54 湯本香樹実の本

2009.09.17

春のオルガン

20090916a_002 大人になってしまえば、不思議と少女の頃のすべてがきらきら煌いて見える。どんな大人になるのだろうか。どんな将来が待っているのだろうか…そういった戸惑いや悩みの、何もかもが愛おしいほどに煌く。もちろん、大人になってもその先の将来はどうなるのかわからない。わからないからこそ、人生は未知の可能性を秘めている。わたしはそんなふうに思う。湯本香樹実著『春のオルガン』(新潮文庫)は、子どもから大人へと変わってゆく少女の戸惑いをつぶさに描いた物語である。さまざまなものに怯え、悩み、少しずつまだ見ぬ世界に一歩を踏み出そうとしている少女。揺れ動く12歳という微妙な年頃の少女の、濃密な春休みの日々が鮮明に紡がれ、爽快な余韻を残してゆく。

 小学校を卒業したばかりの春休み、主人公のトモミは自分が怪物になってしまう夢をみる。馬鹿にされて恐れられて、雄叫びを上げる怪物である。そんな奇妙な夢に怯えながら迎えた春休み、本好きで博識な弟のテツと一緒に過ごすある日、通りがかりの見ず知らずの男に胸をさわられてしまい怯えるトモミ。けれど、隣の家との争いや夫婦喧嘩でぎくしゃくする家を離れて、トモミはテツと共に外の世界をさまよい歩く。そこで、ノラ猫に毎日餌を与えるおばさんと出会い、少しずつ何かが変わってゆく。姉弟を取り巻く環境は、決して心地よいものではなく、行き場のなさがひしひしと伝わってくるけれど、それでもトモミたちをあたたかく見守る人たちがいて、どこか救われる気持ちになる。

 中でも、トモミとテツが家には帰らないと決め込んで、壊れたバスの中で暮らそうとする場面が忘れがたい。いつもは咳き込みながらも納戸を片付けて廃品同然の物を執拗に修理し続ける頑固な祖父が、あたたかな毛布を持ってバスにやってくるのだ。怒るわけでもなく、連れ戻そうとするわけでもなく、ただ寄り添って、子どもの頃の話を聞かせてくれる。説教でもなく、何かを示唆するわけでもない。けれど、そこでトモミは祖母の死について、はじめて祖父と話すのである。苦しむ祖母を見て、もう死んだほうがいいと思ったことを。そんな幼いながらに抱え込んでいた大きな苦しみを吐き出して、トモミは少し大人としての一歩を進んだに違いない。そして、祖父もまた別の意味で安堵したことだろう。

 また、ノラ猫に毎日餌を与え続けるおばさんとの交流の中で、どうしようもないことがあることを知るトモミ。“どうしようもないかもしれないことのために戦うのが、勇気ってもんでしょ”という、おばさんのガラガラ声が印象的だ。大人の事情に振り回されてきたこれまでのことを、そっと許そうと思えてくるあたりが、成長の証だろう。精神的に不安定な母親のことも、ほとんど家に帰ってこない父親のことも、頑固一徹の祖父のことも、威圧的な隣のおじいさんのことも、すべてを受け入れようと。自分を含めて誰もがいびつで、誰もが何かに怯えながら、それでも生きていかなくちゃならない。いいや、生きてゆくのだ。トモミの新しい一歩が、確かなものとして明日へと繋がっていけばいい。

4101315132春のオルガン (新潮文庫)
新潮社 2008-06-30

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2008.07.12

くまとやまねこ

20080704_020 どうしたって朝はやってくる。明けない夜がないように。降り止まない雨がないように。そして今日の日を生きるわたしたちは、忙しさにかまけて“きょうの朝”が何よりも特別だということを忘れがちだ。共に過ごす誰かが、もしかしたら明日の朝にはいないかもしれないということに。死。それは突然ふいにやってくる。大切な誰かのもとへ。或いは見知らぬ誰かのもとへ。湯本香樹実文、酒井駒子絵『くまとやまねこ』(河出書房新社)は、ある朝大切なことりが死んでしまい、打ちひしがれたくまが、やまねこと出会ったことにより、新たな一歩を踏み出してゆく、という物語。テーマとして描かれる喪失と再生。時間の流れと共にこころがほどけてゆくのが印象的である。

