2008.07.24

兎とよばれた女

20070421_040 痛々しいまでに、ただ待つこと。ただ従うこと。そうして、誰かを乞い続ける。その思いは、どこかまっさらな純粋さをこえてある種の怖ささえ秘めている。今ある世界を頑なまでに守り続け、未知の領域に恐れ入る。それは、物語の世界ではなく今を生きるわたしたちだって同じことだが、矢川澄子著『兎とよばれた女』(ちくま文庫、筑摩書房)に描かれる世界は、どこまでもわたしに広い世界というものに対する怯えを痛感させた。兎を主人公とするこの物語は、目には見えない神と呼ばれる存在に対する、切なる思いが中心に描かれている。絶対的な愛を信じつつも、悩み、不安になり、戸惑う。兎の切実なる思考は、狭い世界の中でも豊潤な煌めきを放っている。

 この物語について書くことは、とても難しい。それは、その構成が二重三重にも入れ子構造になっているからだ。歪みに歪んだ時間軸は、どう解釈すればよいのか読者をときとして戸惑わせるし、序章に登場する女の昔話として兎の物語を読んだらよいのか。或いは、兎の物語と序章は別物としてとらえればよいのか。途中で兎の前に差し出される、かぐや姫に関するノートについては、一体どんな解釈ができようか、と。また、後半部分の著者自らに対する批評めいた文章を読むと、さらに混乱をきたすのである。だが、それでも、この物語は、ひどく魅力的にわたしの中にすうっと入り込んできた。まるで、自分が兎のように誰かの絶対的な存在を信じて、あれこれ思い悩むみたいに。

 今ある世界を捨て去ること。それはとても困難だ。得るものがあれば失うものがある。許容量をこえてしまえば、それは当然のこととしてある。物語の兎が、今の状態を捨て去ることができずに、未知の領域に足を踏み入れることができないのと同じように。また、生まれ落ちたときからわたしは“女”であるということについても、考えさせられた。おとなしく運命や時の流れに自然に従って、ここに在るわたし。あなたでもなく、ただひたすらにわたしとして存在していることについて。女という人種がひとりきりで生きることは難しい。気張ってみても、虚しいあがきで終わってしまう。誰かのあたたかな、或いはは厳しい支えあってこその、女。本物の女になれる。そんな気がしたのだった。

448042444X兎とよばれた女 (ちくま文庫 や 3-2)
矢川 澄子
筑摩書房 2008-05-08

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 ≪矢川澄子の本に関する過去記事≫
  『受胎告知』(2006-04-05)

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2008.07.21

わたし恋をしている。

20070409_018 恋とは、実はひとりでするものなんじゃないだろうか。ひとりであれこれ思い悩んで、ああでもないこうでもないと悶える。そうして、誰かと心から繋がれないこと、自分との趣味趣向の違いに堪えて、どこかで妥協を余儀なくされる。それでも寂しがり屋のわたしたちは、誰かと一緒にいたいと切に願う。願わずにはいられない。完璧なる相思相愛なんて、奇跡のようなものだ。益田ミリ著『わたし恋をしている。』(MF文庫、メディアファクトリー)は、恋する女の子の本音を五・七・五の川柳と、エッセイとほのぼのとしたイラストで描いた一冊だ。等身大の女の子たちの真っ正直な思いは、どこか痛々しくもあるのだけれど、女の子ならばどのページにも頷けることだろう。

 わたし自身、恋にはかなり疎い方なので、描かれている場面に共感できたのは、片想いについての場面ばかりだった。思えば、わたしは、年がら年中片想いばかりしていて、恋愛というものに発展したことなど数えるくらいしかない。こっぴどくふられるつらさや、もどかしい片想い、自然消滅ばかりの体験ばかりなのだ。恥ずかしながら、現時点ですらまさに中学生並の恋愛レベルである。だから同年代の女の子たちが要領よく駆け引きなんかをやってのけて、見事恋を成就させるのばかりを見てきた。だからこそ、ひとりであれこれ悩む。ああでもないこうでもないと悶える。それでも誰かと繋がりたいから、まだどこかで諦めきれずにいるのである。

