげたことに夢中になる。どきどきしてみたりもする。笑ったり、泣いたりもするのだ。静子さんはそれを見過ごすことなく、痛快に切り取って見せてくれる。ほうら、この感じ、いいでしょう?あなたも知ってるのじゃないかしら?こんなこと思ったり感じたりしたこと、あるのじゃないかしら?そんなふうに静子さんがそっと囁いているような気がしてならない。そして、同時に思う。こんな75歳、いいなぁって。だっていろいろあって悩ましくも、とても素敵なんだもの。

4120040461静子の日常
中央公論新社 2009-07

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2009.03.18

雉猫心中

20090223_004 毒を含んだ不穏な空気のざわめきを感じながら、ページをめくる。怖いもの見たさとでも言ったらよいのか。それとも、目の前に描かれる情景から目が離せないほどに夢中になってしまったのか。わたしは怖い。けれど、知りたい。怖いけれど、最後まで知ってしまいたい…相反するふたつの気持ちと競うように、井上荒野著『雉猫心中』(マガジンハウス)を読んだ。ここに描かれる情景には、不気味さがごろごろと転がっている。こっそり餌づけした猫の姿がガラス戸に映る様子、出てくる脇役の登場人物たちの不可思議さ、一見のどかでのんびりした町に広がる噂話など、ただ通り過ぎるだけの人々も、何だか皆表面だけの穏やかさで武装しているような気さえするのだ。それほどまでに怖さが募る物語である。

 これは、ある男と女の破滅的な愛を描いた官能の物語だ。いや、愛など元々はなかったのかもしれないが、男・晩鳥睦朗は妻や娘がいながらにして、女・大貫知子も夫がいながらにして、互いを貪るようになってゆく。ふたりはときどきストーカーっぽい行動を犯しながらも、互いに夢中になる。そうすることがしごく真っ当なことであるかのように。そのふたりを出会わせたのが、一匹の雉猫であり、晩鳥がヨベルと名づけた猫である。互いを貪りながらも奇妙なことに、甘い囁きも幸福感もあまり描かれない。飢餓感と虚しいほどの寂しさは溢れているというのに。だから、愛と呼ぶにはあまりにも違和感があり、恋と呼ぶにも違和感があるのだろう。描かれるのは、生身の人間同士の付き合いである。

 この物語の構成は、プロローグ、知子の視点で語られる第一部、晩鳥の視点で語られる第二部、エピローグとなっており、それぞれの感情の蠢きを知ることができる。ただでさえ複雑に絡み合う人間の心理を、いともたやすく浮き彫りにするこの描き方は、第一部での知子の言い分が第二部の晩鳥の言い分で覆されたり、どちらがどうなのか真偽のほどがわかならかったり、どうしようもないふたりの行く先を示してゆく。読み手は当然、同じ場面に二度立ち会うことになるわけだが、ふたりでいながらにしてそのあまりの温度差の違いに愕然となることだろう。そして、一緒にいながらにして見える景色の違いにも驚きを隠せない。ああ、これが男女間にはびこる問題の根源なのか…と思ってしまう。

 そもそも、何かを見て同じことを思い、同じことを感じる相手というものは、そうそういない。だから、晩鳥と知子のようなそれぞれの視点は、人間関係において当然のことなのかもしれない。女ははじまりの話が好きであり、男ははじまりの話が好きでない…という知子の考えや、“はじまりには終わりがあって、終わりにははじまりがある”と自嘲気味に常々感じていた晩鳥の言葉が象徴的だ。どうしようもない、しかたがない。ふたりの関係をそう簡単に片付けることはできてしまう。けれど、ふたりのそれぞれの言い分の違いに愕然としつつも、ひそやかな期待は捨てずにいたいと思うのだ。夢見がちにも、どこかに同じものを見て同じことを思い、感じる人がいると。きっと、どこかにはいる、と。

4838719507雉猫心中
井上 荒野
マガジンハウス 2009-01-22

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2008.12.27

あなたの獣

20081206_004 つかまえられそうでつかまえられない、このもどかしさをどう伝えよう。とらえどころのない一人の男の物語は、どこにでもいそうで、なおかつどこにもいなさそうで、人と人との圧倒的なわかりあえなさを痛感させる。それはわたしが女だからかもしれないし、この世界に同じ人間が二人といないせいなのかもしれない。櫻田哲生という一人の男をめぐる物語である、井上荒野著『あなたの獣』(角川書店)は、人の一生の長さを思えば十のそれぞれの切り口は潔いまでにあっけなく、どうかするとするりと淡く消え入りそうになる。それは、わたしたちの人生の儚さを象徴するかのようでもあり、わたしたちの存在そのものの危うさを痛いほどに鮮明に感じさせるものでもある。

