2008.07.21

わたし恋をしている。

20070409_018 恋とは、実はひとりでするものなんじゃないだろうか。ひとりであれこれ思い悩んで、ああでもないこうでもないと悶える。そうして、誰かと心から繋がれないこと、自分との趣味趣向の違いに堪えて、どこかで妥協を余儀なくされる。それでも寂しがり屋のわたしたちは、誰かと一緒にいたいと切に願う。願わずにはいられない。完璧なる相思相愛なんて、奇跡のようなものだ。益田ミリ著『わたし恋をしている。』(MF文庫、メディアファクトリー)は、恋する女の子の本音を五・七・五の川柳と、エッセイとほのぼのとしたイラストで描いた一冊だ。等身大の女の子たちの真っ正直な思いは、どこか痛々しくもあるのだけれど、女の子ならばどのページにも頷けることだろう。

 わたし自身、恋にはかなり疎い方なので、描かれている場面に共感できたのは、片想いについての場面ばかりだった。思えば、わたしは、年がら年中片想いばかりしていて、恋愛というものに発展したことなど数えるくらいしかない。こっぴどくふられるつらさや、もどかしい片想い、自然消滅ばかりの体験ばかりなのだ。恥ずかしながら、現時点ですらまさに中学生並の恋愛レベルである。だから同年代の女の子たちが要領よく駆け引きなんかをやってのけて、見事恋を成就させるのばかりを見てきた。だからこそ、ひとりであれこれ悩む。ああでもないこうでもないと悶える。それでも誰かと繋がりたいから、まだどこかで諦めきれずにいるのである。

 エッセイにも登場する、よく別れ際に言う、或いはなかなか言えない「またね」という言葉。言えたとしても、一体いつ会うの?次の約束はしてくれないの?と、疑問は本音を言えば数多く残る。実際、しつこくしたら嫌われそうだし、「今日は楽しかった」とか「今日はありがとう」という、当たり障りのないメールをつい返信してしまう。相手がどう思ってくれたのかなんて、当人でなければ知るよしもないのだから。わたしは駆け引きなんて、大の苦手だ。それでも、また会いたい。たった一度きりで決めないで欲しい。そう願うのは、わたしだけではないはずだ。だから今日も思い悩む。ああでもないこうでもない、と。どこかにいるこれから出会う誰かと繋がりたくて。

4840123527〔MF文庫 ダ・ヴィンチ〕わたし恋をしている。 (MF文庫 ダ・ヴィンチ ま 2-1)
益田ミリ
メディアファクトリー 2008-06-21

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 ≪益田ミリの本に関する過去記事≫
  『上京十年』(2007-06-13)
  『女湯のできごと』(2006-03-23)
  『「妄想」はオンナの幸せ』(2005-07-11)
  『お母さんという女』(2005-01-24)

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2008.06.07

レモンとねずみ

20070416_028 嗚呼、此処にも。其処にも。彼処にも。確かに息づく思いを感じる。ときに潔く。ときにやわらかに。ときに深い寂寥とともに。そうしてページを捲ればいつだって、言葉はすとんと降りてきて、胸の奥底にぢんと響いてゆく。言葉が言葉としてあるべき姿。それを感じさせるほどに、強い意志が漲っている。石垣りん著『レモンとねずみ』(童話屋)。著者の五冊目の詩集にあたるこの一冊は、これまでの詩集に未収録だった約三百五十篇の作品の中から、四十篇を選んでまとめられたものである。亡くなってから三年余りの時を経て出版されたこの詩集は、生前の著者の活躍を知らないわたしにも親しみやすく、生き生きとした息づかいが聞こえてきそうな気がする。

