41 中山可穂の本

2010.02.01

悲歌 エレジー

20100131_4004 愛すればこそ、その愛をひた隠しにして。愛すればこそ、その愛に痛いほどの切なさを込めて。ただただひたむきにその愛を貫く。叶わぬ想いだから。それでも尽きぬ想いだから。狂おしくともまっすぐに想い続ける。求めることなく、ただただひたむきにその愛をそそぐ。気高いほどの想いに圧倒されながら、その孤独に、その悲しみに、わたしたちは胸打たれる。行き場のない溢れんばかりの想いは、あまりにも純粋に煌いて見える。中山可穂著『悲歌 エレジー』(角川書店)は、「隅田川」「定家」「蝉丸」という3篇からなる作品集。それぞれの題名を見てわかるように、“能”をモチーフにしている。抑制の効いた、けれど情熱的な筆致は、“愛すること”の根本にある想いを問いかけている気がする。

 1篇目の「隅田川」。隅田川に身を投げ、心中をはかった女子高生2人。残酷にも1人が生き残り、1人が死んだ。それをきっかけに、かつて写真家を目指していた<わたし>は写真の道へ戻り、川の写真を撮るようになる。そしてある日、死んだ娘への想いを引きずり、ホームレスになった男と出会う。2篇目の「定家」では、変死した作家の評伝を書くために、彼が好んで使っていた辺鄙な海辺にあるリゾートマンションにやってきた<わたし>が、その謎の死の真相や秘めていた恋の顛末を知ることになる。どちらの物語も、狂おしいまでの想いを抱えているのは主人公である語り手の第三者。そのせいか抑制された佇まいで、物語が展開してゆく。静かな余韻は、味わい深くひたひたと染み入ってゆくよう。

 3篇目の「蝉丸」。アンコールワットを旅していた博雅は、物乞いの子供たちが落し物のiPodを熱心に聴いているのを目にする。子供たちが聴いていたのは、かつて自らの手でデビューを手がけ、全曲アレンジを行ってきた、行方不明になっているバンドのヴォーカリスト・蝉丸の声だった。忘れることのないその声に導かれるように、師と仰いできた音楽家の忘れ形見である、逆髪と蝉丸という異母姉弟の2人を支えてきた日々のことを回想し始める。幼くして運命に翻弄されるように生きることを強いられてきた姉弟は、それぞれに博雅を特別な想いで慕ってきた。そして博雅もまた、彼らを何よりも優先して想い続けてきたはずだった。だが、トリオの歯車は不意に狂い始めてしまうのだった……。

 博雅、蝉丸、逆髪。3人の織りなす関係は、読み進めるほどに痛々しく映る。とりわけ、蝉丸の100か0の想いには胸が締めつけられる。わずかでも欠けたなら欲しくないという、愛情への潔癖さ。それは、彼の強いられた運命を象徴するようでもある。愛すればこそ、その愛をひた隠しにして生きる。愛すればこそ、その愛に痛いほどの切なさを込めて生きる。そうして、ただただひたむきにその愛を貫く。叶わぬ想いだから。それでも尽きぬ想いだから。狂おしくともまっすぐに想い続ける。求めることなく、ただただひたむきにその愛をそそぐ。気高いほどの想いに圧倒されながら、その孤独に、その悲しみに、わたしたちは胸打たれる。行き場のない溢れんばかりの想いは、あまりにも純粋に煌いて見える。

4048739913悲歌 エレジー
角川書店(角川グループパブリッシング) 2009-09-18

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2008.03.24

サイゴン・タンゴ・カフェ

20070324_002 絡みつく情熱に突き動かされる。濃密に流れる時間の中で、わたしはひどくゆれていた。どこか懐かしい闇さえも呼び起こして、心を締めつけるそれ。封じ込めていた痛みは再びその熱を帯び、わたしのこころを激しく突き動かすのだ。生きるために。この先もずっと、生きるために。こころに傷を抱えながらも強く生きる女性たちが印象的な、中山可穂著『サイゴン・タンゴ・カフェ』(角川書店)は、タイトルにもあるとおり、タンゴをモチーフにした著者ならではの情熱的で、もの悲しい物語5編を収録している。同じ女性として、憧れずにはいられない彼女たちの潔さや逞しさは、拭い去ることのできない過去と共に生きるゆえのものなのだろう。