 エッセイにも登場する、よく別れ際に言う、或いはなかなか言えない「またね」という言葉。言えたとしても、一体いつ会うの?次の約束はしてくれないの?と、疑問は本音を言えば数多く残る。実際、しつこくしたら嫌われそうだし、「今日は楽しかった」とか「今日はありがとう」という、当たり障りのないメールをつい返信してしまう。相手がどう思ってくれたのかなんて、当人でなければ知るよしもないのだから。わたしは駆け引きなんて、大の苦手だ。それでも、また会いたい。たった一度きりで決めないで欲しい。そう願うのは、わたしだけではないはずだ。だから今日も思い悩む。ああでもないこうでもない、と。どこかにいるこれから出会う誰かと繋がりたくて。

4840123527〔MF文庫 ダ・ヴィンチ〕わたし恋をしている。 (MF文庫 ダ・ヴィンチ ま 2-1)
益田ミリ
メディアファクトリー 2008-06-21

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 ≪益田ミリの本に関する過去記事≫
  『上京十年』(2007-06-13)
  『女湯のできごと』(2006-03-23)
  『「妄想」はオンナの幸せ』(2005-07-11)
  『お母さんという女』(2005-01-24)

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2008.07.18

グ、ア、ム

20080717_4017 何だか無性にせつなくなった。こんなにも痛快なのに。こんなにも可笑しいのに。きょうだいとは、一体何ぞや…としばし考えてしまったのである。“きょうだいは他人のはじまり”という言葉があるように、歳を重ねるにつれて疎遠になってゆくその間柄。そこに根深くある葛藤のようなものから、わたしは果たして目を背けてはいないだろうか…と、ふと思ったのだ。本谷有希子著『グ、ア、ム』(新潮社)に登場する姉妹と同じく、四つ違いのきょうだいがいるわたしとしては、いくら他の人が羨むくらいに小さな頃から仲睦まじかろうと、いずれは離れてゆくであろうきょうだいの存在のことを、今のうちから覚悟しておかなければなるまいと痛烈に思ったのだった。

 これは、父親を留守番に母、長女、次女が初めての海外旅行に出かける物語なのだが、三者三様に個性的で様々な確執を抱えている。この長女の世代というのは、ちょうど今の二十五歳から三十五歳あたりまでの、バブル時代もぎりぎりに終わっているし、受験戦争時代をくぐり抜けなければならなかった年代。そうして、受験戦争から逃れられたかと思えば、就職氷河期が待っていたという、何とも可哀想な世代なのだ。いわゆる格差社会の犠牲者とも言える。そんな長女とはうって変わって、次女は堅実派で、姉に辟易することしばしば。何かと折り合いがつかない。そんな二人の間でただ右往左往する母。それに加えて、せっかくのバカンスに母は生理になるし、次女は歯痛、天候にも恵まれない。

 三者の抱えるこころのうちは、なかなか後半まで言葉にはならない。家族旅行の目的すらもよくわからないまま、姉妹は感情をしだいに高ぶらせるのである。物語にはこんな箇所がある。“同じDNAから生まれ、同じ性別を持ち、同じ環境を与えられ、同じ両親に育てられた二人がいたとして、その差がたったの四年だとして、性格の、人生の、その違いはなんぞ?”と。ここには世代の問題以前の、根源的な問いかけがあるように思えてならない。もしも…という可能性。それに加えて、どうしてもきょうだいというのは必然的に比べられる。たとえ親が比べなくても、きょうだいはそれを意識せずにはいられないのだ。それはきっと、近くてもいつかは遠ざかる存在だからなのかも知れない。

