47 堀江敏幸の本

2007.11.02

雪沼とその周辺

20061108_034 やわらかな瞬間が何度でも訪れて、現在から過去が透けゆく。そうっと。穏やかに。そうして、遠い記憶の彼方へと追いやられていた思い出の数々は、そこからふっと鮮やかに甦るのだ。ほろ苦くも優しく、あたたかに人々を包み込んで。堀江敏幸著『雪沼とその周辺』(新潮文庫)は、何も畏れず何も脅かすことのない、雪沼という町を舞台に展開してゆく。どこか親しみと、懐かしさとを感じさせながら。劇的なことなど何も起こらない。ただ起こるのは、過去と現在からの流れを掬い取ったように感じられる、ささやかな変化ある未来だけだ。それは、忙しく日々を生きるわたしたちが忘れている、あるべきはずの人の営みを思わせるのだった。

 人の営み。もちろん、どの営みにしたって、誰の営みにしたって、営みには違いない。だが、この雪沼の人々の営みは特別なもののように思うのだ。雪沼。その町は、どこか時代の流れから避けるようにして、在る。そして、雪沼の人々が愛するのは、昔からの使い慣れた道具たちである。ステレオ装置だったり、ダンボール裁断機だったり、最初期モデルのピンセッターだったり…。人々は道具を慈しむように使い、磨かれた道具はそれに応える。どうかすると、道具に使われかねない現在とは、異なる関係性がそこにはあるのだった。その関係性を思うとき、人間がはじめて道具を使い始めた瞬間からの、深い重みのようなものを感じずにはいられなかった。

 また、この作品。関係性でいうならば、淡い人間関係で繋がっているところが印象的だ。収録されている7つの作品の共通項は、雪沼を舞台にしている、ということぐらいであるが、人と道具との密接な関係性に対して、この淡さは人という生き物を象徴しているように思うのだった。そして思わずこの淡さから、雪沼という町の大きさや人々の繋がり、町並みなどを想像してしまう。すると、見知らぬ町だった雪沼が、ぐっと近くに感じられ、親しみや懐かしさが込み上げるのだ。もちろん、雪沼の人々の関係性は、希薄というのではない。無関心だというのとも少し違う。つかず離れずの、ちょうどいい心持ちでいられる、きっと理想的な人間関係なのであろう。

4101294720雪沼とその周辺 (新潮文庫 ほ 16-2)
堀江 敏幸
新潮社 2007-07

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2007.07.31

いつか王子駅で

20070520_033 あたたかくやわらかなぬくもりに包まれて、ゆうるりとした日常を感じていた。抑制の効いた文章から滲み出る情感は、時の狭間に埋もれそうになるいくつもの光景を甦らせ、至福の時を与えてくれるのである。そして、愛すべきもの、懐かしい日々、いつまでも大切にしたい記憶の数々を回想することができる。堀江敏幸著『いつか王子駅で』(新潮文庫)は、印鑑職人の正吉さんと偶然に知り合った時間給講師の<私>を語り手にした作品である。正吉さんは、大切な人に印鑑を届けるといったきり、さっと姿を消してしまう。<私>は、正吉さんの置き忘れたカステラの箱を手に、さまざまなことに思いをめぐらせながら、路面電車の走る下町の生活を語ってゆく。

 <私>の語る下町の暮らしには、古書、童話、昭和の名馬たちが何度も登場する。とりわけ、昭和の名馬たちについての回想ではスピード感が溢れていて、きゅっと身が引き締まる思いがする。<私>の教え子の一人である咲ちゃんの走りと、名馬のレースを重ね合わせる場面では、さらにスピード感が増し、ぐいっと前のめりになってしまうくらいである。その語りは、まさに競馬中継のそれとよく似ていて、レースの臨場感と熱気とを読み手に真摯に伝えてくれる。もちろん、その端々には人間の内面も外面も、流れゆく風景までも描かれている。はっとするほどの美しさに、呑み込まれそうになるほどのスピードで。何とも爽快な語り口なのである。

 それから、文学についての語りも見逃せない。今日ではあまり馴染みのない作家、島村利正、安岡章太郎、徳田秋声などの文学の解釈について語るのである。中でも、咲ちゃんの宿題に出てくる安岡章太郎の「サアカスの馬」については、その内容から相応しいタイトルを考えるという難問が出題される。元々タイトルを知っていた<私>と新たなタイトルを考えた咲ちゃんが、肩を並べて語る様子は、なんだか妙に可笑しくて印象的である。そして驚かせられる。文学と現実とがこんなにも結びつきを感じさせるものなのか、と。濃くも淡く、淡くも激しく寄り添って、ゆるやかにもスピード感顕わにも流れる時間は、とてつもない魅力を秘めていたのだ。

