09 小川洋子の本

2009.01.26

猫を抱いて象と泳ぐ

20090101_008_2 すべてが心地よく、すべてが愛おしい。胸をよぎるのは、哀しく切なく残酷な、どこまでも深く横たわる闇。けれど、すべてが心地よく、すべてが愛おしい。その静けさに寄り添えば寄り添うほどに、見えてくる美しさがあるのだ。ただその密やかな熱に侵されるにまかせて、わたしはページをめくるほどに心ふるわせていた。伝説のチェスプレーヤーの物語、小川洋子著『猫を抱いて象と泳ぐ』(文藝春秋)は、白と黒のつくり出す8×8の宇宙のような無限の世界、一手一手に込められる崇高なまでの響きと意味、孤独の中にあるほのかなあたたかさが印象的だ。届きそうで、届かない。ふれられそうで、ふれられない。そんなもどかしさと、欠けたものを持ち合わせていること。喪失の痛みを知っていること。すべてが心地よく、すべてが愛おしい。

 後に天才チェスプレーヤーである、“盤上の詩人”と謳われた天才アリョーヒンの再来として、“盤下の詩人”リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになる主人公。彼の口は、神様の悪戯か特別な存在である証か、生まれ落ちたとき産声さえあげられずに上唇と下唇がくっついていた。幸い唇の形そのものには異常がなかったため、メスが入れられることになるのだが、その誕生の瞬間から彼の人生はもう決まっていたように思える。極端に少ない口数、寡黙にチェスの海に身をたゆたわせるすべ、その類い希なる才能をひっそりと守り続ける信念…それらは彼を“盤下の詩人”たらしめるに相応しかった。誰よりも美しいメロディーでチェスの駒を奏でる彼には、言葉などいらなかったのだ。

 “盤下の詩人”。彼がそう言われるに至るには、7歳のときに出会った廃バスに住む巨漢のチェスの師匠・マスターの存在を忘れてはならない。屋上に閉じこめられたまま生涯を終えた象のインディラ、壁の隙間にはまって出られなくなった女の子・ミイラという架空の友人しかいなかった少年の、人生の転機だ。ゲームで難しい局面を迎えると、マスターの愛猫ポーンを抱いてテーブルチェスの下に潜り込む。彼の頭の中で奏でられるメロディーは、チェス盤を目の前にしているときよりも繊細で深みを増した。やがて、それが彼のチェススタイルとなり、マスター亡き後の生き方を決めることになる。大きくなることへの恐れ、そして取り返しのつかないことへの沈黙。彼の生き方は、ひどく潔い。

 彼の生き方は、確かにそこに生きたはずなのに、存在しなかったも同じだ。遠い博物館のガラスケースに閉じこめられた、誰の目にも止まらない小さなチェスセットに似ている。動かないバスに住んでいたマスター、屋上で生涯を終えたインディラ、窮屈な空間に閉じこもるしかなかったミイラにも似ている。自分から望んだわけでもないのに、ふと気づいたらそこにいて、そこを自らの与えられた場所として無言で受け入れる生き方である。不平などない。与えられた場所にいられることが、ただただ心地よくて愛おしいかのように。謙虚で慎ましやかな生き方をする。そんなふうに生きることが、本来のわたしたちの生きる正しさのようにすら思える、哀しくもなんとも心地よく愛おしい物語だった。

4163277501猫を抱いて象と泳ぐ
小川 洋子
文藝春秋 2009-01-09

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008.01.23

夜明けの縁をさ迷う人々

20061224_043 いびつにゆれて、ゆらめいて。危うさの中に封じ込められる。夜と呼ぶには淡い闇。朝と呼ぶには僅かな光。たとえばそんな狭間に。そうしてどっちつかずの境界線上に、彼らは立ちつくす。まるで、そこに“いる”ということが、唯一の生きるすべであるかのように。しがみつき、しがみつく。おのれの小さな世界を、ひたすらに繰り返すために。しがみつき、さまよう。いびつであることを忘れるほどに。いや、むしろ、いびつであるからこそ。そういう生き方は、ある意味潔癖なほどに真摯で、不思議なくらいに愛おしく響いてくる。きっとそれは、彼らの中に強烈に感じられる、何かを失った哀しみや痛みのせいなのだろう。だからこそ胸をうつ、物語になる。

