07 江國香織の本

2009.07.18

カエルの王さま グリム童話 あるいは鉄のハインリヒ

20090615_4041 少女は、いつまでも何でも言うことを聞く可愛いお人形ではいられない。いつかは今いる場所から巣立って、成長するときがくるのだ。自分自身をさらけ出し、父親の支配を断ち切り、一人の人間として、自立した人間として、少女から大人の女性へと変容のプロセスをたどるのである。江國香織文、宇野亜喜良絵『カエルの王さま グリム童話 あるいは鉄のハインリヒ』(フェリシモ出版)は、一見メルヘンな童話に思えるが、深読みすると、自分の中の醜い面ととことんまで向き合わされる物語である。抑圧された自分の心、今まで枠にはめられてきた思いを痛感し、もっと楽に自分を表現してもよいのだと言っているかのようにも思えてくる。物憂げなお姫さまの表情が何とも言えず、よい。

 物語ははるか昔のこと。一人の王様のとびきり美しい末娘のお姫さまが、鬱蒼とした森の中で金色の毬で遊んでいると、その毬を底が見えないくらい深い泉に落としてしまう。泣きじゃくっているお姫さまの前にやってきたのは一匹のカエル。そして、お姫様は、毬を取ってくれたら、カエルを相棒にすることを約束してしまうのだ。毬を無事手にしたお姫さまは、カエルを置いてさっさと逃げ帰ってしまうが、次の日になるとカエルが玄関まできて要求を迫る。“約束したことは実行しなければならん”という王様の言葉のままに、従うだけのお姫さま。カエルの要求は強引で権威的で狡猾である。やがて、お姫さまは激しい怒りを覚えて、とうとうある行動に出ることになるわけだが…果たして…。

 この物語のお姫さまは、男性社会の中で父、つまりは王様の可愛い人形としての教育を受け、自分らしさを抑圧されて疎外してきたと考えていい。だからこそお姫さまは少女のときを鬱蒼とした森の中で一人過ごすことに、喜びを見出していたのかもしれない。そして、金色の毬を泉に落としてしまったとき、石の心を揺さぶるほどに泣きじゃくることができたのではないだろうか。そうして、魔法をかけられたカエルとの関わりが始まるのである。また、お姫さまは興味深いことに、毬を取ってきてくれたお礼に、自分の服でも、真珠でも、宝石でも、金の冠でもあげると言ったのである。金色の毬は、日頃押し殺している自分の分身のような、唯一の慰め物のひとつだったのかもしれないのだ。

 けれど、カエルが欲しいのはそんなものではない。お姫さまからの愛情や親密さ、特別な関係である。人間がすぐに欲しがるようなものではなく、心や関係性を求めているところに注目したい。それでもやはり、どこまでもずうずうしい支配的なカエル、そして理不尽な王様に、お姫さまの怒りは爆発する。この物語では、お姫さまが自分自身を取り戻して、自分に正直になり、感情をさらけ出すことで、一人の人間として自立して現実に向き合うという、少女から一人の女性としての変容のプロセスが描かれているのである。もちろん、結末はするするとハッピーエンドへと転じるのであるが、そこまでの過程が、何とも切なく、どこかもの悲しく、自分の中の醜さを痛感させられるのだった。

489432492Xカエルの王さま―グリム童話 あるいは鉄のハインリヒ (おはなしのたからばこ 3)
宇野 亜喜良
フェリシモ 2009-07

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2008.05.13

夕闇の川のざくろ

20070514_009 ぐるぐると渦巻く嘘の中で思う。わたしはこの嘘の世界がとても好きだと。そうして、嘘の中に埋もれて、いつまでもいつまでも浸っていたいのだと気づく。嘘の世界。それは虚構。あるいは物語。けれど、そこに見え隠れする物事の本質は、わたしの暮らす現実よりもより真に迫ってくるようにも思えるから不思議だ。江國香織著、守屋恵子絵『夕闇の川のざくろ』(ポプラ文庫)に描かれる嘘は、孤独な一人の女性・しおんの姿を浮き彫りにする。“人なんてもともとほんとじゃないのよ”そう言って、次から次へと嘘の物語を紡ぎ出す彼女に振り回される幼馴染みの<私>。読み進めるうちに、<私>同様にいつしかしおんの心に寄り添いたいと思っている。

