2009.12.15

らいほうさんの場所

20091214_4004 まぎれもなく家族だった。守るべきもの、失ったものを同じにして、ただただ彼らは家族だった。どこかにいる誰か、わたしたちとよく似た。家族であるという絆は、本当は何でもよかったのかもしれない。何かを象徴するもの。よりわかりやすいかたちであるなら、なおさら。彼らが傾く先へとつながっていれば、それだけで。血のつながり、ひとつ屋根の下での日々、共に重ねてきた時間…家族であるという事実をつぶさに照らしてみれば、彼らはどうしようもないくらいに家族だった。東直子著『らいほうさんの場所』(文藝春秋)。かつて封印し、秘められ、ふれてはならないものを持つ、三姉弟が織りなす物語である。家族の小さなほころびと再生とが細やかに描かれ、独特の余韻を残してゆく。

 インターネットの占いで生計を立てている長女、市民センターで働くバツイチの次女、日雇い労働をしている大人になりきれない弟。彼らは、亡き両親が残してくれた庭付きの分譲マンションで、三人寄り添うようにして暮らしている。庭の片隅には、彼らが“らいほうさんの場所”と呼ぶ秘密の場所があり、大切にしている。だが、穏やかな暮らしはある人物の登場をきっかけに崩れ始めるのだ。小さなほころびは次第に不気味さを放ち出し、家族関係をゆさぶる。読み手であるわたしたちは、いつしか長女が考える占いの文章に引きずられるように、騒動の中に呑み込まれてゆく。彼らがかつて封印し、秘められ、ふれてはならない部分に、手探りのまま踏み込んでいることに気づくのだ。

 “らいほう”とは、“来訪”のこと。物語の中では、容易には踏み込んではいけない聖域のように扱われている。花を絶やさず、その存在を崇めるようにして。三姉弟を結びつけている“らいほうさんの場所”とは、一体何なのか…ほのかな可能性を示されるだけで、確かなことは明らかにされない。けれど、それが家族を強く結びつけていることは容易に理解できる。謎めきは終始独特な雰囲気を漂わせ、家族の問題を浮き彫りにする。そうして気づく。思えば、家族であろうとするために彼らが努めていることは、わたしたちのそれと大して変わりないと。決して奇異なことではない。どこの家族にも在り得ることとして、この物語はわたしたちにするすると沁み込んでゆくのだった。

 家族であるために、家族だからこそ、わたしたちはさまざまな思いを抱えている。僅かなほころびも、侵してはならない領域も、まるごと全部含めて。全てが愛しさのかたまりだから。まぎれもなく家族だから。その証明を解き明かすように、日々を積み重ねて暮らしている。暗黙の了解として流れがちな、ひとつひとつのことを今更ながらにこの手に広げてみれば、嗚呼とため息ばかりがこぼれてくる。こんなにも強く、こんなにも深く、わたしを募らせるものは他にないだろうと。わたしが今いるこの瞬間にも、見えない力であたたかに守られている気がするのだ。どうしようもないくらい大きな力で。どうしようもないくらい強く深く。わたしたちは、まぎれもなく家族であるから。

4163286802らいほうさんの場所
文藝春秋 2009-11-11

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2009.12.06

転生回遊女

20090326_012 ゆく、ゆく。とどまることを知らない、奔放な生を抱えて。ゆく、ゆく。果てしない、あてのない旅に向かって。ゆく、ゆく。転がるように、羽ばたくように。ゆく、ゆく。めぐりめぐる日々を、存分に楽しみながら。ゆく、ゆく。そのまっすぐな魂を、自由に遊ばせて。ゆく、ゆく。焦がれるように、惹かれ合って。ゆく、ゆく。誰かと寄り添い、心通わせて。小池昌代著『転生回遊女』(小学館)の主人公のゆく先は、どこまでものびやかに転がっている。ここではないどこかへと進む生は、次々と異性を惹きつけ、人々を魅了する。その正直な関係性を目の前に、いつしかため息がこぼれる。人と人。いや、一人と一人。わたしたちの関係の根本は、常にそういうはじまり方をしていると。