 小川洋子著『夜明けの縁をさ迷う人々』(角川書店)は、世の中の片隅でひっそりと生きている者たちをあたたかに掬い上げる、9つの短編を収録した作品である。どこかいびつな登場人物たちは、グロテスクなまでに描写され、ときに残酷にもエロティックにも展開してゆくが、その失った哀しみや痛みの深さの分だけ、物語はいっそう愛おしさを増すよう。たとえば「イービーのかなわぬ望み」では、エレベーターという小さ過ぎる世界が、生と死の狭間を意味していた。イービーの心にぽっかりとある欠損部分を埋めるべくして手を差し伸べる<私>がいるものの、その存在も虚しく、著者は彼を徹底的に突き落とす。だがそれが、心地よいくらいに読めてしまうから不思議である。

 わたしの中で一番印象に残った「涙売り」という一編には、最も高品質な涙は“痛みから生まれる涙”だとある。哀しみや悔しさなどの涙には、心の濁りが表れ出てしまうというのだ。その点、痛みの涙の根源は肉体そのものであるがゆえに、純粋だという。“涙を売る”という非現実的な物語に寄り添うようにしてある、痛みという現実。そして、結局のところ、痛みは痛みによってしか癒されないと言い表しているような超現実。物語を通して開かれている現実というもの。そこに見える哀しみや痛みというもの。人はきっと、そこに自分のそれを重ね合わせてみるのだ。そうして、単なる哀しみや痛みは不思議な力を備えて、新たな何かへと変貌を遂げてゆくに違いない。

4048737929夜明けの縁をさ迷う人々
小川 洋子
角川書店 2007-09

by G-Tools

人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ←励みになりますので、宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (8) | トラックバック (2)

2007.06.25

物語の役割

20070624_008 心の隙間を埋めるように、物語はいつだって、寄り添うようにして吸いついてきた。わたしが手にする物語には限度があったけれど、図書館や書店に行けば本の中には物語の世界が無限に広がっていた。けれど、物語には本という枠組みに縛られないものが、たくさん世の中には溢れている。日常生活すべてが、物語になり得る可能性を秘めているのである。そんな止めどなくわき上がる物語は、或るカタチを抜け出して、わたしの心をあたたかに満たす。ときには、そっと包み込んでくれる。小川洋子著『物語の役割』(ちくまプリマー新書)には、誰もが日々必要とし、作り出している物語を、言葉で表現していくことの喜びを伝えてくれる1冊である。

 この本、「物語の役割」「物語が生まれる現場」「物語とわたし」の3部構成からなっている。物語を創作するにあたっての人との出会いにはじまり、誰もが物語を作り出していることについて語っている。わたしたちは日々何かを記憶するたびに、無意識に現実を物語にして積み重ねてゆく。そして、どうにか現実との折り合いをつけながら生きているそうだ。それに対して、作家はそれを意識的に行っている職業なのだろう。また、著者がこうして作家として活動できるに至るまでの、読書歴や思い出の書物について語っているのもなかなか興味深い。とりわけ短篇作品「まぶた」に収録されている作品に纏わる話は、いくつもの奇跡と偶然とが結びついたように思えてしまう。

 同じ本を読む人。わたしはそれだけで、その人との関係が親密なものに変化する気がしている。同じ本を同じ時期に読み、同じように感じられる相手。或いは、あれこれと趣味が合う相手。そんなに都合のいい相手など、滅多に出会えることなどないと知りつつも、ひそやかに期待し続けているのは、きっとこうしてブログ記事を書くことを日課にしているからだろう。本屋や図書館でばったりと遭遇し、本についての話をする…そんな理想的な記憶を自分の中で都合良く編集して、わたしは心の奥底にしまいこむ。それもまた、わたしだけの物語として、果たしてこの世に存在していたことになるのだろうか。目には見えない秘め事として。わたしだけの。いつか出会える誰かの。

