74 その他の本

2012.02.22

本屋さんに行きたい

Ksduhfkdjhfo 街の本屋さんは次々と姿を消してゆく時代にあって、今書店業界は大変な様子。わたしの住む町にも今、一軒も本屋はない。合併したものの図書館すらない町なので、田舎の町というだけなのかもしれないが、本好きにとってはこういう状況下にある限り、インターネット書店に頼らざるを得ない。お隣のお隣の大きな街まで行っても、まともな品揃えの本屋はないから、本好きには寂しい限りの時代になってしまったのかもしれない。そんな中、小さいながらもこだわりを持ち、個性的なユニークな15の新刊書店、古書店、ブックカフェを紹介した本を読んだ。矢部智子著『本屋さんに行きたい』(アスペクト)である。ページをめくるほどに、本好きにはたまらぬ夢のような本屋が並んでいる。

 世の中に溢れるたくさんの本の中から、自分たちのよいと思う本だけを選び抜いて、自分たちの思い描くとおりに本棚に並べ、特色あるディスプレイにし、店構えもふつうの本屋とはどこか違う佇まい。本のつくり手と読み手がつながるような、サロンのような、ギャラリーのような、くつろげるカフェのような、書店という枠にとどまらない自由な空間をつくり出している。本は買うものでも、読むものでもあるけれど、それ以上に楽しむものだということを教えてくれるような空間が広がっているのだ。この本に紹介されている本屋さんへ行けば、読書を楽しむ幅が今の何十倍も広がって、本との本当の意味での付き合い方を学べるのではないか、という気持ちにすらなってくるほどである。

 そこへ行くだけで、そこに佇むだけで、もうそれだけで、読み手は本の虜になる。その場所へ行ってみよう、という好奇心もふつふつとわいてくる。品揃えの多さでいったら、もちろんインターネット書店にはかなわないだろう。けれど、実際に手に取り、手触りを確かめ、はっとするような新しい出会いをする。そんな運命が待っているような気がしてならない。その本屋さんを訪ねるために、旅をしたくなるような気さえしてくるのだ。訪れた人が新しい作家や本を知るための、ささやかなきっかけをつくる手助けをしたいという、控えめながら強い気持ちを感じる。そんな静かに熱い本屋さんばかりである。そこを訪れる価値が確かなものとして心の奥深くに残るような、そんな本屋さんばかりだ。

 「人がつながる本屋さん」、「空間を楽しむ本屋さん」、「あたらしい古本屋さん」、「街と生きる本屋さん」、「もっと!本屋さん」という5章からなり、そのほかコラムとして本屋さんではないけれど、さまざまなかたちで本を楽しめる場所も紹介している。千代田線根津駅根津メトロ文庫や日本科学未来館、目黒シネマ、キッズデザインライブラリーなど、どれもそれぞれにユニークな試みをしていることがわかる。本のある暮らしを送るために、本のある休日を過ごすために、本のある日常を見出すために、大型書店やインターネット書店では味わえない思いを満たすために、本屋さんへ行こう。本屋さんへ足を運ぼう。そういう気持ちを奮い立たせてくれる魅力溢れるガイドブックとなっている。

475721670X本屋さんに行きたい
矢部 智子
アスペクト 2009-04-27

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2010.06.24

ポロメリア

20100409_4022 “今”が切実に欲しいと思う。同時に、“今”なんていらない、とも思う。見えない明日に夢を抱きながら、不確かな足取りではすぐさま足元をすくわれる。はたと気づけば、今この瞬間はすぐに過去になるのに、それでも“今”は落ち着かない。“今”におさまりきらない思いが、びゅうと激しくゆれる。どうしたらいい?どうすればいい?“今”を駆け抜けて生き抜くすべを知りたい。切実に知りたい。わたしのゆくべき道を。わたしのたどり着く先を。知りたい。切実に知りたい。その先を、そのまた先を知りたい。Cocco著『ポロメリア』(幻冬舎)には、中学一年生の少女の抱える今が詰まっている。多感な年頃のきらめくような感性を紐解く、自伝的とも言える物語は、読む者の心の奥をぐらぐらゆさぶる。