 “きのう買っておいた/サンキストレモンの一個がみつからない/どうやらねずみがひいて行ったらしい。”という一節からはじまる表題作の「レモンとねずみ」。天井裏に身に余るものを抱え込んでいったねずみと、<私>の侘びしい暮らしとの対比。そして、鮮やかなまでにつややかなレモンの存在が、際立つ一篇である。ユーモアの中にも見え隠れする寂しさのようなものを感じつつ、けれど同時に、ほのかな希望すら見逃さない凛とした強さを感じる。生きる、ということに真っ向から立ち向かう姿勢は、いつだって美しい。「洗う」という一篇もそういう姿勢を伺い知れる一篇で、しめくくられる“「明日」です。”という言葉に何とも清々しい気持ちになるのだった。

 わたしが一番心惹かれた「ゆりかごのうた」という一篇では、眠りとは、一生続けなければならないお稽古だと、著者は云う。いつか死すわたしたちは、その永遠の眠りための練習をしているのだと云うのである。思えば、毎夜毎夜こんなにも繰り返し眠りと向き合っているというのに、現代人の多くが眠り下手である。そんなわたしたちが眠れるように、深く深く眠れるように、平易な言葉でやわらかに紡がれたこの一篇は、まるで眠りに対して身構えてしまっている心を見透かしているようにも思えてくる。眠りはむつかしい。永遠に眠ることは、もっともっとむつかしい。だから今夜も眠りのお稽古をするしかない。この一篇を思い出しながら、今夜こそはよい夢をと祈る。

4887470800レモンとねずみ
石垣 りん
童話屋 2008-04

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2008.06.06

あなたの世界が広がる詩

20080606_008 真剣に詩を読み出したのはごくごく最近のことだから、その解釈が自由だと云われれば云われるほどに、自分の世界の小ささを思い知らされる。もちろん、それはそれでひとつの読み方には違いないのだが、ついつい他の人たちがどんなふうに詩を解釈するのか、気になってしまうわたしだ。川崎洋著『あなたの世界が広がる詩』(小学館)は、詩人である著者の豊かな発想力が感じられる一冊だ。著者の心に響いた詩25編は、三好達治の「雪」にはじまり、新進気鋭の詩人のものまで多種にわたる。詩に喚起されたイメージは、著者の詩人たちとの思い出や日常のたわいない出来事など、さまざまなものを掻き立ててゆく。また、推敲、パロディ、擬音語・擬態語、ユーモア、比喩といった詩に纏わるコラムも収録。

 著者が取り上げた詩の中でも、小池昌代の「ねこぼね」は、猫へのたまらない愛おしさをぴたりと言葉にした詩だと思った。“猫を撫でてみた。すると、毛ではなく、肉でもなく、骨のかたちがてのひらへ残る。あったかいくぼみやでっぱり。そのでこぼこ。あ、これが猫。こぼれそうにしなやかな、これが、とくべつのさびしさか。”(詩集『青果祭』)この感覚。この言葉選び。いいなぁと思う。そして同時に悔しいなぁと思う。毎日のように猫を猫が嫌がるほどに撫で回しているというのに、その猫を猫とたらしめているでこぼこに思いを馳せたことなどなかったから。ねこぼね。もちろん、これは造語だが、愛猫を撫でるとき、これからは毎回この詩を思い出して、ねこぼねを意識しそうだ。

 それから、著者が一番はじめに取り上げている三好達治の「雪」。“太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。”学生時代に一度はふれる有名なこの詩ほど、さまざまな解釈ができる作品はないかもしれない。太郎と次郎は兄弟なのか、同じ屋根の下に寝ているのか、離れて別々に寝ているのか、太郎や次郎を眠らせたのは誰か…そういうことを細々と考えてゆくと詩の裏側にある物語が浮かんでくる。著者が紹介している解釈の中には、“眠らせ”を“殺す”としたものもあり、本当に詩の世界は奥の深いものであると思わず唸ってしまう。詩はもっと自由に読んでいい。詩の解釈に正解などない。本全体から感じられる強いメッセージに、何だかほっと安堵した。