448068753X物語の役割 (ちくまプリマー新書 53)
小川 洋子
筑摩書房 2007-02

by G-Tools

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.12.31

ブラフマンの埋葬

20061121_44002 忘れ得ない記憶を呼び起こすように、その断片が後から後から舞い降りてくる時がある。悲しいもの、切ないもの、愛おしいもの。言葉では言い尽くせないくらいの、とりとめのないもの。或いは、日常に溢れる、とるにたりないもの。そんなものたちの断片は、時にひどく心を沈ませる。そして、時にひどく心をあたためる。小川洋子著『ブラフマンの埋葬』(講談社)は、まさにそういう思いを詰め込んだ一冊のように思う。ここでの悲しみは、愛おしさによく似ていて、その愛おしさはまさに、悲しみの断片だからである。タイトルから予想される結末を噛みしめて読めば読むほどに、その悲しみは奥深さを伴い、読み手であるわたしたちを導いてくれる。あたたかなところへ。そっと。

 物語は、ブラフマンと名付けた小動物と<僕>が出会い、共に時間を過ごし、その死を見届けるまでが描かれる。夏のはじめから、冬の訪れまでの僅かな時間の中で、濃密でどこか異国の地を思わせるような物語が展開されてゆく。舞台となる場所は、<創作者の家>という芸術家が集まる別荘。そこの住み込みの管理人である<僕>は、長期に渡ってそこに滞在している碑文彫刻師のところから、“ブラフマン”という文字を見つけて、その名を付けることにするのだ。碑文。それ自体の持つ意味合いからしても、ブラフマンの運命は決められていたようにも感じられる。運命のめぐり合わせというものは、もうその瞬間からはじまっていたのかもしれない、そう思わずにはいられない。

 ブラフマン。その正体は、永遠の謎である。小動物であることくらいしか、はっきりとは描かれてはいない。けれど、その愛くるしさは、どこかわたしたちの誰もが抱いたことのある感情を呼ぶような気がしてならない。母性とも違う、何か。愛情とも違う、何か。そういう類の、懐かしさのようなものを呼ぶのだ。それはきっと、どこか遠くて近くにあるものかもしれないし、全く別のものかもしれない。そんな謎解きのような微妙で、かつ繊細な感情のように、わたしは思うのだった。その不思議な感情を何と呼べばよいのか、わたしにはわからない。ただ、わかるのは、忘れ得ない記憶を呼ぶような懐かしさだけが確かにそこに存在している、ということだけである。

 そう、それは雨上がりに残る、水溜まりのような。そんな記憶にも似ている。忘れ水とも呼ばれる水溜まりは、まさに後から後から舞い降りてくる記憶の断片の一つのように、わたしには思えるのだ。悲しいもの、切ないもの、愛おしいもの。言葉では言い尽くせないくらいの、とりとめのないもの。或いは、日常に溢れる、とるにたりないもの。そんなものたちを思い出させるために残されたかのような、忘れ水たち。ふと思い出される記憶の断片は、いつか蒸発して天へとのぼる忘れ水のごとく、いつかはやわらかにも穏やかに変化してゆくのかもしれない。痛みとして刻まれた悲しみの記憶も、どんな記憶も、何もかもが。そっと、ひそやかに。忘れ得ぬものとして。

4062123428ブラフマンの埋葬
小川 洋子
講談社 2004-04-13

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2006.11.13

アンジェリーナ 佐野元春と10の短編

20061029_44011 文章で奏でる。そんな不思議な夢と現実の狭間で揺れていた。その歪んだ思考の中で、戸惑っていた。愛おしいのに哀しくて。切なくて。ときどきグロテスクなまでに描写するのに、やわらかにあたたかで。どうしてこんなにも煌めくような物語を紡げるのだろうかと。小川洋子著『アンジェリーナ 佐野元春と10の短編』(角川文庫)を久しぶりに手にして、そうわたしは思ったのだった。タイトル通り、佐野元春の代表曲から描かれた10の短い物語は、どれもこれもあまりにも繊細で美しかった。しかも、それを“どう?美しいでしょう?”と主張することはなしに、そう思わせる魅力があるのだった。そう、とてつもない魅力が。心震わせるほどの魅力が。