4103017724グ、ア、ム
本谷 有希子
新潮社 2008-06

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2008.07.17

殺人者の健康法

20080717_010 歪みに歪んだ屈折した幻想は幻想のままに。果てしない追憶は追憶のままに。こころのうちに留めておくことが正しいのかも知れない。いや、果たして正しいのか。わたしたちの記憶の果てにあるのは、散りばめられた煌めくような美化された思い出ばかりであるのだから。或いは、執念深くたまりにたまった苦々しい思い出ばかりであるから。アメリー・ノートン著、柴田都志子訳『殺人者の健康法』(文藝春秋)を読んでそんなことを思ったのは、物語に登場する男のあまりの身勝手で、かつ滑稽ですらある卑屈さに、ある種の人間の本心を見たような気がしたからだ。もちろん、男の身勝手な幻想にわたしは同調しかねるのだが、それでもどこか本能的な部分で作品に惹かれずにはいられなかったのだ。

 物語は、ノーベル文学賞作家として世に知られる存在ながら、これまでほとんど人との接触を避けてきた、醜悪なまでの巨漢の男プレテクスタ・タシュが主人公だ。だが、余命二ヶ月との宣告を受け、隠居生活から脱するかのごとく、何人かの記者のインタビューに応じようとする。だが、毎朝代わる代わる訪れる記者は、タシュの饒舌で質問をはぐらかしたような毒舌に次々と退散してしまう。そんな中、挑んできた一人の女性記者だけはタシュから一歩も引かない態度を見せ、二人の対話はかなりの毒気を含みながらも、痛快なものとなるのである。タシュがなぜ執筆をやめてしまったのか。未完の小説に関する謎とは。女性記者の企みとは…。二人のやり取りの中で、次第に明らかになってゆく。

 読書人として興味深いのは、タシュがセリーヌの「夜の果ての旅」を絶賛しているところ。ただ、大半の読者はそれを読んだからといって、何かを得たり、すぐさま何かが変わったりすることはない、ということをタシュは言う。多少なりとも影響を受けたとしても、一読して、感想を述べて、わたしたちは皆また日常生活に戻ってゆくのだから。それは当然のことながら、作家という職業の悲劇を感じずにはいられず、何だか妙に切なくなる。もちろん、例外はあって、もの凄く刺激的で影響を与える本だってこの世の中にはたくさんあるに違いない。けれど、タシュの言う論理はわからないでもない。“結局、人々は本を読まない。もしくは読んでも理解しない。もしくは理解しても忘れてしまう”のだと。

4163165304殺人者の健康法
Am´elie Nothomb 柴田 都志子
文藝春秋 1996-10

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  ≪Am´elie Nothombの本に関する過去記事≫
  『午後四時の男』(2006-12-21)
  『愛執』(2006-12-04)
  『幽閉』(2006-12-10)

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2008.07.13

婚礼、葬礼、その他

20070514_010 たいていの人々が自分のことばかりにかまけている。そうして、誰かに重たい荷物を背負わせて、そ知らぬ顔であぐらをかいているのである。その誰かとは、あなたかもしれないし、わたしかもしれない。いつ何時、それを背負わされるのかわからないのにもかかわらず、今日ある日々に安住する。それが、いつまでも続くと思っているのだ。津村記久子著『婚礼、葬礼、その他』(文藝春秋)には、まさにそんなわたしたちの重荷を背負わされてしまったかのような、苦悩に苦悩する女性の物語が展開する。休暇のはずが結婚式に、そうかと思えばお葬式に…と大忙しなのである。また、他に収録されている「冷たい十字路」は、ある事故を軸とした物語を通じて、日々の忙しさにかまけて自分のことばかりに夢中になるわたしたちを一喝するかのような、じわじわとした余韻を残す物語である。