 櫻田哲生という男の生涯って、一体何だったのだろう…読み終えてわたしはそんなことばかり思い返していた。彼は典型的とも言えるダメ男であったから。結婚した理由も実に曖昧で、自分の子供が生まれたというのに、ベランダでぼーっとしてビールなんか飲んでいる。仕事場でも店長というポストにいるのに、若い店員に軽んじられている有り様。捨てられて、またどこかで誰かと出会い、繋がってゆく。そうしてときには、一人の女にひどく執着してみたりもする。それでもなぜかモテてしまう。女はきっと、放っておけないに違いない。なぜか櫻田哲生という人生に足を踏み入れたくなってしまうのだ。ダメ男ほど愛おしくて、愛すべき存在はいないとでもいうように。恐るべし、櫻田哲生。

 だが、やはり女であるわたしは最後の最後まで櫻田哲生の物語に寄り添い共感しつつも、彼の本当の姿が見えてこなかった。男という生き物の謎を、女が一生かけてもわからないのと同じように。つかまえられそうでつかまらない。何とも言えぬもどかしさを胸に、このどこにでもいそうで、なおかつどこにもいなさそうな男の人生の断片を読み進めるしかなかった。そうして、ふと自分の人生を思うとき、わたしの一生というものも誰かにとってはきっとこんなものなのではないだろうかとさえ感じていた。ああそうだ。たぶん、わたしもとらえどころのない日々を生きているのだと。今この一瞬さえ、きっとわたし以外の誰にも、いや、わたしさえもとらえどころのない最中にあるのだと。

4048739018あなたの獣
井上 荒野
角川グループパブリッシング 2008-11-29

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2008.07.27

ベーコン

20080724_001 “食べる”という行為は、食べている当人が思っている以上にいやらしく、エロティックなものだ。それはある種、人間の最たる欲求のひとつであるからで、ものの食べ方で、その人となりがわかってしまうことだってあるし、食欲と性欲を切り離して考えることはなかなか難しいからだろう。井上荒野著『ベーコン』(集英社)は、そんな“食”と“性愛”に纏わるテーマを中心に、九つの短編を描いている。わたしたちが生きる以上、切っても切り離せないテーマだ。描かれている日常は、ささやかな一コマに過ぎなくとも、そこにはいつだって食べ物の記憶が混ざっている。どれほど悲しくても、つらくても、しんどくても、欲求は疼く。そんな人間の滑稽さが、何だかとてもせつなくなる。

 取り上げられている食べ物は、ほうとう、ミートパイ、アイリッシュ・シチュー、カツサンド、煮こごり、ゆで卵のキーマカレー、水餃子、目玉焼き付きトースト、ベーコンなど。どれもこれも、食にこだわりのないわたしとしては、読みながらその味わいを想像するしかないのだが、その食べ物の背景にある物語を思うと、胸がときどき息苦しくさえなる。「ほうとう」の不倫している主人公のあまりのせつなさに、「アイリッシュ・シチュー」を煮込みながらも衝動的に浮気に走ってしまう主婦のふいに襲う虚しさに、「大人のカツサンド」の少女が大人の事情に振り回されつつも何とか自分を保っているところに、「父の水餃子」の少年の父親との最後の思い出が僅かしかない、ということなどに。

 表題作「ベーコン」では、天涯孤独となった主人公が結婚を控えて、かつて家を出て亡くなった母の恋人のもとへと訪ねていく。婚約者にいつかそのことを話すべきかどうか迷いつつも話せない葛藤と、自分ですらいまだ理解できない行動に戸惑う主人公の女性の姿に思わず心寄せてしまう。繰り返し思い出される鮮明なほどの光景。そこに確かにあった視線。その繊細な描写にうっとりしてしまう。もちろん、ベーコンに対する描写も、魅力的である。食べたい。そう切に願ってしまったほどである。そうしてふと考える。わたしは一体どんなふうにものを食べているのだろうかと。できる限りそれが上品であることを願いつつ、相も変わらずもの喰らう人でありたいと思う。生きている限り。