 まずは表題作である「アンジェリーナ-君が忘れた靴-」から。春のある夜、駅のベンチで拾ったピンク色のトウシューズ。それに魅せられた主人公は、内側に刺繍してある“アンジェリーナ”の文字を頼りに新聞広告を出す。そして、ついに本物のアンジェリーナと出会うことになるのだ。変化に乏しかった日常。そこにぱっと輝くものを、トウシューズに見出すのだった。彼女との時間は、ほんのわずかである。それでも、彼女と過ごしたひとときは残る。トウシューズと共に。ずっと。そして、一緒になって今夜も愛を探しているであろう、彼女のことを思う気持ちが疼いてしまう。アンジェリーナ。アンジェリーナ…気がつけば、そう繰り返すわたしがいた。

 続いては、「彼女はデリケート-ベジタリアンの口紅-」。ここでは、レンタルファミリー派遣会社の仕事をしている彼女のことが描かれている。彼女と言っても、その素性をよく知らないまま、一緒に過ごしている主人公の思考がなんとも切ない。彼女は、レンタルファミリーとして、どんな役割でもこなせるように、どんなふうにでも変わってしまっていたから。自分探しをしがちなわたしたちにとって、彼女のような不確かな存在はとても奇妙に思える。けれど、そういう職業があってもいい。あっても決して不思議ではないというふうに思わせてくれるのである。誰かを演じること。誰かのために役割を果たすこと。そういうものから解き放たれる瞬間をふっと見せられた気がする。

 最後に「誰かが君のドアを叩いている-首にかけた指輪-」。ここには、左足の記憶をなくした女性の物語が紡がれている。彼女の左側にくっついている奇妙な塊。それを誰もが否定するかのように、彼女を見た。そんな中で、温室管理人だけは違う反応を見せたのだった。そこで、温室でしばらく生活を始めることにした彼女は、ゆったりとした時間の中で、その温室管理人と心通わせてゆく。少しずつ何かを失うということが、こんなにもロマンティックに描かれてしまうと、もう失うことが何も怖くなくなる。ただし、温室管理人のような心持ちの人が傍にいてくれるのなら…の話だけれども。読み終えてもなお、じわじわと胸に響く物語である。もちろん、そういう物語は10もの短編の中に、もっともっと煌めいている。

4043410018アンジェリーナ―佐野元春と10の短編
小川 洋子
角川書店 1997-01

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。励みになります!

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006.11.06

20050610_44106 胸がいっぱいになる。たまらない愛おしさで。狂おしいほどの優しさで。やわらかくあたたかな物語は、残酷にもいつまでも余韻として、何かしらをそうやって胸の奥を疼かせるものだ。小川洋子著『』(新潮社)は、そんな思いでいっぱいになる短編集である。そこにはもちろん、愛おしさや優しさばかりではなく、人々の痛みも小さなほころびも見逃さない、冷酷さもある。けれど、不思議なことに余韻として残るのは、やわらかなあたたかさばかりなのだった。7つの物語それぞれに満ちる世界は違えども、残る余韻が同じであること。そこに著者ならではの作風というものを感じてしまう。ゆっくりじっくり何度も読み直したい物語たちが、ここには詰まっているから。

 まずは、表題作「海」。恋人の家を訪れた主人公と、その弟との出会いの一夜を描いている。この弟。不思議な未知なる楽器を奏でることができるのだ。それも、海からの風が届かないと演奏できない楽器である。木箱にしまわれているその楽器への興味もさることながら、物語の端々に散りばめられた幾つものユーモアにも目が奪われてしまう。例えば、引き出しの中に隠されるようにしてしまってあるサイダーとか、眠る前に必ず観るという動物番組(内容は、その名も“死に真似”)とか、主人公が好きだという恋人のホイッスルを吹くときの唇だとか…。細やかな気配りを感じさせる装飾が、なんともいい心地にさせてくれる。自分の身の回りに、そういう装飾を探してしまいそうになるほどに、好ましい。

 続いては「ひよこトラック」。もうこの作品の魅力は、“沈黙”に尽きるだろう。言葉というものの無意味さを感じつつも、心ではやはり言葉で感じ合っている。伝え合っている。そんな物語である。ドアマンの男性が引っ越してきた先で出会う、口のきけない少女。その少女はなぜか、その男性に少しずつゆっくりではあるけれど、心を開いてゆくのである。また、男性の方も、どう接してよいものか戸惑いつつも、その距離をじっくり縮めてゆこうとするのだ。そのもどかしいやり取りの中には、同じものを見て同じことを感じるまで、“待つ”という視点が存在している。やみくもに待つのではなく、寄り添うようにして“待つ”。近すぎず、遠すぎず、微妙なバランスの中で物語は進むのだ。

