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2016.02.07

アドルフ

20150205_4032 私はまだ、愛を語るほど愛についての多くを知らない。愛がどれほど深いものであるのか、そしてそれがときにどれほどの幸福と不幸を生むのか。それを確かには知らないのだ。自分自身の意識するところでも、意識しない部分でさえも、やわらかに包み込むような愛情を確かには知らぬと思うのだ。目に見えるものではない愛情には手触りがなく、心で感じるものだと知っていても、どこかでいつも確かな愛を欲しがる思いがくすぶっている。愛を乞うばかりで、惜しみなく与えることを知らぬ者としての自分自身を、いつも不器用に抱えている。

 コンスタン著、中村佳子訳『アドルフ』(光文社古典新訳文庫)に描かれる愛を読んだとき、アドルフとエレノールの関係について愚かしく不幸だと感じながらも、遠い時代の他人事のようには思えなかった。客観的に見ても決して似ているわけではないのに、私自身の経験が及ばぬところなのに、物語の端々で自分自身を、心を重ねていた。それは、二人が愛のどつぼにはまるがごとく、ずるずると果てしなく苦しく関係を続けてゆくほどに、そこに本当の意味では愛を知らない二人を見たような気がしてしまったからかも知れない。登場人物の心理は、自分自身の心の内のように重なったのだった。私はアドルフだったかも知れず、エレノールだったかも知れない。そんなことを思わせた。

 アドルフとエレノール。物語を通して見えてくるこの二人の関係の不幸は、自らが招いたもののようにも感じられる。二人のそれぞれの人としてのあり方、その人間性といったものに目が向くのだ。アドルフの不幸はもともとの愛するという能力に、エレノールの不幸はその激しい感情の中にあるとも思える。それに加え、社会に承認されない二人の愛は、必要以上の苦しみを生んでしまったのではないかと。いつまでもしがみつく愛と、口実を見つけてそれを破壊しようとする愛。交わらない愛と呼べるか悩ましいほどの不幸な関係は、自らが招いたことだと知らしめるには十分かも知れない。

 けれど、果たしてそうなのだろうか。私たち一人一人は、愛する能力を持っているだろうか。誰かを愛するために必要な人間性を備えているだろうか。日々の生活の中で、激しい感情が生まれることだってあるだろう。今ある関係を手放したくないと、しがみつくことだってあるだろう。ときには言い訳を見つけて逃げ出そうとする気持ちだって生まれることがあるだろう。愛する対象として、自分に都合のよい相手を選ぶことだって少なからずあるのではないだろうか。恋愛関係に限らず、どんな関係においても、そうしたことは我が身に置き換えてまったく当てはまらない人などいないのではないだろうか。愛を乞う人ならば、身につまされる人は多いに違いない。

 アドルフやエレノールと自分自身を重ね合わせるとき意識させられるのは、関係性というものだ。そして、どんな関係においても決して縁を切ることのできない、自分自身の存在がある。思わず省みてしまう奥底に見えるのは、愛を語るほど愛についての多くを知らない未熟さだ。愛がどれほど深いものであるのか、そしてそれがときにどれほどの幸福と不幸を生むのかを、本当の意味では知らないということだ。恋愛に限らず、家族愛、友人愛、いろいろな愛が溢れる中で、その愛を確かなかたちで実感することは難しい。だからこそ愛は奥深く、尊いものなのだとも感じられる。その尊さゆえに、不安にもなる。心細くもなる。感情的にもなる。ときにそれを重たいとも感じる。確かな愛を欲しがる思いがくすぶってもいる。愛を乞うばかりで、惜しみなく与えることを知らぬ者としての自分自身を、いつも不器用に抱えている。それはまるで、もう一人のアドルフだったかも知れないし、もう一人のエレノールだったかも知れない、まぎれもない私自身だと思うのだ。

追記
この文章は2014年に書いたものです。

433475287Xアドルフ (光文社古典新訳文庫)
バンジャマン コンスタン Benjamin Constant
光文社 2014-03-12

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