2008.12.19

どこから行っても遠い町

20081203_030jpg_effected 記憶が淡くはらはらとこぼれ落ちる。そのあやういほどの輪郭をたよりに、どこまでも近くどこまでも遠い場所を探しあぐねる。いくら追いかけてもたどり着けないもどかしさと、知れば知るほどにどこかぼやけてゆく情景がここにはある。そのぼやけた情景に身を委ねて浸る心地よさったらないのだ。東京の東にある小さな商店街と、その町に暮らす人々を描いた十一の連作短篇集である、川上弘美著『どこから行っても遠い町』(新潮社)。わたしたちが生きる日々の儚さ、懸命に生きることの愛おしさ、そういったものを感じさせるひとつの町をめぐる物語である。それぞれの物語では、人と人とが濃く結びつき、それでいて侵しがたい領域もちゃんとあって、昔ながらの人情が溢れている。

 十一もの物語が展開されるので、ひとつひとつの物語の印象は読み進めるほどに薄れてゆく。けれど、その薄れ方がなんとも心地よくて、つい最後まで読み終えたときにはじめのページに戻って、繰り返し何度も読んでしまった。ある物語では主人公だった登場人物が、他の物語では重要な脇役として登場したり、点と点が結びついたかと思えば唐突に淡くぼやけてみたり。つかみ所のないふわんとした空気感が、たまらなくいいのだ。語り手は女、男、女、男…と交互に変わり、魚屋「魚春」、小料理屋「ぶどう屋」、八百屋「八百吉」、鶏肉屋「鳥勝」、喫茶店「ロマン」という商店街のお店が物語の端々に登場する。登場人物たちは出会ったり、すれ違ったりしながら、この町のどこかで繋がっている。

 中でも印象深かったのは、雨の写真ばかり撮っている女性を主人公にした物語「貝殻のある飾り窓」での、年齢をこえたところにある友情のような思い。絵にならないおばさんである“あけみ”と主人公とのつかず離れずの関係に憧れてしまう。このあけみさんがある人にとっては色っぽいような、ある人にとってはただのおばさんであるから、人の視点というものの違いをまざまざと感じさせるのだった。また、既に三度も別れている男女が一緒に店を営んでいる物語「四度目の浪花節」の央子(なかこ)さんも魅力的な登場人物の一人だ。言葉の端々から感じられる艶。そして、“好き”という一言に含まれるいろんな意味合いを大人の女性ならではの魅力で伝えてくれる。脇役ながら存在感がある。

 そして、なんと言っても締めくくりである物語「ゆるく巻くかたつむりの殻」が泣かせてくれる。既に二十年以上前に亡くなった春田真紀という女性の視点で語られる、回想と今を生きている人たちの物語である。この物語によって、一番はじめの物語「小屋のある屋上」に描かれる魚春に纏わる話や、「どこから行っても遠い町」で回想される主人公の幼き日の記憶が、やわらかに繋がる。死んだ人間は生きている人間に思い出されることによって、生きていられる。時が流れて思い出してくれる人もいずれはこの世界からいなくなるとしても、誰かの記憶の奥底に淡くも生きた証が残ってゆく。“捨てたものではなかったです、あたしの人生。”そんなふうにおしまいを締めくくれるように生きたいものだ。

4104412058どこから行っても遠い町
川上 弘美
新潮社 2008-11

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2008.05.05

風花

20070421_014 考えるべきことは先送りに。時ばかりを早送りに。そうやって曖昧な状況に安住するわたしがいる。どうしたって日々は過ぎてゆく。そのことに甘えるように。ずっと続いてゆくから。たぶん、この先も。けれど、そのままでいいわけじゃない。そのまま過ぎてゆくはずもないのに、今と向き合うことができない。わたしと向き合うことができない。誰かと向き合うことなどできるはずもない。川上弘美著『風花』(集英社)の主人公・のゆりもまた、そんなふうにして生きる一人だ。夫から離婚をほのめかされてもなお、どうしたらいいのかわからず、考えることから逃げ続ける日々。それでもゆっくりではあるけれど、自分と向き合い、夫と向き合い、その思いを確かにしてゆく様が印象的。

 のゆり、33歳。結婚して7年。夫婦間にあるのは、どこか空虚なざわめきばかりだ。会話らしい会話もなく、危うすぎるすれ違いの生活。そんな時知った夫の浮気。けれど、それを知ったところで言葉の出ない、のゆり。自分とも、夫とも、今置かれている状況とも、なかなか向き合えずにいる。そんな彼女の曖昧な態度は、何となく日々を生きてしまっている現代人を象徴しているようで、読んでいてぎくりとなる。何も考えずに毎日を生きることなどできないけれど、それでも難なく時は流れてしまうから、のほほんとついその流れに身を委ねてしまうわたしたちみたいなのだ。どこまでも他力本願の狡さが見え隠れするあたりに、のゆりという人物の妙なくらいの人間っぽさを感じたわたしだ。

 それでも、のゆりとその夫・卓哉は互いから目を背けずに、少しずつではあるけれど、向き合うようになってゆく。じれったいまでに不器用で、どうかすると振り出しに戻ってしまいそうになる二人の関係性は、現代社会の夫婦というものが、いかに脆く危うい状態にあるのかを考えさせられる。共に暮らしていようとも、近しいようで遠い“夫婦”というものについて、身を以て知らないわたしには、計り知れない部分がたくさんたくさんあるに違いない。けれど、夫婦というものがよくわからないからこそ、主人公・のゆりの思いに寄り添うわたしは、彼女のゆっくりとした人としての成長が、心地よかったのだった。時はめぐり、わたしもめぐる。そうして、彼女の決意を胸にしまう。

4087712079風花
川上 弘美
集英社 2008-04-02

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2008.02.06

いとしい

20070204_029 ゆらゆらとたゆたいながら思うことはただひとつ、世の中はなんて難儀なことよなぁ…である。誰かを強く思うことも、恋うた人と別れることも、恋い続けることも。何も色恋に限ったことじゃない。この世界は何ひとつとってみても、ひどく難儀にできている。気の持ちようだとか、考え方次第だとか、そんな言葉など空虚にすとんと落ちゆくように。川上弘美著『いとしい』(幻冬舎文庫)を読みながら、難儀よなぁばかりを繰り返してしまったのは、語り手であるマリエの恋路を案じていたからに違いなく、物語上で唯一現実をリアルに生きているように思えたからである。物語に散りばめられた数々のエピソードは、自然にするりと胸に染み入ってきて浸らせてくれる。

 物語には、語り手のマリエとその姉のユリエを中心に、その母親のカナ子、母の恋人のチダ、マリエが教えている生徒でチダの愛人のミドリ子、ミドリ子の兄でマリエの恋人となる紅郎、ミドリ子に付きまとう鈴本鈴郎、姉ユリエの恋人のオトヒコらが登場する。どの登場人物たちもあやふやな輪郭で、ゆらゆらと揺れるように描かれている。だから読み手であるわたしたちは、彼らの不確かさを感じながらも、読み進むしかないのだ。これは愛なのか。愛じゃないのか。そうしていつしか、もういいや、と思ってしまう。このたゆたうような感覚に漂って、身を任せればいいのだと。すべての境界がとろりと溶けだして秩序も何もなくなる、そんな物語なのである。

 とりわけ、マリエと紅郎の曖昧な関係性はあまりにももどかしくて、せつなくて。けれど自分自身を省みれば、どんな関係性にしたってそんな空気感はあるもので、ただただもぞもぞとなるばかりで。仕方のないこと、というものが世の中にあることが、こんなにも苦しいだなんて…と、今さらながら気づかされたわたしだ。物語は、現実離れした個性的な登場人物設定の中に、ただ一人マリエという(冷静で)現実的な存在を置くことによって、読み手をぐいと引き込んでゆく。だからこそ、読んでいて無性に人恋しくなる。寂しくもなる。マリエと共に前を見据えようとすらする。そうして、いつの頃だったか、あの頃みたいにどこかを走ってみたくもなるのだった。