4095044225あなたの世界が広がる詩 (小学館ジェイブックス)
川崎 洋
小学館 1998-11

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2008.05.25

女がひとり頬杖をついて

20070524_44014 誰かに頼るのではなく、何かにすがるのでもなく、時にまかせるのでもなく。わたしはわたし自身にもっと誠実であれ、と思った。もっと強くあれたなら。もっとのびやかであれたなら。もっともっと自分自身と向き合えたなら。その自らの手で何かを切り開くことができたなら。そう生きられたなら、と。茨木のり子著『女がひとり頬杖をついて』(童話屋)を読み終えて、そんなことを思った。何ものにも倚りかからず、潔く生きた著者の言葉は、確かな説得力と強い意志をもって、読み手の心にじわじわと沁み入ってくる。代表作である「倚りかからず」や最後の詩集となった「歳月」など、7冊の詩集から選びぬかれた26篇を収録した一冊である。

 タイトルにもなっている“女がひとり/頬杖をついて”ではじまる「怒るとき許すとき」。女として、一人の人間としての生き方を考えさせられる一篇である。“それを教えてくれるのは/物わかりのいい伯母でも/深遠な本でも/黴の生えた歴史でもない/たったひとつわかっているのは/自分でそれを発見しなければならない/ということだった”。自分で発見する、ということ。つまりは誰かに頼るのではなく、何かにすがるのでもなく、時にまかせるでもなく、手本などない、もちろんマニュアルなどない、そういう中で見出した自分なりの答えというものの強みを、それがもたらす人間としての成長というものを、はっと思わせる。そして、誰もが手探りの日々を生きている、ということも。

 最後に収録されている「りゅうりぇんれんの物語」。日本軍が強制連行した中国の若い農民の姿を描いたこの物語には、終始胸を締めつけられ、圧倒される。かつて起きてしまった悲劇に、運命と運命とが出会うその奇跡に、そしてそれを紡ぐ言葉の力というものに、ただただ驚かされるのである。また、「答え」という一篇には、祖母に幸せだった頃のことを問うた幼き日を思い出す著者の姿がある。間髪を入れずにさらりと答えた祖母に驚きつつ、今それをしみじみと噛みしめるのである。幸せな時をわたしたちは何かにつけて忘れがちだ。悲しみや憎しみはすぐさま引き出せるほど覚えているのに。何て卑屈にできている…そう恥じ入りながら、気持ちを新たにしようと思った今日だ。

4887470789女がひとり頬杖をついて
茨木 のり子
童話屋 2008-01

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2008.05.23

落ちこぼれ―茨木のり子詩集

20070329_006 凛として潔い。痛いほどに強烈な言葉の数々は、何もかも包み隠さずにただ心に添う。すとんと届くように。深く深く染み入るように。強い意志のある直球の言葉は、いずれも自分自身へと向かわせる。これまでのわたし。今現在のわたし。これからのわたし。そうして、どうかするとくずおれそうになるわたしに、そっと言葉を差し出してくれるのだ。茨木のり子著、はたこうしろう絵、水内喜久雄選・著『落ちこぼれ―茨木のり子詩集』(理論社)は、「女の子のマーチ」「わたしが一番きれいだったとき」「落ちこぼれ」「汲む」「マザー・テレサの瞳」「自分の感受性くらい」「倚りかからず」など、茨木のり子の代表作を含む全33編を収録した、<詩と歩こう>シリーズの一冊だ。

 タイトルにもなっている「落ちこぼれ」。“落ちこぼれ/和菓子の名につけたいようなやさしさ/(中略)/落ちこぼれ/結果ではなく/落ちこぼれ/華々しい意志であれ”。落ちこぼれという言葉が、何とも魅惑的に響く一編である。また、その選ばれし言葉のやわらかさに思わず笑みがこぼれてしまう。著者は、落ちこぼれないために忙しなく生きることを嘆いている。落ちこぼれこそが人の魅力や風合いを薫らせるのに、と。落ちこぼれること。そこに含まれたふくよかな意味を、はっと気づかせてくれるのだ。わたし自身、ある意味においては人生における落伍者のようなもの。だからこれらの言葉によって、恥ずかしながら、ほんの少し救われた心地になったのだった。