 表題作「サイゴン・タンゴ・カフェ」。タンゴとは縁遠そうな地、ベトナムのサイゴン。その廃墟のような一画にあるカフェに偶然にも迷い込んだ孝子は、タンゴに取り憑かれた国籍も年齢も不詳のマダムと出会う。そして、そのマダムの正体が20年も行方知れずになっている伝説の作家ではないかと思うのである。スコールの中、語られるマダムの情熱的な長い恋物語に耳を傾けるうちに、胸に熱いものが込み上げてくる。全身全霊でそそがれる思いは、あまりに切実で、苦しくて、痛い。けれど、過ぎゆく時間の流れと共に、そんな痛みまでもやわらかになってゆくのが、なんとも心憎い展開だ。これぞ中山可穂作品だと、ただただ唸るしかない力強い物語なのである。

 他に印象的だった「ドブレAの悲しみ」は、ブエノスアイレスを舞台に、元ノラ猫のアストルの視点で紡がれてゆくのだが、猫好きにとってはたまらないものがある。忠犬ならぬ忠猫の物語といったらよいだろうか。人間への寄り添い方が、なんとも愛くるしいのである。そして、猫語のわかる孤独な殺し屋の、秘められた恋の行方にはらはらしながら、その結末にぐっとこころを鷲掴みにされた。叶わない思いを抱えたまま、それでも未来永劫思い続ける女性の姿は、ここでも鮮明に描かれている。たとえ、あなたに気づかれなくても。たとえ、自分自身にさえわからなくても…そんな悲しい宿命にあっても、思い続けることのできる強さや潔さを、物語は教えてくれる。

404873833Xサイゴン・タンゴ・カフェ
中山 可穂
角川書店 2008-02

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2007.06.09

花伽藍

20070528_019 雨音と孤独はしっとりとよく馴染む。ひとりきりの時間を貫く痛みに、思う存分浸るのも、そんな雨降りのときがいい。無防備に横たわって、泣けるだけ泣いて気が済んだら、あたたかなもので胃を満たして、甘い痛みに寄り添えばいい。そうして、少しずつ少しずつやわらいでほどけてゆく心は、自由であることの証のようなもの。悲しいかな、ひとり身にとっては。中山可穂著『花伽藍』(新潮文庫)は、そういう孤独をほんのり優しくしてくれる1冊である。あまりにもしめやかで、切ないのにもかかわらず、読後感はさわやかで。人が皆ひとりであることを、恋愛に孤独がつきものであることを、まるごとすべて引き受けてくれるようなところがあるのだった。

 始終切なさが漂うひと夏の恋を描く「鶴」、失恋した女性が一夜にして目覚める「七夕」、さまざまな葛藤を覚えつつ再生してゆく「花伽藍」、過去の別れの余韻をじわりと残す「偽アマント」、老齢になってもひたすらに思い合う2人を描く「燦雨」からなるこの1冊は、いずれも女性の同性同士の恋愛の姿を描いている。どの物語にも共通するのは、主人公たちが皆、精神的な意味合いで自立していることである。あまりにも潔く、あまりにも逞しく。もちろん、端々には弱さや脆さも伺えるのだけれど、やはりどの女性たちも“ひとり”という意識を持っているのだと思わせる。そして、役割に縛られない彼女たちは、どこか晴れ晴れと自由を生きているようにも思えるのだ。