 “朝一番/グランドの隅っこで/校舎の4階から飛び降りた私は/地べたに転がって、まだ生きている。/もう夏のにおいがする。/何てこった。/きれいな空だ。”印象的なはじまりは、もうそれだけで物語へとやわらかに誘う。沖縄の那覇に住む中学生になったばかりの由希子の語り口は、のびやかで軽やかだ。彼女の生い立ち、武勇伝、家族のこと、友だちのこと、コンプレックス、夢中になっているバレエのこと…などなど。二度と戻らないきらきらした日々は愛おしい記憶として、しなやかに思い出されてゆく。そして、その端々にそっと添えられるように吐き出される、十代ならではの胸のうちがせつなく、苦しく、懐かしく、ため息をつかせるのだ。ときに、はっとするほどに生々しい色をして。

 そういう中にうごめく、“今”へのゆらめくような思い。あっという間に過ぎてしまう“今”への切実なる思いだ。途方もない“いつか”までなんて待ちきれないと“今”を欲する気持ち、“今”という時間を生きるすべが知りたいと切実に乞い願う気持ち、前にも後ろにもない“今”をいらないものと思ってしまう気持ち。未来には淡い夢だってある。過去にはやさしい想い出だってある。愛されている。愛している。それなのに、“今”が苦しい。“今”の激しい感情に流されてしまう。どうしたらいい?どうすればいい?自分より年上の人たちはこの感情とどう付き合って、生き抜いたのか。そのすべを知りたい。わたしのゆくべき道を。わたしのたどり着く先を。知りたい。切実に知りたい。その先を、そのまた先を。

 通り過ぎてしまえば、あっという間に流れているはずの日々。ほんの瞬きばかりの時間かもしれない、少女から大人の入り口への足取り。不安定なゆらぎは、きっと誰もが通り過ぎるはずの、一瞬の通過点に過ぎない。その一瞬を鮮やかに切り取ることのできる未来を、“今”という瞬間には思いもしない。人は“今”を生きた結果ばかりを教える。その、生きる過程を丁寧に教えてはくれない。大人になってみればわかる、後になってみればわかる。そういう、いつかわかることの連続で日々が続いてゆく。自分で学ぶしかない生きる過程が、生涯続いてゆくのだ。どうしたらいい?どうすればいい?その問いの答えは、自らの手でつかむしかない。ゆっくりでも、どんなでも。つかむのだ。つかんでゆくのだ。

4344018354ポロメリア
Cocco
幻冬舎 2010-05

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2010.05.05

告白

20100409_4011 内に秘めた憎悪と、密やかなたくらみと。正しさの中におさまらない感情がひたひたとしたたり落ちる。圧倒的な正しさは言うだろう、“憎しみを憎しみで返してはいけない”、“復讐は悲しみしかうまない”と。そんなことはきっと、どこかでわかっているのだ。正しさの理由など深く考えずとも、本能的にわたしたちは知っている。何が正しくて、何が間違っているのか。そして知っている。正しさがすべてではないことも。正しさの中におさまりきらない感情が、この世には溢れていることを。湊かなえ著『告白』(双葉文庫)は、教師が生徒たちへある事件についての真相を告白するかたちで始まる。よどみなく唐突に語られるそれには、内に秘めた憎悪と密やかなたくらみが隠され、静かにうごめいている。

 物語は中学校の終業式、一年生のあるクラスでのホームルームの場面から始まる。担任の女性教師の長い退職の挨拶である。“娘の愛美は事故死ではなく、このクラスの生徒に殺されたのです”という、衝撃的な告白だ。激しい憎悪をちらつかせながらも犯人である生徒をじわりじわりと特定し、恐ろしいまでに周到に追いつめてゆく。彼女は警察に事故として処理された事件の真相を知りつつも、それを警察に声高に訴えたりはしない。少年法が十三歳である生徒を守ってしまうことを考え、自らの手で彼らに復讐しようとするのだ。教師である前に一人の人間であり、母親。いくら人を教える立場にいようとも、聖職者にはなりきれなかった。殺人犯である彼らへの精一杯の復讐を彼女は決意するのである。