408774891Xベーコン
井上 荒野
集英社 2007-10

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2008.07.10

切羽へ

20080704_018 知らず知らずのうちに傾いでゆく思いと、確固たる守るべき思いと。その狭間で揺れながら、危うい均衡を保ってゆく。誰かに気持ちを寄せる、ということがこんなにも甘美でエロティックであることなどつゆしらず、女は気がつけば視線を向けているのだ。姿形、言動、そのすべてを一瞬一瞬逃すまいとするみたいに。井上荒野著『切羽へ』(新潮社)には、主人公のそんな視線がとりわけ印象に残る。そこには、無防備な姿を晒した誰かがいて、明らかに主人公から目をそらした誰かがいる。それでも見つめる。だからこそ見つめる主人公の視線は、いつしか読み手自身の目となり、物語全体をまるごと全部包み込むみたいな心地になるのである。

 物語は、廃墟の残るかつては炭鉱が栄えた小さな島が舞台。31歳の養護教諭のセイは、画家である夫と穏やかな生活をしていた。そこへ音楽教師の石和が赴任してきたことで、島の空気全体が変わってくる。島の人々には良きも悪しきも島人ならではの接し方があるのだが、やはり石和の存在は明らかに異質の存在だ。そんな流れ者のような石和に惹かれてゆくセイ。出会った瞬間から心ざわめいたのにもかかわらず、その心のうちだけに秘められた思いを、物語はただひたすらに彼女のモノローグとして語り続ける。セイの同僚で奔放な月江とその恋人の“本土”さんの恋の行方、セイの亡き父の診療所の常連だったしずかさんの存在も、物語の大きな核となっている。

 この物語には、劇的な展開は起こらない。ただ主人公のセイがひたすらに思いを募らせるばかりだ。石和に対して。そして、夫に対しても。そのあまりの切実なる思いに、ぎゅうっと胸がしめつけられる。それはきっと、わたしがセイほどに誰かを見つめたことがないからかもしれないし、誰かに強く惹かれたことがないからかもしれない。募る思い。けれど、何も起こらない恋。こころのうちだけで起こるその葛藤や蠢きに、ひとつ大きなため息がこぼれた。ちなみに、“切羽(きりは)”とは、炭鉱の坑道の先端の石炭を掘り出す場所のこと。“先に進めないほどの究極の恋愛”という意味で用いられているそうだ。出口の見えないこの思いの終着は、そっと胸にしまおう。

4104731021切羽へ
井上 荒野
新潮社 2008-05

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2008.03.26

夜を着る

20070323_005 ざわざわ。心がざわつく。湿り気を帯びながらもざわつく心は、戸惑いを隠せない。こんなにも誰かの心のうちを知ってしまってもいいのだろうか、と。こんなにも誰かの心に踏み込んでもいいのだろうか、と。次々と吐き出される内面の吐露の数々は、どうしようもなく戸惑う思いをよそにぐいぐいと引き込み、読み手であるわたしまでもが、その心情を顕わにしたくなってくる。井上荒野著『夜を着る』(文藝春秋)に収録された旅にまつわる8つの短編は、どれもそんなふうに感情を揺さぶるものだった。登場人物たちの繰り広げる日常は鮮明に浮き上がり、いつしか語り手に寄り添うように思いを傾けていることに気づく。そこには性差もなく、大人子どもの区別もない。

 二度目の堕胎を終えたばかりの若い恋人たちの姿を描く「アナーキー」。女子高生が学校をさぼり、見知らぬ街をあてもなくさまよう「映画的な子供」。年齢を意識し始めた中年女性が夫婦の岐路に立たされ、短い旅に出る「ヒッチハイク」。教え子との恋に破れたのち、殺人現場へと向かう男を描いた「終電は一時七分」。詩人だった父親のスキャンダルに疲れた母と娘が向かったI島での数日を描く「I島の思い出」。夫の浮気の尻尾を掴もうと、妻が隣家の男と共に夫の旅先へ向かう、表題作の「夜を着る」。二組のカップルが卒業旅行で向かったパリで教授の死を知る「三日前の死」。父親の葬式で、その愛人との懐かしい夏の日を回想する「よそのひとの夏」を収録している。

 いずれの作品にも通じているのは、その心理描写の巧みさである。とりわけ、「映画的な子供」で描かれる思春期の少女の心の揺れは、読み手までもがどきどきはらはらさせられる。この作品の中で、最も印象的なスカートのほつれを見知らぬ男性に指摘される場面では、妙なくらいのリアリティとエロティックさを感じずにはいられない。たかがスカートのほつれ。されどスカートのほつれ、である。小さな出来事が、大きく少女の心を揺らしたのを、わたしは確かに目撃した気になったのだった。もちろん、指摘した方の男性の気恥ずかしさも、じわりと伝わってくる。そうして、どうかすると呑み込まれそうな日常の中で、少女は確かに息づいていたように思うのだ。

