静子の日常
取るに足りないこと、たわいないこと、ばかげたこと、そういったものたちは、ずばりわたしたちの日常そのものである。けれどそんな日常は、裏を返せば様々な痛快な事象に溢れている。取るに足りないことも、たわいないことも、ばかげたことも、何もかもすべてが、たくさんのおかしみを含んでいるのである。それに気づくか気づかないかは自分次第、わたし次第というものに違いない。その日常をどれだけ楽しめるかはわたしたちにかかっていると言っても言い過ぎではない。井上荒野著『静子の日常』(中央公論新社)は、老齢の静子を中心に、日々の取るに足りないこと、たわいないこと、ばかげたことを綴った物語。何しろ、広辞苑で“ばか”を一寸引いてみるところからはじまる物語なのだ。
物語の中心となる静子は長年連れ添った夫に先立たれた75歳の女性。おちゃめな彼女は“おばあちゃん”と言われるように老いてもなお、思わぬところで注目を集めたり、信頼を得たり、フィットネスクラブで水泳を習ってみたり、息子の婚外デートを阻止してみたり、孫娘の淡い恋の応援だってしてみたりするのだ。そして、息子の嫁とはいい距離感を保って接してもいる。嫁と姑という関係でも、普通とは一寸違う。不思議な独特の方法で互いに互いを尊重し、認め合っているのである。信頼関係あってこその、さりげない関係と言えるだろう。そのさりげなさが、何とも自然で素敵なのである。押し付けがましくなくて、本当に一寸いい感じ。そんな静子さんの日常が展開してゆくのである。
そんな取るに足りない、たわいない、ときにはばかげた日常の中でも、一寸ドラマチックな展開も待っている。静子さんが長年会うことを避けてきた男性と再会するのである。若い娘じゃないから、もうときめいたりなんてしない。決して、恋ではない。けれど、ずっと思い慕い続けてきた人物であることは確かである。チャーミングな静子さんのすることだから、それはもう素敵な、ある意味潔い結末が待っているのだけれど、取るに足りないと言われればそうであり、たわいないと言われればそうであり、ばかげていると言われればそうなのかもしれない。わたしたちの日常とそれほど変わらないと言われれば、そのとおりなのかもしれない。そう、日常なんてそんなもの…と思わせるのだった。
けれど、日常の細かな事象に目を向けてみれば、だいたいそんなものではないだろうか。何かが過剰だったり、何かが足りなかったり、満たされるだけの日常なんてあり得ないのだ。だから取るに足りないことやたわいないこと、ばかげたことに夢中になる。どきどきしてみたりもする。笑ったり、泣いたりもするのだ。静子さんはそれを見過ごすことなく、痛快に切り取って見せてくれる。ほうら、この感じ、いいでしょう?あなたも知ってるのじゃないかしら?こんなこと思ったり感じたりしたこと、あるのじゃないかしら?そんなふうに静子さんがそっと囁いているような気がしてならない。そして、同時に思う。こんな75歳、いいなぁって。だっていろいろあって悩ましくも、とても素敵なんだもの。
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