 表題作「婚礼、葬礼、その他」。人を呼ぶことはできなくても、呼ばれることはできることだけが取り柄の、主人公ヨシノ。彼女はせっかくの休暇に旅行に行くはずが、友人の結婚式(しかもスピーチ&二次会の幹事)に出席することになる。だがその最中、上司の父親が急死。葬式へと向かうことになってしまう。ここで彼女の脳裏には、旅行よりも結婚式が強くて、結婚式より強いのはお通夜…という図式が成り立つことになる。思えば、人は誰がどんな予定を立てていようがいまいがお構いなく、死ぬときは死ぬのだ。けれど、彼女は顔も知らない人の葬式に出席しながらも、疑問を抱かずにはいられない。本当に優先すべきことは何なのか。自分は一体ここで何をしているのか、と。

 ここでは必要とされていない。それでもいなくてはならない。その奇妙な立場の主人公の思いが、切々と紡がれてゆく。葬儀場での修羅場や裏事情、ぐだぐだだったらしい結婚式の様子、主人公のひやひやものの長過ぎる一日がぎゅっと濃縮されているのである。そうして、ときには亡き祖父母を思い出し、葬式の参列者を見てはいつか見た光景を思い出す。生きているということ。死んでしまうということ。その境界さえ曖昧になるほどに、涙を流したりもする。決して、哀しいのではないのに。その混乱。その葛藤。生きているわたしたちには、死ぬという感触はきっと死ぬまでわからない。だからこそ、愛おしいその混乱。その葛藤。この忙しなく生きる今、一瞬一瞬が大事なのだろう。

 もうひとつ収録されている「冷たい十字路」。忙しなく同じ道を同じ時間帯にすれ違う人々のことなど、わたしたちのほとんどが気にしないだろう。覚えていたとしても、それはほんの数時間か数日のこと。物語は、そんな中で起きたある自転車衝突事故を軸にして展開し、一見事故とは関わりのなかった人々が点と点で結ばれてゆく。だが、ここで露呈してゆくのは、わたしたちが日頃自分のことばかりを優先しているという、紛れもない事実である。たかがありふれた事故。されどそこに秘められたわたしたちの内情というものに、はっとさせられずにはいられない。だが、何を疑問に思ったところで、その歩みを止めることは難しい。それが厳しい現実で、わたしたちの置かれた今だ。

4163272607婚礼、葬礼、その他
津村 記久子
文藝春秋 2008-07

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2008.07.12

くまとやまねこ

20080704_020 どうしたって朝はやってくる。明けない夜がないように。降り止まない雨がないように。そして今日の日を生きるわたしたちは、忙しさにかまけて“きょうの朝”が何よりも特別だということを忘れがちだ。共に過ごす誰かが、もしかしたら明日の朝にはいないかもしれないということに。死。それは突然ふいにやってくる。大切な誰かのもとへ。或いは見知らぬ誰かのもとへ。湯本香樹実文、酒井駒子絵『くまとやまねこ』(河出書房新社)は、ある朝大切なことりが死んでしまい、打ちひしがれたくまが、やまねこと出会ったことにより、新たな一歩を踏み出してゆく、という物語。テーマとして描かれる喪失と再生。時間の流れと共にこころがほどけてゆくのが印象的である。

 最愛の友だちであることりを亡くしたくまは、その亡骸を小さな箱に入れて持ち歩くようになった。すると、森の動物たちは箱の中身を知りたがる。そして、たいていは困り顔で諭すように言うのだ。“つらいだろうけど、わすれなくちゃ”と。いとも簡単に死の悲しみを乗り越えろと。そうしていつしか自分の殻に閉じこもるようになるくま。それでもやがて少しずつ歩き出したくまは、やまねこと出会う。このやまねこもまた、大切な人を失った悲しみをよく知っていたのだろうか。くまは、やまねこの誠意ある言葉とバイオリンの音色に、ことりとの日々を思い出し、はじめて救われるような心地になったのだった。その歩みはゆっくりでも、確かな一歩である。