 しおんはこうも言う。“物語の中にしか真実は存在しないのよ”と。そして、現実なんてちっとも意味がない、とも言うのだ。なぜなら現実は作為的な錯覚にすぎず、人はみな物語に便乗して、知り合いのようなふりをしてうろうろしているから、だと。すべては錯覚。そんなふうに考えることが、どれほど寂しく悲しいことなのか、物語に添えられているしおんの物憂げな表情を見つめるほどに胸をしめつけられる。だが、これこそまさに真実をついている言葉ではないだろうか。誰かを信じるということ。それは、不確かなものを信じようとする意思からはじまる。裏切られて傷つくのは、裏切られないという錯覚が為せるもの。わたしたちは日々たくさんの錯覚の中で生きているのだ。

 また、この物語の魅力は、しおんの語る物語に耳を傾ける<私>もまた、嘘の中に生きている、というところにある。噛みしめるように、繰り返し物語を読んでみると気づくそれは、どうかすると見逃しがちなほどにささやかで淡い小さな嘘だ。この小さな小さな嘘に呑み込まれそうになるとき、この物語にすっぽりと閉じこめられて、わたしはぐるりぐるりと大きな嘘の中に埋もれてゆく。そうしてわたしは現実逃避のように、こうして物語に浸ることの罪悪感も忘れて、そこに深く横たわる真実を見出そうと躍起になる。日常の中に無数にある作為的な錯覚によらない真実を。確かなものとしての真実を。どこかにある本物の真実を一つくらいは手にして、全身全霊で信じてやろうと。

4591102963夕闇の川のざくろ (ポプラ文庫 え 1-1)
江國 香織 守屋 恵子
ポプラ社 2008-04

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2007.04.21

ぬるい眠り

20050223_007 どんなに深く葬り去ったとしても、どこかにこりっとしたしこりは残るものなのだと思った。ふと眠りにおちようとした瞬間だとか、ぼんやり佇んだ風景の中だとか…なんのことはない日常の1コマに、それはするりと入り込む。そして、いつまでもじくじくと疼いては、わたしを孤独にさせる。しばし無気力にもさせる。けれど、同時にそういう時間もなかなかどうして悪くないものだと、わたしに思わせたのは、江國香織著『ぬるい眠り』(新潮文庫)という1冊だった。かけがえのないもの。例えば恋であれ、友人であれ、他のものであれ、「葬り去る」イコール哀しみや孤独だけではないことを、伝えているから。しこりがいつしか糧になること。それを信じてみたいと思わせたのだった。

 表題作「ぬるい眠り」。これは、別れの物語である。恋人と別れても、冷静でいられるはずだった主人公の揺れ動く想いが、複雑ながら心地よく展開してゆく。別れてから、募ってゆく恋人への想い。そうして、生まれだした新たなる衝動。かなり強がりで、わがままなところが、なんだか妙に親近感を抱いてしまった。読みながら常に感じていたのは、嗚呼、この人は女の人なのだなぁということ。女の子でもなく、女性でもなく。やっぱり女の人というのが、しっくりくる気がしたのだ。少し哀しくて、ほんのりとあたたかで、あまりにも切ない。恋愛というのは、不毛なだけじゃなくて、たくさんの感情を引き出してゆくものなのだと、改めて知った気がした。

 続いては「清水夫妻」。主人公がひょんなことから知り合いになった夫婦は、なんとも風変わり。新聞の死亡欄をこまめにチェックし、見ず知らずの人の葬式に出かけてゆくことを常としている夫婦だったのだ。主人公が徐々に影響を受けてゆく様子が、とても可笑しい。物語の全体像としたら、すごくゆるりと流れる時間があって、そんな中でも伸びやかに成長する登場人物がいて、ほのぼのとした気持ちで読めてしまう。実はその裏に、人生における重大事項なんかも含まれているのだけれど、主人公はさらっと流してしまう。そこが、なんとも読んでいる側としては心地よくて、潔くて、頼もしくも思えて、わたしは純粋にいいなぁと思ったのだった。

