森に眠る魚
じわじわと広がってゆく小さなひび。いつからはじまったものなのか。どこからはじまったものなのか。わからないくらいにそうっと大きく広がるそれに、わたしたちが気づくときには、もはや修復不可能なところにきてしまっている。こぼれ出した水がもう戻らないのと同じように。戻れない。取り戻せない。一度芽生えた嫉妬心、猜疑心、罪悪感、依存心のようなものたちは、みな憎悪へと一気に変わり果てる。そんな心の変遷を丁寧に描いた、角田光代著『森に眠る魚』(双葉社)は、怖いくらいにリアルな人間関係を浮かび上がらせる。現代の母親たちをめぐる環境とそこ深く根づく孤独をあぶり出し、こうした憎悪が誰の身にも起こり得る可能性を指し示しているかのようである。
東京の文教地区で、それぞれの子どもを介して知り合った5人の“母親”である女たち。暮らしぶりは異なるものの、友情を育み、出会えた喜びを分かち合ってきたはずだった。けれど、小学校の“お受験”なるものをきかっけにして、いつしかその関係は変容してゆく。第三者から見ればきわめて些細な出来事に妄想が絡まりあい、自分と他者を比べ、人の態度に過剰に反応し始める。そんな揺れ動く不安定な心を制御するので精一杯な日々。常に正しいものを選んできたはずだったのにもかかわらず、幸せだと確かに感じていたのにもかかわらず、いつからかどこからか森の奥深くにさまよい込んでしまうのだ。この物語が恐ろしいのは、それが自ら迷い込んでいった先にある、という事実だろう。
そして、その迷い込むまでの過程をじっくりと読んでみて、それがわたしたちと寸分も違わないということにもあるだろう。彼女たちの誰かであったかもしれない可能性。それは決して拭い去ることのできない思いのひとつである。誰もがどこか未熟でどこか足りないものを持ち、欠けた何かを探していた。その欠けた何かを埋めるように、母親というだけで結びついた友情の基盤は、家庭間の経済格差やいろいろな事柄によって脆くも崩れる。けれど、それを誰が止められただろう。あれほど楽しかった日々がこうも簡単に壊れてしまおうとは、想像できるはずもない。踏み込んだ先にあった何か、それが何かを探し出すすべはあまりにも頼りなくわたしたちの目の前に広がるように思えてくる。
最終章の一部で登場人物が“彼女”という総称で呼ばれるとき、読み手はさらに愕然となる。母親たちが名前をなくし、自分という個性をなくし、もはや誰でもないただの“女”になるのである。今まで5人それぞれにあった名前が虚しく宙を漂う。そして、もはや“彼女”なるものが一体誰なのか、曖昧になる。彼女たちに境界はない。わたしとあなたの区別すらもういらなくなる。そして、思う。ああ、本当に深い森の奥にきてしまったと。戻れない。取り戻せないところにきてしまったと。それでも、ほんのりと光を射す場所を頼りに、ふらふらと歩き続けなければならないと悟る。自分で自分の出口を見つけなければならないのだと。果てしなく続いてゆく、各々の日常の中に戻るために。
- 角田 光代
- 双葉社
- 1575円
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