 「女の子のマーチ」では女の子の無邪気な逞しさを、「わたしが一番きれいだったとき」では戦争で失われた時間を、「汲む」では素敵な人から学んだ大人のあるべき姿を、「自分の感受性くらい」では何かのせいにしない生き方を、「倚りかからず」ではなにものにも倚りかからない生き方を紡ぐ。著者の生き様そのもののような作品の数々は、生きるということに対して、言葉を紡ぐということに対して、貪欲でありながら、真摯な姿勢を感じるものばかりである。例えば、人に対しても世の中に対しても初々しくあること。例えば、心の底にしいんと静かな湖を持つこと。例えば、たくさんの失敗をしてもなお、生きてゆこうとすること。まだまだわたしには、学ぶべきことがたくさんある。

4652038410落ちこぼれ―茨木のり子詩集 (詩と歩こう)
茨木 のり子 水内 喜久雄 はた こうしろう
理論社 2004-01

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2008.05.18

言葉のミルフィーユ

20070514_016 少しずつ、けれど確かに言葉が重なってゆく。歳を重ねるほどに。人と出会うほどに。何かを学ぶほどに。何かを気づくほどに。そうして厚みを帯びた言葉たちは、強い意志をもってわたしたちの少し先をゆく。小澤征良著『言葉のミルフィーユ』(文化出版局)は、“夢”をテーマにしたインタビューや対談、大切なもの、大好きなもの、家族や友人との絆などに纏わるエッセーを収録した一冊である。人との出会いから見えてくる新たな世界は、わたしたちの進むべき道をほんのりと照らすようでもあり、読みながら頷くこと数十回。人と人とが出会うことの可能性と導かれることの不思議、そこに秘められた魅力を改めて感じてしまう。“人”というものの魅力は、尽きることを知らないのだ。

 著者がインタビューをしたのは、総勢12名。筑紫哲也、KONISHIKI、乙武洋匡、崔洋一、江國香織、北山陽一、ジョアン・ゲルキ、日野賢二、岩松了、ドランクドラゴン、山田洋次、森英恵。著者の同世代から、著者の父親の世代よりさらに上の世代まで、小さな頃の夢と今現在の夢について著者が聞き役となっている。この12名に共通して言えることは、自分のビジョンを大なり小なりしっかり持っているということ。そしてわたしが思ったのは、語るべき何かを持っているということの強みというものだ。今を誇れるからこそ、未来を語れる。その強みである。だからこそ語ることができる人たちの目は、煌めくほどであるということ。もちろん、そこには年齢の壁などない。

 “「新しい人」への伝言”と題された大江健三郎との対談では、繰り返し“注意深くあること”の大切さを問うてくる。常に注意深くあること。それは、新たな人との出会いや偶然と出会うための準備をしておく、ということである。これはつまり、偶然を必然へと変える努力というものだ。もちろん、ある方向性を持っているからこそ、注意深くいられる。持続性を持っているからこそ、注意深くいられる。こういう力を備えることによって、わたしたちは目の前の多くの情報の中から、本当に大切なものを見極めることだってできるようになるし、日々をより生き生きと過ごせるようになるに違いない。生きることに真剣な人の言葉は、いつだってひどく深く心に迫りくる。

02977222

4579304217言葉のミルフィーユ
小澤 征良
文化出版局 2008-03

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2008.05.14

宇宙の片隅で―石垣りん詩集

20070421_031 心を射るような、つんざく言葉がある。生々しい現実を包み隠さない、潔い言葉がある。生きるということに寄り添う、やわらかなまなざしの言葉がある。そうして、そんな言葉たちに寄り添うようにして生きたのが、石垣りんという一人の女性なのかも知れない。だからこそ、読み手の心にすとんと届く。読み継がれてゆく。石垣りん著、伊藤香澄絵、水内喜久雄選・著『宇宙の片隅で―石垣りん詩集』(理論社)。太陽のほとり、挨拶、表札という三部構成からなるこの詩集は、一人の女性として思うところを紡いだ詩、原爆写真に寄せて紡がれた詩、日々の暮らしに密接に関わる詩…と、さまざまな石垣りんを垣間見られる、彼女の入門書として最適な一冊になっている。理論社の「詩と歩こう」シリーズ。

