猫を抱いて象と泳ぐ
すべてが心地よく、すべてが愛おしい。胸をよぎるのは、哀しく切なく残酷な、どこまでも深く横たわる闇。けれど、すべてが心地よく、すべてが愛おしい。その静けさに寄り添えば寄り添うほどに、見えてくる美しさがあるのだ。ただその密やかな熱に侵されるにまかせて、わたしはページをめくるほどに心ふるわせていた。伝説のチェスプレーヤーの物語、小川洋子著『猫を抱いて象と泳ぐ』(文藝春秋)は、白と黒のつくり出す8×8の宇宙のような無限の世界、一手一手に込められる崇高なまでの響きと意味、孤独の中にあるほのかなあたたかさが印象的だ。届きそうで、届かない。ふれられそうで、ふれられない。そんなもどかしさと、欠けたものを持ち合わせていること。喪失の痛みを知っていること。すべてが心地よく、すべてが愛おしい。
後に天才チェスプレーヤーである、“盤上の詩人”と謳われた天才アリョーヒンの再来として、“盤下の詩人”リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになる主人公。彼の口は、神様の悪戯か特別な存在である証か、生まれ落ちたとき産声さえあげられずに上唇と下唇がくっついていた。幸い唇の形そのものには異常がなかったため、メスが入れられることになるのだが、その誕生の瞬間から彼の人生はもう決まっていたように思える。極端に少ない口数、寡黙にチェスの海に身をたゆたわせるすべ、その類い希なる才能をひっそりと守り続ける信念…それらは彼を“盤下の詩人”たらしめるに相応しかった。誰よりも美しいメロディーでチェスの駒を奏でる彼には、言葉などいらなかったのだ。
“盤下の詩人”。彼がそう言われるに至るには、7歳のときに出会った廃バスに住む巨漢のチェスの師匠・マスターの存在を忘れてはならない。屋上に閉じこめられたまま生涯を終えた象のインディラ、壁の隙間にはまって出られなくなった女の子・ミイラという架空の友人しかいなかった少年の、人生の転機だ。ゲームで難しい局面を迎えると、マスターの愛猫ポーンを抱いてテーブルチェスの下に潜り込む。彼の頭の中で奏でられるメロディーは、チェス盤を目の前にしているときよりも繊細で深みを増した。やがて、それが彼のチェススタイルとなり、マスター亡き後の生き方を決めることになる。大きくなることへの恐れ、そして取り返しのつかないことへの沈黙。彼の生き方は、ひどく潔い。
彼の生き方は、確かにそこに生きたはずなのに、存在しなかったも同じだ。遠い博物館のガラスケースに閉じこめられた、誰の目にも止まらない小さなチェスセットに似ている。動かないバスに住んでいたマスター、屋上で生涯を終えたインディラ、窮屈な空間に閉じこもるしかなかったミイラにも似ている。自分から望んだわけでもないのに、ふと気づいたらそこにいて、そこを自らの与えられた場所として無言で受け入れる生き方である。不平などない。与えられた場所にいられることが、ただただ心地よくて愛おしいかのように。謙虚で慎ましやかな生き方をする。そんなふうに生きることが、本来のわたしたちの生きる正しさのようにすら思える、哀しくもなんとも心地よく愛おしい物語だった。
![]() | 猫を抱いて象と泳ぐ 小川 洋子 文藝春秋 2009-01-09 by G-Tools |
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