 物語の主人公・桂子(かつらこ)は樹木に強く惹かれ、心通わすように親しんでいた。役者の母親が事故死したために、母子二人の生活から一人きりになってしまう。生前の母親を知る男に促されるままに、芝居に出演することになる桂子。ひと月後にはじまる稽古の日まで、亡き母と同じく旅に出ることにする。桂子の向かった先は、駆け落ちした親友のいる宮古島。旅する先々で異性を魅了して交わる彼女は、多くの人との出会いによって、新たな自分自身を見出してゆく。そうして、タイトルのごとく、どこまでも転がり落ちてゆく。日々、生まれ変わりながら。どこまでも、どこまでも。自由自在に生きる彼女を止めるものはいない。その若さを、そのまっすぐさを、止められない。

 桂子の奔放さには、この人でなければないという、絶対唯一のものはない。唐突にはじまり、自分の意志を持つ前に、植物同士のように自然に絡み合う。受け入れることにためらいは少しもない。そんな彼女に対して、みだらだと言うのは容易い。だが、彼女の結ぶ関係は、どんなときも一対一であり続ける。混在はしない。どこまでも一人と一人で向き合っている。そこには濃密な時間が漂う。隙間なく、ただ二人の時間だ。桂子という人物がそこに生きているということ。ただそれだけで充分なくらいに、わたしたちは彼女に目を奪われる。その、若さゆえのしなやかさ。その、生のまっすぐな貫き。その、途切れることのない煌き。それは、わたしたちの忘れかけた生き方のような気がする。

 とどまることを知らない、奔放な生を抱えてわたしたちはゆく。果てしない、あてのない旅に向かって。転がるように、羽ばたくように。めぐりめぐる日々を、存分に楽しみながら。そのまっすぐな魂を、自由に遊ばせて。焦がれるように、惹かれ合って。誰かと寄り添い、心通わせて。そうやってわたしたちは、どこまでものびやかに転がり続ける。ここではないどこかへと魂をふるわせながら。人と人が出会うとき、一人と一人が交わるとき、わたしたちは気づくだろう。ただ、身をたゆたわせる快感を。ただ、今という瞬間を生きる喜びを。明日のことはわからない。わからないからこそ、生きる意義を見出す。そうして未知なる日々は、ささやかな関係性の後押しをするのだ。

4093862656転生回遊女
小学館 2009-11-30

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2009.12.03

幻影の書

20091027_4010 いくつもの偶然が重なり合って、ひとまとまりの必然になる。いくつもの生が重なり合って、ひとまとまりの物語になる。わたしたちのそばに横たわる、さまざまな出来事の共鳴をいくつも繋いで、新たな事象を導き出す。必然という名の物語は読み手の衝動を掻き立て、次から次へとわたしたちを導いてゆく。ポール・オースター著、柴田元幸訳『幻影の書』(新潮社)を読みながら先へ先へとはやる気持ちを抱くのは、きっとわたしだけではないだろう。過去から呼び起こされる事象はさまざまに絡み合い、別の事象を呼びつつスリリングに進行してゆく。気がつけば、後戻りのできないところにわたしたちはいる。残酷な運命に翻弄されることに夢中になって、物語の深みにはまっている。

 妻と息子二人を飛行機事故で失った大学教授のジンマーという主人公は、生きる気力をなくしていた。だがある日、昔の白黒の無声映画を見て心を動かされる。その製作者であり、出演俳優でもあったヘクター・マンという男に惹かれるようになり、評論の執筆を始めるまでに至るのだ。謎の失踪をとげたヘクターの映画の中に閉じこもり、かろうじてその生を保つことに成功するジンマー。評論執筆後のある日のこと、“ヘクターの妻”を名乗る人物から手紙が届く。ヘクターがあなたの本を読み、会いたがっている…と。ヘクターの消息が途絶えて六十年。ジンマーは、ヘクターの謎に満ちた生涯にふれ、自身にも大きな出来事が起こり、次第にその物語に呑み込まれてゆくのだった。