 最後に、「ガイド」。ここでの関係で見事なのは、母と子。その思い合う姿勢というものに、ぐっと胸に込み上げるものをわたしは感じる。それは、直接的ではなくて、間接的であるにしても、である。読み手の多くはきっと、奇妙な老人と少年との出会いに目を引くのかもしれないが、その出会いを深くしたのは、母親を思ってこその、少年の気持ちである。奇妙な老人は、奇妙な脇役のまま、わたしはそっと放っておきたい…そのくらいのものでしかないのだ。わたしにとっては。ごくありふれた母と子のやり取りの中に、そうっと密やかに隠したものを見つけ出したとき、わぁっと込み上げる何か。嗚呼、言ってしまいたい。でも、胸に秘めておこう。わたしだけのものとして。ふふ。

4104013048
小川 洋子
新潮社 2006-10-28

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。励みになります!

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006.06.20

おとぎ話の忘れ物

20050525_028 キャンディーひとつ。キャンディーふたつ。キャンディーみっつ。わたしはこの頃、そうやって絶えず何かにつけ、口の中で飴玉をころがしている。お気に入りは、梅の果肉入りのもの。他には、なんとかQ10だとかなんとか成分入りだとかいう、すっぱいタイプの飴玉だ。手のひらで誰かを泳がすような器でないわたしは、飴玉をころがすことで足りないものを補おうとしているのか。はて、さて。小川洋子・文、樋上公実子・絵による『おとぎ話の忘れ物』(集英社)に出てくる、スワンキャンディー<湖の雫>セットには、どんな味でもお好みの味が揃っていると云うから、きっと梅の果肉入りのものだってあるかもしれない。鱗粉味だって、羊水味だって、珊瑚味だって、あるのだから…

 この物語。忘れ物の中に埋もれていた誰かのおとぎ話を収集した、キャンディー工場の一角に設けられた“忘れ物図書室”なる場所が舞台である。ここでしか読めないおとぎ話をお客さんたちが読む、というわけだ。物語は忘れ去られたのではなく、純粋に言葉どおりの“忘れ物”。忘れ物である物語を、読み手であるわたしたちは、キャンディーの包装を待ちつつ、読み進めるのだ。もちろん、キャンディーなんぞ買わずに、“忘れ物図書館”目当てでこの場所へ来る人々もいるらしい。だが、読んだら最後。おとぎ話の世界を堪能するには、やはり“スワンキャンディー”なるものが、欲しくなってくるに違いない。これは商売上手というものなのか。それとも、ただその世界を提供したいだけなのか。

 さて、忘れ物の物語とは、どんなものであるのか。多種多様のずきんを所持し、ずきん倶楽部の会長である女性との交流を描いた「ずきん倶楽部」。アリスという名であることによって苦悩する少女の思考が紡がれた「アリスという名前」。人魚姫の世界と、それを支えるがごとく懸命に尽くす男の人魚の物語である「人魚宝石職人一生」。多くのことを知らぬままに老いてゆく森の番人の男が、1羽きりの白鳥に魅せられる「愛されすぎた白鳥」の4つ。それぞれの物語に描かれた樋上さんの絵は、一筋縄には行かないおとぎ話の世界そのもの。表情の多くが冷淡で、なおかつ残酷にも不気味な妖しさが同居する。そんな美しい数々の絵。しっくりぴったり。絵が文章を。文章が絵を。引き立てている。

 わたしが一番心寄せたのは、「人魚宝石職人一生」。これは、愛の物語だったゆえ。また、人魚たちはそれぞれに何かを失っていたゆえ。失ったというよりは、もともと持っていなかったという方が正しいのかも知れないが。女性優位の人魚の世界で、男の人魚たちは誰かにひたすら尽くす。惜しみなく尽くすのだ。彼らにとって、奉仕する一生は喜び。奉仕に必要のないものは不要ゆえに、失う。だから、宝石職人は口がきけない。髪を結う人魚には耳がないし、子守唄を歌う人魚は盲目だ。それでも、彼らは真摯に生きる。生きるしかない。人魚姫の悲しみは、多くの人魚の悲しみ。人魚の世界では、何かを得るための犠牲なんぞ厭わないのだ。そこが、何より魅力的で美しいではないか。そう思うのだ。