 最後に「ケイトウの赤、やなぎの緑」。この物語は、著者の『きらきらひかる』の10年後を描いたもの。10年という月日の移り変わりが、じわじわと読み手に伝わってくる展開だ。『きらきらひかる』で主人公だった笑子と睦月は、ほんのり登場するだけの脇役になっているが、その存在感(特に笑子)は変わらないどころか、強まっている気がする。笑子と睦月の家に集う、ゲイの男たちとその姉らの、かけひきのようなやり取りにドキドキしながら、柳の木が出てくる結末で、深く頷ける物語。物語にも確かに時間が流れ、景色も人も変化してゆくということ。当たり前ながら忘れかけていた、そんな事実をこの物語に、こっそり教えられた気がしている。

4101339236ぬるい眠り
江國 香織
新潮社 2007-02

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2006.12.01

草之丞の話

20060712_008 もどかしくて、愛おしくて、ほんのりと哀しくて。いくら思い合っていようとも、別れというのは突然やってくる。不意をついてやってくる。そんな儚くも淡い夢の出来事のような物語が、江國香織・文、飯野和好・絵による『草之丞の話』(旬報社)である。以前、活字だけでは『つめたいよるに』(新潮文庫)という短編集で読んだことのある物語なのだけれども、絵本版の方は、また違った意味で味わい深い。強いまなざし。強い思い。確かに在る、という感覚が鋭利なまでに胸に響くのだ。ずん、ずん。まさにそういう雰囲気を醸し出して、読み手をぐいぐい引き込んでくる。この物語は、こんなにも強かったのだっけ。こんなにも奥深いものだったっけ。そう驚かされたわたしだ。

 草之丞。彼は侍である。しかも、幽霊である。母と子二人きりの生活を、ずっと見守り続けた男でもある。幽霊ながら恋をし、今を生きる女性を愛し、そして子をつくった草之丞。十三歳となった息子の前に突然現れた草之丞は、まるで長く暮らした家族のように僅かばかりの日々を家族そろって過ごす。けれど、侍のいた時代ではきっと十三歳という年齢はもう一人前なのだろう。息子に愛する女性をたくすように別れを告げる日がやってくる。そう、彼はやはり幽霊なのだった。アジが大好きな、侍の男なのであった。加えて、男の中の男なのだった。だからこそ、潔い。見事なまでに、潔い。女の涙で揺らぐような男ではないのだ。決めたことは実行する。なんともいい男なのだった。

 物語は、息子の視点から描かれているのだけれど、わたしはどうやら草之丞に惚れ込んだ母親目線に近い状態で、読んでしまったようだ。命日にそっとアジを持って、五月には供養をかかさない姿。ひっそりと、こっそりと、でも切実に誰かを想いながら生きている凛とした姿。女手一つで暮らしてきた強さを持ちながら、ただ愛する。生を選んで、ただ愛する。そこにはきっと、いつでも見守っているはずの草之丞の姿があったのだろう。確かな存在ではなくとも、幽霊であろうとなかろうと、ただ愛する。その大人の愛。これは、気高き愛に違いなく、わたしの知らない愛なのにもかかわらず。草之丞に惚れていた。草之丞に愛された女のごとく、いつのまにか包まれた心地になっていた。

 在る。そう感じたのは、きっと絵本版だからこそだ。草之丞と彼が愛した女性の見つめ合う表紙。まずは、そこからこの物語の強さを思わせてくれる。声なく佇み、じっと見つめ合う。その時間の長さをも感じさせるような絵なのだ。視線が強い。いつでも強い。嗚呼まさにこれこそ、草之丞だ。そう納得させられる。そして、その生き様を、その心持ちを、そのぬくもりをも感じさせてもくれるのだ。絵の力というものに、圧倒される。淡く儚げな物語が強さを持ち、凛々しさを増す。もどかしくて、愛おしくて、ほんのりと哀しくて。でも、それだけじゃない何か。それだけじゃ終わらない何かを、ふと思ってしまう。あれこれと思考をめぐらせてしまう。これは、そんな一冊なのだった。