 この物語の中で印象的に描かれているのは、人生というものの美しい悲しみのような気がする。人生にははじまりがあり、そのおしまい、つまり“死”がある。そして、この世界には語られない人生の物語が無数に存在している。それでも誰かが生きた時間は、他者へと何らかの影響を及ぼしながら残ってゆく。姿かたちはなくとも、消滅は消滅のままに終わらない。少なからずいくつかの事象を呼び起こして、共鳴する。いつしか小さなほころびは、小さな罪へと姿を変えてしまうだろう。いくら自分自身を完全に消滅させようと試みても、この世に刻み込まれた姿は完全にはなくならない。それがたとえ、たった一人きりの記憶の中だとしても。既に別の人の内にわたしたちは抱かれている。

 抱かれたわたしたちは自分自身の人生だけでなく、自分以外の誰かの人生に意識せずとも呑み込まれている。生れ落ちたその瞬間から、いや、それ以前からもしかしたら呑み込まれているのかもしれない。わたしのいた時間は、気づかぬうちに自分の手を離れ、消滅し得ないものへと変わり果てる。いくつもの偶然が、ひとまとまりの必然へと変わり果てる。いくつもの生が、ひとまとまりの物語へと変わり果てる。わたしたちのそばに横たわる、さまざまな出来事の共鳴をいくつも繋いで、新たな事象を導き出して。必然という名の物語は読み手の衝動を掻き立て、次から次へとわたしたちを導いてゆくのだろう。そして思う。人生の儚さを。人生の美しさを。その悲しさを。その痛みを。

4105217127幻影の書
柴田 元幸
新潮社 2008-10-31

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2009.09.20

私がそこに還るまで

20090907_019 正直に生きて。自分を偽らずに生きて。そうやってしか生きられない悲しい女たちの姿が、ときに痛いほどに胸をさす。もっとずる賢く生きられたなら。もっと身勝手に生きられたなら。けれど、それは彼女たちの本意じゃない。それは彼女たちの正しさじゃない。不器用で偽ることを知らない彼女たちの生きるすべが、たとえ深い悲しみに満ちていても、きっと後悔はない。誰よりも正直に生きて。誰よりも自分を偽らずに生きて。そうやって生きることが、彼女たちの信念なのだから。稲葉真弓著『私がそこに還るまで』(新潮社)に収録されている7つの物語は、いずれもそんな女たちが登場する。どう生きたらよいのかもわからぬまま、どうしたって訪れてしまう明日にただ立ち向かう彼女たちが。

 寂れたリゾートマンションで休暇を過ごすことになった夫婦を描いた「蟹」、息子の不可解さに呑み込まれる母親を描いた「幼虫」、火に魅せられた女の一人語りである「水位」、思うように動けなくなった老女の淡い記憶をたどる「どんぶらこ」、この世に未練を残したままの孤独な女性が回想する「空いっぱいの青いクジャク」、一人きりで観覧車に乗り込んだ女子高生があれこれ思いをめぐらす「私がそこに還るまで」、草のエキスを作るために野草を集める都会からやってきた女とそれを見守る男の物語である「山日和」。どの物語の女たちも皆決して自分を偽らないで、自分なりの軸のようなものを持っている気がする。不穏な空気で終わるものもあれば、かすかな希望を抱かせるものもあるから不思議だ。

 とりわけわたしが印象的だった「空いっぱいの青いクジャク」の女性は、ひたすらに一人の男性のことを思い続ける。あまりにもひそやかに。そっと。ずっと。あまりにも孤独に生きる彼女のひたむきな生き様に希望を与えているのは、ほんのわずかばかりのやわらかな思い出だけである。それが悲しくて、切なくて、愛おしくて。けれど、光には違いなくて。ただただ、じんとくる。次々とやってくる明日に耐えることを知らない。どうにもできない。そして、きっとそれはどうしようもない。この世界は手の届かないものに満ち溢れていて、やわらかであたたかな光は限られたところにしか射すことを知らない。その厳しい現実を垣間見てきた彼女の生き方、その苦しさはひどく心を打つのだった。