 この物語を語る上でかかせないのが、酒井駒子さんの絵だ。この方の絵は、黒を印象的に使っているイメージがわたしにはあるのだけれど、この『くまとやまねこ』では、その黒の表情が際立っているように思える。くまの悲しみ。くまの孤独。くまの物思いに耽る姿…などなど。そして、ことりとの思い出を回想する場面などでは、黒の差し色としてのピンク色が煌めいているのである。そのピンクを見たとき、ああ、なんて愛らしいんだろうと思わずにはいられなかった。そして、くまのことりへの深い深い愛情をも感じずにはいられなかった。そうして、ことりの言葉を思い出す。“ぼくはきのうの朝より、あしたの朝より、きょうの朝がいちばんすきさ”と。

4309270077くまとやまねこ
湯本 香樹実
河出書房新社 2008-04-17

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2008.07.11

グーグーだって猫である

20070421_038 猫好きは猫と名の付くものには過剰反応してしまうもので、本屋や図書館をぶらついていても、自然と吸い寄せられるようにあちらこちらで“猫”を見つけてしまう。道をぶらついてもしかり。ペットショップなんぞ行こうものなら、じーっとケースの中に見入ってしまうことばかり。大島弓子著『グーグーだって猫である』(角川文庫、角川書店)は、長年の著者の愛猫サバを看取った後の、二代目の猫“グーグー”と、その後飼うことになった“ビー”との日々を描いた作品である。猫を飼っている人なら、うんうんと頷くことしきり。うちもそうそう。うちなんか、こうなんだから…などと言いたくなるくらいに、猫といえども、それぞれの個性や特徴まで、細やかに描かれている。

 中でも、猫の飼い主として心に痛いなあと思ったのは、“二度目の猫は得である”ということ。一言で猫を飼うと言っても、それなりの知識や経験がなければ、どのように接してゆけばいいのかわからないことだらけなのである。いくら愛猫が悲痛に啼こうとも、何かを要求しようとも、ただわたしたちはおろおろするばかり。医者に行った方がよいのか。それとも、食事の問題なのか。安い缶詰やドライフードをあげたのがまずかったのか…等々。その点、二度目の猫というのは、一度目の猫よりも気を遣われる。長生きしますように。どうか健康でありますように、と。そうして、都合のいい人間のわたしは、一度目の猫が二度目の猫を見守ってくれていることを願ってみたりもする。

 また、とりわけ面白かったのは「言葉遣い」の章。いくら猫相手だからと言って、ぞんざいな言葉は、少々いただけない。そんなふうに友人の言葉から学ぶ著者。著者は、知らず知らずのうちに猫に対して発していた言葉を見直すことになるのである。例えば嬉しい、例えば悲しい、例えば不安、例えば気持ちいいなどなど、猫にある感情はすべてわたしたちと同じもの。だから、猫のエサではなくて、猫のごはん。そんなふうに意識せずに呼ぶことができたら、愛猫との絆はもっともっと深まるかもしれない。猫に対する思いは人それぞれだが、わたしは猫と上手な距離を保ちながら、これからも接してゆきたいと思っている。グーグーもビーも可愛いが、うちの愛猫も負けませんぞ。

4044348022グーグーだって猫である1 (角川文庫 お 25-1)
大島 弓子
角川グループパブリッシング 2008-06-25

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2008.07.10

切羽へ

20080704_018 知らず知らずのうちに傾いでゆく思いと、確固たる守るべき思いと。その狭間で揺れながら、危うい均衡を保ってゆく。誰かに気持ちを寄せる、ということがこんなにも甘美でエロティックであることなどつゆしらず、女は気がつけば視線を向けているのだ。姿形、言動、そのすべてを一瞬一瞬逃すまいとするみたいに。井上荒野著『切羽へ』(新潮社)には、主人公のそんな視線がとりわけ印象に残る。そこには、無防備な姿を晒した誰かがいて、明らかに主人公から目をそらした誰かがいる。それでも見つめる。だからこそ見つめる主人公の視線は、いつしか読み手自身の目となり、物語全体をまるごと全部包み込むみたいな心地になるのである。