 わたしはとりわけ、「偽アマント」に心惹かれた。因果が巡る、悲しき恋愛の終わりを描くこの作品は、アマントという名の猫がキーとなっている。かつて恋人同士だった人との思い出の猫をめぐっての言い争いは不毛ながら、痛いところを突いてくるのである。彼女と彼女の荷物、そして猫までいなくなった広すぎる部屋で気づくのは、過去と同じ過ちをしている自分自身。それでも猫を探し回る姿は情けなくも、もう前へ進み出している。嗚呼、恋愛とはなんぞや…なんて思わずにはいられない。そうして、こんな問いをぼやいているわたしとは違って、彼女たちは別れの余韻を引きずりつつも潔く、明日を生きるととっくに決めているのだった。ひとり、万歳。

4101205337花伽藍 (新潮文庫)
中山 可穂
新潮社 2004-09

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2007.03.16

サグラダ・ファミリア[聖家族]

20070106_004 或るかたち。わたしはそういうものに縛られて、きゅうきゅうと生きている。決して窮屈ではないけれど、どこか満たされない思いを抱えて。愛に飢えつつも愛に生きられず、愛に不器用なまま。学習しつつも、ちっとも身につかない。実に無駄なサイクルで。のらりくらりと。それでも焦るばかりで。わたしなりに必死で。だから、きゅうきゅう。毎日がきゅうきゅう。なんだか無性にきゅうきゅうなのだ。中山可穂著『サグラダ・ファミリア[聖家族]』(新潮文庫)は、そんなわたしに風穴をあけるように、すうっと心を満たしてくれた。満たされなかった何かが、変化したような気がした。ゆっくりと力が抜けてゆき、きゅうきゅうなものがほどけてゆく心地にしてくれた。

 孤高に生きるピアニストの響子と、その永遠なる恋人であるルポライターの透子。ふたりは出会い、別れ、再会を果たす。けれど、透子は家族の温もりを乞い続け、ゲイの男性の子どもを生む。子ども嫌いの響子は、その存在に困惑し受け入れられずにいた。だがある日、透子が子どもをシッターに預けたまま、事故死してしまうことから、響子の日々は新たなるかたちで形成されてゆくようになる。不安定な響子と透子とその子どもの関係。そして、その後に現れる男性との奇妙なる関係。それを見守る周囲の人々との関係。それぞれが、自分なりのやり方で生き抜いているところが、何とも興味深く、胸打たれる展開である。きゅうきゅうな日々など、馬鹿らしく思えるくらいに。

 また、かたちに捕らわれないということ。その意味を、その根本にあるものを、この作品は考えさせてくれる。ここでの家族というもの。それには、血のつながりなどない。夫婦も父親も母親も、ない。確かに在るのは、誰かを愛するという気持ちと、それを守りたいという思いのみ。愛に焦がれて、愛に生きて、不器用ながらもただただ愛して。そうやって、大切なものだけを懸命に握りしめるかたち。血のつながりなどなくても、そういう強い思いがあれば、自然と生まれてくる関係性があること。あまりにも脆いから、あまりにも切ないからこそ、強い絆で結ばれるものがあることに気づく。きゅうきゅう。その状態に安住するべからず。どうか、かけがえのないものを見失わずに。

4101205310サグラダ・ファミリア 聖家族
中山 可穂
新潮社 2001-11

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2007.03.12

白い薔薇の淵まで

20061112_9494009 花が朽ちてゆくのを見るのが好きだ。とりわけ、白い花がその色を侵食されてゆく光景というものに、わたしはじーっと見入ってしまうことがある。そして、一気にはらりと花びらを散らすときの刹那、小さなため息と共に、疼くものを胸に感じるのだ。胸にいつまでも響くのは、白い悲鳴のようなもので、生と死との別れの時をまざまざと実感させられる。花の盛りは短くも、その一瞬を咲き誇るゆえに美しい。だからこそ、朽ちてゆくときも、その名残を許してあんなにも惹きつけるのだろうと思う。中山可穂著『白い薔薇の淵まで』(集英社文庫)には、そんな花のような短くも濃い、本物の恋愛が描かれている。それも、一生に一度しかないような破滅的な恋が。