 “告白”というタイトルどおり、事件に関する人物たちのモノローグで構成されたこの物語。被害者の母親である女性教師、その教師の去っていった後を語る級友の女子、加害者である少年Bの家族、少年B、少年Aと、代わる代わるそれぞれの視点で事件の真相に迫ってゆく構成。語りの立場が変化することによって、それぞれの立場になって気持ちを汲み取るうち、読み手であるわたしたちは事件の全貌をつかんでゆく。当然ながらそれぞれの言い分があって、それぞれの感情がある。被害者である女性教師に心寄せずにはいられないし、加害者側である少年たちの思いを痛いほどに知ってしまうと、同情心がわき上がる。結局のところ、当事者にしかわかり得ない思いが根の部分としてあるのだろう。

 わたしたちの目の前にある、後戻りのできない出来事の数々。そこにも正しさにおさまりきらない感情が当然のことのようにして横たわる。やり場のない思い、悲しみ、憎しみ…そういった感情はごろごろとある。そういう感情の処理は難しくとも、容易には見つからない答えの先に、わたしたちは妥当なおさめ場所を見つけなくてはならない。世の中に溢れる理不尽な善悪の天秤に揺さぶられながらも、懸命に。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり。揺らされた感情が多ければ多いほどに、わたしたちは複雑に、そして豊かになる。そうやって“わたし”という器が出来上がってゆく。そうして“わたし”という器を飼いならしながら、日々を生き抜くすべを見つけてゆく。いや、見つけなければならない。

457551344X告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)
湊 かなえ
双葉社 2010-04-08

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2010.03.08

故郷のわが家

20100224_4009jpg_effected 儚く移ろいゆくものを愛おしく手繰り寄せる。手を伸ばせばすぐにでもふれられそうなくらい、近いところで疼く記憶の数々。その疼きに導かれるように、なまあたたかい記憶に浸ってみる。若かった頃のわたしも、今あるわたしも、老いゆかんとするわたしも、その境界をなくしてまどろみの中に浸り込む。あの日も昨日も今日の日も、もはや一緒くたにほっこりと心地よい。村田喜代子著『故郷のわが家』(新潮社)。親を看取って、子育てを終えて、何人かの知人を亡くして。そんな年齢になった女性を主人公に、無情に過ぎようとする年月を想いながらふと立ち止まる。ときにユーモラスに。ときに懐かしく。もう戻れないとわかっている日々に、今の想いをひそやかに添えて慈しむ。

 故郷にある生家を処分するため、久住高原に戻ってきた65歳の笑子さん。たった一人きりで家の片づけに取りかかるものの、夢かうつつか区別のつかぬ世界へふらりと入り込んでしまう。古くなった物たちを丁寧により分けるほどに、さまざまな想いが笑子さんの胸でたっぷたっぷと心地よくゆれてゆく。決して戻ることのない時間に想いを馳せて、笑子さんは愛おしい記憶に漂うように遊ぶ。兄弟たちのこと、かつて野望を抱いていた旧友たちのこと、旅先で出会った時間を持て余している同年代の男性のこと、戦時中の兵士たちのこと、人工羊水の中のヤギのことにまでその想いは続く。笑子さんの思いつく“故郷喪失”という言葉が、読み進めるほどにしんみりとじわじわ響いてくる。

 “故郷喪失”。思えば笑子さんは夢とうつつを繰り返しながら、ゆっくりゆっくり自らの手で故郷を葬ろうとしていることになる。ひとつひとつ丁寧に片づけるさま。それは、きっと今現在と過去とを少しずつ切り離す作業なのだろう。現在を生きるわたしたちは、どうあがいても過去には手が届かない。昨日にすら決して引き返すことができないのだ。一生はあまりに儚い。だからこそ尊い。決して戻らない、引き返せない時間がわたしたちを包んでいる。万物は移ろいやすいものだから。わたしたちは日々変化してゆくものだから。今目を瞑ったら、瞑った先から目の前にあったものはもう遠く手の届かないものになってしまっている。こうしている瞬間にも刻々と過去はつくられてゆく。

 物語の故郷での日々は、思えば笑子さんの独り天下だったと言える。寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。そこらにあるものを適当に食べて、相棒の愛犬フジ子とあまりに穏やかな日々を過ごしていた。場所も時間も世の中から隔てられた高原での生活は、束の間、笑子さんに与えられた大切な別れの儀式だったのだろう。笑子さんにとって、あの日も昨日も今日の日も、もはや一緒くたになって、ほっこりと心地よい記憶になる。すべては過去になる。そうして、かすかに疼くほのかな想いはもう、明日のことを考え始めてその先にいる。まだ見ぬ明日へ、また出会う故郷へ。うつらうつらしながら、またいつか故郷を想い出すまで。気の向くままに。愛おしい、その心の赴くままに。