 物語は、廃墟の残るかつては炭鉱が栄えた小さな島が舞台。31歳の養護教諭のセイは、画家である夫と穏やかな生活をしていた。そこへ音楽教師の石和が赴任してきたことで、島の空気全体が変わってくる。島の人々には良きも悪しきも島人ならではの接し方があるのだが、やはり石和の存在は明らかに異質の存在だ。そんな流れ者のような石和に惹かれてゆくセイ。出会った瞬間から心ざわめいたのにもかかわらず、その心のうちだけに秘められた思いを、物語はただひたすらに彼女のモノローグとして語り続ける。セイの同僚で奔放な月江とその恋人の“本土”さんの恋の行方、セイの亡き父の診療所の常連だったしずかさんの存在も、物語の大きな核となっている。

 この物語には、劇的な展開は起こらない。ただ主人公のセイがひたすらに思いを募らせるばかりだ。石和に対して。そして、夫に対しても。そのあまりの切実なる思いに、ぎゅうっと胸がしめつけられる。それはきっと、わたしがセイほどに誰かを見つめたことがないからかもしれないし、誰かに強く惹かれたことがないからかもしれない。募る思い。けれど、何も起こらない恋。こころのうちだけで起こるその葛藤や蠢きに、ひとつ大きなため息がこぼれた。ちなみに、“切羽(きりは)”とは、炭鉱の坑道の先端の石炭を掘り出す場所のこと。“先に進めないほどの究極の恋愛”という意味で用いられているそうだ。出口の見えないこの思いの終着は、そっと胸にしまおう。

4104731021切羽へ
井上 荒野
新潮社 2008-05

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2008.07.04

ポケットから出てきたミステリー

20080704_023 次々と代わる代わる語られてゆくささやかでありふれた話やある一人の人生のエピソードが、物語帯びてくる瞬間を垣間見た気がする。日常にはこんなにも語るべきことが溢れていて、わたしたちの思考をぐるぐるとさせるほどのおかしさに満ちているということを、今さらながら痛感したのだった。カレル・チャペック著、田才益夫訳『ポケットから出てきたミステリー』(晶文社)は、ミステリーと題されていながらも、ミステリー色のないものから、ミステリーに終わらない著者の深い洞察を感じさせるものまで多岐に渡る、ユーモアとウィットに富んだ痛快で味わい深いショート・ミステリー二十四篇を収録している。口語体を通りこした話し言葉だけで展開するせいか、全体的にやわらかな印象が残る一冊だ。

 例えば、こんな話がある。サボテン泥棒に仕掛けられた罠の話である「盗まれたサボテン」、赤ん坊を盗まれた若い母親に翻弄される警察署長の話である「赤ん坊誘拐事件」、抑圧された観念が招く悲劇を描いた「めまい」、何が書かれているのかわからない娘からの一通の電報に家族がそれぞれに心乱される「電報」、スパイ行為を繰り返した女の意地とプライドについての話である「伯爵夫人」などなど。どれもがある種わたしたちの日常に寄り添う事件ながら、人間のおかしさや愚かさ、悲哀のようなものを、あたたかな語り口で読ませてくれる展開だ。ほうほう、その話もいいですがね、そうそう、こんな話もあるんです……なんて、いつまでも尽きることを知らない静かな盛り上がりもまた楽しめる。

 けれど、最後に収録されている「人間の最後のもの」だけは、他の話に満ちている和やかな雰囲気がない。クララ氏の死刑宣告される夢の話に始まって、スクジヴァーネク氏のかつて自殺を思ったことの話に繋がってゆくのだ。背負った病に耐えかねて苦しみから逃れようとしたその姿は、同じように病に苦しんだ著者カレル・チャペック、その人に通じるものなのかも知れない。スクジヴァーネク氏の肉体の痛みに苦しみもがく語りは、鋭利なリアリティの中にあって、そのゆれにゆれる精神の蠢きをそのまま見事に描ききったように感じられる。本当の痛みを知る人は強い。同時にそれを知る人は、弱さをもよく知っている。自分の器というものも。自分の一生をかけて抱えるべき物事も。