 物語は、OLの<わたし>が、ジャン・ジュネの再来と評された新人女性作家、塁と出会うことからはじまる。ふたりは出会ってすぐに恋に落ち、その甘美な性愛に溺れてしまう。お互いなしではいられなくなるほどに、どこまでも深く。切なく。何度も苦難を乗り越えて、別れてもなお、求め合い続けるふたり。その激しさと、深い絆は、想像を遥かに超えて、強くしぶとく絡みつくようでもある。そして、ふたりの破滅的な恋愛の果てにあるものは…。女性同士の恋愛が、何よりも美しく気高いものに思えるほどに、この物語に漂う雰囲気は品があって、心地よい。読み終えた先から、最初のページに戻って読み返したくなるような、そんな一冊である。

 読みながら、始終問うべく胸の中にあったのは、わたしの中の疼く思いというものだった。なぜ疼くのか。なぜ痛むのか。なぜ悲しいのか。一生に一度。そんな出会いや恋愛の経験などないわたしには、恥ずかしいかな、嫉妬のような思いが疼いていたのかも知れない。或いは、単純に胃痛かも知れないし、独り身ゆえの寂しさだろうか。それらは決して、不快ではないけれど、どことなく満たされていない自分の心を、改めて知ってしまったような感覚に近いものがある。なにも、破滅的な恋愛を望んでいるわけではない。ごくごくありふれた恋にすら、わたしは怯えているのかも知れないのだ。おそらく、どんな恋においても、疼く思いはあるはずだろうから。

 きっと、花が朽ちてゆくのを見るのが好きなわたしは、どこかで傍観者で徹していたい思いがあるのだろう。こんなにも憶病であるのは、こんなにも現実から目を背けているのには、わたしなりの理由があるのだろうと思うのだ。物語のようにいかない現実と、だからこそ焦がれ続ける無邪気なる気持ちと、その落差にただ嘆くわたしと、一生手に入ることのないものを願い続けることで空腹を満たそうとする、どこか歪んだ不誠実な思いと。それらが混ざり合って、いろんな面を持ったわたしがいて、混乱をきたしているのだろう。そもそもわたしは、自分自身を知らな過ぎるとも言えなくもない。傍観者になることで、こんな自分から逃げているつもりなのかも知れないのだった。

408747626X白い薔薇の淵まで
中山 可穂
集英社 2003-10

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2007.03.07

マラケシュ心中

20070106_4444012 まるごとすべてを肯定するということは、つまりは愛なのかもしれない。ありのままの姿を、ありのままの心を、ありのままのわたしを。骨の髄まで狂おしいまでに愛し、愛されること。それは誰もが何度も求め焦がれつつ、何度も繰り返し諦めて絶望して、いつしか妥協という名の下にひた隠しにして見ない振りをしている、そんな感情なのかも知れない。中山可穂著『マラケシュ心中』(講談社)を読んでいると、そういう感情の奥深いところを思って、熱いため息がもれる。何しろ、命がけの恋愛なのだ。極められるところまで、とことんまで極めて、そうして死ぬ。そこまでの覚悟を持って、恋愛すること。それがこの物語だ。痛々しいまでに傷ついて、それでも忘れられぬほどの。

 歌人の絢彦は、歌壇でも有名な女たらし。それでも、遊びと本気とは、わきまえている女性である。彼女の詠む歌は、恋愛の心髄を突くような、本能のままのもの。そんな歌は多くの女性を魅了し、歌壇の中で誰もが尊敬する歌人の妻をも惹きつける。それは、かつて彼女が怒りを買ったままの、恩師の妻でもあった。幾人ものガールフレンドがいながらも、惹かれてゆく絢彦と、恩師の妻である泉。恋い焦がれつつも、恋人同士になることを拒む泉に対して、友だちでいることの苦しさに耐えられない絢彦。そして、やがて泉から逃げゆくように、世界を旅するようになるのだった。そこで詠まれる歌の数々は、叶わぬ思いをそのまま表現したように、心に染み入ってくる。