4104041033故郷のわが家
新潮社 2010-01-30

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 ≪村田喜代子の本に関する過去記事≫
 ・『あなたと共に逝きましょう』(2009-02-29)
 ・『ドンナ・マサヨの悪魔』(2009-06-10)


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2010.01.18

園芸少年

20090410_9025 偶然か必然か。その引き寄せる力を思って、ひとつ、唸ってみる。ひょんなことから導かれ、するするとつながってゆく、めぐり合わせの不思議。どこで何がどう転び、出会うのかわからない。一見まったく接点のないように思える、性格も外見も異なる少年たち。彼らの出会いから、いつしか夢中なものを同じにして、互いをわかってゆく。少しずつ、心寄せ合ってゆく。ぎこちないながらにまっすぐな少年たちを描いた、魚住直子著『園芸少年』(講談社)は、微笑ましい彼らの成長の物語だ。それぞれの成長は、それぞれに抱える痛みをも乗り越えて、新たな一歩を確かに育んでゆく。痛みを知っている彼らの交流は、わたしたちの懐かしい記憶を呼び起こし、優しい気持ちにさせてくれる。

 高校生活を無難に送ろうと思っていた主人公の篠崎は、帰宅部になるはずだった。校舎の裏に放置されていた植木鉢に飲み残しの水をかけたところ、翌日その鉢だけ元気になっていることに気づく。春休みに出会った不良っぽい少年・大和田となんとなく意気投合して、気まぐれに植木鉢に水をやってみると、植物たちが生き生きとしてきたのだった。そんな折、部員の足りない体育系の部活からの強引な勧誘を逃れようと、園芸部に入っていると宣言してしまう。だが、園芸部は既に部員は卒業してしまい、部員は篠崎と大和田のみ。引くに引けなくなり、そのままずるずると園芸部員になった2人に、途中から相談室登校をしている庄司が加わって、それぞれの思いを抱えながら植物を育ててゆく。

 3人は三様に過去を引きずっている。篠崎は、いじめられたくない一心でいじめに加担してしまったかもしれないことを。大和田は、かつて不良だった自分自身と当時の仲間たちとのつながりを。庄司は、ひきこもりを克服するために、頭から段ボール箱をかぶらずには外に出られないことを。まったく園芸とは縁のなかった、性格も外見も違う3人。それぞれの痛みは根深くとも、彼らは植物を育てることを通じて、なごやかに心を通わせながら、少しずつわかり合える関係になってゆく。成り行き任せではじまったことが、いつしか真剣な行為に変わり、無我夢中になって痛みさえやわらげる。そうして、いつしか幾重にも強くなった自分がいると知るのだ。まだ見ぬ先に、ほのかな希望も見えてくる。

 ひとつのことに真剣になってゆくまで。その過程を丁寧に追う物語から見えてくることは、成長という名の楽しさや喜びだろうか。苦しさや痛みは芯にありながらも、するりとかき消してしまうほどに、少年たちは逞しくなる。必死に芽吹こうとする植物のしなやかなしたたかさは、少年たちの姿とよく似ている気がする。良い方にも悪い方にも転べる、その成長のとき。自らの手で明日を切り開くことを許されているときに、彼らは信じる道を選んで進んでゆく。誰もが通り過ぎる幾つもの分岐点を、自らの力で駆け抜ける。迷ったり焦ったりしながら、立ち止まったりつまずいたりしながら。しなやかに、したたかに。まっすぐに。ひたむきに。不器用な少年たちの物語は、すがすがしく吹き抜けてゆく。

4062156644園芸少年
講談社 2009-08-08

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 ≪魚住直子の本に関する過去記事≫
  『非・バランス』(2008-06-14)
  『Two Trains』(2008-07-26)
  『リ・セット』(2008-07-31)
  『超・ハーモニー』(2008-08-14)
  『未・フレンズ』(2008-09-22)
  『ピンクの神様』(2008-11-20)