 「くらし」という一編では、喰わずには生きられないわたしたちの宿命を紡いでいる。食べ物だけじゃない。親やきょうだいや、師、金、こころまでも喰わずには生きてこられなかったという切迫した思いは、石垣りんという人の人生の厚みや重みと一緒にずしんと響いてくる。この人は本当の悲しみを、孤独を、生きるという意味を、よく知っているに違いない。だからこそ、こんなにもさらりと重みを紡いでみせるのだろうと。実際「石垣りんさんをたずねて」によれば、五歳で母親を亡くし、その後三人の母親を持った過去があることがわかる。また、空襲を経験していること、一家を支えるために働かねばならなかったことなど、その人生は波瀾に満ちていた。

 「今日もひとりの」では、1つのビルが建つために起こる非情を描く。世の中にまかり通ってしまう“やむを得ない”に異を唱える詩だ。いつしか、“やむを得ない死”がなくなり、命もこころも生かされる日を切実に願う思いが伝わってくる。しかしながら、毎日どこかで誰かが亡くなるというその現実から、わたしたちは逃れられない。それは限りのある命の為せるワザとも言える。日常茶飯事の出来事でもある。だが、日常茶飯事ということの恐ろしさを、わたしたちは忘れてはいけないのだと思う。そして、決して慣れてはいけないものが、この世の中にはあるのだと。正しいものを確かに見極められる目が必要なのだと。そう訴えかけている一編だと思うのである。

4652038461宇宙の片隅で―石垣りん詩集 (詩と歩こう)
石垣 りん 水内 喜久雄
理論社 2004-12

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2008.05.01

いまにもうるおっていく陣地

20070428_022 言葉をかきわけてゆく快感にはたと気づく。文字の波間。その連なりに、骨の髄までひたひたと染み入ってくる。容易にはわからないからこそ何度も噛みしめる言葉があり、容易に理解できてしまうからこそあっさりと流れてゆく言葉がある。そうして、いつしか脳裏に浮かんでくる光景は言葉という制限をこえて、伸びやかなまでにわたしたちを導く。蜂飼耳著『いまにもうるおっていく陣地』(紫陽社)。独特の豊かなリズムで紡がれる、著者ならではの詩15篇を収録した一冊である。古典の文語体と現代の口語体を自由に行き交うスタイルは、中原中也賞を受賞したこの第一詩集から既に完成されており、その言葉のセンスにたびたびはっと息を呑む。

 タイトルになっている「いまにもうるおっていく陣地」。ためらいつつも夏草に覆われた廃屋に足を踏み入れ、流しの水が出たままになっているのを目にする。ひねってもなお、いっこうに締まらない(湧き水から引いている)蛇口。水際にあるこの家が、植物によって侵食されているのを目にする。そこで感じるのは、朽ちても確かに残る人の息づかいと植物の息づかい。その共生だろうか。だが、それをひたひたと感じている観察者に対して、連れの彼女は大胆にも残る息づかいを踏みしめてしまう。そして、この廃屋の陣地なるものがそうした行為によって、何らかの変化をきたしてゆくのだ。それが何だかとても親しみ深いことのように思えて、わたしはほっと安堵した。

 「たこ」という一篇では、霧雨をさけて店内でコーヒーを飲む二人が描き出される。コーヒーカップを上げ下げする行為が繰り返され、うわのそらなのか気まずい雰囲気なのか、長い時間が経過してゆく。二人の間には相容れない領域なるものがあるのかもしれない。いや、それは今に始まったものではなく、もっと根源的なものなのかもしれない。二人という関係性の在り方を思うとき、さまざまに思いめぐらすわたし自身の過去や現在と何かがシンクロして、不思議な心地に包まれる。この一篇では、コーヒーカップが骨壺と表現されているあたりが何ともおかしく、もしかしたらデートなのか。それも緊張の初デートなのか…などといらぬ妄想を掻き立てるのだった。