4344400062いとしい (幻冬舎文庫)
川上 弘美
幻冬舎 2000-08

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2006.11.20

真鶴

20060723_9999001 浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ。そうやっていつまでも繰り返して、濃くも淡くもたゆたっていたい心地になっていた。その不思議なる浮遊感に遊びながら、時を過ごすことにいかなる危険が孕んでいようとも、かまわないくらいに。いつまでも、わたしはたゆたっていたかったのに。川上弘美著『真鶴』(文藝春秋)には、そんな感覚が始終漂う。近くにいながらもとても遠くて、遠くにいながらもこんなにも近い。触れているというのに、本当には触れていない。いや、触れさせない。簡単には触れられない。もどかしい思いは渦のように込み上げてゆく。そして、ふっとした瞬間に消えてゆく。脆く。淡く。あまりにも儚く散り散りになるのだ。

 夫の失踪から五年。そこで迷い始めている主人公の京(けい)。老いた母親と微妙な年頃の娘・百(もも)と暮らす女ばかりの生活に馴染みつつも、夫をどこかで探し続けている。いつだって、思い出してしまう。正確に言えば、恋人といるときによく思い出してしまっているのかもしれない。夫の簡素な日記にあった“真鶴”という地名。それを頼りに、引き寄せられるかのように、主人公はそこへ何度も足を運ぶ。ついてくるものを感じながら。曖昧な記憶を少しずつ手繰り寄せながら。夢とうつつの狭間に迷い込みながら。いろんなことを知ってゆく。いろんなものを手放してゆく。“生きたい”と“逝きたい”の違いを、どちらに向かって行くべきかを、ゆっくりと学ぶのだった。

 ついてくるもの。その不確かさが、この物語の中では重要な気がする。霊的なものとも、幻覚的なものともつかないその存在。ここで言うところのついてくるものは、なんとも不思議な雰囲気を醸し出しているのだった。どちらかと言えば、世の中を知り尽くした、知り尽くさずにはいられなかった、そんな類のものである。主人公の京の場合は、女だった。それも、夫のことを知っているらしい女。それでも、なかなか夫のことを教えようとはしてくれない女なのだった。ふっと現れては、ふいに消える。気まぐれで、強引で、どこか憎めなくて。きっと、可愛い女だったであろう、ついてくる女。それに違いないのだ。わたしの中で、そのイメージは広がってゆく。主人公を差し置いてまでも。

 先に挙げた“生きたい”と“逝きたい”の違い。音は同じなのに、大きく違うこの言葉。白黒はっきりでグレーゾーンの少ないわたしには、この両の狭間で揺れる心がいつでもうずうずとなっている。ときにはきゅっと痛みを帯びて、わたしを困らせるのだ。だからだろうか。この物語の中で、“生きたい”と“逝きたい”で揺れる主人公の心情がとてもじんと胸を疼かせたのだった。いや、じりじりと、だったかもしれない。それくらいに響いたのであった。それでも濃くも淡い物語のせいか、浮遊感はいつでも消えない。一緒にたゆたっていられる。たゆたっていたいと思わせるものが、確かにあるのだと思う。だからわたしは、癖になって何度も読み返すことになる。きっと。

4163248609真鶴
川上 弘美
文藝春秋 2006-10

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2006.10.24

ハヅキさんのこと

20061022_004 するりするり。そうやって流れては消えゆく物語を、わたしはどれくらい読んだだろうか。その儚さに酔いしれながらも、1つずつそっと、わたしから入っては抜けてゆく物語を。するりと入っては抜けて、淡い色を残して消えゆく。そんないくつもの物語を思わせたのが、川上弘美著『ハヅキさんのこと』(講談社)である。なにげない日常と、その中でうごめく人々。そして、たわいもないおしゃべり。ごくありふれた光景が描かれているはずなのに、どこか現実離れしていて、ふわふわと漂うにように掴み所がない。それでいて心地よく読める、なんとも不思議なる、川上ワールドが短いながらも堪能できる作品集である。どこまでが小説でどこまでがエッセイなのか、あとがきにて著者自身も戸惑っているのが実におかしい。

 表題作「ハヅキさんのこと」では、教師時代の川上さんを彷彿とさせる主人公が登場する。内容は、15年ほど前の同僚のハヅキさんのところに見舞いへゆく途中の、回想である。少々だらしのない主人公。それとは対照的にきっちりしたハヅキさん。ただ、結局は主人公と馬が合ってしまって、どうにもこうにも一緒にいる、なかなかよい距離感ある関係の2人である。しょうもない話から、愚痴や恋愛に至るまで。実によくお互いのことを知っている。それでいて、どことなくライバル心剥き出しの所もあり、くくくっと面白いのだ。物語は、この続きが読みたい…というところで終わってしまうのだけれども、いつのまにやら読み手のわたしも、ハヅキさんという人が身近な存在になってしまった。物語に呑み込まれた心地である。

 それから、せつなくなる「むかしむかし」。これにはじーんとなってしまった。過去の恋愛を今の恋人に話すという、なんの教訓もない物語なのだけれども、結末がなんとも愛おしくてせつないのだ。悲しいのとは違う、せつない。この感情は恋愛においては、よく頻出するテーマなのかもしれない。些細なことで喜び、すれ違い、腹を立て、おしまいになる。そんな不毛なことをなぜ繰り返すのかわからないけれども、恋愛というものはたいがいにして、そんなことで終焉を迎えることが多い気がする。おしまいにならないで、いつのまにか続く例も多数あるに違いないけれども、そこまでいったら夫婦の域である。わたしはそんなふうに思ったのだった。それでも不毛な恋愛には懲りることがない。

 そして、人間的魅力溢れる「吸う」もいい。親戚が集うたびにいるキヨエさん。その繋がりを覚えられずにいる主人公が、そのキヨエさんの魅力にすっぽりとはまってしまう物語である。その小さな身体に似合わない大きな声と、隅っこの方に佇む姿。けれどもあるとき、隣りに居合わせて話すうちに、なんとも奇妙な話をキヨエさんから聞かされるのである。“お酒はいいですね。体がね、しっとりしますよ。しっとりすると、あなた、吸いこむようになります…”と。ゆるやかなる話。その中に、読み手であるわたしまで吸いこまれてしまうような感覚に陥った。魅惑の人である。いつか歳を重ねて、もっと重ねて、そんな魅惑の人になれたのなら…そんな憧れさえ抱いてしまう。けれど、孤独はいやよ。それでも、ひっそりと佇んで暮らすのはいいかもしれないと思うのだった。

4062136287ハヅキさんのこと
川上 弘美
講談社 2006-09-30

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2006.10.06

ざらざら

20061003_44027 両の手のひらですくった砂がこぼれ落ちるように、儚く今にも消え逝くような、そんな短い物語がぎゅっとつまった1冊だった、川上弘美著『ざらざら』(マガジンハウス)。23もの短篇は、しんみりと味わい深いものから、ふふふと微笑ませるもの、さらりと流れるようなものまで、川上弘美ワールド満載の作品ばかりだ。読みながらわたしは、いとおしくてたまらなくて、胸につんとした痛みを感じた作品まである。そういう思いというのは、きっと読んでいるわたしの心持ちが、作品としっくりと馴染んだ証拠なのだろう。ゆえに、読んだ人それぞれがそれぞれに、異なる作品に対して、そのような感情を抱くに違いない。読者は身勝手にもそんなことを思いつつ、読む。好き勝手に読む。けれど、同時に愛する。わたしは、そう思っている。

 わたしが何よりも好きだったのは、「クレヨンの花束」。かなり後半に収録されている作品であるせいか、特別印象深い。“好きな人に好きになってもらうこと”に苦悩する主人公が、幼い甥っ子にほんのりと救われる物語である。姉夫婦はいわば修羅場を迎えた関係になっており、やり直し旅行に出かけている。人を好きになること。ただでさえ、そのことが難しいわたしにとっては、その次の課題に苦悩している主人公が他人事ではなかったのだった。読み進めながら、うんうんどうなる、どうなるんだ…と思いつつ、なんとも見事な簡潔な答えを出してみせるところが、なんとも心憎くたまらなく好きだ。好きになること。そして、その後の好きで居続けること。その困難さに、ため息がこぼれる。その答えについては、敢えて書かない。ネタバレになるゆえ。