483425125Xおとぎ話の忘れ物
小川 洋子
ホーム社 2006-04

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006.05.08

ミーナの行進

20051109_44014 閉ざされた世界。ごくごくちいさな世界。思えばわたしは、ずっとそんな世界で時間を埋めてきた気がする。ひとりきりで。ひとりよがりに。数年前よりもずいぶん上手に埋めることができる、と言いきれるくらいに。わたしが、小川洋子著『ミーナの行進』(中央公論新社)でじんときたのは、そういう部分についてだった。わたしが著者の作品に寄り添うのは、共鳴するのは、よく馴染むのは、きっと閉ざされている世界が描かれているからなのだろう。自分自身の足下を見る。自分の身の丈をわきまえる。自分のいる場所を理解している。閉ざされているからこそ、見えること。閉ざされているからこそ、わかること。わたしはそれを、とても心地よいと思う。

 物語の語り手は、いろいろな事情で母親と離れ、一度も会ったことのない親戚の元で暮らすことになった中学1年生の少女である。親戚は芦屋の大きな家に暮らしており、そこはかつての動物園であった。フレッシーという清涼飲料水の社長である、思わず自慢したくなるような伯父の案内により、誤植を探すことにとらわれた伯母、ドイツ生まれでお洒落なローザおばあさん、病弱で利発でマッチで美しい灯を点すことのできる従妹のミーナ、住みこみながら主導権を握るお手伝いの米田さん、無口な通いの庭師の小林さん。そして、大事な住人であるコビトカバのポチ子と出会うのだ。語り手の少女とミーナの濃密な時間。物語設定の特異さよりも、あちこちに散りばめられた、いくつものいとおしい記憶が光っている。

 先に述べた閉ざされた世界。物語の中では、そこに暮らすひとびとはもちろん、家そのものにも言える。とりわけ、少女の従妹のミーナの世界はさらに閉ざされている。閉ざしている、とも言える。自分の足で外へ出かけることもままならず、たびたび発作に悩まされるミーナ。そんなミーナの世界を広げるのは、少女の借りてくる本とフレッシーを届ける青年と、何よりも青年がくれるマッチ箱に描かれた絵である。僅かばかりの限られたものやひとから、たくさん得ることができるミーナ。その吸収力というのは、閉ざされて、閉ざしているからこそのものではないのか。わたしのごくごくちいさな世界と重なって見えるのは、思い上がりかも知れないけれど、いつか開かれる世界を思って、疼くものを意識したのだった。

 もうひとつ、わたしが心を寄せたのは、語り手の少女と図書館のとっくりさんとが言葉を交わすところ。少女はミーナに頼まれるままに本を借りるだけにすぎなく、ミーナの口にしたことを話すにすぎなかったのだけれど、初恋と言うべきか憧れと言うべきか、本という存在がひととひととを繋いでゆく場面があるのだ。心を通わす。それがこんなにも震えるものだったのか。こんなにも自分を恥じ入らせるものだったのか。わたしが世界を閉ざして、ひとりきりで、ひとりよがりになっている間に、ひととの対話を知らしめたのだった。対話は、言葉によらないときもある。わたしが浸りすぎてしまう本の中にも、ある。それでも、本物の対話をしなくてはいけないのだ。ひとりきり、でも。ひとりよがり、でもなくて。

4120037215ミーナの行進
寺田 順三
中央公論新社 2006-04-22

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログにいらっしゃい。

| | コメント (14) | トラックバック (4)

2005.07.02

シュガータイム

20050702_026 “砂糖菓子みたいにもろいから余計にいとおしくて、でも独り占めにしすぎると胸が苦しくなるの。わたしたちが一緒に過ごした時間って、そういう種類のものじゃないかなあ”という言葉が印象的な、小川洋子・著『シュガータイム』(中公文庫)。誰もが持っている、これだけは物語にして残しておきたいというような何か。臆病になって、書き手がどこから手をつけていいのかわからなくなる。そして、つい長い時間押しやってしまう。そういうことを、幸運にも著者は描くことが出来たのだと、あとがきで述べている。