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2009.08.05

夏の水の半魚人

20090726_022 小学5年生の頃のことを、わたしは鮮明に覚えている。むやみやたらに暴力をふるう担任との出会い、クラスのほぼ全員からの無視、はじめての失恋に手術、小学生にして胃を患う…などをはじめ、静物画を描くのが好きだったわたしが、急に絵を描くことを嫌いになったことが大きいからである。その年からなぜか図画大会で“生活の絵”をテーマに描きなさいと言われ、不登校気味で教室で孤立していたわたしには、日々に楽しみなどひとつもなかった。白い画用紙には、いつまで経っても何かを描くことができず家に持ち帰り、美術の得意な兄に頼んで下絵を描いてもらい、何とかしのいだが、情けなくて悔しくて涙がこぼれた。だから地元の中学には進学しなかった。いや、できなかったのだ。

 前田司郎著『夏の水の半魚人』(扶桑社)は、小学5年生の魚彦を主人公に展開してゆく。ユーモア溢れる母親や足の不自由な親友、同級生の弟、転校生らとの日々が瑞々しいタッチで描かれている。舞台は平成2年らしいが、今とそれほど変わらない日常がここにはある。平成21年に読んでも、今と共鳴し合う。子どもというには大人過ぎて、けれど大人というには幼過ぎて。でも、こうして大人になって小学5年生の視点で読んでみると、大人も子どもも関係ないのだということがわかる。魚彦のひと夏を描きつつも、ぎゅっと濃縮された時間がここにはあるのだ。人間関係におけるさまざまな気遣いや彼らなりのルール。それは、大人になっても何ひとつ変わらない普遍的なもののようにすら思えてくる。

 複雑に絡み合う日々を送る魚彦は、あることをきっかけに孤立してしまう。読むほどに暴かれてゆく魚彦のどろっとした感情が浮き彫りになるのだ。プライドや虚栄心、理由なき嫉妬心、わからずに込み上げる憎悪、そして深い苦悩…それらに支配された彼の心は、はけ口を見出せずに懸命にもがいている。かつてわたしがもがきあがいたように。もちろん、本書に描かれているのは、そういうものばかりではない。子どもらしく無邪気にはしゃいで遊ぶ場面だって、好きな女子を報告し合ったり、意味のない遊びに耽ってみたりもする。けれど、いつまでも上辺だけの付き合いは続かない。魚彦は、今いる場所から旅立つときが来るのである。ちょっと不思議。でも、リアル。そんな日常が展開される。

 11歳の日常は決して楽なものじゃない。大人になってしまうと、あの頃は楽しかったと美化して思い出を語る人がいるが、実際はそうじゃないと本書を読めばわかるだろう。懸命に自分を支えていた日々のことを。無邪気だけでは済まなかった日々のことを。たくさんの抱えきれないほどの悩みを胸に秘めていたことを。魚彦は、そんな11歳の今を生きているのだ。まだ過去のものではない、魚彦にとっては今、なのである。わたしは地元ではない中学に進学してから手紙を何通ももらった。わたしを散々無視し続けていた同級生たちからだった。謝罪の言葉とわたしへの賛辞が綴られていた。わたしが別れの手紙を書いたのは言うまでもない。遅過ぎたのである。今、でなければ伝わらないこともあるのだ。

4594058787夏の水の半魚人
扶桑社 2009-02-27

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2009.06.20

旅するノラ猫

20090615_009 一味も二味も違った、摩訶不思議なる猫の世界。猫好きにとっては飽きることのないその未知なる世界は、さまざまに広がりを見せる。わからないからこそ想像はふくらみ、いかようにも解釈されて、わたしたちはその神秘に惹かれ続けるのだろう。これからも。この先もずっと。嵐山光三郎文、浅生ハルミン絵『旅するノラ猫』(筑摩書房)では、猫語のわかる人間が登場したかと思えば、念力で俳句を詠む猫たちが登場。集会で句会を開催したかと思えば、遠くを旅したりもする。個性豊かな猫たちと猫語のわかる人間たちとのふれあい、猫が詠む猫俳句の味わい、ノラ猫の悲しい運命というもの…などなどが丁寧に描かれてゆく。そこには猫への愛情だけでなく、著者の生きる姿勢のようなものも伺える。