4845106612草之丞の話
江國 香織
旬報社 2001-07

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2006.06.18

日のあたる白い壁

20060616_44009 “美術館にいくのが好きです”そんな言葉からはじまる、江國香織・著『日のあたる白い壁』(白泉社)。この本を手に取ったのは、そんな一文に思わずうんうんと深くも熱く、頷いてしまったからだった。たいした知識もない。名作と云われても、ぱっと画家とその作品とが結びつくこともない。無知なわたしだ。けれど、あのしんとした緊張のはしる独特の空間は、なんともたまらなく小さな頃から好きだった。ずっと変わらずに好きだった。本屋よりも図書館よりも、本当はずっとずっと長くいたいと思える場所だった。感性と色彩とその存在感が圧迫的に押し寄せるとき、立っていられないほどの眩暈に襲われるまでは。そう、これはかつてのわたしの想いだ。けれど、恋い焦がれるのは続いているはずだ。たぶん。きっと。確かに。

 ゴッホ、ゴーギャン、マティス、ムンク、セザンヌなどなど、24もの画家たちと、それに纏わる言葉たちがきらめく、この本。わたしにとっては、ほとんどが馴染みのないものばかりだったけれど、著者のセレクトした作品の数々に、うっとりせずにはいられなかった。特にボナールの「入浴」。半身浴くらいの少なめの湯に風呂好きの妻が、首から下すべてを漂わせている絵だ。水の中にある肢体に、不安と神秘を見つけてしまった気がして、無防備ゆえのそんな感じ方を、少しばかり恥じ入るように、わたしはいつまでもそのページを見つめていた。バスタブの中にいること。それが、こんなにもさまざまに心を掻き立てるなんて。日常の1コマには、未だ気づかぬままの魅力がたくさんなのかもしれない。

 また、この本には印象深い問いかけがある。“今住んでいる家に絶対に飾らなくてはならないとしたら、どの絵をもらうか”というものだ。もちろん、財産として所有するだけだとか、売るとかいうのも駄目。著者の友人の問いは、なかなか、ムツカシイものである。そこで、著者は思考をめぐらせる。“くれるといわれても断る絵を、どうしてわざわざみにいって、いいと思ったり好きだと思ったりするのだろう”と。そして、ふと気づく。実際の所有と、もうひとつの種類の所有があるということを。わたしはここで紡がれた著者の想いがたまらなくいとおしくて、キュンと胸がなった。そして、数年前の出来事を鮮明に思い出した。友人と出かけた、美術館での出来事を。

 それは、冬の近い秋だった。秋晴れというのにふさわしい、そんな平日のことだった。友人は、わりとサクサクと絵画を見つつも、じっくりと画家たちのプロフィールを読んでいた。気に入った絵には、触れそうなくらい顔を近づけ、深いため息を何度も何度もついた。そして、或る絵の前で動きを止めたのだった。友人に触発されたわたしも動きを止めた。「いいね」「うん、いいね」そんな拙い言葉を繰り返して、どれだけの時間が過ぎただろう。平日の美術館には、わたしたちの時間を邪魔するものなど何もなかった。だからこそ、そこに長く佇んでいられた。わたしたちは、ミュージアムショップで、その絵のポストカードを1枚きり買って、さよならをしたのだった。加倉井和夫の作品「冬」だった。わたしが飾るために選ぶとしたならば、きっとその絵に違いない。たぶん。きっと。確かに。