 1日の中で、食べた物を全て日記につけ始めた大学生の主人公。自分の食欲が普通でないと感じ始め、どれだけ普通でないのかを確かめるために。過食症でもなく、拒食症でもなく、異常な「食」に対するこだわり。それは別に、おいしいものを食べる必要はなかった。ただ食べてさえいればよかった。ときには、奇妙な日記に書かれた文字を見るだけで、食べ物の名は鮮やかに生々しく刺激的に感じられた。そして、主人公にいつでもそっと寄り添ってくれたのは、食欲だけだった。もちろん、主人公には友人もいるし、恋人もいるし、家族だっているのだけれど、私にはそう感じられた。

 この小説の途中には、小柄な男性の食事の場面がある。難病で小さい弟がいたせいか、その男性にぐっと引き寄せられた主人公は、じっとずっと観察する。一人きりでレストランにて、食べることに全精神を集中させている男性の姿。そこに、なぜか私はイヤらしさを感じてしまった。強まってゆく「食」の下品さ、生々しさ、グロテスクさ。人間が、日々繰り返している当たり前の行為は、よく考えてみたらもの凄く不思議なものではなかったか。体の中に飲み込まれたものの行方は、あまりに儚いのではなかったか。私もいつのまにか「食」に囚われてしまったのか。小川作品にたびたび登場する、グロテスクなまでの描写や、「食」への執着が冴えているせいかもしれない。

 それから、主人公の友人が、夏休みに東京から実家へと帰省するときの気持ちをこう言っている。“東京での出来事を全部おさらいして、ひとまとめにして、きゅっと紐で縛るみたいな感じ”と。同じような思いを感じたことのある私は、懐かしい気持ちになった。そのときどきで、思いは異なる。晴れ晴れとしている時もあれば、つらい時、無感情な時もあった。様々なことを思い出して、泣きながら向かったこともある。まさにおさらい。まさにひとまとめである。けれど、実家に住むようになると、東京と実家との行き来に、当時感じていたような恋しいような、切ないような思いはなくなってしまった。その理由が何であるのか、残念ながら私にはわからない。

4122020867シュガータイム (中公文庫)
小川 洋子
中央公論社 1994-04

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログへ←励みになってます!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.04

世にも美しい数学入門

20050601_035 新書を読んで、ふふふっと笑ったのは久しぶりだ。こんなにも人柄が全面に出ているものだったかしら。こんなにするっと読めてしまっていいのかしらと少々戸惑いながら、藤原正彦/小川洋子・著『世にも美しい数学入門』(ちくまプリマー新書)を読み終えた。数学者でエッセイストの藤原正彦氏と、小説『博士の愛した数式』の著者である小川洋子さんの対談の形式になっている。“ユニークな語り口の先生”と“鋭い質問をなげかける生徒”といった感じで、数学の美しさについて、その歴史的背景についてなどを詳しく教えてくれる。ちなみに、笑ってしまった部分は此処には敢えて書かないでおく。

 この2人を結びつけたのは、藤原氏の『天才の栄光と挫折』や『心は孤独な数学者』を読み、触発された小川さんが『博士の愛した数式』を書いたことに始まる。家政婦とその10歳になる息子、数学の老博士の3人に通い合う愛を、数学と野球とを結びつけて描いた心温まる小説である。その中で、最も印象深い数学の話が「友愛数」のことである。「友愛数」という名前も詩人的でいいのだが、博士と家政婦との繋がりとして用いられているのだ。雑談をしているとき、家政婦の誕生日2月20日と知った博士が自分の時計(かつて書いた論文でもらった学長賞の記念品)の裏に書かれている284という数字を見せながら、説明する。220と284の繋がりについて。君と私の繋がりについて。

 小説を読んだときには、さりげなく何気ない場面としてさらっと読んでしまったのだが、「友愛」という言葉だけで、小川さんは一番最初にこの場面のことを考えたと言う。西日のあたっている光線の様子、流し台で垂れている水滴の音、台所の食卓についている傷の模様、鉛筆を持つ博士の手の表情などと一緒に。そもそも「友愛数」というのは、自分自身を除いた約数の和が220(1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110)なら284に。284なら220になるというもの。他にも、3つ以上の数字が友愛数となる「社交数」なんていうものまであるとか。何とも奥深い数学と文学の世界である。

