54 矢川澄子の本

2008.07.24

兎とよばれた女

20070421_040 痛々しいまでに、ただ待つこと。ただ従うこと。そうして、誰かを乞い続ける。その思いは、どこかまっさらな純粋さをこえてある種の怖ささえ秘めている。今ある世界を頑なまでに守り続け、未知の領域に恐れ入る。それは、物語の世界ではなく今を生きるわたしたちだって同じことだが、矢川澄子著『兎とよばれた女』(ちくま文庫、筑摩書房)に描かれる世界は、どこまでもわたしに広い世界というものに対する怯えを痛感させた。兎を主人公とするこの物語は、目には見えない神と呼ばれる存在に対する、切なる思いが中心に描かれている。絶対的な愛を信じつつも、悩み、不安になり、戸惑う。兎の切実なる思考は、狭い世界の中でも豊潤な煌めきを放っている。

 この物語について書くことは、とても難しい。それは、その構成が二重三重にも入れ子構造になっているからだ。歪みに歪んだ時間軸は、どう解釈すればよいのか読者をときとして戸惑わせるし、序章に登場する女の昔話として兎の物語を読んだらよいのか。或いは、兎の物語と序章は別物としてとらえればよいのか。途中で兎の前に差し出される、かぐや姫に関するノートについては、一体どんな解釈ができようか、と。また、後半部分の著者自らに対する批評めいた文章を読むと、さらに混乱をきたすのである。だが、それでも、この物語は、ひどく魅力的にわたしの中にすうっと入り込んできた。まるで、自分が兎のように誰かの絶対的な存在を信じて、あれこれ思い悩むみたいに。

 今ある世界を捨て去ること。それはとても困難だ。得るものがあれば失うものがある。許容量をこえてしまえば、それは当然のこととしてある。物語の兎が、今の状態を捨て去ることができずに、未知の領域に足を踏み入れることができないのと同じように。また、生まれ落ちたときからわたしは“女”であるということについても、考えさせられた。おとなしく運命や時の流れに自然に従って、ここに在るわたし。あなたでもなく、ただひたすらにわたしとして存在していることについて。女という人種がひとりきりで生きることは難しい。気張ってみても、虚しいあがきで終わってしまう。誰かのあたたかな、或いはは厳しい支えあってこその、女。本物の女になれる。そんな気がしたのだった。

448042444X兎とよばれた女 (ちくま文庫 や 3-2)
矢川 澄子
筑摩書房 2008-05-08

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 ≪矢川澄子の本に関する過去記事≫
  『受胎告知』(2006-04-05)

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2006.04.05

受胎告知

20050407_006 わたしは今、奇妙な心地に包まれている。その正体を知るすべもなく、ただモヤの中を手探りで進む迷い人のようだ。ポール・ギャリコやルイス・キャロル、アナイス・ニンなどの訳者として知られる、矢川澄子著『受胎告知』(新潮社)に対するわたしの率直な感想は、そんな感じである。収められた3つの作品は、どれもイタリアと深い関わりを持ち、もがき足掻く人々を思わせる。どこか均衡の危うい人々は、文章に満ちる神秘と謎に彩られて、美しくも悲しくも感じられる。なんとも不思議な心地なのだ。著者没後に出版されたこの作品は、限りなく著者の分身に近いとされているらしく、興味をふつふつとわかせるものだ。わたしの拙いすべをフルに用いてでも、探ってゆくしかないとさえ思わせる。

 まずは「ファラダの首」から。イタリアにある、こぢんまりとした骨董屋が舞台である。そこを訪れた日本人旅行者が、ウィンドに飾られたチェス駒のことを店主に訊ねるのだ。ちょっとしたいたずら気から、予想される価格よりもゼロを多く言い、まことしやかにあることないこと語ってみた店主。それゆえなのか偶然なのか、旅行者の中の老婦人はへなへなと倒れこんでしまう。そんな些細な出来事は、忘れた頃に奇妙なものへと変化する。夢と幻想に覆われて、読後のモヤは心地よい余韻を残す。老いてもなお、忘れ得ぬものがあること。少女として。乙女として。やはり女として…そう思わずにはいられない。死を迎えるまで、わたしは少女であり、乙女であり、女なのである。

 続いては、表題作「受胎告知」。これは、恵のモノローグ、牧子のモノローグ、秀介のモノローグの3つからなる物語。3者それぞれの独白は、少しずつ密やかに繋がりを感じさせる展開で、はっとさせられる言葉がいくつも散りばめられている。父と子。その、或るかたち。物語全体としたら、わたしはそれを一番に思う。父と知らずに。父という枠組みを超えて。そして、あちこちに横たわる人間としての悲劇。さらりと描かれる物語の中には、深い根が張り巡らせてあるのだ。人はみな、この世に生まれ落ちたときから、いや、それよりもずっとずっと前から、悲しみを背負っているものなのかもしれない。だからこそ、それ以外のものだって背負っているのだろう。

 最後に「湧きいづるモノたち」。父親の死後、母親が鬱病を抱え、その介護に疲れた主人公が、求めていた人と出会い、悩みながら旅する物語である。一対のものとして捉えていた両親を、一人として感じるまでに至る思考。母と自分との相違。生まれ育った境遇。心の拠り所。それらのものを省みて、もがき足掻いて進もうとする姿は、ひどくわたしを惹きつけた。わたしの思い描く正しい人間の姿が、“まさにここにあった”というべきかもしれない。大きなモノと、イタリアという地で目にしたモノ。わかりやすいカタチをしたモノたちは、ゆっくりと、でも確実に、主人公の心を埋めてゆく。きっと、わたしの心もいつかは必ず埋まるだろう。そんなふうに思わせてくれるのだ。

4103278048受胎告知
矢川 澄子
新潮社 2002-11

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