 また、表題作の「私がそこに還るまで」も印象深い。冴えない女子高生の少女が一人きりで、お小遣いを使い果たすまで観覧車に乗り続けながら語りはじめる。何かと口うるさい母親のこと、親友と思っていた不登校になってしまった友だちのこと、忙しない日常のこと、自分が抱えている誰にも相談できないこと…などなど。観覧車の上昇と共に、地上にあった自分が剥がされてゆく感じがする少女。そして、運命や力の強弱はおのずと決まっていて、どうしたって変えようがない気がしてしまう。けれど、観覧車もいつかは下降する。失望と安堵感とがいっしょくたになって、彼女を地上へとゆっくり戻してゆく。彼女の還るところ。それはある意味、彼女なりの決意の表れなのかもしれない。

4104709018私がそこに還るまで
新潮社 2004-10-28

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2009.09.17

春のオルガン

20090916a_002 大人になってしまえば、不思議と少女の頃のすべてがきらきら煌いて見える。どんな大人になるのだろうか。どんな将来が待っているのだろうか…そういった戸惑いや悩みの、何もかもが愛おしいほどに煌く。もちろん、大人になってもその先の将来はどうなるのかわからない。わからないからこそ、人生は未知の可能性を秘めている。わたしはそんなふうに思う。湯本香樹実著『春のオルガン』(新潮文庫)は、子どもから大人へと変わってゆく少女の戸惑いをつぶさに描いた物語である。さまざまなものに怯え、悩み、少しずつまだ見ぬ世界に一歩を踏み出そうとしている少女。揺れ動く12歳という微妙な年頃の少女の、濃密な春休みの日々が鮮明に紡がれ、爽快な余韻を残してゆく。

 小学校を卒業したばかりの春休み、主人公のトモミは自分が怪物になってしまう夢をみる。馬鹿にされて恐れられて、雄叫びを上げる怪物である。そんな奇妙な夢に怯えながら迎えた春休み、本好きで博識な弟のテツと一緒に過ごすある日、通りがかりの見ず知らずの男に胸をさわられてしまい怯えるトモミ。けれど、隣の家との争いや夫婦喧嘩でぎくしゃくする家を離れて、トモミはテツと共に外の世界をさまよい歩く。そこで、ノラ猫に毎日餌を与えるおばさんと出会い、少しずつ何かが変わってゆく。姉弟を取り巻く環境は、決して心地よいものではなく、行き場のなさがひしひしと伝わってくるけれど、それでもトモミたちをあたたかく見守る人たちがいて、どこか救われる気持ちになる。

 中でも、トモミとテツが家には帰らないと決め込んで、壊れたバスの中で暮らそうとする場面が忘れがたい。いつもは咳き込みながらも納戸を片付けて廃品同然の物を執拗に修理し続ける頑固な祖父が、あたたかな毛布を持ってバスにやってくるのだ。怒るわけでもなく、連れ戻そうとするわけでもなく、ただ寄り添って、子どもの頃の話を聞かせてくれる。説教でもなく、何かを示唆するわけでもない。けれど、そこでトモミは祖母の死について、はじめて祖父と話すのである。苦しむ祖母を見て、もう死んだほうがいいと思ったことを。そんな幼いながらに抱え込んでいた大きな苦しみを吐き出して、トモミは少し大人としての一歩を進んだに違いない。そして、祖父もまた別の意味で安堵したことだろう。

 また、ノラ猫に毎日餌を与え続けるおばさんとの交流の中で、どうしようもないことがあることを知るトモミ。“どうしようもないかもしれないことのために戦うのが、勇気ってもんでしょ”という、おばさんのガラガラ声が印象的だ。大人の事情に振り回されてきたこれまでのことを、そっと許そうと思えてくるあたりが、成長の証だろう。精神的に不安定な母親のことも、ほとんど家に帰ってこない父親のことも、頑固一徹の祖父のことも、威圧的な隣のおじいさんのことも、すべてを受け入れようと。自分を含めて誰もがいびつで、誰もが何かに怯えながら、それでも生きていかなくちゃならない。いいや、生きてゆくのだ。トモミの新しい一歩が、確かなものとして明日へと繋がっていけばいい。