 そして、一番熱心に語っていたのではと私が思ったのは、日本人の精神について述べられている「フェルマー予想」の章。様々な定理や証明の発見に日本人がかかわっていたというお話である。よく評論家や学者が“日本人に独創性がない”と批判するのを聞く。けれど、藤原氏は言う“日本人というのは、ほんとうにすごい独創性、美的感受性を持っている”と。そうして誕生した美しいものがあると。その後に語られたのは、アテネオリンピックでの室伏選手の話。順番がくるまでフィールドで仰向けになって、精神統一をしていた室伏選手。“そのときなにを考えていたんですか”と聞かれ、“星を見ていました”と答えたそうである。大変なときに平静な心で星を見ていられる精神、うんうん素晴らしいじゃないですか。

4480687114世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書)
藤原 正彦
筑摩書房 2005-04-06

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログへ←好きになっています!

| | コメント (12) | トラックバック (6)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

01 安房直子の本 | 01 雨宮処凛の本 | 02 池澤夏樹の本 | 03 いしいしんじの本 | 03 石井睦美の本 | 03 絲山秋子の本 | 04 井上荒野の本 | 04 稲葉真弓の本 | 05 岩阪恵子の本 | 06 魚住陽子の本 | 07 江國香織の本 | 08 大島真寿美の本 | 09 小川洋子の本 | 09 長田弘の本 | 10 荻原浩の本 | 11 尾崎翠の本 | 12 恩田陸の本 | 13 角田光代の本 | 13 鹿島田真希の本 | 14 金井美恵子の本 | 14 金原ひとみの本 | 15 川上弘美の本 | 15 川端康成の本 | 16 北村薫の本 | 17 桐野夏生の本 | 18 久坂葉子の本 | 18 倉橋由美子の本 | 19 栗田有起の本 | 20 黒川創の本 | 21 小池昌代の本 | 22 河野多恵子の本 | 23 桜庭一樹の本 | 23 酒井駒子の本 | 24 佐藤亜有子の本 | 24 佐藤友哉の本 | 25 佐野洋子の本 | 26 重松清の本 | 27 澁澤龍彦の本 | 28 島田雅彦の本 | 29 島本理生の本 | 30 清水博子の本 | 31 庄野潤三の本 | 31 朱川湊人の本 | 31 笙野頼子の本 | 32 瀬尾まいこの本 | 33 嶽本野ばらの本 | 34 太宰治の本 | 35 田辺聖子の本 | 35 谷崎潤一郎の本 | 36 多和田葉子の本 | 36 津村記久子の本 | 37 中島たい子の本 | 37 中島京子の本 | 38 中島らもの本 | 39 長野まゆみの本 | 40 中原昌也の本 | 40 夏目漱石の本 | 41 中山可穂の本 | 41 中村文則の本 | 41 楡井亜木子の本 | 42 蜂飼耳の本 | 42 長谷川純子の本 | 43 服部まゆみの本 | 44 平田俊子の本 | 44 東直子の本 | 45 古川日出男の本 | 45 福永武彦の本 | 46 星野智幸の本 | 47 堀江敏幸の本 | 48 前川麻子の本 | 48 町田康の本 | 49 三浦しをんの本 | 50 皆川博子の本 | 51 村上春樹の本 | 52 本谷有希子の本 | 53 森絵都の本 | 54 山田詠美の本 | 54 湯本香樹実の本 | 54 矢川澄子の本 | 55 吉田篤弘の本 | 56 吉本ばななの本 | 57 吉行淳之介の本 | 58 海外作家の本(アメリカ) | 59 海外作家の本(イギリス) | 60 海外作家の本(フランス) | 61 海外作家の本(イタリア) | 62 海外作家の本(ドイツ) | 63 海外作家の本(ロシア) | 64 海外作家の本(その他&分類不可) | 65 新潮クレスト・ブックス | 66 Modern&Classicシリーズ | 67 白水Uブックス | 68 エッセイ・詩・ノンフィクション本 | 69 アート・絵本 | 70 漫画本 | 71 猫の本 | 72 犬の本 | 73 心理学・精神医学関連の本 | 74 その他の本 | ウェブログ・ココログ関連 | 日記・コラム・つぶやき | 書籍・雑誌