 愛を極めること。そこに根づくものとは、なんだろう。愛を極めたことのないわたしにとっては、想像を絶するほどの苦悩に違いない。忍耐と情熱と執念と、そうして他には何があるのか。そして、もしも極めた愛に終わりが訪れたとき、残るものなどあるのだろうか。物語の結末は明かさないが、ボロボロに崩れ落ちゆく姿を読むことに、読者としてのわたしの思いまでが、ひどく痛く切なく苦しくなるのだった。こんなに狂おしい思いがこの世界にあってもいいのだろうかと、疑問に思うくらいに。もちろん、物語ではなく、実際にもこれほどにも狂おしい思いを抱える人たちがいるのかも知れない。その思いをひた隠しにして、社会を生き抜く強さを備えた人がいるかも知れないのだ。

 愛を極めること。きっと、そこには失うものが多く存在する。絢彦と泉、その他の登場人物たちにも言えることだが、地位も名誉もこれまでの生活すべても、ときには友さえも裏切り、それでも恋い焦がれるのだから。それでも、抑えきれぬ思いだから。そんなときはきっと、この世界ほど残酷なものなど存在しなくて、この世界ほど生きにくいものはなくて、この世界ほど恨むべき存在はなくて、愛した人も、愛された人も、愛し愛された人も皆、空虚な自分を抱きしめて眠るのだろう。愛を極めたことのないわたしは、身勝手ながらにそんなことを思いながら、この物語を読み終えたのだった。いつか、愛を極めることを夢見つつ、どこかで叶わぬことを願いながら。

4062750910マラケシュ心中 (講談社文庫)
中山 可穂
講談社 2005-05

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2007.03.05

ケッヘル(上・下)

20070125_66006 音楽に魅せられて。音楽から逃げつつも、音楽に翻弄されて。そうして続く、連鎖のような人の構図を思うとき、なんだか無性に胸を掻きむしりたくなる。愛するというひたむきな想いが、狂おしいという感情と交わるときの怖さは、掻きむしった胸をぞくっとさせて鳥肌にさせるほどだ。中山可穂著『ケッヘル(上)』『ケッヘル(下)』(文藝春秋)を読みながら、始終感じていたそのようなわたしの思いは、結末までくると、ほろりとしたものへと変化し、本気で誰かを愛し、愛されることの危うさを、まざまざと見せつけられたような気がした。そして、ケッヘルというモーツァルトの作品に付けられた番号をたどって、狂おしいまでの愛の行方を知りたくてウズウズさせられたのだった。

 物語は2つの軸を行ったり来たりして進む。過去の亡霊のようなものから逃れ続ける伽椰と、彼女に仕事を斡旋する遠松鍵人の生い立ちが、ゆっくりと交錯してゆくのである。一見、何の関わりもなく旅先で出会ったと思われた2人の人生が交わりを見せるとき、その背景にある長い年月に渡る復讐劇が鮮明に彼女の中で浮き上がってくる。そして、逃げゆく絶望的な日々の中でも、新たなる恋が生まれ、育まれ、愛する人をめぐって、様々な思いが絡まり合うことになってゆく。そこに描かれる、迷いや葛藤というもの。企み、殺意というものが、満ち溢れるこの物語には、読後すぐには言葉を生ませないほどの衝撃が走る。はっとして、ほっ。とでも言うべきか。貪るように読める作品だった。

 さて、モーツァルト。物語にはタイトル通りに、その作品が多数登場する。読み進めるほどに、モーツァルトの偉大さとその魅力に圧倒され、思わずCDを聴きまくってしまいたい衝動にかられる(もちろん、わたしは貪るように聴いた)。モーツァルティアンでないにしろ、一度は耳にしたことのある「アニュス・デイ」の天上の調べを思い描いて、若き日の音楽に魅せられた遠松氏に、愛に取り憑かれた遠松氏に、どんどん惹かれてゆくばかりだった。そして、伽椰には、そのゆらめく心の激しさに、同性ながら思わずうっとりとなるくらいの魅力を感じずにはいられなかった。他にも登場する人物たちには、それぞれに魅力があり(ある一人を除いて)、ため息がもれること、しばしば。