4101315132春のオルガン (新潮文庫)
新潮社 2008-06-30

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2009.09.16

女中譚

20090916_004 自由気ままに昭和の時代を渡り歩いてきたかのように見える、ある一人の女中の人生。けれどそこには、何ひとつ夢も希望も叶えられない、もの悲しいさだめがあった。女中であるがゆえに、誰かに寄り添い慕い仕える姿。それはただ悲しいだけじゃない、女中としての幸せ。過去をたどって見えてくるのは、幸福に満ちた思い出ばかりなのだった。中島京子著『女中譚』(朝日新聞出版)は、現代の秋葉原のメイド喫茶に常連として入り浸る“オスミおばあさん”が、誰とはなしに語る女中女給時代の話を綴ったもの。これは、昭和初期に人気があった林芙美子、吉屋信子、永井荷風による女中小説からのトリビュート作品を、現代によみがえらせる連作小説集である。

 林芙美子の「女中の手紙」をもとに描かれる「ヒモの手紙」では、女給をしていた澄が、女と駆け落ちしてきて東京に逃げてきた男・信作と知り合う。信作は女を騙して売り飛ばし、さらに金を搾り取ろうと澄に女への手紙の代筆を頼む。信作を信じて止まない女に罪悪感を覚えながらも、次第に信作に魅力を感じ始める澄。揺れる女心が切なく胸に響く。吉屋信子の「たまの話」をもとに描かれる「すみの話」では、独逸から帰国した医師の屋敷に奉公している、すみ。混血の少女・萬里子の世話をすることになるものの、萬里子は以前いた女中のことを懐かしむ。ある時、すみは件の女中の消息を知るものの、何もできない自分を思い知る。また、萬里子とのエロティックな一夜が何とも印象深く残る。

 永井荷風の「女中の話」をもとに描かれた「文士のはなし」では、麻布の洋館に住んでいる変わり者の物書き先生のところに女中に出た、すみ。ほとんど仕事をする必要もなく、時間を持て余していた。一見、楽そうな生活に思えるが、誰とも接する機会のないすみは、夜な夜なこっそりと舞踏練習所に通い踊り子を目指すことにするのだった。この変わり者の物書きというのが、どうやら永井荷風らしく思えて、そのあたりのところも物語のおかしみのエッセンスとなっている。また、気まぐれに出て行ったかと思うと、ひょっこり現れるすみに対しての物書き先生のあたたかい人柄が何ともいい。困った時に頼る相手がこの先生以外いないあたりが物悲しい気がして、ほんのりと切なくなってくる。

 オスミおばあさんの人生は、流れ流れてどこまでも流れて。その終着駅は一体どこになるのだろう…とふと考える。老いてなお、通い続ける秋葉原のメイド喫茶が案外好きだという彼女だが、昔の女中と今のメイド喫茶のメイドとは、大きく異なるに違いない。そこには、どちらがどういいとか悪いとかはなく、やはり時代というものがそうさせたとしか言いようがない。時代は流れ、変わってゆく。その変化の中で、人間の業と欲が鮮やかに浮かび上がるのが生きてゆくということなのかもしれない。そして、物語の端々に散りばめられたユーモアあってこその、この物語なのである。魅力的な女中の物語は、したたかに時代をくぐりぬける女の生き様をも指し示していると言ってもよいだろう。

402250627X女中譚
朝日新聞出版 2009-08-07

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2009.09.09

あの子の考えることは変

20090907_014 結局のところ、わたしたちは自分以外の人間の孤独を理解することはできないのかもしれない。でも、できないからこそわかろうとして寄り添い合う。なけなしの想像力で誰かのことを思う。そんな気持ちが孤独をそっと包み込む気がする。ほんの一瞬でも繋がっていることができるのなら、それだけでいいとすら思うほどに。本谷有希子著『あの子の考えることは変』(講談社)は、ルームシェアする女性二人の奇妙で身につまされる心情が綴られている一冊である。23歳の抱える孤独、苦悩、性的コンプレックスなどなどを赤裸々に描き、タイトルどおりに変だと思いきや、読んでいるわたしたちも誰もが皆変であると認めざるを得なくなる展開が待っている。何とも奇妙な物語である。