4163267506夜を着る
井上 荒野
文藝春秋 2008-02

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2007.08.12

ズームーデイズ

20070507_033 同じ重さだったはずの、ふたつの恋。どちらに依存するわけでもなく、どちらかを愛するわけでもなく。奇妙ながらそうやって、均衡を保っていたはずだった。けれどそれは、理屈の上でのことで、本当は違っていたのだ。だからときどき考えてみる。“だって私はどちらのことも愛していないし、どちらからも愛されていないんだもの“と。井上荒野著『ズームーデイズ』(小学館)は、既婚者との辛い恋と年下の男性との安らかな恋の狭間で揺れる、定職に就かない30代の女性の物語である。30歳からの7年もの恋愛は、忘れられないかけがえのない日々として、切々と綴られてゆく。その名も、ズームーデイズとして。これは年下の恋人の愛称・ズームーからきている。

 恋愛において微妙な立ち位置にいる主人公であるが、社会的に見ても、一人の女性としても、その立ち位置は変わらない。いや、変わらないどころかますます居場所のない立場に追いやられてしまう。とりわけ印象的なのは、主人公が親元で同棲を始めるあたりである。スイミングプールに通うことになった主人公は、そこで同年代の女性たちと知り合うことで愕然となるのだった。多くの女性は結婚していて、子どもがいる。そして彼女たちは、確かに“生活している”と。そこには、主人公がいくら繕っても繕いきれない決定的な違いがあったのである。生活するということは、何て困難なのだろうと、ひどく思い知らされる部分だ。そういうわたしも、胸が痛い。

 また、この主人公の依存的な傾向も印象に残る。あるときはスイミングに、あるときは美顔に、ズームーに、愛人になることに…と、とにかく事ある事に何かに夢中にならずにはいられないのだ。そこにわたしは、生活に対する焦りのようなものを感じて、自分のことのように苦しくなってしまった。主人公は結婚していない。定職にも就いていない。たった一人の人を選ぶこともできない。それでも、自分の進むべき道を一応は模索しつつ、今できることをしていた…わたしはそう思いたいのかもしれない。思うことで救われたいのかもしれない。主人公が救われるように祈るのではなくて。そして、こんなにも我が侭で身勝手な思いが、いつか報われるようにと。

4093861633ズームーデイズ
井上 荒野
小学館 2007-07

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2006.12.28

潤一

20061124_029 時間は流れてゆく。特別なことと、何気ないことを繰り返して。たいていの何気ないことは、特別なことに負けてしまうけれど、それでもほんのささやかな出来事は、わたしたちを確実に変化させてゆく。無意識のうちに。そっと。ひそやかに。ときには、あっという間に。そういう時間は後になってからじわじわと染みてくるもので、その時にはきっと誰もがわからない。ふとした瞬間に思い出すのだろう。そういえば、あんなことがあった。こんなことがあった。あの時のわたしはああだった。こうだった。今となっては可笑しいくらいね…なんていうふうに。井上荒野著『潤一』(新潮文庫)は、そんなとどまることを知らない時間の流れを感じさせる連作短編集である。

定職に就かずにふらりと漂うように生きる男、潤一。彼は数々の女性を魅了してしまう。どこにでもいそうな、けれどいなそうな、“濃い匂いをたてる南国の果実を連想”させるような、華奢な骨格の、藁色をした髪の青年だ。物語は、潤一をめぐる九人の女性たちを描いてゆく。いわゆる不良と分類されるべき存在の彼が、なぜもこんなにもモテるのか。彼に出会った途端になぜ、女性たちは心を許し身体を許してしまうのか。その不思議が常につきまとう展開である。物語の中盤まで、わたしはその問いの答えを見出せずにいた。特にその潤一をめぐる女性たちの心理というものがわからなかったのだった。しかし、同時に、その女性たちよろしく潤一に惹かれてもいたのだった。

