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2012.02.23

いいなずけ

20100828_003jpg_effected 生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることだろう。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは並大抵のことではない。今を生きる時代において、女性が社会で働くということは当然の権利としてそこにある。まだまだ女性の活躍する場は少ないかもしれないが、多くの女性が教育を受ける権利を与えられて、勉学に勤しみ、やがて働く機会を与えられるようになる。けれどかつて、そうでない時代があったこともわたしたちは知っている。アントン・P.チェーホフ作、ラリーサ・ゼネーヴィチ絵、児島宏子訳『いいなずけ』(未知谷)に描かれる時代は、まさにその時代の物語である。女性が学ぶこと、働くこと、自由に夢見ることすらできなかった時代に、一歩を踏み出そうとする、チェーホフ作品としては大胆な女性の物語である。

 16歳の頃から結婚することだけを恋焦がれるように夢見ていたロシアの地主の娘ナージャには、周囲から評価の高い許婚のアンドレイがいる。けれど、23歳となったナージャの前に芸術家の青年サーシャが現れ、新しい刺激を受ける。本当に結婚してしまっていいのか、このままの暮らしでいいのか……と繰り返し言われるのだ。これまで疑問など何も感じたことのなかったナージャだったが、繰り返しサーシャに言われ続けるたびに自分自身を、周囲を、見つめ直すことになる。そしてこれまで彼女を取り巻いてきた幸福というものが、見せかけのようにすら思えてくるのだ。そうして、マリッジブルーなのか、サーシャの囁きのせいなのか、ナージャは何不自由ない地主暮らしと訣別し、自立を目指しペテルブルクへと旅立つことになるのだった。

 あらすじだけを追ってゆくと、今の時代にもよくありがちなマリッジブルーの物語にも思えないこともない。けれど、そこはやはりチェーホフの作品、ひとひねりあって読ませてくれる。物語はナージャとサーシャとの関係の立場の逆転を用意していたりもする。ナージャが一歩踏み出すきっかけを懸命に与えてくれるサーシャが、なぜこんなにも彼女を今の暮らしから一歩踏み出させたかったのかということが後半になって明らかになってゆく、そして……。という仕掛けもあるのだ。彼がどうしても彼女を踏み出させたかったことを思うと、胸の奥がじんと熱いもので込み上げてくるほどに。まだ女性が新しい時代を担う道が平坦ではなかった時代背景を思うと、さらに込み上げるものがある。

 人は皆、今ある生活を変えることは、とても難しい。このままでいいのか、今のままでいいのか、その疑問を感じつつも、なかなか前へ一歩は踏み出せない。生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることに、今も昔も変わることはない。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは、並大抵のことではないのだ。物語の中で、ナージャが少しずつ何かを見出し、淡い恋心のようなものを覚える様子、そして、やがて一人の自立した女性へと向かう逞しい姿には、決して古びない今を生きるわたしたちにも通ずる何かを感じてしまう。今を、これからを、どうしたいのか、どう生きたいのか、どんな幸福を求めているのか。それをチェーホフは読み手に問いかけてくるのだ。

4896421922いいなずけ (チェーホフ・コレクション)
アントン・P. チェーホフ ラリーサ ゼネーヴィチ
未知谷 2011-12

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