 語り手である巡谷は、Gカップの胸を自分の唯一のアイデンティティにしている23歳のフリーター。アパートの同居人である日田は、自分は臭いと信じる自称・手記家の23歳の処女。ゴミ処理場から出るダイオキシンと自分の臭いに異常な執着を見せ、処女コンプレックスに囚われて、外見をまったく気にしないでいる日田のことを、常々変人であると思っている巡谷。だが、日田から見れば、巡谷の男への異常な執着や突然気がふれそうになる瞬間があることは変人極まりない。この相当に変人な二人のテンポいい会話に引き込まれるうちに、二人を抑圧してきたものの正体を思うと、もしや自分も彼女たちとなんら変わらぬ変人なのかもしれない…と思考し始めるから不思議である。

 中学時代から同級生だった二人。同じ上京組としてたまに連絡を取り合う程度の仲だった二人が、なぜ引き寄せられたのか。読み進めるほどに、二人の孤独感が浮き彫りになってくる。一人称小説ゆえに、もちろん“あの子”とは日田のことを指すのだが、よくよく読んでみるほどに、語り手の巡谷こそ“あの子”なのかもしれないと思えてくる。そう、あの子とは、読み手のわたしたちも含めたすべての人を指すとも言える。皆それぞれに変な部分を抱えて、自分が正しいと生きている。その正しさこそ、変に違いないのである。そもそも、何が普通で何が変なのか、その境界は曖昧なもの。わたしの信じる正しさは、きっと誰かにとっては変に値することなのかもしれないのである。

 物語はあっけらかんとコミカルなタッチで描かれているが、巡谷も日田も23歳なりに精一杯悩んでいる。その悩みの大きさには差こそあれ、誰もが悩みながら生きていることを考えれば、わたしたちの誰もが二人に通ずる何かを多少なりとも持ち合わせていると言えるだろう。誰もが少しずつ変で、少しずつ自分勝手で、少しずつ正しい。そんなわたしたちが少しずつ寄り添って、少しずつ思い合って、少しずつその孤独を癒せたら、それで充分。そうして、誰かの孤独とわたしの孤独とが少しずつやわらげばいい。結局のところ、自分以外の人間の孤独を理解することはできなくても、少しずつでいい。ほんの少しでも、ほんの一瞬でも繋がることができたなら、それで充分なのだ。

4062156385あの子の考えることは変
講談社 2009-07-30

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2009.09.08

大きな木のような人

20090907_026jpg_effected 木々はわたしたちを包み込む。何百年もの間地面に根を張って息づき、そよそよと風に揺れながら見守ってくれている。言葉などなくても、いつだってやさしい。いつだってあたたかい。いつだって寄り添ってくれる。木々の存在は慰め。そして救いでもある。“人はみな心の中に、1本の木をもっている”という言葉が印象的に響く、いせひでこ著『大きな木のような人』(講談社)。美しい木々の緑に思わずため息がもれるほどに魅了された。確かにいつか見たはずの緑。親しみ感じる緑。でも、それだけじゃない。ぬくもりがあるのだ。樹齢何百年もの貫禄ある木々も花々もどれもこれもがやわらかな水彩で描かれ、心によく馴染む。何度も読み返したくなる素敵な一冊である。

 物語の舞台はパリの植物園。さえらという少女は、スケッチブックを手にして植物園に通っている。ある日、おじいちゃんの誕生日プレゼントにしたいと、植物園の黄色い花を引き抜いてしまう。そんな少女に植物学者は怒るでもなくひまわりの種を与え、さえらは大切に育てるのだった。植物学者は植物園を案内したり、植物の不思議さや魅力をさえらに語りかけたりする。すると、さえらの心にも小さな芽が育ち始める。ちょうどさえらが育てたひまわりのように。季節の移り変わりとともに様々な表情を見せる植物園の様子とさえらの心の変化をやわらかに淡いタッチで描いてゆく。さえらの好奇心と興味の広がり、植物に対する植物学者の思いなどなど、読むたびに発見がある。