4592731840日のあたる白い壁
江國 香織
白泉社 2001-07

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2006.05.01

ホテルカクタス

20050610_042 懐かしい場所。でも、戻れない。ひとは誰しも皆、そういう場所を胸に秘めているのかもしれない。個性的で奇妙な登場人物たちが愉快な、江國香織著『ホテルカクタス』(集英社文庫)は、アパートなのにホテルの名が付いた、居心地の良さを感じさせる場所が舞台の物語である。その居心地の良さというのは、もちろん住み易さだけではない。ここにいたい。ここにずっといたい。ひとをそんなふうに思わせ、惹きつけるのは、そこにある魅力というものだ。その魅力はひとそれぞれ。関わり合うひとびとかもしれないし、環境の良さかもしれない。静かだとか。日当たりがいいとか。さびれた感じがいいとか。便利な店が近くにあるとか。猫と暮らせるとか、いろいろだ。

 わたしにとっての居心地のいい場所としたら、どこなのか。思えばわたしは、そういう場所を求めながらも、結局のところは見つけようとしていない気がする。小さな頃は、積極的に探していたのだけれど…。自分ひとりだけの部屋というものがなかったわたしは、あちこち懸命に移動していた。家中を。祖父の居る離れにせっせと勉強机を運んだこともあったし、天井の低い屋根裏に籠もってみたこともあった。たいていは、息の詰まるような狭い空間で、わたしはひとり自分を落ち着かせる場所をあれこれ見つけては、試していたのだった。その移動は、小学校の中学年で終わる。わたしは自分ひとりの部屋を、とうとう与えられたのだ。そこがはたして居心地の良い場所かどうかは別として。

 さて、話を物語に戻そう。先に述べた個性的な登場人物の面々は、歳を重ねたアウトローの帽子と、体を鍛えることが日課で少し軽薄なきゅうりと、几帳面で神経質な数字の2。それぞれがさまざまにくすぶっているのが、親しみと哀愁と孤独を呼ぶ。3人はちょっとした出来事がきっかけで知り合い、一緒に過ごすことになるのだけれど、共通点というものがほとんどない。アパートの一角の上の階、下の階くらいの共通点だけで、異なる者同士が集い、夜を明かすのである。それは、ある意味奇跡で。偶然で。もしかしたら、必然なのか。なりゆきだけでは続かない。お付き合いにしては、深すぎる。誰かが求め、誰かに求められる。そんな類の関係は、ひどく尊いものに思えてくる。

 彼らにとっての居心地の良い場所。懐かしい場所。でも、戻れない場所。それはまさに、ホテルカクタスでなかったか。もしかしたら、新たにそういう場所が見つかるかもしれない。いくつもいくつも増えていくものなのかもしれない。それとも、ホテルカクタスは通過点に過ぎなくて、彼らにとっての本当の居心地の良い場所は、胸の中にある想像上の理想郷なのかもしれない。ひとが抱く懐かしさというものが、戻れないゆえのものなのか。ただ懐かしい。ただ戻れない。独立したそれぞれでは成り立たないものなのか。“懐かしい”と“戻れない”。2つの要因があってこそ、はじめて生まれる居心地の良さなのだろうか。わたしは散らばった記憶をかき集めて、はぁとひとつ、ため息をつく。

4087477096ホテルカクタス (集英社文庫)
江國 香織
集英社 2004-06-17

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2006.04.27

すきまのおともだちたち

20050815_44134 一生女の子。わたしはそう思っている。しかもわたしは、“小さい女の子”である。大きいふりをして、結局は小さい。本当は小さい。そういう小ささ。そういう女の子なのである。江國香織著、こみねゆら絵による『すきまのおともだちたち』(白泉社)には、小さいふりをして、大きい女の子が登場する。それでも彼女は、ずっとずっと変わらずに“小さい女の子”なのである。わたしのそれとは違っても、女の子は女の子。女の子は小さくなくっちゃ。女の子は賢くなくっちゃ。女の子は正直でなくっちゃ。女の子は勇ましくなくっちゃ…物語はわたしを女の子にする。女の子であるわたしを感じさせる。