4101294712いつか王子駅で (新潮文庫)
堀江 敏幸
新潮社 2006-08

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2005.03.13

熊の敷石

IMG_0059tokigure 2001年の芥川賞受賞作である堀江敏幸著『熊の敷石』を読んだ。初めて読む作者なので、少々ドキドキしたのだが大好きな作家である川上弘美さんの解説を読んでから、心を静めて読むことに集中した。舞台となるのはフランスのパリ、ノルマンディーなどか?地理が全くダメな私には、出てくる地名や場所がさっぱりわからなかった(ちなみにカタカナも苦手だと思われる)。登場人物たちがフランス語で話していることだけはわかるのだが…ル・モンマルトルとか、サンジェルマン・デプレくらいしかわからない。でも、この小説には残念ながら登場しない。主人公は仕事でパリに滞在している日本人で、作家活動や翻訳を仕事にしているらしく、ちょっと空いた時間ができたので学生時代からの友人・ヤンに会うのである。

 偶然にも主人公が抱えている仕事に関係する場所を巡ることになる。ヤンの母方の祖母はポーランド人、祖父はロシア人。ユダヤ人街を以前案内されたことがあった。主人公はヤン曰く「受け身がうまい」人柄で、なんとなく歴史の残るような場所に連れて行ったり、そういう話をしたくなったりするのだとか。現に主人公は他人と交わるとき、その人物と「なんとなく」という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断していた。だから、長く付き合いのある人物と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のないものであり、国籍や年齢や性別には収まらない理解の基成り立っていた。だから、そうした理解の火はふいに現れ、持続するときは持続し、消えるときは消える。「なんとなく」の一語は、発する人によって違うのだけれど…

 収容所を知っている世代とそうでない世代では、何かが変わる。そこには、決定的な線引きがあり、死ぬまでドイツ政府から暮らすには十分な額の賠償金をもらっていた祖母はその記憶から逃れられるはずなどなかったのに、何も大事なことは言わなかった。ヤンは、ポーランド時代の事を知りたかったと言う。この手の話はヨーロッパには様々なところで転がっているという。センプルンは、収容所時代のことを語った数少ない人物であり、そこでは職業は何かと問われた。哲学の徒であるとの答えに、学生は仕事ではないと言われる。だが、血気盛んな若者は、自分は哲学の学生であって他の何者でもないと主張し、空欄にはStudentと記されたとか。収容所跡の博物館には囚人カードが残されており、そこには学生の<Student>ではなく、漆喰工を意味する<Stuckateur>という単語があり、頭3文字が共通する都合のいい単語を一瞥のなかで読み誤っていたのだった。そのおかげで、センプルンは死を意味するような過酷な労働を課す選別をまぬがれ、熟練工と見なされたのだった。ヤンは、祖母が生き残ったのは、そんな魔法の一語が関わっているのではないかと思っていた。

 ヤンの中には悲しいという感情があった。両親共に、外へ出ようとしない、自分の町から移動しようとしない、ヤンがあちこち渡り歩いていることに理解がないこと。なぜ閉じこもるのか?なぜ外の世界がないものとみなして隠れるのかがヤンには疑問だった。逃げる機会はいくらでもあったはずなのにアンネの父は住処を決めて居残った。冷静に考えれば逃げるしかない唯一無二の機会を逸したのだと。それと似た光景をボスニアで見たとも言う。第二次世界大戦の頃に、ヤンの一族に起きたことが、繰り返されていることにめまいを覚えたと。

 主人公は、話す必要のないことを「なんとなく」相手に話させて、傷をあれこれさらけ出させるような輩は、素知らぬ顔の冷淡な他人よりも危険な存在なのでは…と考える。ヤンにとって、こちらの存在が鬱陶しさや不快感を催させているわけではないだろうと思うものの、あれこれと思い返してみれば、「なんとなく」胸につかえるような話題ばかり話してきたことに気づくのだった。と、いうことはカウンセリングなんて、ものすごく危険極まりないものなのではないのか?と思う私だった。一応、カウンセラーになるべくして資格も取ったのに…自分に矛盾を感じる。

4062739585熊の敷石 (講談社文庫)
堀江 敏幸
講談社 2004-02

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