 だが、夏が終わろうとする頃になると、さえらは無口になっていった。日本に帰ることになったのである。植物学者はそんなさえらにプラタナスの木を背にして語りかける。“きみは、じょうずにひまわりを育てただろう。ひまわりは、きみの心の中にしっかりと根をおろしたんだよ。ごらん、このプラタナス、250年もここで根をはってきた”と。見開きページを縦に使って描かれた大胆な構図のこの場面はとても印象深く残る。そして、静かな余韻を残してゆく。うつむき加減のさえらを包み込むような大きなプラタナスの木。250年という長い年月がこの木を逞しくしたことを思い知る場面でもある。出会いも別れも喜びも悲しみも、すべてを受け止めてひたむきに生きる姿があったと。

 一人の少女の心の成長と偉大な木々とそっと見守ってくれている植物学者。なんとも素敵な関係である。穏やかな特別な時間が流れていたのだな…そんなことを思う。さえらという少女がどんな大人の女性へと変わってゆくのか、とても楽しみになってくる。ちなみにこの“さえら”という少女の名前は、フランス語では“あちこち”という意味だそう。植物園のあちこちに出没して、植物学者や庭師をてこずらせる“さえら”=“あちこちちゃん”。物語にぴったりの名前だと思う。さえらが育てたひまわりの種を、今度はどんな子どもが育てるのだろうか。第二のさえらがあちこちに出没して、たくさんの芽を育てて欲しいものだ。そのときはプラタナスの木がきっと守ってくれる。

406132392X大きな木のような人 (講談社の創作絵本)
講談社 2009-03-19

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 ≪いせひでこの本に関する記事≫
  ・『ルリユールおじさん』(2007-08-30)


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2009.08.16

ジュールさんとの白い一日

20090726_021 確かに存在していた者の死を、死として、ありのままに受け入れること。その難しさや、その過程がどうめぐっているのか…ということを、深く考えさせられる一冊と出会った。ダイアナ・ブロックホーベン著、オルセン昌子訳『ジュールさんとの白い一日』(赤ちゃんとママ社)という本である。わたしたちには余計な感情が多過ぎる。ときとして、物事をありのままに受け取るという、その単純さが救いとなることもあるのだ。余白の多いわたしたちの思いは、幾度も重なり合い、ぎゅうぎゅうに感情を押し込める。そして、感じることもままならないほどに、分厚く押し重なった日々の記憶に押しつぶされそうになってしまう。きっと、余白などないほうがよいこともあるのだろう。そんなことを思わせる。

 ある雪の日にアリスが目覚めると、夫のジュールが居間のソファーで死んでいた。突然の夫の死に動揺するアリス。けれど、生前の夫との数々の出来事を丸一日かけて清算してゆこうと儀式のような一日を続行させる。そんな中登場するのは、一人の少年ダビット。自閉症の彼は、休日になるとジュールと一緒にチェスをするのが日課となっていた。おりしも今日はまさしく、彼がチェスをしにやってくる日。思いがけない一日にリアリティを感じさせる、ダビットは不思議な存在感を放ち、静かに目の前にあるものを認めさせてくれる。溢れんばかりの感情を冷静に受け流すことができるのは、彼の存在あってこそのものだ。死を死として、ありのままに受け入れること。その不思議をつぶさに描いている。

 この物語の中で自閉症という障害は、死というものをありのままに受け入れる冷静さをくれた。単純明快なことだけを受け入れる余力だけあれば、本当はそれだけで充分なのかもしれないとさえ思わせた。複雑に絡み合う感情を持っていないこと。それは、事実を事実として受け入れる強さをくれた気がする。何事も複雑にして感情を絡めて考えるわたしたちの思考とは、異なったそれ。けれど、見失ってはいけないものをしっかりと見つめる力をくれたそれ。最小限のそれは、ときとして有効に活躍してくれた。どうかすると揺れ動いてしまう感情を許さずに、よい意味でのストッパーになってくれたのである。きっと、雪に閉ざされた一室での出来事が、こんなにも愛おしく思えるのにも役立ったはずである。