 続いては「淋しいな」。恋人にふられた女の子の感情の変化が、細やかに描かれている作品である。主人公は1人の男性となんとなく曖昧なまま付き合っていた。この人ならいいかな、くらいの気持ちで。でも、夢中になれるだけの準備だけはできていたのだ。だからある日、ふられたことが切なくて悲しい。なんとも淋しい。そんな、誰もが味わうような感情。それを昔の人はこういったそうだ。“めぐりあわせ”だと。誰が悪い訳じゃない。自分を責めるのは、もってのほか。単にめぐりあわせが悪かった。ただそれだけのことなのだよ、と。まさに、メカラウロコの話である。日本語というものの奥深さを感じさせる言葉でもある。めぐりあわせ。その言葉の響きの美しさと意味合いを心の奥底に刻みつけて、わたしは前へ進もう。そう思わせてくれる物語だ。

 他にもたくさんたくさん、書き留めておきたい物語があるのだけれど、最後に1つだけ「椰子の実」を選んで終わりにする。これは、年子の兄妹の物語である。ずっと抱き続けてきた兄へのコンプレックス。それがするりとほどける瞬間を描いている。そこまでいきつくまでの心の変化というもの、微妙なニュアンスでの表情や心模様。それに対して、わたしは強く惹かれてしまった。さらっと描かれているせいか、ぢんと心に響くなんともいえない哀しみや嬉しさが余計に染みる。そして、いつまでも深い余韻を残して、兄妹というものの絆を思わせてくれるのだ。それはもしかしたら、わたしがやはり兄と妹という兄妹構成のせいなのかもしれないし、他にも通ずる部分が数多くあるせいかもしれないが。ほっこりと。あたたかに。それでも、きゅうんと切なくなったのだった。

483871694Xざらざら
川上 弘美
マガジンハウス 2006-07-20

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2006.08.30

神様

20060829_0_001 第一印象。それは、わたしの中で重要事項の1つになっている。例えば、目の前にある顔。例えば、それと繋がりを見せる体型。例えば、それに伴い漂う雰囲気。ある程度年齢を重ねれば、わたしたち誰もが、そこに責任というものを課せられることになる。“わたし”という名の存在について。“誰か”というたった1人の、或いは複数の、許しを乞うことについて。川上弘美著『神様』(中公文庫)を読み終えて、わたしが廻らせた想いは、そんなことだった。この作品が著者のデビュー作だから、ということ。そして、わたしが最初に触れた川上弘美作品である、『いとしい』を読んだときの高揚感を再び味わった、ということによって。なんとも不可思議ながら、現実味を感じさせる描き方。そこにある浮遊感は、何度読んでも癖になる。

 9つもの物語についてひとつひとつ書くことは困難ゆえ、ここからはわたしの気ままな選択で文章を紡いでゆくことにしよう。まずは、表題作「神様」。登場するのは、律儀なほど温かい“くま”である。それも本物の“くま”なのだ。実際の“くま”は、成熟した大きな“くま”であるに違いないのだけれど、ここには恐ろしさが少しも感じられない。死んだふりをしてまでも助かりたい…そんな切迫感は全くないのだ。きっと、もりのくまさん的な“くま”なのだろう。そんな“くま”との、のんびりした散歩の光景が描かれている。そして、憎いくらいにさらりと、性的なものを思わせる展開になっているのだ。決していやらしくない性。それでいて、純粋な性というものを。ふわり。ふわりと。読み手であるわたしは、少々照れながら読んだのだった。

 続いては「クリスマス」。友人にもらった壺から出てきた“コスミスミコ”という、痴情のもつれで亡くなったらしい女性。そんな不可思議ながら、親しみやすい魅力を備えた女性との日々が、やわらかに心地よく紡がれている。登場するのは女ばかり。そこで話すことと言えば、もうアレしかないでしょう…なんせ、“痴情のもつれ”という事実が“コスミスミコ”にはあるのだから。彼女の呟き。それは、まさに女性であるならば誰しも思い描くような、淡くも儚い夢である。壺で暮らすことになった彼女が、諦めきれない気持ち。それが痛いほどわかる者にとっては、女だらけのクリスマスほどやるせなく、愉快なものはないと思う。人生というもの。そこに、いや、すぐ隣りにこそ、いて欲しい人。その存在をふと意識させられる物語だ。

 最後に、「春立つ」。カナエさんという、おばあさんが一人きりでやっている飲み屋、その名も“猫屋”での物語だ。もう、猫狂いのわたしとしたら、その名だけでもう心地よく読めてしまう。ほとんど客の入っていない店にはもちろん猫がいて、カナエさんの若かった頃の不思議な話を聞くことになる、主人公の女性。やはり、ここでも女同士。語られるのはアレについて、である。カナエさんの語る想い出。それはそれは甘くて、切なくて、愛しくて、悲しくて、寂しくて…そんな乙女心をチクリと刺激するような内容なのである。“女たるもの、一生乙女であるべし”。そんな言葉をふと思いついてしまったわたしは、見事にずっぷり、はまってしまった読者の1人なのだろう。少しばかり恥じ入りながら、まだまだ乙女だと、自分に言い聞かせることにしよう。そう決めた。

4122039053神様 (中公文庫)
川上 弘美
中央公論新社 2001-10

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2006.05.20

夜の公園

20050513_011 いとけない人。わたしはきっと、ずっとそういう人なんじゃないだろうか。少しばかりそういう部分がある、でもなく。ときどきそうなのよね、でもなく。そういう人。そうである人。紛れもなく幼い人。川上弘美・著『夜の公園』(中央公論新社)を読み終えてめぐらせたのは、そんな思いだった。どうして今、ここにいるのか。いつからここにいるのか。どうやって、ここまで辿り着いたのか。物語に始終漂うのは、こういう不確かな日常や揺れ動く心情である。そう、まさに物語の中の登場人物たちもまた、“いとけない人”なのである。年齢的な部分だけを見たら、充分に大人であるのにもかかわらず。年月を重ねてもなお、どこか不自由で。生とはなんと、もどかしいものか。

 物語は、35歳のリリを中心に、その夫である幸夫、親友であり幸夫の不倫相手である春名、リリの恋人である暁の語りで展開してゆく。真夜中にそっと部屋を抜け出したリリが夜の公園で見る光景は、不思議なぐらい鮮やかで、そこにある匂いや気配、音は、知らぬ間に何かをひどく掻き立てる。例えば、これまで意識することのなかった、複雑に絡まる思いというものを。夜が人を魅せるのは、導かれるものが何もかも昼とは違うものだからなのか。部屋を満たす夜ばかりしか知らないわたしは、なんだか無性にそこに魅せられてみたい気がしてしまう。主人公リリが暁に惹かれたのも、少なからず夜の力があるんじゃないだろうか…なんて考えるのは、野暮かもしれないが。

 リリを魅せた夜。それは、暁との出会いである。いつしか冷めていた夫への思いを抱えながら歩いた公園での。暁はマウンテンバイクで、リリの横を通り過ぎる。そこに生じる風と、心を捕らえる広い背中。その刹那が繰り返されて、ふいに始まるのだ。見ていたのはリリだけじゃなく、暁も、だった。顔が好みだとか、趣味が合うだとか、性格がいいだとかではなく、2人はお互いのその佇まいから惹かれ合う。しかも、後ろ姿に、である。そうやって近づいて、馴染むようになって。立ち止まって、あれこれ考えるまでもなく、2人は惹かれあった。触れ合いたかった。ただそれだけのことなのだ。だからこそわたしは、自分を“いとけない人”だと言いたくなる。

 わたしがもうひとつ、心惹かれたのは、リリの親友で教師の春名が、生徒たちに自分とリリを重ねるところ。春名と生徒のこれまで歩んできた年月だとか経験だとかいうものは、もちろん異なる。それにもかかわらず、悩んでいること自体がほとんど変わらない。少女だった頃に思い煩っていたことが、ある程度の年齢になったからとて、わかるようになるのではないこと。それが、妙に悲しくて可笑しくて。なんだか妙に愛おしい。やっぱりずっと、いとけない人。永遠にずっと、いとけない人。それは人としてどうなのか、と考え出したら情けなくもなるけれど、大人とて子どもとて人間なのだと頷ける。心惹かれる部分はまだまだあれども、あとはわたしの胸に留めておこう。