 最愛の友だちであることりを亡くしたくまは、その亡骸を小さな箱に入れて持ち歩くようになった。すると、森の動物たちは箱の中身を知りたがる。そして、たいていは困り顔で諭すように言うのだ。“つらいだろうけど、わすれなくちゃ”と。いとも簡単に死の悲しみを乗り越えろと。そうしていつしか自分の殻に閉じこもるようになるくま。それでもやがて少しずつ歩き出したくまは、やまねこと出会う。このやまねこもまた、大切な人を失った悲しみをよく知っていたのだろうか。くまは、やまねこの誠意ある言葉とバイオリンの音色に、ことりとの日々を思い出し、はじめて救われるような心地になったのだった。その歩みはゆっくりでも、確かな一歩である。

 この物語を語る上でかかせないのが、酒井駒子さんの絵だ。この方の絵は、黒を印象的に使っているイメージがわたしにはあるのだけれど、この『くまとやまねこ』では、その黒の表情が際立っているように思える。くまの悲しみ。くまの孤独。くまの物思いに耽る姿…などなど。そして、ことりとの思い出を回想する場面などでは、黒の差し色としてのピンク色が煌めいているのである。そのピンクを見たとき、ああ、なんて愛らしいんだろうと思わずにはいられなかった。そして、くまのことりへの深い深い愛情をも感じずにはいられなかった。そうして、ことりの言葉を思い出す。“ぼくはきのうの朝より、あしたの朝より、きょうの朝がいちばんすきさ”と。

4309270077くまとやまねこ
湯本 香樹実
河出書房新社 2008-04-17

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2008.06.30

西日の町

20070409_014 記憶の片隅をぢんと刺激された心地になって、今は亡きあの人のことを考える。あの人を憎みながらも最期を看取り、それでもいつまでもいつまでも大粒の涙をこぼし続けた母の姿を思い出すのだ。そうして、この頃あの人の面影がありありと表れはじめたわたしに、ふっと今なお消えぬ憎悪の塊を吐き出したりする。それはちょうど、湯本香樹実著『西日の町』(文春文庫、文藝春秋)で描かれる、父親と娘の、憎しみと愛情の入り混じった関係と、それを見守る孫であり息子である僕の姿に、よく似ているような気がしてならない。もちろん、細かな部分は異なっているし、あの人は母にとって義父ながら、実の父親以上の愛情と憎しみをそそいでいたように、わたしには映ったのだったが。

 物語は、北九州の町に流れ着いて暮らす、若い母と十歳の息子のもとへ、母親の父親である「てこじい」が転がり込んでくるところから始まる。それ以来、てこじいは部屋の隅でうずくまったまま、夜になっても決して横になることもない。母親は、てこじいを邪険に扱ったかと思えば、食卓に好物を並べて、戸惑いを隠せない。かつて家族を置いたまま無頼の限りをつくしたてこじいの語る話に、しだいに惹かれてゆく僕。謎めいた祖父と、何やら秘密を抱えた母。複雑に絡み合い、よじれた思いが交錯するとき、物語は忘れ得ぬ時間をぱっと鮮やかに見せてくれる。また、著者の作品に共通して見られる子どもと老人の対比は、若い生と消え逝こうとする生の出会いの儚い煌めきを感じさせる。

 人の最期を看取る、ということ。看取られる、ということ。その両者の間にある独特の関係性を、わたしはよくわからない。死を見送るという儀式めいたことは経験してきたものの、それはあくまでも死を着飾ったものでしかなかったような気がするのだ。物語に始終漂う死臭のようなもの、そして後半部分に描かれるてこじいの病に冒されてゆくさま。それは、わたしがあの人から目を背けた分だけ、じりじりと迫り来るような気がしたのだった。そうして、改めて母の強さを思い知る。母の大きさを思い知る。この頃あの人によく似てきたわたしをも、やわらかに包み込もうとするその心の深さを思い知るのだ。あの人はもういない。今となっては当たり前になった事実が、何だか妙に悲しい。

4167679590西日の町 (文春文庫)
湯本 香樹実
文藝春秋 2005-10-07

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