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2008.04.21

ババ、バサラ、サラバ

20070421_042 気がつくと言葉を求めている。どんな言葉でもいい。生身の、血のかよった言葉なら、なおのこといい。小池昌代著『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)という現代詩集を読みながら、そんな心持ちになっていた。タイトルの意味は不明だ。だが、不明ながら濁音の言葉の響きが、ことさらあたたかなやさしさに満ちていることを教えてくれる。ババ、バサラ、サラバ。呪文のように、早口言葉のように声に出して、何度も何度も言ってみる。唇と唇がふれるたびに伝わる微かな振動が、何だかとてもくすぐったい。ババ、バサラ、サラバ。とりたててたぶん意味はないけれど、それでも確かに息づいている。求めていた生身の、血のかよった、そんな言葉だと思った。

 わたしはよく、変わらないね、と言われる。そのたびに変わらなくちゃいけない、と思う。同時に変わってはいけない、気もする。この身体に刻まれたひりひりするような感覚を、それをまだ忘れられずにいることを、どこかで肯定されたい、とも思う。だからだろうか。幼き頃の感覚を呼び起こされるような文章に出逢うと、心がざわつく。言葉が愛おしくてたまらなくなる。この詩集の中の「菊野先生」という一篇は、わたしにとってそんないつかのひりひりを思い出させるものだった。もちろん、そこには大人になった今だからこそ言語化できる感情の蠢きがあるのだが。記憶の中の過去と今とが繋がるとき、はじめて理解できることがあることに、はっと胸を突かれてしまう。

 「スター」という一篇では、鮮やかに光と闇とを描いている。舞台袖からスターを見つめ続ける語り手は、どこまでもどこまでもただ見つめ続ける。手を差し伸べることも、声をかけることもしないで。“わたしはここにいて ここにいないのだから”そんな哀しい立場のまま。スターのなれの果てまで見つめる視線は、どこまでも冷酷で、同時にあたたかい。「金魚」では、30年ぶりにやってきた金魚に振り回されながら、それでもその生を真正面から見つめる。夢にうなされるほどに金魚に支配されてゆく日常は、滑稽ながら危機迫るものがある。その結末を知るとき、ちくりと胸に痛みを覚える一篇である。全20篇を収録したこの一冊は、何度も何度も噛みしめたくなる言葉に満ちている。

4776804530ババ、バサラ、サラバ
小池 昌代
本阿弥書店 2008-01

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2008.04.15

死者の贈り物

20070409_022 もう何年前になるだろうか。突然にぽっかり空いた席が、いつしか自然に埋まるのを見たとき、“忘れゆく”という意味をほんの少しだけ意識したのを覚えている。昨日までいた。でも、今はもういない。“死”は、それだけの事実を目の前にぽんと差し出して、残された者を呆然とさせる。同時に、生という得体の知れないうごめきを、恐ろしいとすら思わせる。長田弘著『死者の贈り物』(みすず書房)。あとがきによれば、ここには“誰しもの、ごくありふれた一個の人生に込められる、もしそう言ってよければ、それぞれのディグニティ、尊厳というもの”が紡がれている。親しかったものの数々の記憶は、簡潔な言葉とやわらかな優しさとに彩られて、今という瞬間を特別なものへと変えてゆく。

 人は忘れてゆく生き物だとよく言われる。事実、長く生きれば生きるほどに、忘れゆくに違いない。親しかった者のこと、親しかった場所のこと、親しかった時間のこと、親しかった書物のこと、ささやかなありふれたもののこと…。この作品に収録されている「あらゆるものを忘れてゆく」という一編の詩には、忘れてゆく人についてこんなことが書かれている。“人間が言葉をうしなうのではない。言葉が人間をうしなうのだ(p62)”と。忘れてはいけない。そうさまざまなものたちが教えてくれるけれど、それでも人は老いてゆく。死者の年齢を越えて。そして古い言葉だけ、その真実だけが残ってゆく。人はまるで存在しなかったみたいに、消え失せてしまう。まるで、生まれでなかったみたいに。