4120037207夜の公園
川上 弘美
中央公論新社 2006-04-22

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2005.11.06

此処彼処

20041212_007 場所に関する温かな連作エッセイ集、川上弘美・著『此処彼処(ここかしこ)』(日本経済新聞社)。この作品を読んで何よりも一番強く感じたのは、著者のいきいきしている様子。はつらつとしているのだなぁとか、日々楽しそうだなぁとか、そういう雰囲気。実際の生活は色々な雑事に追われて大変かもしれないし、悲しみや苦労やあるかもしれないけれど、文章から伝わってくるのは暖かな色をしたものだったのだ。それが、とっても懐かしく愛おしく思えた。日頃、ダークな色を放ち好む私にとっても。読んでいる間始終つきまとっていたのは、清々しい空気感。こういうのは、少々心躍ってしまう。

 エッセイは季節ごと(月別)に4つから5つ。具体的な地名の場合がほとんどだが、「関東」なんていうかなり広範囲にわたる場合もある。これだけでも妙に可笑しくなってしまった。そして、これまでの著者のエッセイは、川上弘美的日常の中にどこかしら嘘日記の色が見え隠れしていた印象が強かっただけに、この作品のプライベートな部分に関する記述にドキドキもした。作品よりも先に、著者のその容姿と雰囲気に惹かれてファンになった私には、味わい深い嬉しいものだったということ。ただ、「武蔵野」がなかったのが残念(あとがきが武蔵野なのですが)。ミーハーな私には、そこだけが惜しかったりする。

 自分にとっての場所。そこに属すると決めたもの、というのがきっと誰もに存在する。もしかしたらそれは、実在しない場所かもしれないし、今はなくともこれから先に見つかるものかもしれない。読みながら自問自答していた私の場合は、ない。何となく。ない。愛着のある場所というものは確かにある。例えば、お気に入りの座椅子の上みたいな狭いカテゴリーならば。自分自身が属する場所(地名)と言われたのならば、はっきりと、ないのだ。それは寂しくも悲しくもあるかもしれない。でも、考え方を変えれば自由であるということ。何ものにも属さずに囚われずにいられるのだから。ただ、他のものが束縛するのには参る…煩わしいしがらみは多いのだ。

 さて、エッセイの印象深いところについて。「浅草」という、かつて一人きりで悲しくなった覚えのある場所が、今は不思議と悲しくなかったという話に出てくる、“自分と同じ名前に店は、ちょっと怖い”である。著者は友人からその同じ名前の店についての情報を耳にすると、気まずさに臆せずに行ってしまうらしい。何だか逞しい。そういうものは、小さな店であればあるほど、メンバーズカードがあればあるほど行きにくい。私の場合は。幼い頃にからかわれたのは、おもちゃ屋だった。そこに電話をすると、“はい、○○ちゃんです!”と私の愛称で店の人が明るく応じるらしかった。願わくは、一度も行かぬまま一生を終えること。

4532165377此処 彼処 (ここ かしこ)
川上 弘美
日本経済新聞社 2005-10-18

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2005.09.12

古道具 中野商店

20050220_610 アンティークではなく、あくまでも古道具を扱う中野商店。そこに関わる人々をめぐる日常が描かれた、川上弘美・著『古道具中野商店』(新潮社)。3回もの結婚の果てに愛人までいる、店主の中野さん。人形作家で中野さんの姉である、マサヨさん。この物語の語り手である、アルバイトのヒトミ。ヒトミと恋仲であるのかないのか微妙な関係にある、同じくアルバイトのタケオ。主に彼ら4人について語られる12のエピソードは、読む者を引き込む力強さと、さらりとした心地よさを感じさせるもの。それぞれの登場人物について丁寧に繊細に描かれており、ぬくもり溢れるかけがえのない物語となっている。

 この物語を読みながら、私はふふふと何度も笑った。ときどき、それはへへへとなった。にんまりしていた。幸せな読書だと、心から思った。描かれているのは、たわいもない話である。特別何か、面白可笑しいことが書かれているわけではない。それなのに笑ってしまった。例えば、店主の中野さんから届く大雑把な文面の葉書だとか、ヒトミに対するタケオの妙な雰囲気の敬語だとか、ぎこちない文面のメールのやり取りだとか、“剣突く”という言葉だとか、アフガンハウンドとボルゾイとバセットハウンドの違いだとか…そんなたわいもないことについて。些細なことに心が動くのは、とても幸福だ。

 そういう幸福さに一番浸っていたのは、「ワンピース」という話を読んでいたときだ。ヒトミとタケオの関係が、うやむやの色に濃く染まっているあたりである。タケオの1日の行動をあれこれ想像し、何時何分にかけようかと考えるヒトミの思いを裏切って、つながる気配を見せない電話。“きっと、食べているクリームパンのあぶらのせいで、指がすべってボタンがうまく押せないんだわ”とか、“太ってしまって、尻ポケットから携帯が取り出せないんだわ”とか。電話に出られない理由の、あらゆる場面を想像するヒトミ。どんな場所であろうと、かなりな高率で受けることができる電話の不便さを思う場面である。

 あぁ、そうなのだ。便利な世の中ゆえにはびこる“不便”というのは、何て忌々しいのだろう。常々感じている思いが、ふつふつとわいてくる。心地よい幸福感と共に。メールの返事がなかなか来ない苛立ちだとか、話題が盛り上がっているときのメールの終止符の打ち方だとか。時間をさほど気にしなくても良いからこそ、妙に気にしてしまうことへの“矛盾”。こんなことで悩んでいる人々を、電話を発明したベルさん(でしたっけ?)は想像していなかったはず…。まぁ、いいや。話をヒトミに戻そう。ヒトミ、可愛いのですよ。500円のぺらぺらしたワンピースが似合っちゃうのですよ。結構乙女なのですよ。ふふふ。

410129237X古道具中野商店 (新潮文庫 か 35-7)
川上 弘美
新潮社 2008-02

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2005.08.20

パレード

20050815_135 “ツキコさん、昔の話をしてください”そうセンセイに言われ、夏の昼下がりに物語る、ツキコの幼い日の出来事を描いた、川上弘美・著『パレード』(平凡社)。同著『センセイの鞄』(文春文庫)のふたりが過ごした、もうひとつの物語である。そうめんの支度をふたりがしている場面から始まる、この短い物語は、不思議なくらいに今の季節にぴったりだ。ふたりのやりとりは、懐かしさが込み上げるほどよい雰囲気である。そして、同時にほんのりと哀しみがわく。それはきっと、『センセイの鞄』の結末を知っているからこその感情なのだろう。そんな余計な感情など、いらないのかもしれない。けれど、愛おしく思った作品のことは、なかなか心の中から離れていかない。

 この『パレード』の中で印象的なのは、そうめんの薬味。そこに注目してしまった私は、あまりにお腹がすいているせいだろう。ずいぶんと豪華(でもないけれど)なので、私もそんなふうに薬味を添えたい気分になった。たまご、みょうが、紫蘇、わけぎ、きゅうりの千切り、たたきごま、梅干しの裏ごし、煮茄子。これ、全部薬味として小皿に盛られているのだ。こんなにたくさんも。まるで冷やし中華のようじゃないですか。それに加えて、我が家とは薬味が全く違うじゃないですか。たたきごまって、すりごまとはどう違うのですか…なんて思いつつ、我が家の薬味が玉葱のみじん切りとわさびだけ(※父作のとき)のことを少々恥じ入る。何事もアレンジでしょうか。

 それから、センセイの言葉の巧みさにとても惹かれた。例えば、そうめんをざるから大鉢にうつすときのこと。“こうすると、箸で取りやすいでしょう”と、一束ずつくるりとまるめるようにして置くセンセイ。ツキコは、食べてしまえば同じだろうという言葉をのみこんで、センセイに従う。それなのに、大鉢のそうめんがなくなってしまうと、ざるの中に残っていたそうめんをどさっと全部あけてしまうのだ。“センセイ、そうめんが食べやすくなっていませんよ”というツキコに、“まあ、世の中、そんなもんですよ”と澄ました顔で答えるセンセイ。とても素敵だ。とってもいい。私はこういうふたりのやりとりが、読みたかったのだろう。

 そして、肝心のツキコの幼い頃の話。あまり詳しいことは書かないでおくが、私にも覚えがあるような内容だった。タイミングと偶然とに支配されるむごい遊びというのは、いつの時代も関係なく、そばに横たわっているものなのかもしれない。それは、とても悲しいことだけれど、そんなときがあってもいい。今の私には、そう思える。そう思える今でも、いつまでもくすぶる傷があるというのに。

