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2016年3月

2016.03.28

プニン

20160326_5007doris 読むほどに愛おしさが募ってゆく。プニンという人を語る視線は親しみに満ちている。われらがプニン。そう語る言葉は、だからこそ時に容赦ない。愛があるゆえに容赦ない。見つめる目はあたたかい。だからこそどんな部分をも語る。語り尽くすべく語る。どんなに哀れであろうと、滑稽であろうと、われらがプニンはプニンであるがゆえに愛おしい。そうしてはたと気づく。プニンの物語に寄り添う、人を見つめてゆく行為の先にある愛情を。人を見つめること。そうして知ってゆくこと。そこにあるべき愛のこと。人は人であるがゆえに愛おしいということを。

 ウラジーミル・ナボコフ著、大橋吉之輔訳『プニン』(文遊社)。プニンという人物を語る視線は、どこか優位に立ちながらも、そこに親しみが満ちている。“われらがプニン”、“わが哀れなプニン”、“わが友プニン”“われらが友”という言葉は、だからこそ時に容赦ない。けれど漂ってくるのは、人間愛を思わせる愛があるゆえの容赦のなさのように思えてくる。見つめる目はあたたかい。だからこそどんな部分をも語る。語り尽くすべく語る。どんなに哀れな姿であろうとも、どんなに滑稽な姿であろうとも、われらがプニンはプニンであるがゆえに愛おしい。そんなふうに感じるのは、プニンに対するナボコフ自身の思いと、そこに人生を重ねる姿を見るからかもしれない。亡命のこと。時代のこと。文学に対する思いのこと。心を添わせたくなる人生のこと。物語の端々で、ナボコフを思わずにはいられなくなる。

 そうしてはたと気づくのは、プニンの物語に寄り添っている読み手のこと、自分自身のことへと向かう思いだ。プニンに限らず、人を見つめてゆくその行為の先にある愛情について。人を見つめること。そうして知ってゆくこと。そこにあるべき友愛のこと。人は人であるがゆえに愛おしいという人間愛のこと。物語のひとつひとつのエピソードやそれを語る人物の存在をまるごと全部信じられなくとも、信じられるのはそういうことだ。プニンの物語を、ナボコフのひそやかなる企みを含めて愛おしく思う、それが素直な私の感想だ。

 細かな部分では、“プニン的な”とか“プニン化”という表現も物語の中で目を引いた。プニン、という名前自体も、ぱぴぷぺぽの語感が好きな私にとっては特別な愛おしさを覚えるが、何度も登場するプニンという響きと、人物への愛着を呼ぶ描かれ方がとても魅力的に感じた。それからプニンが静かにさめざめと泣く場面。不必要なほどがっしりした両肩を震わせる場面。大きく鼻をすすりあげながら泣き叫ぶ場面。何か言おうとして結局口に出さずサラダを食べ続ける場面。少年時代を涙ながらに思い出す場面。プニンへの愛おしさが増すのは、こういう場面でプニンの心を知ってゆくからかもしれない。

 物語の中ではっと目を引く、銀器が布巾からすべり抜けて、屋根から人間が落ちるように落下した部分。ハーゲンに宛てた手紙の続きに押し込めた気持ち。人生の中の哀しみが、プニンをさらに愛おしい存在にさせるようで、その二重の哀しさが、余計に物語を愛おしくする。そうして、ジャック・コッカレルのプニンの真似。それも少なくとも二時間もの完璧な。結局皆、プニンのことが愛おしかったのではないか。そう感じられて、いっそう愛すべき物語に思えてくるのだった。

 “われらがプニン”という言い回しがすごく好きだ。”わが哀れなプニン”と書かれていても、わたしの中では脳内でいつのまにやら「わたしの愛しのプニン」にまで変換されてしまっている。考えてみれば、その時点でもう、ナボコフの企みにはまってしまっている気もする。油断ならない『プニン』。

4892570745プニン
ウラジーミル・ナボコフ 大橋 吉之輔
文遊社 2012-09-26

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2016.03.27

冬の物語

20160118_4001ma_2 こんな話があるのです、と次々語られるがごとくここにある十一もの物語、そのまた物語に、著者の人間性の深き魅力を感じる。物語られる人生の中にある無数の感情は、推し量る以上に、書かれていること以上に溢れてくる。そしてそこにある気高さは、きっと登場人物たちだけでなく、著者自身でもあるのだろうと、ひとつひとつの物語を読み重ねるほどに思い至る。そうして心の在り方は、真っ当であるべきだと強く感じ入る。人生と世界への深い洞察は、読みながら何だか試されている心地にもなる。過去、今、その先。そこにいる自分を、そこにあるものが語り出すのを思わず見つめたくなる。

 イサク・ディネセン著、横山貞子訳『冬の物語』(新潮社)。思わず物語を語り出す姿を想像しながら読んだ、最初に収録されている「少年水夫の話」は、少年とハヤブサの関係のおとぎ話のような展開と再会に加え、そこに無鉄砲なまでの恋心の一途さゆえの殺人まで絡んで、少年の人生のひと時を、一瞬にして最後の一行で老人にする描き方にはっとする。“生きながらえた”という言葉の重みを、この短い物語に感じて、思わず深く溜息。きっと語られる少年の人生には、書かれていない感情が沢山ある。語られなかった人生も当然ながら長きに渡って続くのだ。起こった出来事から人が生きながらえる、というその過程と、語れるようになるまでの人生というものの果てしなさに、思いを馳せてしまった。
 
