31 庄野潤三の本

2007.01.03

プールサイド小景・静物

20050906_141 ありふれた日常。そこに在る危うさ。その断片を手繰り寄せるように、文章を紡ぐこと。それは、簡単なようで、実はすごく難しいことである。なおかつ、文学としてそれを成立させるためには、どれほどの推敲が必要だろうか。庄野潤三著『プールサイド小景・静物』(新潮文庫)を読みながら、わたしはそんなことばかりを考えていた。この一冊に収録されている七つの作品は、どれも日常的でありながらそのバランスが常に危うい。どうかすると、今にも崩れ落ちそうな予感を秘めているのである。それでも崩れずにとどまっていることが、まるで奇跡のようにすら感じられるほどだ。そして気づく。よくよく周囲を見渡してみれば、わたしたちの日常もそういう危険を孕んでいることに。

 表題作「プールサイド小景」は、著者の芥川賞受賞作品である。会社の金を使い込んだことによりクビになった夫と、感情を押し殺しているように思われる妻の視点で代わる代わる語られる日常は、そこに根ざす深い夫婦間の危機をつぶさに描き出している。まだ若いと思われる夫婦。まだ作りあげ始めたばかりの家庭。それが崩れるのがいかに容易いものであるのか、はっとさせられる展開である。彼は、罪滅ぼしのように、子どもを連れてプールへ行く。そこで見る光景は、ひとつひとつが何気ない日常であり、確かに時間が流れゆくことを感じさせる。人が立ち止まっている間にも、時間は残酷にもやわらかに流れ、過ぎてゆくものであることを、今さらながらに痛感する。

 続いて「静物」。これは、数々の日常に溢れるエピソードを挙げ連ねていったような作品である。ひとつひとつに番号がふってあり、場面ごとに確実に子どもが成長していることが感じ取れる。意識してみれば、人は皆そうやって変化してゆく生き物なのだなと、気づかされる展開だ。また、そのひとつひとつのエピソードがなんとも愛おしく散りばめられていて、それぞれが煌めいて見える。ありふれた日常が、煌めく。けれど、ふいに陰りもする。そう感じさせるのは、やはり著者の力量なのだろう。些細でたわいもなくて、どうかすると脆く崩れそうになる日常。それを大事に思っているからこその、作品のように思う。ものの見方が変わるかもしれない、そんな作品でもある。

 また、「イタリア風」では、著者の力量の広さを感じさせる。数年前に数回だけ会ったイタリア人とアメリカで再会する物語なのだが、その記憶の曖昧さから相手側の心理を探るべくして、主人公はあれこれと思考をめぐらせるのだ。言葉のニュアンスひとつひとつに対して、そこに隠された心持ちを探ろうとする描写は、可笑しくもうっとりするほど細やかである。人間をここまで“観察する”ということが、どれほどまでに神経を張りめぐらせることなのかを思うとき、自分自身の言動や言葉遣い、仕草に至るまで、妙に緊張して居心地が悪くなる。けれど、人が意図してやっていないこと。意図的にやっていること。その違いに気づくべくして、人と接してみるのも面白いかもしれないとも思うのだった。

4101139016プールサイド小景・静物
庄野 潤三
新潮社 1965-02

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