 物語は、大人と呼ばれる年齢の新聞記者の<わたし>が、仕事で滞在していた街で迷うところから始まる。確かに来たはずの道。確かにあったはずのもの。いつのまにか不安に思い、苛立ちを覚え、途方に暮れる。<わたし>はそこで、小さな女の子に出会う。女の子のいる街。それは、奇妙で寂しくて、それでも不思議と心地よい街である。年代物のお皿がしゃべり、風呂敷が喜ぶような世界でもある。<わたし>はここのルールを女の子に教えられながら、帰れない場所と帰りたい場所。大切な人やその他いろいろなことを思い、葛藤する。ずっとたった一人で生きてきた女の子とは対照的に、世界のすきまに落とされた<わたし>は、あまりにも頼りなかったから。

 頼りない<わたし>と読み手であるわたし。物語を読みながら、どうかするたびにそこにある重なりを意識してゆく。小さい女の子の姿をしていなくとも、女の子に違いなくて、それなのに周囲はそれを認めない。或いは否定する。わたしたちは、そういう視線にさらされて、少しずつ女の子の部分をなくしてきたのかもしれない。小さな女の子のいる街で迷い込んだのは、もしかしたらそういう類のもののせいだろうか。日常の盲点のようにも思えるすきまに<わたし>がするりと唐突に呑み込まれるのは、それを自覚させるためだろうか。わたしたちは、女の子でいてもいい。女の子がいい。わたしたちは女の子だ。一生ずっと、女の子なのだ。そう思い続けたっていいだろうか。

 物語が終わりを迎えても、小さな女の子の言葉はじわじわと響く。旅人は、旅が終わればいやでも帰るもの。お客さまっていうのは、もてなされるために来るのよ。となり街のとなり街って言えば、この街に決まってるじゃない。始発駅と終着駅は、すぐそばに決まっているでしょう?過去の思い出っていうのは、なくなってしまったものの思い出なの。世界は確固たるものでなきゃあ。あたしだって曲なんか吹けないわ。でもそれがなんだっていうの?あたしたちは音楽家じゃないのよ…そんな勝手気ままな理論。解釈。女の子らしく女の子然として在る姿。そこになんだかキュンとなるのは、わたしが女の子である証かもしれない。そんなふうに思うのだ。

4087462935すきまのおともだちたち (集英社文庫 え 6-10)
こみね ゆら
集英社 2008-05-20

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2006.01.04

モンテロッソのピンクの壁

20051214_086 私にとってピンクという色は、似合わないながらも心奪われる色。新たな始まりのときに白でも黒でもなく、パステル色に染まってみたかった。そんな理由から手にした、江國香織・作、荒井良二・絵による『モンテロッソのピンクの壁』(集英社文庫)。そこには、夢の中に見たモンテロッソという不思議な響きの場所にある、ピンク色の壁に強く惹かれる猫の物語が展開する。猫の名はハスカップ。うす茶色で金茶色目をした美しい猫である。“モンテロッソへいかなくちゃ”呪文のように繰り返される言葉と共に、ハスカップの旅が始まるのだが、ハスカップはとても賢い。旅の始まりと同時に失うものがあることを、何かを手に入れるために何かを諦めなければならないことを、よく知っているのだ。

 さて、私はパステル調のピンク色に染まることができたか否か。その答えから書いてゆこうと思う。簡潔に一言、否。物語も絵も、夢と希望に満ちた美しい物語なのだ。なのだが、否。物語が気に入らなかったというのではなく、むしろ大好きなタイプの物語という思いも虚しく響いてしまうくらいに、具体的な街並みと結末と鮮やかな映像というものが私の中に浮かんでしまったというのが、その否という答えの理由である。パステル色の世界に浸る思いがくじかれて、よどんだブルーになった心はささっとブラックへと変化した。めくるページが鮮やかなブルーだろうと淡いやわらかな世界だろうと、一度ブラックになってしまうと、もう他の色には戻れない。この感覚はひどくもどかしい。