4582829961パレード
川上 弘美
平凡社 2002-04-25

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2005.06.27

物語が、始まる

chato4 奇妙でユーモラスなのだけれど、どこか哀しげな4つのお話を収録した、川上弘美著『物語が、始まる』(中公文庫)。どこにでもあるような暮らしの中に、ふっと迷い込んでくるおかしな異物感。味わい深い作品が並んでいて、心地よい。それぞれの話の長さといい、ストーリー展開といい、会話のリズムといい、どれを取っても完璧な装いを感じてしまう。それは、隙がないというのではなくて、ちょうどいいところに配置されているという感じである。

 表題作である「物語が、始まる」は、粗大ゴミ収集の日に近くの公園で男の雛形を拾うところから始まる。次第に雛形ではなくなって人間の男に近づいてくるところや、ゆき子と雛形との会話が正しい日本語的に交わされているところ、雛形とゆき子の恋人が最後まで当たり障りのないことでやり取りを終えるところも可笑しい。雛形の成長と退化というプロセスはどことなく哀しく、ゆき子と恋人の会話が変わっていくところもせつなくなってくる。些細な感情の変化に気づくことが出来るくらいの、物語の流れがいい。

 続いて、2話目の「トカゲ」。所有者に幸運をもたらすという中国産の黄色い座敷トカゲを巡る3人の主婦の日常である。次第に巨大化してゆくトカゲを崇拝するうちに、快楽共同体へと変容していく様は、日常をリアルに描いていく鋭い観察眼の為せるワザだろうか。不気味な世界観であるのに、それを日常の一コマのように感じさせてしまう力があるように思う。爬虫類も両生類も昆虫類も大嫌いな私までも、トカゲに惹かれてしまうくらいなのだから。恐るべき文体。そして、表現力。

 続く3話目の「婆」。たくさんの猫を飼う老婆の家の台所にある深い穴の中で、主人公が不思議な体験をするという内容。この物語で印象深いところは、穴の中で自分の変化に気づくところである。まず、味が変わり、“味が変わったので、日課が変わった。味が楽しいので、知らないものも買うようになった。知らないものを買うので、知らない店に行くようになった。知らない店に行くので、知らない電車に乗るようになった。知らない電車に乗るので、知らないものを見るようになった”と変化していくのである。

 さらっと書いてしまうと、何て事はない当たり前のことなのだが、繰り返し読んでみて欲しい。1つ変わっただけで、こんなにもたくさんのことが変わるのかと思わないだろうか。人間というのは何と自由なのだろう。何と変貌自在な生き物なのだろうと。些細な変化に対しても、いつでも敏感でありたいと思った。だって、その変化に気づけなければ、変化のしようがないではありませんか。意識してこその変化なのだから。

4122034957物語が、始まる (中公文庫)
川上 弘美
中央公論新社 1999-09

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2005.06.08

なんとなくな日々

20050610_012 なんとなく連載を始めることになって、なんとなくその会社に行って、なんとなくごちそうになって、なんとなくエッセイを書くことになったという「なんとなく」の連続の中に生きる、川上弘美・著『なんとなくな日々』(岩波書店)。著者の語り口があまりにもさらっとしていたので、つられてこちらもさらっとさっくり読んでいたら、妙にひっかかる箇所がいくつか出てきた。思わずふふふっと笑って、にんまりしている自分に気づく。何々、全然さらっとさっくり読めていないじゃないの。そんなふうに自分で自分にツッコミながら、川上弘美的日常に浸った。

 このエッセイは、「台所の闇」「なんとなくな日々」「平成の蜜柑」の3部構成。「台所の闇」では、台所という場が孕む闇の内実や中学時代に観た映画の思い出などが語られる。「なんとなくな日々」では、食・旅・本・服などをテーマにした25本の味わい深い日常エッセイが楽しめる。「平成の蜜柑」は、中日新聞に連載されていたエッセイ。生活の中でふと目にとまった事への著者の思いが綴られている。あとがきの“エッセイなんて、か、書けっこないし、やっぱりその昔読んだようなちゃんとしたエッセイのようなものは、か、書けてない”という文章に何だかほろりとなってしまった。そんなこと言われたら、もう1度読み返したくなるじゃないの、と。

 私のツボにはまった2つのエッセイについて書いておく。1つ目は、なんとなくな日々5。寒い日、横道に入ったところにあるピザ屋にて、犬を連れて道を通る姿にふと目を留める著者。すると、小さな老婦人が、ペキニーズを連れてしずしずと歩いてくる。そのうち、老婦人がペキニーズを抱き上げた。ペキニーズは一声もなく、じっと抱きしめられたまま眠ってしまったらしい。老婦人は、背中にしょっていたリュックにペキニーズをしまい込む。ファスナーを閉めると、ペキニーズは影も形もなくなる。老婦人はそっとリュックを背負い直してしずしずと去っていく…というもの。奇妙だ。何かがおかしい。けれど、具体的にどこがおかしいのか答えることができない。うーん、なんとなく変なのだ。

 そして、2つ目。なんとなくな日々17である。寒くなったせいなのか、電球が続けざまに切れるというお話。電球だけでなく、乾燥機の動きもおかしい。台所の蛍光灯もおかしい。それらのモノが著者に言った言葉を綴っているのだが、“やっぱり、言ったように思う”だったのが、次第に“たしかに、そう言った”になり、“やっぱり、言った。たしかに、言った”に変わってゆくのがいい。例えば乾燥機。まわっている途中に、突然止まる。フィルターの汚れかと思って掃除しても。止まる。「ためにし動いてみたんですが…」という感じで働きぱたっと止まってしまう。蛍光灯は「あの、そろそろ、行きますね」と、息絶えるときに言葉を残してゆく。川上弘美的日常は、愉快だ。

4000015532なんとなくな日々
川上 弘美
岩波書店 2001-03

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2005.06.07

龍宮

20050601_072 何とも不思議なお伽噺のような、ヒトとヒトにあらざる異形のものとの交感を描いた短編連作集、川上弘美・著『龍宮』(文藝春秋)。8つの話は、どれもこれも全てがおぼろで、水の中に漂うようにゆったりとした時間が流れているように感じられる。身も心も流れにまかせてたゆたえば、心地よい雰囲気に思いきり浸れる物語。死後の世界でもなく、現実でもなく、夢でもなく、幻でもない。それぞれの境目をこっちへあっちへと自由に行き来している。あぁ、そうか。ならば、どこでもいいのだ。どちらでもいいのだ。そんなことを思う。

 昔、蛸であったと自称する男が人間界での波瀾に満ちた話をする「北斎」。曾孫の前に突然現れた、放浪の果て自然神となった曾祖母の物語の「龍宮」。狐の面持ちをした老人と訪問ヘルパーの奇妙な共同生活を描いた「狐塚」。社宅に住む主婦と彼女の心の空白を埋める台所に住む神との日常を綴った「荒神」。生への気力を喪失した人間を拾い集めるもぐらを主人公にした「うごろ鼠」。7人の姉を持つ主人公の美しくも残酷な姉巡りの旅を描いた「轟」。7代前の先祖に一目惚れをした二百歳を超えた女性の愛の物語「島崎」。様々な男に譲り渡され飼われてきた女が、かつて暮らしていた海に帰還していく「海馬」を収録している。

 この本の中では、ヒトにあらざる異形のものは目に見えるかのように描かれているのだが、実は実態のない心とか魂とかなどと呼ばれるものなのではないだろうかと考えることが出来る。いたるところで、おおらかに思うままに交合するヒトビトが描かれているのに、なまなましさやいやらしさが感じられないのは、きっとそのせいなのではないだろうか。そうだとすると、交合というのは、心と心の結びつきのような精神的なものなのかもしれない。どうやら説話をモチーフに書かれた物語のようなので、基となっている物語をたどってゆけばもっと違った読み方が出来るかもしれない。

 それから、もうひとつ注目して読んでいたことについて書いておく。それは、ヒトとヒトにあらざる異形のものとの関わり合い方について。この物語の中で、ヒトは何となくまあそんなものでしょう的な感じで、異形のものと接している。普通だったら、腰を抜かすのでは、もの凄くじろじろ見るのでは、差別だってするのでは、などと思うところなのに何でも受容してしまうのだ。抵抗もせず、反発もせずに。その脱力感と受容力に脱帽である。私たちの生活の中に根付いている常識を頑なに持っていては、異形のものとの近づけないのだろう。ヒトは、知らぬうちに自然とヒトにあらざるものへと変わってゆくのだろうか。そう考えていくと、物語が少々怖いものへと変わる。コワ。