 惹かれる。その不思議は、日常に隠されていると言ってよいと思う。どの女性たちも皆、退屈な生活を送っている。何気ない日々に埋もれるように、その苦痛に耐えるかのように生きているのである。そんな時、ふっと潤一が現れる。ひょうひょうと、それでも圧倒的な存在感を持って現れるのである。彼を見つめずにはいられない。彼から目をそらさずにはいられない。そして、彼もまた、それに答えるかのように、彼女たちに引き寄せられてしまうのである。恋心にも似た、その感覚。そのつかの間の時間。女性たちは、潤一に救われる。いや、救いを見出しているように思える。だから、潤一という男性に翻弄されているのは女性たちではなく、他でもない潤一本人なのかもしれない。

 一方、肝心の潤一はと言えば、ただ時間に流されているだけなのである。気ままに足の向くままに、その流れに身を任せて。求められれば、それを受け入れる。望まれれば、それに答える。そうやって現れては、ふらりふらりと去ってゆく。なんとも宙ぶらりんな状態なのであった。それでも、女性たちは彼に惹かれる。彼にずっととどまっていて欲しいとは思わないからこそ惹かれる。一瞬でもほんのささやかな時間だけでも、彼との共有した時間があればそれで満足なのである。きっと、虚しいのは潤一である。けれど、彼は彼なりに生きるしかない。潤一はあくまでも潤一。そう生きるのが、彼の運命なのかもしれない。そして、そんな彼に惹かれてしまうのも、運命の為せるワザというものなのだろう。

4101302510潤一
井上 荒野
新潮社 2006-11

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2006.12.27

誰よりも美しい妻

20061017_007 幸せと不幸せを天秤にかけるとしたら、わたしは間違いなく不幸せを選ぶだろう。生と死だったら、迷わず死を選ぶだろう。実際問題としては幸せを望みたいし、生き抜いてみたい気持ちはある。けれど、幸せになることに慣れていないわたしは、正直それをひどく怖いと感じている。生き抜く上での確固たる覚悟のようなものが、希薄でもある。だから、井上荒野著『誰よりも美しい妻』(マガジンハウス)を読みながら、ただただ圧倒されてしまった。その確固たるものに。その確信に。その自信に。タイトルの“美しい”というのは、表面的なことではなくて、きっとまさにそういう内面の強さのことなのではないか、と痛烈に思ったのだった。そしてそれは、確固たるものに対する憧れでもあるのだろう。

 美しい妻である園子は、ヴァイオリニストの夫と暮らして十二年になる。夫との間には息子がいる。けれど、夫には先妻がいて、若い恋人もいる。そして、ひそやかながら園子に心を寄せる夫の親友もいる。そんな境遇の中で、それぞれに孤独があって、迷いがあって、何よりも強い愛がある。もちろん、淡い恋もある。園子を中心にして語られる物語は、ゆるやかにもしっかりと、それを伝えてくる気がする。そして、その匙加減がなかなか絶妙なものだから、ぐいぐいと引き込まれ、後半部分では実にはらはらさせられ、ときどき園子と一緒に夜に浸りたくなってしまうのだった。わたしにとって、眠れない夜ほど孤独を感じさせられるものはないし、その心を埋めるのは園子と同様に本だからである。

 眠れぬ夜。園子は本を読む。本の世界に浸っていられれば、現実を忘れることができるから。本は睡眠薬的役割をもたらして、時間を埋めてくれるから。うまくゆけば本を読みながら、夢だって見られるのだ。園子は、そうして眠れない時間と読書の時間とを同じように考えて、自分自身を睡眠過多なのではと考える。あるときは、本を読むことを中毒症状のようにすら感じている。そして、むさぼるように本を読む自分は、死へ向かっているのかも知れないとすら思うのだ。その思考回路は、まさに読み手であるわたし自身と重なっていて、なんともはっとさせられ、同時に安堵させてくれた。本に求める自分の思いが不思議なことではなく、園子の弱い部分を垣間見た気がしたからである。

 そう、先にも述べたように、園子は強い女性である。外見だけじゃなくて内面も強い女性なのである。不埒な夫が戻ってくる場所は、自分のところであることを確信している。自分の美しさを知っている。その確固たる自信の中に、ふと見つかる弱さ。それもまた、園子を美しく思わせる。何にもならずに、ただ夫の妻となった女性。そして、それを疑わない女性。ときどきはそんな日々を取り戻したいと思いつつも、それでも信じ続ける女性。死を持って、生を祈るような女性。同時に生を持って、死を祈るような女性。そんな確固たるものを感じさせる姿は、やはり凛としていて憧れる。ただ、これは読み手であるわたしの主観だ。“美しい”の基準は人それぞれであるのだから。

483871632X誰よりも美しい妻
井上 荒野
マガジンハウス 2005-12-15

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