4794965079ポケットから出てきたミステリー
Karel Capek 田才 益夫
晶文社 2001-11

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2008.06.30

西日の町

20070409_014 記憶の片隅をぢんと刺激された心地になって、今は亡きあの人のことを考える。あの人を憎みながらも最期を看取り、それでもいつまでもいつまでも大粒の涙をこぼし続けた母の姿を思い出すのだ。そうして、この頃あの人の面影がありありと表れはじめたわたしに、ふっと今なお消えぬ憎悪の塊を吐き出したりする。それはちょうど、湯本香樹実著『西日の町』(文春文庫、文藝春秋)で描かれる、父親と娘の、憎しみと愛情の入り混じった関係と、それを見守る孫であり息子である僕の姿に、よく似ているような気がしてならない。もちろん、細かな部分は異なっているし、あの人は母にとって義父ながら、実の父親以上の愛情と憎しみをそそいでいたように、わたしには映ったのだったが。

 物語は、北九州の町に流れ着いて暮らす、若い母と十歳の息子のもとへ、母親の父親である「てこじい」が転がり込んでくるところから始まる。それ以来、てこじいは部屋の隅でうずくまったまま、夜になっても決して横になることもない。母親は、てこじいを邪険に扱ったかと思えば、食卓に好物を並べて、戸惑いを隠せない。かつて家族を置いたまま無頼の限りをつくしたてこじいの語る話に、しだいに惹かれてゆく僕。謎めいた祖父と、何やら秘密を抱えた母。複雑に絡み合い、よじれた思いが交錯するとき、物語は忘れ得ぬ時間をぱっと鮮やかに見せてくれる。また、著者の作品に共通して見られる子どもと老人の対比は、若い生と消え逝こうとする生の出会いの儚い煌めきを感じさせる。

 人の最期を看取る、ということ。看取られる、ということ。その両者の間にある独特の関係性を、わたしはよくわからない。死を見送るという儀式めいたことは経験してきたものの、それはあくまでも死を着飾ったものでしかなかったような気がするのだ。物語に始終漂う死臭のようなもの、そして後半部分に描かれるてこじいの病に冒されてゆくさま。それは、わたしがあの人から目を背けた分だけ、じりじりと迫り来るような気がしたのだった。そうして、改めて母の強さを思い知る。母の大きさを思い知る。この頃あの人によく似てきたわたしをも、やわらかに包み込もうとするその心の深さを思い知るのだ。あの人はもういない。今となっては当たり前になった事実が、何だか妙に悲しい。

4167679590西日の町 (文春文庫)
湯本 香樹実
文藝春秋 2005-10-07

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2008.06.29

二つの月の記憶

20070524_44008 異世界の入り口で幾度も躊躇する。だが、抵抗虚しくずるずると引き込まれたわたしは、どっぷりと心地よくその世界に浸りきってしまった。現実とフィクションをこんなにも絶妙に絡ませる著者の手腕に、ただただひれ伏すように大事に一編一編を噛みしめる。独特の品を備えたユーモアとエロティックさが絶妙に混じり合った毒のある語り口は、病に倒れる直前まで書いていたという、岸田今日子著『二つの月の記憶』(講談社)でも、確かなものとして表現されている。老いてもなお残る少女の面影は、どうかするとはっと消えかけてしまいそうな美しさを放っている。「オートバイ」「二つの月の記憶」「K村やすらぎの里」「P夫人の冒険」「赤い帽子」「逆光の中の樹」「引き裂かれて」という、7つの掌編を収録。