 では、私の中に浮かんだ具体的なものとは何か。それは、長崎の街である。大きい船、小さい船、中くらいの船、漁船、客船貨物船。それらすべての船がある港をイメージしたら、長崎だった。実際に港には行ったことがないので、本当にそういう船があるのかどうかはわからないが。そして、ハスカップがたびたび乗る自動車と呼ばれるものが、路面電車のように思えてしまった。辿り着くモンテロッソの街並みは、外国の街を思わせながらも、小高い丘に立ち並ぶ長崎の街とだぶってきてしまった。多分、私がイメージしたのは、ロープウェイから眺めた街。足が棒になるほど歩き回った長崎。やっと辿り着いた稲佐山からの眺め。旅を知らない私が、唯一旅したつもりになっている場所に対する思いなのだろう。

 ぱっと浮かんだ拙いイメージが、最後まで揺るぎなく自分の中にあり続けたという偶然に、私は結末で恐ろしい思いをする。ハスカップの見た淡いピンク色の壁。それが、原爆の写真と重なってしまったのだ。時を経ても残る痛みの残骸。淡くも色濃く刻まれる記憶。うずくまったまま、手を伸ばしたまま、何かを叫んだまま、そのまま影として残った人型。ちょうどハスカップが気づかぬままに、ずっとモンテロッソのピンク色の壁のそばにいるのと同じように。私の中のイメージがピンク色ではなくとも、あまりにも長崎を彷彿とさせる物語。一夜の夢ならば、覚めるかも知れない。物語なら、フィクションになる。でも、この強烈な光景をかき消してしまうことは、ひどく苦しく難しい。

4087477150モンテロッソのピンクの壁 (集英社文庫)
江国 香織
集英社 2004-07

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2006.01.02

ぼくの小鳥ちゃん

20051209_027 雪が待てなくて本を開いた。雪の降る朝に突然やってきた、気が強くてワガママだけれど可愛らしさを認めざるを得ない小鳥と主人公<ぼく>の物語である、江國香織・著『ぼくの小鳥ちゃん』(新潮文庫)を。するすると読めて瞬く間にフェイドアウトしてゆくような短い物語ながら、私は心がひどく重くなった。多分それは、単に私側の問題である。気持ちの置き場所が悪かった。もしくは、正しい位置を見失っていたという表現が適切なのかも知れない。物語が意図する部分を通り過ぎて、独りよがりな話題を誰彼かまわず持ちかけるはた迷惑なタチの。そう言い訳する自分がまた、いつまでも諦められずに駄々をこねる幼子のようで情けないが。

 読み終えて真っ先に思ったことは、“あぁ確かに人に羽根がなくてよかった”ということ。思えば人は、何かと手に入らないものを求めがちな生き物である。その代表と言えるのが、鳥が持つ羽根。或いは、翼と表現されるもの。小さな頃、自分の意志とは無関係に歌わされてきた数々の曲には、鳥に憧れて羽根をこしらえた英雄や自由に空を飛びたいと夢見る少年少女の歌詞があふれていた。何の疑問も持たずに、能天気に切実な表情を浮かべながら歌ってきたいくつもの曲。羽根を持つ鳥が本当に憧れの生き物なのか。果たして鳥は自由に大空を羽ばたいているのか。間違いなく平和のシンボルなのか。なぜ人は自分に羽根がないことに対して落胆するのか。私は羽根なんて、ちっとも欲しくないのに。

 物語の中では、小鳥のことにばかり気が向いてしまう主人公に、そのガールフレンドが言う。“羽根があるとすごく便利ね”と。気まずい空気の車の窓から、小鳥のようにさっと飛び立てたらいいのにと。これは逃避としての羽根の用い方になるのだろう。ドアのロックを外して、ドアを開けて、足を車内から外に出して、道路を踏みしめて、一歩一歩その場から立ち去る…それは確かに面倒だ。実に込み入っている。その点小鳥なら、少しだけ開けていた窓の隙間から飛び出せばいいだけである。あぁ簡単。だって私には羽根があるもの。けれど、ふと思う。一体どこへ飛ぶというのか。目的地はどこか。そもそも小鳥に居場所はあるのだろうか。そんな、たわいなくも大真面目な問いを。