4167631040龍宮 (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 2005-09-02

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2005.05.25

光ってみえるもの、あれは

20050511_004 青春小説というものは、とっても苦手だ。読んでいると、何となくモヤモヤしてくるのだ。そのモヤモヤはいつのまにか熱いものに変わって、かっかした怒りに変わってしまう。“○○○っていうのは、なんなんだろうなぁ…”みたいなお約束のことをふとつぶやくなんていうシーンが出てきたら、即却下である。そもそも“青春”という言葉の響きやイメージが、ものすごく照れくさく恥ずかしい。それなのに「好きな作家の作品だから」という理由だけで読んでしまった。

 16歳の江戸翠という少年の高校生活を描いた青春小説、川上弘美・著『光ってみえるもの、あれは』(中央公論新社)。翠には、未婚の母と母方の祖母と共に暮らしている。ふらりとたびたびやってくる遺伝子上の父がいる。その存在をうっとおしく思いながらも、彼の人間的なところに惹かれていく。高校生の男の子の複雑な心の動きをリアルに描いた小説である。私の苦手なお約束のシーンも、もちろん出てきたのだが…熱くなりそうなところで妙に冷静だったり、もっと探り合うのかと思うところで言葉がなかったりして、少々ひねくれた青春小説だった。

 この小説は、ずっと16歳の翠少年が語っていくかたち。この翠少年、実にクールである。まず、母親のことを“お母さん”とは呼ばずに“愛子さん”と呼ぶ。“おばあちゃん”ではなく、“匡子さん”と呼ぶ。母親も自分のことを“あたし”と言うし、祖母も“アタシ”と言っているからなのだろうけれど。翠少年は、母親らしくない母親でわざわざあろうとする志向に対して違和感を感じながらも、あえてその思いを受け流しているのだ。だから、親と口論になることはない。それだけでなく、親友や恋人とのやりとりを見てもクールであり続ける。一言で言ってしまえば、“他人に対する興味があまりない”感じなのだ。

 主人公である翠少年がクールなせいか、彼を取り巻く周囲の人々がとても人間味溢れた魅力的な人物に映った。とある場所で経験した圧倒的な現実感を取り戻すべく、女装を選んだ翠少年の親友の存在も決して奇異には思えなかった。あぁ、彼にはそういう時間も必要だったのだろうと納得してしまった。翠少年の恋人が、親に見られたくない日記や手紙を鞄に背負うほどたくさん持ち歩いていることだって、当然でしょう的な気分で頷いていた。あぁ、そうそうそうだよねと。読み終えて考え直してみると、私の感覚はおかしいのかもしれないとも思うのだけれど。翠少年がよく言ってしまう“ふつう”というのは、何とも曖昧な言葉だと今さらのように強く感じてしまった。

 そして、この物語の中で一番魅力的な人物だったのが、翠少年の担任の国語の先生である。苦しそうなかすれた声で「書き言葉」で喋る。独特の固い言い回しが、几帳面さや不器用さを感じさせる。教師たちと交わるのが下手なところも、俳句や詩を用いて話をするところもいい。私の想像の中では、芥川龍之介にそっくりだったH先生と重なってしまった。もちろん国語の先生だ。その思い出は、もしかして“青春”なのか…?懐かしい気分も手伝って、一気に読めた小説だった。

4122047595光ってみえるもの、あれは (中公文庫)
川上 弘美
中央公論新社 2006-10

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2005.05.24

ニシノユキヒコの恋と冒険

20041104_065 西野幸彦という男性に関する10の連作短篇集、川上弘美・著『ニシノユキヒコの恋と冒険』(新潮社)。彼に恋した女性たちが、様々な年代の“西野幸彦”を語る。そうして見えてくる一人の男性の姿は、孤独に満ちていた。しかめても甘いマスクを持ち、清潔で几帳面。ほんの少しの陰影があり、話に厭味がない。その上、やさしくて礼儀正しく、正直であるのにもかかわらず。もちろん、女性に好かれることは好かれるのだが。

 “どうして僕はきちんとひとを愛せないのだろう”そんなことを西野幸彦は言う。愛されないことに頑固なくせに、愛させてくれない男。愛するひとなんか、ほんとうは欲しくないくせにと思いながら、女たちは離れていく。彼のような男の「ぜんぶ」を欲しがることなど無理であると気づいて。彼は結局、本当に誰かを好きになることを知らなかったし、知ろうともしなかったから。愛してた。ごめんね。さよなら。そんなふうに別れがくる。せつないようで、どの別れもあっけない。深いようで浅い。一瞬の出来事みたいだ。

 この物語を読みながら、“西野幸彦”という人物のことが愛おしくてたまらなくなった。彼のことを語った女たちのように。別れが約束されている恋だとしても、きっとこの男が目の前に現れたら気持ちを全て持っていかれそうだ。そう思うのは、長くて深い恋愛をしたことがないからかもしれない。どこかしら、自分と似たものをふっと感じたからなのかもしれない。愛されたいと強く思いながら、人を本気で愛することがなかなか出来ない自分を感じてしまったからなのかもしれない。自分を思うように誰かを愛する事って、実に難しい。あっ、そもそも私はそんなに自分を愛していたのだっけ…

 きっと、“西野幸彦”という人間はいつまでも思い出されるのだろう。鮮明に。熱烈に。くるおしく。例え愛されなかったとしても、愛した気持ちはずっとじーんと心に残るものだから。胸に秘めておくことが苦しいくらいに。一度好きになった人のことは、そう簡単に嫌いになれるものではない。簡単に即嫌いになれるのならば、ずるずると引きずって悩んだり泣いたりなんかしないのだ。好きだった分だけ、愛した分だけ苦悩する。何だかそれって、幸せなことなのではないだろうか。勝手な私の思いにすぎないのかもしれないけれど。

 この『ニシノユキヒコの恋と冒険』の中で印象深い言葉がある。“刹那(せつな)”である。確か2度出てくる。サイドバーで紹介している山下景子・著『美人の日本語』(幻冬舎)の6月10日のページで詳しく解説されているのだが、何ともしっくりぴったりくる趣ある言葉なのだ。意味は、「本当に短い時間のこと」。でも、こういう短い時間のつながりが私たちの一生だ。時間というのは、使っても使わなくても消えてしまう。だから、刹那の時間も大切な財産なのだ。“西野幸彦”との刹那も。

4101292345ニシノユキヒコの恋と冒険 (新潮文庫)
川上 弘美
新潮社 2006-07

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2005.04.11

溺レる

20050412_011 「アイヨクに溺れませんか」
 だなんて、そんなことを訊かれたら即答する。
 「それはちょっと…」
 アイヨクにオボレるなんて、小説や映画の中だけのこと。
 そう思っている。
 悲しいかな、これが私の本音だ。

 川上弘美著『溺レる』は大人の男女の恋愛模様を描いている。厳密にいえば、男女が織りなす愛欲のかたちの連作集である。8つの短編は、ほぼ登場人物2人。密室のような閉鎖性、どことなく漂う後ろめたさ…そういうものを感じた。それは、ある意味性的な「食」や性的関係、身近に潜む「死」がどの短編にも描かれているせいかもしれない。

 表題作「溺レる」は、“アイヨクにオボレた末のミチユキ”を続ける恋人同士の男女のお話。行き着く場所のない駆け落ちの様子を、冷静な視点で淡々と描いている。駆け落ちというものは、激しくて感情的なものだと勝手にイメージしていたので驚いた。まるで他人事のように語られるのだもの。それに、登場人物の男女の会話が妙におかしさを含んでいるのだもの。まさに川上ワールドである。この本が“川上文学の真骨頂”と言われているのが頷ける。

 そして、私が一番好きだったのは一番初めの「さやさや」。知り合いの男性に誘われるままにシャコの食べられるお店へ行き、帰り道をいつまでもゆらゆら歩くお話である。2人は、電柱がまばらで人家も人気もない道を迷ったよう歩く。ほろ酔いだからか、もともとの歩き方なのか、腰を振って揺れながら。