 表題作「二つの月の記憶」。子供との遊びの時間、ふと子供の口からこぼれる“月が二つあった頃『わるもん』は『いいもん』だったんだよ”という言葉。その言葉に突き動かされるように、かつて少女だった頃の何とも言えぬ思い出がよみがえってくるのだ。それは些細な出来事で、あくまでも悪気はなかったこと。けれど、どこか忘れ得ぬ思いを含んだそれに、大人になったかつての少女は眩暈を覚えるのである。子供の放った言葉こそ、この短い物語を象徴するようで、いつまでもひりひりと胸の奥が疼くような心地になる。いまだ癒えぬ幼き日の痛み、かつて誰もが“いいもん”だった頃のこと。わたしたちはいつから道を誤ったか…。大人になるとは、何とも切ないことである。

 「K村やすらぎの里」では、老人ホームにいるUさんを訪ねた際、付き添いのN子さんから、本当のことを作り話として聞いて欲しいと言われ、ある宗教団体のテロを思わせる話を聞かされる。テロの裏に秘められた一人の女性としての長く激しい思い。そしてここでも、いつまでも少女でい続けた一人の思いがつぶさに描かれている。こんなにも一途に誰かを思い続ける生涯というものが、どれほど切実なものであるのか、わたしにはたぶん完全には理解できないことだろう。けれど、読者によって委ねられる物語の結末を前に、ただただ項垂れつつも、かつて確かに誰かを強く思ったことや、まだまだ大人になりきれないばかりか、少女であることに執着する自分を感じずにはいられなかった。

4062143992二つの月の記憶
岸田 今日子
講談社 2008-01-18

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≪岸田今日子の本に関する過去記事≫
 『大人にしてあげた小さなお話』(2008-06-18)
 『子供にしてあげたお話してあげなかったお話』(2008-06-20)

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2008.06.26

鼓笛隊の襲来

20080610_023 はっと闇に覆われて、得体の知れない何かがわたしの心を占めてゆく。まるで、目の前のことに心奪われ過ぎるのを警告するみたいに。そっと、けれど確実に覆ってゆく。そうして、自分自身を見失いかけたわたしは考えざるを得なくなる。同じ景色を見てもその琴線にふれるものが異なるように、ある人には見えて、わたしには見えないものがあるということを。日常、わたしたちはそれには気づかずに、目を覆われてはじめて、抗うように見えざるものを見ようともがきあがく。ほんのひとすじの光を求めて、あの色を。あの光景を。日々を重ねる事に忘れゆくのをくい止めようと。記憶が薄らぐのを防ごうと。何よりも、あるかもしれないもう一つの世界の存在に心寄せようとするために。

 三崎亜記著『鼓笛隊の襲来』(光文社)。九つの物語が収録されたこの一冊は、著者ならではの不可思議な世界に満ち満ちている。表題作の「鼓笛隊の襲来」では、台風のように戦後最大規模の鼓笛隊が本土を上陸し、猛威をふるう。人々はかつて経験したことのない恐怖に陥る。そんな中、物語は避難しなかったある一家の姿を追ってゆく。鼓笛隊という、どこか牧歌的なものが恐れられる設定が何ともユニークな物語だが、恐怖に対する様々な人間の姿を描き出していて興味深い。見たことがないもの、知らないものに対するわたしたち人間の恐れは、たぶん本能的なものだろう。そこでどう動けるか、どういう心持ちでいられるか、人間の真価が問われているような気がする。

 印象的だった「彼女の痕跡展」では、ある日身に覚えのない喪失感に包まれた主人公が、奇妙な展示に出会う。そこには、かつて自分が好み、身の回りにあったものたちが並べられていた…。目の前にして、はじめて疼き出す記憶。けれど、その記憶は果たしてどこまで真実味を帯びているのか、この物語によってわからなくなるのだ。同じ時に同じものを見て、同じことを語り合って、そうして共有した時間すらも、年月を経てしまえば姿形を変えてしまう。だからこそ、誰かと過ごした時間はかけがえのないものになるのだろうが、何だか生きるとは切に虚しい繰り返しであると思えてくる。不確かさと虚しさにぐらりと揺れたわたしは、目の前にあるものすら少しばかり疑わしい。

4334926010鼓笛隊の襲来
三崎亜記
光文社 2008-03-20

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 ≪三崎亜記