 また「あなたのような彼の肖像」は、誰でもなかった、ある一人の男の生涯を綴ったものである。もしかしたら、あなただったかもしれない、あなたのような、そんな男の。この一編の詩をじっくり読んでゆくと、わたしたちの生涯というものが、無性にやるせなくて、同時に愛おしいものへと変わってゆくのがわかる。“わたし”という個は、個でありながら必ず誰かとつながっていて、それでもやはり孤独に違いなくて、ひどく寂しい。そんな現実において、どんな一生も、どんな死も、すべてにおいてわたしたちは誰でもない特別さをもっていて、それでいて誰かととてもよく似ているのだと知るのである。だからこそわたしたちは誰かと寄り添い、それでいて孤独を愛して止まないのかもしれない。

4622070677死者の贈り物―詩集
長田 弘
みすず書房 2003-10

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2008.04.12

記憶のつくり方

20070409_011 こぼれ落ちゆく幾多の記憶たち。わたしの中に残ってゆくのは、ほんの一握りの記憶でしかないのだろう。それでも、今ここに在るわたしという土壌をつくったのは、その一握りの記憶である。過ぎ去ったものではなく、過ぎ去らなかったもの。そこにとどまったもの。それが記憶というものだと、長田弘著『記憶のつくり方』(晶文社)で著者は語る。つまりは、わたしという人間をつくったのは、そういう過ぎ去らなかった記憶たちなのであろう。“記憶=過去”と一口で言っても、その意味するところは微妙に異なっているのである。過ぎ去る。過ぎ去らない(=とどまる)。わたしたちが経験するすべての瞬間は、その二つのことに集約されているのかも知れない。

 この作品は、3章24編からなる、詩文集である。「ルクセンブルクのコーヒー茶碗」という箇所では、予定を作らない、いわゆる旅らしい旅ではない旅について書かれている。日々の繰り返しから自分を密かに切り離すような旅である。そんな中で、著者は普段はすっと入ってこないような言葉を噛みしめて、忘れていた自分を見出して、再び家路へと戻ってゆく。旅をしないわたしは、こんな箇所を見つけてしまうと、自分の進歩のなさというものを、まざまざと感じるわけである。ときには違う環境に身を置くこと。新しいものにふれること。そうして、自分自身を取り戻すこと。そういうちょっとした旅心のようなものの力を、信じてみたいような気すらしてくるのだった。

 「自分の時間へ」には、“書くとは言葉の器をつくるということだ。その言葉の器にわたしがとどめたいとねがうのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ(p87)”という箇所がある。自分の時間としての人生を思うとき、それを明るくともしてくれているのは、他でもない、自分以外の人々である。そうして、与えられた人生を自分なりに耕してゆくことで、過ぎ去らなかった記憶たちは育ってゆく。わたしたち一人一人の中にとどまるのは、“わたし”というひとつの土壌を豊かにする、かけがえのない煌めきを放つ、選ばれし記憶の欠片なのである。そう考えてゆくと、何だかすべての瞬間瞬間が、愛おしくて特別なものに思えてくる。

4794935315記憶のつくり方
長田 弘
晶文社 1998-01

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2008.03.30

ネコを撮る

20070329_001 愛猫のあまりの可愛さに日々を支えられ、その瞬時に魅せる姿を確かに記憶に刻みたくて、猫写真を下手ながら撮っている。切り取られた瞬間は、どれもこれもその魅力を伝えるに不充分で、何とも悔しい限りである。こんなにも愛くるしいのに。こんなにも愛おしいのに…そんなわたしが、少しでも猫写真の腕を上げるべく手にした、岩合光昭著『ネコを撮る』(朝日新書)は、長年猫写真を撮り続けてきた著者ならではの、モデル猫の探し方、猫の機嫌のとり方、決定的瞬間を逃さない方法などなど、猫写真に纏わるヒントが満載の一冊になっている。著者の猫写真の数々や世界の猫事情、野生の猫であるライオンやチーターの生態などにもふれていて、猫の世界を耽読できる。