 物語の中心はノラ猫のノラ。推定15歳。離れ離れになってしまった子猫を探して旅に出たノラは、飼い猫からノラ猫にならざるを得なくなってしまった。たどり着いた先は、アラシさんの家。自分の棲家とアラシさんの家とを行き来して生活している。アソウさんの家のトーちゃんという飼い猫の友だちもいて、ひそやかに俳句を詠み合う二匹。猫は薄情だというけれど、このノラは愛情がめっぽう強い。自分の子猫たちを探して長い旅に出ることになるのだ。ノラが出会う人間たちは不思議と猫語がわかる人たちばかり。猫の食事と言えど、生唾ものの料理が並ぶのが可笑しい。そうか、猫たちはこういうものを求めているのか…なんて、感心してみたりするのだ。猫の世界は嗚呼旨し、楽し、である。

 ノラの旅するのが俳句を詠むだけあって、あの「奥の細道」の旅。長距離トラックに乗り込んで、芭蕉ゆかりの地を旅する。我が子を探して三千里の旅でもある。と言っても、旅に出たい気持ちの方が優先しているような気がしないでもないけれど。さまざまな出会いあれば、別れあり。愉快なだけでは終わらない旅なのだった。楽しさも嬉しさも悲しさもまるごとひっくるめた旅。そして、その気持ちを慈しむように詠まれる猫俳句の数々。ときには仲間の猫の死を悼み、ときには季節の移り変わりを感じながら、思い思いに詠んでゆく。個性豊かな俳句の数々は、物語に添えられたイラストと共に、この物語を味わい深いものにしている。猫の世界は嗚呼なんと風流なこと。愛おしいこと…なんて思う。

 このように、猫好きにとってはなんともたまらない要素のたっぷりつまったこの物語は、猫を愛する人一読の価値あり、である。読めば、猫への愛おしさは倍増すること間違いなし、でもある。猫を見つめる視点も変化するというもの。今までとは違った猫との付き合い方が、もしかしたら始まるかもしれない。そして、ふらりと旅にも出たくなるかもしれない。そう、これは一味も二味も違った、摩訶不思議なる猫の世界。猫好きにとっては飽きることのないその未知なる世界は、さまざまに広がりを見せるのである。わからないからこそ想像はふくらみ、いかようにも解釈されて、わたしたちはその神秘に惹かれ続けるのだろう。これからも。この先もずっと。猫の世界は嗚呼なんて魅力的であること。

448081664X旅するノラ猫
浅生 ハルミン
筑摩書房 2009-05

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2009.06.12

舞い落ちる村

20090610_040 夢の中をさまよっているかのような浮遊感の中で、ただただ酔いしれていた。描写される言葉というものの美しさに、描かれる人間というイキモノの立ち位置の不確かさに。現実という輪郭が曖昧になればなるほどに、物語に呑み込まれているわたしに気づいたときには、もう遅い。酔いはぐるりと体中をめぐり、わたしという輪郭をも曖昧にしてゆく。この酔いが醒めぬままに、夢からも醒めぬままに、いつまでもずぶりと浸っていたい心地になる。谷崎由依著『舞い落ちる村』(文藝春秋)に収録されている表題作「舞い落ちる村」と「冬待ち」の2編は、いずれもそんな気持ちにさせる物語である。紡がれる描写は美しく丁寧で、ゆらゆらとゆれる不均衡さと共にほのかな余韻を残してゆく。

 言葉という概念も時間の感覚も異なる奇妙な村で生まれ育った主人公は、大学進学と共に街へ出る。ここで言う街とは、わたしたちに馴染みの街であり、現実である。一方、村では時間の進み方も年齢の重ね方も、ものの数も曖昧で、人々は個々の名前すら持たない。そんな村の中で主人公は異端児のような扱いで、彼女自身も違和感を抱きながら村を出たのだった。そんな彼女は朔と出会い、互いに強く惹かれるようになる。言葉を巧みに操る機論好きの朔と言葉をうまく発せられない主人公。やがて朔のいない夏休みに病み始めた主人公は村へと戻り、また街へ戻るという生活を繰り返すようになるのだった。村と街。この間にある計り知れない距離と靄のかかったような感覚とが、魅力的に描かれている。