 私が書き連ねた言葉を読んで、そんなに深刻な本なのか。悩むべき問題が隠されているのか、なんて思わなくてもいい。可愛らしい小鳥に、生意気な小鳥に、ワガママな小鳥に、密やかに嫉妬する小鳥に、その魅惑的な存在の小鳥に惹かれればいい。主人公のように、小鳥を“小鳥ちゃん”と親しみを込めて呼べばいい。そして、刹那に小鳥の悲しみを感じればいい。主人公の記憶の断片に寄り添うのもよし。几帳面で優しいガールフレンドに寄り添うのもよし。文章と一緒に物語を彩る荒井良二さんのイラストにうっとりするもまたよし。今度この本を開くときは、きっとこんなにウジウジと戯れ言を持ち出すことはないだろう。でも、これは記録。今日という日に物語に感じたまっさらな私だ。

410133918Xぼくの小鳥ちゃん
江國 香織
新潮社 2001-11

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2005.12.06

いつか、ずっと 昔

20051202_072 桜の妖しげな美しさとともに思い出される、かつて確かに経験したはずの記憶の断片。その懐かしさと切なさを幻想的に紡いだのが、江國香織・文、荒井良二・絵『いつか、ずっと 昔』(アートン)である。この物語は、圧倒的にピンクが色濃く印象的。桜のような淡くてやわらかなピンク色も出てくるのだけれど、すももの花みたいな強く主張するピンクが文章としっくり合っている。差し色としてもその存在は大きく、抽象的なイメージのみの場面では、読み手の心をよい意味で掻き乱し、揺さぶり、ずんずんと答えを迫ってくるよう。ほらほら、もっともっと。急かされた私は戸惑いつつも、ページをめくる手を止められなくなったほどに。

 物語は、満開の桜が散り始める頃のこと。結婚を控えたれいこと浩一は、夜桜を見ながらうっとりとしている。闇の中ではらはらと散りゆくその可憐さと儚さに。すると、美しいヘビが現れ、れいこをじっと見つめる。不思議な懐かしさの中で、れいこはかつて自分がヘビであったことを思い出す。そして、自分を見つめるそのヘビが、その頃の恋人であったことも。人間からヘビへ、ヘビから豚へ、豚から貝へ…れいこは記憶を順に辿っていく。繰り返される生死。出会いと別れ。輪廻することへのささやかな歓喜。今もかつても誰かに愛されていたこと、誰かを愛していたこと。そういうものが描かれてゆく。

 その、れいこの中に思い出された記憶は断片に過ぎず、一直線では繋がらないはず。ヘビだったときは、もちろん“れいこ”であるはずがなく、豚だったときだって“れいこ”だなんて呼ばれることはなかったはずなのだ。けれどこの物語の中では、読むほどにれいこが辿る過去全てが一直線上に並び、そのときそのときの一番愛する人に言い訳をしている気がしてならない。“忘れてしまった”なんて嘘に違いない。私は読みながら、そんなことを考えていた。何ともひねくれた読み方である。きっと、れいこは愛する人の腕にもたれながら、自らの感情のままにウツツを抜かしていたのではないのか、だなんて。

 その証拠とも言えるのが、物語の結末である。曖昧な終わり方ゆえ、それをどう感じ取るのかは読み手の自由であるが、そのときそのときの大切な人(或いは生き物)は違えども、行き着くのはやっぱり同じ。そう、貴方なのよ、と。そんな雰囲気が漂っているから。ヘビも愛してみたわ。豚も愛してみたわ。貝も愛してみたのよ。だけど、私の大切な人はそう、貴方だと。記憶の中の相手が人間じゃないところが、いつまでも夢を見ていたい乙女としては、心強いくらいの救いである。もうひとつの救いとしたら、隣りに寄り添う相手がいることだけれど、残念ながら私にはいなかったのだった。

4901006940いつか、ずっと昔
江國 香織
アートン 2004-12

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