 それに加えて、タイトルにもなっている「ケッヘル」に纏わる多くの謎が明らかにされていないことが、ますますこの物語の余韻を深いものにさせている。それは、遠松氏の父曰く“モーツァルトの音楽は、神が音符に姿を変えて我々人類に発信されたメッセージ”という思想にも大きく関わるものであり、ケッヘル番号の法則性から、そのメッセージを今後、世界の誰かが解明するときが来る日を期待させる。果たして世界にどれくらいのモーツァルティアンと、それを研究する人々がいるか知れないが、この物語に魅せられた読者の多くは、モーツァルトの音楽を違った角度から聴くようになることだろうと思う。もちろん、わたしもその一人であるに違いない。

4163250409ケッヘル〈上〉
中山 可穂
文藝春秋 2006-06

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4163250506ケッヘル〈下〉
中山 可穂
文藝春秋 2006-06

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2007.02.20

弱法師

20041113_644060 しとやかに降る雨。それは、叶わぬ思いに似ている。そして、思いは募れば募るほどに狂おしく、その美しさを増す。身を滅ぼすほどに激しく募った恋情は、止むことを知らない雨のように、次から次へと涙を誘い、胸を震わせてゆく。古典の能をモチーフに散りばめて描かれた、中山可穂著『弱法師(よろぼし)』(文春文庫、文藝春秋)は、そんななんとも切なくしめやかな美しさのある中篇3つを収録している1冊だ。読み進めれば進めるほどに、物語の深く激しい恋情の渦に呑み込まれてしまう。しとしとと染みゆく思いは、やがてじわじわと読み手の心にも侵食し、思わず「恋とは恐ろしや…」と呟かせるほどである。そして、わたしたちは恋を止めることができない。

 表題作「弱法師」。治らぬ病に冒された少年と、その義父との微妙なる関係を描いた作品である。少年の母親と宿命的な恋に落ちたものの、次第に少年に魅了されてゆき、互いに叶わぬ思いを密やかに抱える様子が鮮明に語られる。エリートの医師の転落人生とも言うべきか。少年の見せる二面性は、病ゆえのものなのか。思春期特有のものなのか。周囲を巻き込んでゆく展開にはらはらとする。また、どんなかたちであれ、人を激しく乞うということが、危険を孕んでいるということを痛感させられもするのだった。けれど、少年らしい乞いとも言うべき、少女とのやりとりに、ほんの少しの安堵を噛みしめつつ、やはり悲痛さを感じずにはいられない物語だと思うのだった。

 次に収録されている「卒塔婆小町」。美しい編集者の愛を得るべくして、小説に身を捧げた作家の物語である。報われない思いを抱き続けることは狂おしい。また、愛されつつも愛することができないことも、なんとも苦しいものである。恋愛が成就することは、奇跡のようなことだけれども、ここまでずるずると引きずられるような乞いは通常ならば、とてつもなく無様に違いない。だが、これは物語。無様な姿だって、実に見事に美しく読ませてくれるのだ。身を滅ぼしてもなお、思い続けるような執念の恋情。これを究極と言わずになんと呼ぼうか。実ることを知らないこの不毛さこそ、恋愛の醍醐味と言えよう。死ぬまで引きずってこそ、本物の恋なのかもしれない…。

 最後に収録されている「浮雲」。これは、少女の視点から、父と母、伯母の不可思議な密な関係を描く作品である。ここでの思いは複雑に絡み合って、内なる悲しみを呼ぶ。父と母の馴れ初めに纏わる小さな謎が、大きな秘密を顕わにしてゆく展開である。少女の繊細な心が淡くも脆く崩れゆくのを思うとき、周囲の大人たちのそれまで張りつめてきた気持ちを痛感させられるのだ。そうして、静かなる思いこそ激しく、内に秘めた思いこそ熱いことを知る。能面の下に隠された表情を垣間見たような、人の二面性を知ったような、そんな気がする物語である。それでもわたしたちは、恋することを止めることなどできやしないのだ。それがたとえ、死に至るものだとしても。

4167726017弱法師 (文春文庫 な 53-1)
中山 可穂
文藝春秋 2007-02

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