 この「さやさや」に惹かれる理由は、描写の雰囲気のよさ。“ぱさ、と聞こえるような軽い音をたて…”とか、“夜道はしんとしていて、足音ばかりがさりさりと響いた”とかが私は大好きである。“さりさり”だなんて、なんとなくいい表現だと思いません?でも、現代文の問題で下線部の“さりさり”とは具体的にどんなことを言っているのか…などと訊かれたら、難し過ぎて答えられないけれど。

4167631024溺レる (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 2002-09

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2005.04.07

おめでとう

20050407_004tokig
 せつないような、おかしいような、心に染み入る12の短編がつまった川上弘美著『おめでとう』を読んだ。12のお話はどれもバラエティに富んでいるが、シンプルですっと入り込めるようなストーリー展開。読み手の心をしっかりつかんで離さないほどの強い力も持ち合わせている。読み始めたら止まらない。

 表題作「おめでとう」では、何気ない言葉遣いがとてもよい。西暦3000年の人類に向けて紡がれた文章には、あなたへの思いしか書かれていないのに、その世界を広く感じてしまうのはなぜだろう…。“寒いです。こんにちは。あなたに会えました。あなたに会うのがすきです。あなたと喋るのがすきです”決して難しい言葉は使わずに、真っ直ぐな気持ちを表現しているこういう文章がひどく懐かしいような気がする。“寒いです。おめでとう。あなたがすきです。つぎに会えるのは、いつでしょうか”何とも素直で素敵な言葉である。

 「いまだ覚めず」では、タマヨさんとあたしの奇妙な関係とやり取りがおもしろかった。相手が次にどんな反応を示すか…ということを楽しんでいるような二人。親密なのかよそよそしいのか、よくわからなくなってしまう。そんな妙な関係を表現しているのか、擬声語の使われ方が特別おもしろい。“結構な悪たれ口をタマヨさんにはっしはっしとなげつけていたように思ってきたのだが…”“ほら、ふくふくしてて気持ちいい”“タマヨさんの前でわあわあ泣きたかった”“タマヨさんは蛸をむつむつ噛んだ”「はっしはっし」、「ふくふく」、「わあわあ」、「むつむつ」、私は普段このような言葉の使い方をしていないので、ほうほうほう、マネしてどこかで使ってみようかなぁと思ったのだった。

 部屋にこもってばかりの私は、ざっと本に目を通して春風に長い髪を揺らされていると、外の世界との交わりの少なさを感じてしまう。私の大切な貴方は今どこで何をしているのでしょうか。私は春風に吹かれながらこのまま眠りの世界へ逝ってしまいたい…そんな気持ちがふつふつと沸いてくるのである。こんな気持ちが抱えきれないまま、うじうじしてしまう私…。這い上がれ、自分よ!ダメダメなときもある。だってそれは、“人間だもの”ということで今日のところはおしまいである。

4101292329おめでとう (新潮文庫)
川上 弘美
新潮社 2003-06

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2005.04.03

あるようなないような

IMG0024gure ひらがなだけのタイトルが何とも愛おしい雰囲気を放っていた川上弘美著『あるようなないような』を読んだ。私はどうもひらがなだけのタイトルに弱いらしい。同著の『ゆっくりさよならをとなえる』もかなり好きであるが、今回のも何とも言えずにいい佇まいなのだ。デビュー直後の95年から99年までに発表されたエッセイを収め、4つのパートからなる。川上弘美さんならではの生活感と季節感にあふれた端正な文章が楽しめる。中でも小説を書き始めた学生時代のエピソード、芥川賞受賞後の心境、影響を受けた作家などについても触れられており、川上作品への理解を深められる1冊となっている。

 日々の何気ない暮らしの中で感じたよしなしごとあれこれを紡いだ中で、「かばん症」と「どうしよう」と「小説を書きはじめたころ」の3つのエッセイが印象深かった。読んだ後に広がるこの妙な気分は何なのだろうと思いつつ、人間っぽ過ぎる程のじーんと残るおかしみをゆっくり味わう。この心地よさ、この愉快さ、この感動の正体は何なのか…。

 「かばん症」では、心配性の著者のかばんの荷物について書かれている。荷物はハンカチ2枚、ちり紙2包み、電車の中で読む本2冊、夏ならば扇子に黒い眼鏡、日傘に天瓜粉である。何ともたくさんだ。持って歩いているものを実際に使うことは、あまりないという著者。そのくせ、財布だの口紅だのをかばんに入れ忘れたりする。かばんに多くものを入れておかないと安心できない人というのは、結構多いようである。私もそういう人であるので、人事ではない。著者の知り合いには、四角い大判のアタッシュケースにねじまわしを持ち歩いている人もいるそうだから何とも…。

 「どうしよう」では、電車での何気ない会話に聞き耳を立てる著者の心の動きが愉快である。“腕時計をしない人は信用しないことにしているのよ”という声を聞いて腕時計をしない著者はドキドキ。“サンダル履きでペタペタだらしなく外を歩く人も、ダメね”と続いて、さらにドキドキ。そんな決めつけたような言い方をされると誰でも少々萎縮してしまうものだろうが、何とも著者は素直で純粋なのでおもしろい。後ろをそっと窺ったりもする。

 「小説を書きはじめたころ」でも著者の人柄が生きている気がする。“小説なんていうものは、読むものであって、自分で書ける、書いていい、などとは想像したこともなかった…”という箇所がいい。様々な書くきっかけがあって小説を書くようになった著者だが、自分の書くものがあまり好きになれなかったという。自己愛や自分の作品に対する愛着はあるものの、他の人の書くものの方が優れていると感じていた。自分の作品がつまらぬものだったので、安心して一人で勝手に書き続けることが出来たと振り返る。この謙虚さを見習いたい。

4122041058あるようなないような (中公文庫)
川上 弘美
中央公論新社 2002-10

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2005.04.01

蛇を踏む

101-0114toki 第115回芥川賞受賞作である川上弘美著『蛇を踏む』を再読した。同著である『あるようなないような』を読んでいたら、急にもう一度読みたくなった。蛇が嫌いな私は、蛇のことが「あんがい好きである」という著者の発言を読み、「意外と平気」な気持ちがわくような気がしたのだった。初めて読んだときの鳥肌がたつほどの気持ち悪さはないにしろ、やはり、あまり好ましい感情はわかなかったのだが…主人公がまさにそのまま川上さん(?)的な感じがして再読なのに妙にドキドキして楽しめた。

 『蛇を踏む』は、数珠屋でバイトをする主人公・ヒワ子と、ヒワ子の部屋にやってきた蛇との関わりを描いた幻想的な作品。「踏まれたらおしまいですね」「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていた。人間の女の姿に化身した蛇はヒワ子の母を名乗り、彼女を蛇の世界へ誘い込もうとする。蛇との共同生活に馴染みながらも強く抵抗を感じるヒワ子。「おかえり」なんて言われると、もうずっと何年間も言われてきたような気分になって、つい「ただいま」と言ってしまう。いらないと言おうとして、しかしビールを見ると一杯だけ飲んでしまう。飲んでしまうと蛇の作った料理に箸がのび、ついもっと飲んでしまう。

 「ヒワ子ちゃんはいつもそうやって知らないふりをするのね」などと言われながらの共同生活には、壁がないことに気づくのだった。他者と接するときに感じる最初から壁を隔てたような遠い感じが蛇にはない。バイト先の数珠屋の主人であるコスガさんや奥さんであるニシ子さんと接するときのような…。薄かったり厚かったりするが、家族に対しても壁というものは存在する。壁があるから話ができるとも言えるほどに。

 数珠屋のコスガさんから、ニシ子さんがもう20年以上もヒワ子と同じように蛇と共同生活を送っていることを聞かされる。最初は邪魔だし気味が悪いしという思いから、追い出そうとしていたのだが、どうやっても追い出すことができないめぐりあわせとなってしまうのだった。お祓いをしてもらったこともあったのだが、特に悪いものは憑いていないと言われ、蛇が消えることはなかった。そのうち蛇がいることが自然になってきたのだが、最近になって蛇の死期が近づいているようだと言う。