 中でも、早速実践として使えそうなものとしては、猫の撮影には朝が適している、ということ。猫は朝日が出る頃が一番、活動的なのだそうだ。身体に光をいっぱい浴びる猫の姿は、とても美しいものである。思えば、毎朝のように外にパトロールに出かけている我が家の愛猫たち。帰って来るなりすぐさま爆睡状態が続くため、実は寝顔を一番長く見ているのだった。これでは生き生きした猫写真が撮れるはずがない。けれど、この頃の猫事情としては、人間の生活に密接になりすぎているため、人間のペースに呑まれているらしい。あの気まぐれで、超マイペースの猫が、である。猫様と崇めてしまいがちな猫狂いとしては、何だかそういう細かな猫事情にくすりときてしまった。

 また、猫写真を撮る上での心構えとして、“「個」を見極める”ことが大事だそうだ。とにもかくにも猫を見ること。見つめること。これに尽きる。見ることに始まり、見ることに終わる。それが、猫と人間との良い関係をつくる基本なのだろう。主役はあくまでも猫である。撮っている側は、猫様々と祈るようにして、シャッターチャンスを狙うしかない。著者は、“すばらしい猫写真は、すべての写真にも通じる”とさえ言っているほどである。けれど、猫写真を撮る上でのヒントを知ったところで、なかなかすぐには身につかないのが実際のところである。写真とは、実に奥が深いもの。愛猫の愛くるしさを半分も伝えきれない、相変わらずなわたしだ。それでもまだ懲りはしないが。

4022731338ネコを撮る (朝日新書 33) (朝日新書 33)
岩合 光昭
朝日新聞社 2007-03-13

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2008.01.13

読む少女

20050601_44032 本とわたし。その出会いはめぐり、わたしもめぐる。そうしてめぐりめぐって出会った本との関係は、ときに何よりも親密なものになる。ときにわたしの背をそっと後押しすることだってあるのだ。ときに“読む”ことで自分を見出し、自分自身と対話をする。過去との自分と。今の自分と。これから先の自分と。岸本葉子著『読む少女』(角川文庫)に紡がれるのは、本との出会いをめぐる数々のエピソードである。たどられる著者の少女時代の記憶は、甘くもほろ苦い、何とも切ない懐かしい思いを呼び起こす。かつて子どもだった頃に誰もが思い悩んだことを、しかと綴ってくれているからである。そこには、様々な本との出会いがあり、夢中に読んだ著者がいて、確かにわたしたちもいたのだろう。

 このエッセイは、“読むべきときに読むべき本を読んでこなかった”という後悔のもと、本とのつかず離れずの関係を推奨するものである。この著者、子ども時代には「子どもの本」というだけで背を向けてきた本多数。学生時代には、ある反発から「若者らしい本」から背を向けてきた本多数…という、少々ひねくれた方だったりする。エッセイの中で繰り返し述べられているのは、その時々にしかできないことをやるべきだった…という思いだ。もちろん、大人になってから読むことでも新たな気づきはある。人といろんな出会いがあり、いろんな関わり合い方があるように。そして、何度でも出会うことになる本は、もうそれだけで糧となるはずである。

 わたし自身、こうして本ブログなんぞやっていながらも、実は名作と呼ばれるものやベストセラーなるものからは、縁遠いまま読書に励んできた。タイトルと概要だけを諳んじることができるだけで、実は読んでいない本の多いことと言ったら……。この『読む少女』の中に取り上げられている、高村光太郎『智恵子抄』、林芙美子『放浪記』、『蜻蛉日記』、パスカル『パンセ』、サン=テグジュペリ『人間の土地』なども、ほぼ未読に近い。あまりあるほどの情けない読書歴に、わたし自身愕然となる。だが、それでもいいのだ。すっと自分の胸に入ってきたときに読んだらいい。読む時期は自然とやってくる。それは必ずしも本というかたちでないにしても。

4043819013読む少女 (角川文庫)
岸本 葉子
角川書店 2006-11

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