 一方、「冬待ち」では、かつて惠子という親しい友人のいた大学院生の糸乃(しの)が、彼女が留学したことにより、彼女を失ってしまう。そんな中、再び惠子に代わる大学図書館で司書をしている慧子と出会うことで救われる心地になる。糸乃は夢で見た「x」という文字を手がかりに慧子に導かれて長い間失っていたあるものを捜し始める。夢とも現実ともつかぬその過程が、妖しくも魅力的に描かれてゆく。糸乃にとってのそれが、生身の恋人よりもずっと優先させるべきものであることはわかるが、最後まで明かされないその正体を思うとき、はっと夢から醒めたような心地になるのは、わたしだけではないだろう。夢から醒めた後の何とも言い難い感覚は、虚しさにも似た色をしている気がしてしまう。

 「舞い落ちる村」と「冬待ち」。いずれの主人公も自分というものの意義を見出そうと思考をめぐらせて、揺れ惑っているように感じられる。「舞い落ちる村」では朔という友人が、「冬待ち」では慧子という人物が、自分というものの存在を見出す助けとなっていたように思える。一方で、何かにつけて呪縛のように主人公を追いつめてゆく存在が常にすぐ傍にある。思考の中に押し入ってくる呪縛は、無機的に主人公の脳内を埋めてゆく。それは、夢の中をさまよっているかのような浮遊感の中にいる読み手を、酔いしれさせ、現実という輪郭が曖昧になればなるほどに、物語に呑み込まれるほどの吸引力を持って、迫ってくる。その酔いはぐるりと体中をめぐり、わたしという輪郭をも曖昧にしてゆくのだった。

4163278702舞い落ちる村
谷崎 由依
文藝春秋 2009-02

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2009.06.10

ドンナ・マサヨの悪魔

20090610_004 いくつもの死と生の連鎖上にあるひとつの神秘である、生命の誕生。それを人間が人間になる以前の生命体という起源から遡って、何ともニヒリスティックに語る悪魔の声に耳を澄ませば、出産という大イベントが単なる“おめでた”ではないことを思い知る。これまでにいかに多くの死と生とが繰り返してきたのかを思うと、気が遠くなるほどである。村田喜代子著『ドンナ・マサヨの悪魔』(文藝春秋)は、現代の出産という実態を娘の胎内に宿った不気味な悪魔と、やがてその祖母となるはずのマサヨとの対話が何ともユニークな風刺的な物語。客観的に出産を見守りつつも、悪魔の声に翻弄されつつ、自分のあり方を見つめてゆく。そんな物語のようにも思えてくる不思議な後味の一冊である。

 イタリアに留学中だった娘の香奈が妊娠して結婚を機に夫であるパウロと帰国。マサヨ夫婦と同居を始めることになる。ときどき犬や猫が話しかけてくる声が聞こえるマサヨは、娘のお腹の中に宿る胎児らしい、不気味な悪魔の声を聞く。“ばあさん”とか“愚かな老女よ”と呼びかけられるひそやかな悪魔との交信の中で、マサヨはイタリア語で海を意味する“イルマーレ”と名乗る声と出会い、生命誕生の神秘を考える。呆れるほどにえげつないことを語り出したかと思えば、人間の進化や生まれ変わりを語る憎めない悪魔の存在。祖母となる身としては、話を聞いてやらないわけにもいかず、悪魔のペースに呑み込まれてゆくマサヨの姿が何だか可笑しい。果たして子どもは無事に生まれるのだろうか…。

 この悪魔、香奈が眠っている隙を見計らってマサヨに話しかけるという次第。マサヨ以外にはこの存在を知る者はいない。祖父になろうとしているマサヨの夫は、異国の婿をなかなか受け入れられず、家を二世帯住宅に改築することでしか自分の気持ちを表せない。出産に対して盲目的になりがちな香奈をおろおろと支えるパウロの姿もまた頼りなく、いざとなると女は強しと思える。娘を励まし、包み込むように婿を受け入れ、悪魔の声までも受け入れてしまうマサヨは、なんと大らかな人だろうと思う。これこそ母性というものなのか。それとも、年齢の為せるわざなのか。今や子育ては祖父母が担う時代になったというけれど、その実態に思わず前のめりになって物語に読み耽っていることに気づく。