 何を思っているのか、ニシ子さんは人間の姿をとれなくなった蛇に嬉々として餌を与えている。もう蛇など捨ててしまえというコスガさんに首を横に振り。こうなると、ニシ子さんのことがわからないと言うコスガさん。こわいような心もちになる。「こわいよ僕は」という言葉にコスガさんのどんな気持ちがあるのか…蛇がこわいのかニシ子さんがこわいのか、そんなことはコスガさんにもわからないのだろうが…そう考えると「ヒワ子ちゃんはいつもそうやって知らないふりをするのね」という言葉を思い出してしまう主人公。蛇の世界への招待は、奥深い受容の世界への招待のようにも感じる。設定といい、ストーリー展開といい、何とも愉快な心地がするのはなぜだろう。

4167631016蛇を踏む (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 1999-08

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2005.01.31

センセイの鞄

 「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」と高校時代の恩師を呼ぶツキコ。十数年ぶりに飲み屋で隣り合わせて以来、センセイとツキコの奇妙でせつなくゆったりとした日々が始まった。谷崎潤一郎賞受賞の川上弘美著『センセイの鞄』である。野球のことで小さな子どものようにケンカしてみたり、一緒にキノコ狩りに出かけてみたり、島へと旅をしたり…2人のやりとりが何とも愛おしく思われる。時間軸がないような不思議な揺れを感じる作品であった。

 ツキコはセンセイらとキノコ狩りに行った際に、センセイがどこかに行ってしまうのではないかと不安になって「センセイ」と呼びかける。ふとした瞬間に昔のことを思い出して涙を流し、流しの前で立ったまま、食べたり泣いたり忙しくするツキコ。その後、外へ出て座り込んでしくしく泣きたくなるのを我慢して40にもなるのに子どもに戻ってしまうツキコ。そして、どうしてよいのかわからずにやっぱり「センセイ」とつぶやく。センセイ、帰り道がわかりません…と。

 センセイの言葉はとても奥ゆかしくて暖かいものが多い。キノコ汁については、「えもいわれぬ、馥郁(ふくいく)たる香ですな」とコメントする。辞書で調べると、馥郁とは、よいにおいのするさまのことであった。さすが、元国語のセンセイである。様々なキノコが混ざったキノコ汁はさぞかしおいしい物なのでは…などと想像し、キノコ狩りっていうのは物凄く楽しいコトなのではないだろうかなんて、私の妄想は加速していってしまった。そして、センセイの語る妻だった人とのエピソードもなかなかよいもので、ほろりときてしまった。「人が生きていくことって、誰かに迷惑をかけることなのね」というそんな名言を残したセンセイの妻。そんな妻を「気儘で勝手で気分屋で」と同じ意味の言葉を並べて言うセンセイ。「ケイタイではなくて、携帯電話と言いましょう」とか「デートをいたしましょう」とかも好きだ。先生嫌いの私でも、つい「はい」と言ってしまいそうになる。

 それから、ツキコの母とツキコのエピソードも印象深い。母との会話が途切れてしまい、何を話していいのか、突然わからなくなり、“近いはずなのに、近いがゆえに届かなかった”とツキコが思うのである。自分と母とは似た質だと感じながらもうまく喋ることができないもどかしい関係…。あぁ、あるなぁなどと、うんうん頷いてしまった私。母と娘の関係は深いがゆえに難しかったり、すれ違ったりしてしまう。言葉にしなくてもわかってしまうことも多いが、口に出さなければ伝わらないことも多いものだから…。この微妙さが問題。いや、大問題かもしれない。

 ツキコがセンセイに背を向けて「くそじじい」とつぶやく場面がある。今までだってずっと一人だったんだから。一人で酒を飲み一人で酔っぱらい一人で愉しんできたんだから。どうせわたしの人生なんて、こんなものだと。その後、センセイと会わないように生活し始めたツキコは、本当に今まで一人で「楽しく」など生きてきたのか、自問自答する。一体私は、どんなふうに生きてきたんだっけと。気づけば、私も一緒に考えていた。私の生きてきた道はどうだったかと(そんなことばっかり考えるから読むペースが遅くなるのだ。かなりの自己中な人間ではないか)…

 “センセイと再会してから2年。センセイの言うところの「正式なおつきあい」を始めてからは、3年。”そう、さらっと後半に書かれた文章がなぜか一番せつなくて、ひどく痛かった。

4167631032センセイの鞄 (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 2004-09-03

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2004.12.27

椰子・椰子(やし・やし)

 山口マオさんの絵と「お読みになったら屹度気に入られます」という、南伸坊氏の言葉を頼りに読み始めた川上弘美著『椰子・椰子(やし・やし)』(新潮文庫)。何とも風変わりな作品である。春夏秋冬にわかれていて、日記とショートエッセイのようなもので構成された不思議な世界。この本には、川上ワールドに引きずり込ませる何かがある。そう感じた。

 主人公は結婚していて、子供もいて、片思いの人もいて…と何とも気の多い忙しい人物である。夢日記のような文章だし、主人公の友人・山本アユミミは名前からして普通じゃないし、ベランダに勝手に来るジャン(ルイかもしれない)との交流も愉快である。それは奇妙で、とぼけていて、不気味。子供を丁寧にたたんでから外出するところは特に「えっ?」と思わせられてしまった。山本アユミミは、ちょっと可愛くてユーモアがあって探さないでと言いつつ、探してもらうことを望んでいたりして(しかも土産を欲しがっていたりもする)…印象深い登場人物。なかなかのやり手である。ジャン(ルイかもしれない)は、結構無遠慮な奴らであり、これまた賢いなかなかのやり手である。読み始めたら、この世界からなかなか抜け出せない。作者の策略にはまっていく、いや、はまっている自分に気づいたときにはもう遅いのである。

 この小説(と言ってよいのか悩む)は、奇妙で不気味でありながら、安らかでおおらかな存在感を放っている。南伸坊曰く、名著と言われる稲垣立穂の「一千一秒物語」とどこか似た雰囲気を持っているのかもしれない…に思わず納得してしまった。

4101292310椰子・椰子 (新潮文庫)
川上 弘美
新潮社 2001-04

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2004.12.09

ゆっくりさよならをとなえる

 先日読んだ「いとしい」が頭の中でふくらんでいるせいか、川上弘美著『ゆっくりさよならをとなえる』(新潮文庫)がとっても愛おしいエッセイに思えた。

 雨蛙をじっと見つめて蛙の視点で考えてしまうとか、蛇を比較的好きでやすらかさすら感じてしまう著者。海外の児童文学に登場する物に強く興味を示す著者。自然の中にあるべき物が不自然の環境にあることに戸惑う著者。古本屋や自分の本棚を見て「くくく」と笑う著者。本や家具などいろんな物を拾ってきてしまう著者。何か食べたい、どうしても食べたいと思いを巡らす著者。月を見るたびに本の一節を思い出す著者。パーティー会場で所在なくなってしまう著者。実家の両親との微妙なやり取りとおかしな関係を持つ著者。作家なのに「日本語はムツカシイ。わたしという人間もムツカシイ。そして生活するということもムツカシイ…」と、どんどん泥沼にはまってゆく著者。どれも愛おしい。著者の人柄がますます好きになってゆく自分に気がつく。

 特に酒屋のレジにて、思い悩む著者が愛おしい。レジにて客が「贈り物です」と包装を頼むと、次の客は「プレゼントです」と言う。次の客は「おつかいものです」と言うのである。三者三様の言葉遣いである。そして、著者は苦心の末にこう言う…「○○○にします」と(これは読んでのお楽しみ)。日本語はすごいものであると、頷きながら改めて思った。そして、日本語はおもしろいのだと。不思議とムツカシイなりにいいものだという気分に私もなってしまっていた。

 今夜は作者と同様に、今まで一番嬉しかったことや悲しかったことを決めることにする。そして、今まで言ったさよならの中で一番しみじみとしたさよならは、どのさよならだったかを決めて、心の中でゆっくりさよならをとなえて、眠りに就こうと思う。初めて告白されたコト、死にきれなかったコト、さよならもまともに言えずに転校していったY君とのさよならのコトを思い出した。好きだと言ってくれたY君。K君のことが好きだったけれど、二番目に好きだったY君。習字教室でおしゃべりしたあの時間、泣きむしだったY君と気が強い妹のAちゃん、Y君のあごのホクロ…どんどん思い出がよみがえってくる。まだ、ちゃんとさよならはできない気がしたのだった。

4101292337ゆっくりさよならをとなえる (新潮文庫)
川上 弘美
新潮社 2004-11

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