 続く「カーネーションの若者」は、何といっても物語展開に魅せられる。映像としてひとつひとつの人物の感情の動きや場面の動きが魅力的に感じられそうなほどドラマチック。青年の抱え続けている思考、それゆえに見つめる先にあるもの、カーネーションを胸に挿した若者に見た人生の意義となる栄光、つぶさに捉える妻の様子、出会う人々との会話、ひと晩の中に繰り広げられる思考の為せる人生の変化に、自然と惹き付けられてゆく。そうして、やがて人生の中で過去になってゆく出来事の境を覗き見てしまったような心地になりながら、こうして文章を書き留める自分自身の思考にも何だか呑まれそうになる。

 続く「真珠」の思考が行き着く先の“百年もたてば、みんなおなじことになる”という言葉に、人生の無常に近いものを感じました。この先百年たって、そのまま残るのは真珠の首飾りだけ。百年後には、自分はその真珠の首飾りに纏わる話の登場人物になっている。百年の単位で物事や人を見れば、何もかもが悲しくもやわらかな思いになる。幸せにも優しくもなれる。こういう思考が生きてゆくすべなのかもしれない。そんな思いを抱かせる。続く「無敵の奴隷所有者たち」では、“人間とは、なんと奇妙な生きものだろう”という言葉が後を引く。観察の人、アクセルの見つめる視線、その思考、その行き着く思いが見せてゆく真実、偽り続ける二人の姉妹の姿の滑稽さは、滝の姿やフーガの形式を前に、愚かしくも不調和で滅びゆく姿だからこそ、それぞれに違う人生を見せる人間の魅惑を感じさせる。

 続く「女の英雄」では、思わずはっと時の流れと、その流れの中でも変わらぬものを大切に感じていた。人の気高さというものは、この物語の人々の中にあると思い至って、悲しき時代の中において、それでも守るべきものや心の在り方というのは、真っ当であるべきだと強く感じ入った。ディネセンの人生と世界への深い洞察は、読みながら何だか試されているような心地にもなる。続く「夢を見る子」では、“人生で、この子は私とおなじくらい孤独なのだ”そうエミーリエが感じ取る場面が忘れ難い。夢を見、そして実現した人の魅力を放つ子供との関係の中で心の中に生まれてくるエミーリエの感情の動きが、胸を締め付けるよう。“あの子を愛せなかった”そんなふうに思う言葉以上の感情が、行間からあふれてくるようで。過去、今、その先。その狭間にある感情は誰しもあることにはっと気づく。そして、ここにいる自分を、ここにあるものすべてが語り出し、何かを顕わし始めるのを見つめたい心地になる。

 続く「アルクメーネ」のイェンスというのはその前の「夢を見る子」とも繋がっているのか。物語の共通項をめぐらせた。そして、時の流れと人生というものの中にある無数の感情を思っていた。文章が無駄なく紡ぎ出されるほどに、推し量れないほどの感情がそこにある気がして。その気高さは、きっと登場人物たちだけでなく、書き手である著者、ディネセン自身でもあるのだろうと、ここまで読んできて思い至ってはっとする。続く「魚」では、事の顚末、というものの定めを思う物語のように感じた。出来事というのは心の在り様でどんなふうにも変化する。幸せを求める気持ちも、そこにある孤独も。ならばそれは、真っ当であるべきだと。たとえ時が流れようと変わらずに真っ当であるべきだと。王ならばなおさらだと。そんなふうにこの短い物語に思った。

 続く「ペーターとローサ」は、誰かの心を理解したいという気持ちと、それを妨げかねない自分の抱える気持ちとの狭間での葛藤、心の在りようの果てしなさを感じながら読んだ。推し量ることのできない人の心の深さは、もしかすると海よりもずっと深いのかもしれない。永遠に知り尽くせない。心にある感情は、一人一人皆違う。他者と自分との関係の狭間に思いを馳せながら、ペーターとローサの行方を追っていた。そして真っ当である二人が、その狭間をこえて抱き合い、だからこそ海の深みに呑み込まれていったのだと、ただただ信じたくなった。

 続く「悲しみの畑」は、“愛するもののために死ぬ/その苦しみは甘やか”悲しくも美しく響く旋律が、そこにある人の姿が、いつまでも胸を締め付けた。言葉に尽くせないほどに甘美なわざは、同時に人間の奥深さであり、その人生の奥深さだと感じ入ってしまう。繰り返される対話の行き着く悲しさは、どれだけの時が流れても悲しさであってほしい。悲しみとして、心に刻まれるべきだと思わずにはいられなかった。続く「心を慰める話」は、物語の中の物語の魅惑に捕らわれた心地になった物語。これまでの物語にも、物語の中で物語られることはあっても、ここまで大胆に語られると、思わず前のめりで惹き付けられてゆく。ディネセンの求める物語の果てしなさ、そこにあり、続いてゆく魅力を、改めて知った心地になったのだった。

4105069810冬の物語
イサク ディネセン Isak Dinesen
新潮社 2015-12-18

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