 そう、わたしたちには余計な感情が多過ぎるのだ。ときとして、物事をありのままに受け取るという、その単純さが救いとなることもあるのだ。余白の多いわたしたちの思いは、幾度も重なり合い、ぎゅうぎゅうに感情を押し込める。そして、感じることもままならないほどに、分厚く押し重なった日々の記憶に押しつぶされそうになってしまう。きっと、余白などないほうがよいこともあるのだろう。ジュールとの日々がそうであったように、わたしたちの日々にもまた、同じようなことが言えるかもしれない。事実を事実として受け入れる強さを、死というものをありのままに受け入れる冷静さをもたらしてくれたわたしたちの心に感謝する。いつ訪れるか知れないその死や痛みを、複雑にしないよう願って。


ジュールさんとの白い一日

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2009.08.12

静子の日常

20090726_007 取るに足りないこと、たわいないこと、ばかげたこと、そういったものたちは、ずばりわたしたちの日常そのものである。けれどそんな日常は、裏を返せば様々な痛快な事象に溢れている。取るに足りないことも、たわいないことも、ばかげたことも、何もかもすべてが、たくさんのおかしみを含んでいるのである。それに気づくか気づかないかは自分次第、わたし次第というものに違いない。その日常をどれだけ楽しめるかはわたしたちにかかっていると言っても言い過ぎではない。井上荒野著『静子の日常』(中央公論新社)は、老齢の静子を中心に、日々の取るに足りないこと、たわいないこと、ばかげたことを綴った物語。何しろ、広辞苑で“ばか”を一寸引いてみるところからはじまる物語なのだ。

 物語の中心となる静子は長年連れ添った夫に先立たれた75歳の女性。おちゃめな彼女は“おばあちゃん”と言われるように老いてもなお、思わぬところで注目を集めたり、信頼を得たり、フィットネスクラブで水泳を習ってみたり、息子の婚外デートを阻止してみたり、孫娘の淡い恋の応援だってしてみたりするのだ。そして、息子の嫁とはいい距離感を保って接してもいる。嫁と姑という関係でも、普通とは一寸違う。不思議な独特の方法で互いに互いを尊重し、認め合っているのである。信頼関係あってこその、さりげない関係と言えるだろう。そのさりげなさが、何とも自然で素敵なのである。押し付けがましくなくて、本当に一寸いい感じ。そんな静子さんの日常が展開してゆくのである。

 そんな取るに足りない、たわいない、ときにはばかげた日常の中でも、一寸ドラマチックな展開も待っている。静子さんが長年会うことを避けてきた男性と再会するのである。若い娘じゃないから、もうときめいたりなんてしない。決して、恋ではない。けれど、ずっと思い慕い続けてきた人物であることは確かである。チャーミングな静子さんのすることだから、それはもう素敵な、ある意味潔い結末が待っているのだけれど、取るに足りないと言われればそうであり、たわいないと言われればそうであり、ばかげていると言われればそうなのかもしれない。わたしたちの日常とそれほど変わらないと言われれば、そのとおりなのかもしれない。そう、日常なんてそんなもの…と思わせるのだった。

 けれど、日常の細かな事象に目を向けてみれば、だいたいそんなものではないだろうか。何かが過剰だったり、何かが足りなかったり、満たされるだけの日常なんてあり得ないのだ。だから取るに足りないことやたわいないこと、ばかげたことに夢中になる。どきどきしてみたりもする。笑ったり、泣いたりもするのだ。静子さんはそれを見過ごすことなく、痛快に切り取って見せてくれる。ほうら、この感じ、いいでしょう?あなたも知ってるのじゃないかしら?こんなこと思ったり感じたりしたこと、あるのじゃないかしら?そんなふうに静子さんがそっと囁いているような気がしてならない。そして、同時に思う。こんな75歳、いいなぁって。だっていろいろあって悩ましくも、とても素敵なんだもの。

4120040461静子の日常
中央公論新社 2009-07

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