 生命の誕生をユニークに、全く新しい視点から描いているところが魅力のこの物語。いくつもの死と生の連鎖上にあるひとつの神秘である、生命の誕生を人間が人間になる以前の生命体という起源から遡って語る悪魔の声を、ただ受け流すことはできないはずだ。これまでにいかに多くの死と生とが繰り返してきたのかを思うと、気が遠くなるほどであるが、わたしたちもその繰り返しの中で、皆こうしてこの世界に誕生してきたと思うと、感慨深いものがある。この悪魔の声によって、見つめ直さなければならない現実を垣間見られた気もするから不思議である。生命の神秘に一歩近づけた気がするのは、きっと決してこの物語が他人事ではなく、わたしたちの身近に迫りくるものであるからだろう。

4163281908ドンナ・マサヨの悪魔
村田 喜代子
文藝春秋 2009-05

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 ≪村田喜代子の本に関する過去記事≫
 ・『あなたと共に逝きましょう』(2009-02-29)


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2009.06.01

霊降ろし

20090531_001 自分の立っている場所が揺らぐ瞬間。確かに歩いてきたはずの道を一転させる出来事は、いつやってくるのかわからない。わからないからこそ、生きることは手探りで危うい。危ういからこそ、わたしたちは似たような日々を積み重ねているのかもしれない。怖いから重ねる。臆病なわたしたちは積み重ねられた日々に安堵する。それが変わりはじめる兆しに目を瞑る。田山朔美著『霊降ろし』(文藝春秋)には、「裏庭の穴」と表題作とが収録されている。タイプの異なる物語ながら、どちらにも共通するのは、懸命に生きようとする姿。今置かれた状況の中で、ほんの少しでも希望を見つけようと、もがきあがく姿である。そういう姿を見ていると、何だか自分の生き方を思わず省みてしまうのだった。

 「裏庭の穴」では、母親が庭に穴を掘っている記憶からはじまる。これを夢と思いなさいと言われたものの、主人公の中にはいつまでもこの記憶がくすぶっている。そんな主人公は夫に浮気され続け、娘にはろくに口もきいてもらえず、家庭崩壊の中にいる。ある日娘がふいに豚を飼いたいと言い出し、ミニ豚を飼うことになる。お隣の住人は、監視するように庭にいる主人公を覗き、ありもしない苦情を町内会長に訴えたりする。夫の浮気相手が家に乗り込んできたり、学校役員にあやしげな勧誘をされたり、その他にもいろいろな日常が描かれ、唯一の慰めはミニ豚だけである。そうして、いつしか庭に穴を掘っている記憶の中の母と主人公が呼応するように身近になる。圧巻のラストが待っている。

 表題作「霊降ろし」。こちらは女子高生が主人公。降霊術をするふりをして、あたりさわりのない言葉を口にすることを繰り返していた友紀だったが、ある日本当に霊が降りてきてしまい、その才能を見込まれてしまう。人を利用することに長けた拝み屋の女、その女のさらにどうしようもない若いヒモの男、家庭を顧みない父親、亡くなった長女(友紀の姉)のことだけを思い続けて仏壇の前から離れようとしない母。そんな状況の中で、学校に行くことだけが唯一の救いだと感じている友紀。流されつつも、自分を見失わないでい続ける彼女の強い凛とした姿勢がひたむきで頼もしい。彼女が出会う、友達の存在も大きいように思える。陽の光が降りそそぐ学校の屋上での場面はきらきらしている。

 どちらの物語も崩壊した家庭の中で生きている主人公である。けれど、決して自分を見失ったりはしない。自分の物語に対して、自分で決着をつける。逞しいほどに冷静に。力強く鮮明な文体の中に、彼女たちの内面がくっきりと描き出されている。忍耐の中から生まれ出す、新たな感情、道しるべ…そういったものに敏感な彼女たち。自分の立っている場所。それがぐらぐらと揺れ出すのを、逃さない。それを転機として、あるいは運命として受け入れる。そうすることで積み重ねられた日々は、ほんのり希望を見せはじめることもあるのだ。手探りでも、危うくても、確実な一歩をたどること。それは、彼女たちの強みである。日々が変わりはじめる兆しは、あちらこちらに埋もれているのだ。

4163280707霊降ろし
田山 朔美
文藝春秋 2009-04

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