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2010.05.31

つやのよる

20100530_4002 愛されていたかもしれないという翳りを落として、一人の女の輪郭が少しずつぼうと浮かび上がってくる。その刹那に、その煌きに、そのゆらぎに、わたしはくらくらと眩暈をおぼえる。わたしの見知った誰かが、かつてどんなかたちであれその女と関わり合った……という、わたしの見知らぬ事実が横たわり、何とも言えぬ違和感を残してゆくのだ。容易には拭い去れないざらざらは、見知った誰かと今いるわたしの関係をほのかにゆさぶり、意識の下に眠るさまざまな感情までを呼び起こす。井上荒野著『つやのよる』(新潮社)は、病床にいてまもなく亡くなるという艶という女性をめぐる7つの物語で構成されている。第三者を通じて徐々にその存在感を大きくする艶という女は、一体どんな人物だったのか。

 艶の従兄の妻、艶の最初の夫の愛人、艶の愛人だったかもしれない男の妻、艶がストーカーしていた男の恋人、艶のために父親から捨てられた娘、艶を看取った看護師……。彼女たちの人生にはじめ、艶はいない。あまりにも唐突に、“艶”という存在が思考の中に入り込んでくる。どんな人物なのか、どんなふうに彼らは付き合っていたのか、知りたいと思いつつもそっけなく返されれば詳しくは聞けない。聞けないからこそ彼女たちはそれぞれに思い悩み、想像をたくましくする。得体の知れないわからない女ほどタチの悪いものはない。しかもその女は今まさに死にかけているというから、さらにタチが悪い。艶という女の影が落ちるほどに、よく見知った彼らはいつしか見知らぬ他人のように見えてくる。

 確かに今愛されている。その疑いようもない愛情の中にいながらも、人は100%を信じられない生き物だ。疑い出したらきりがない。小さなほころびはやがて大きな裂け目になる。それが、得体の知れない女に関することだったならなおさらのことだ。愛情であれ、憎しみであれ、何らかの執着を一度でも抱いてしまったことはなかなか消せない。人の関係性というものは相手あってのものゆえに、どちらか一方が覚えているかぎり、完全に関わりを断つこともできない。その上、艶と関係を断った後も、彼女と関わった男たちの物語は続いてゆく。そして、男たちが新たな女たちと出会えば出会うほどに物語は続いてしまうのだ。艶が死んだ後もなお、彼らの物語もわたしたちの物語も当然ながら続くのである。

 連作形式になっているこの物語。最終章だけが艶と直接的に関係のある男の物語になっていて、艶という人物像が鮮やかなまでに感じ取ることができる。それまでの物語の中で奔放に謎めいていた艶という女のイメージが、一人の女性としてどんな一生を生きたのかが最後の最後でよくわかるつくりなのだ。ダイレクトに艶自身の物語ではないにしろ、勝手に想像をふくらませてきたイメージの中の彼女が、妙なくらいに生き生きとして描かれている。確かにこの世界に艶という人物がいて、彼女と関わりあった人物たちがいて、間接的に彼女を知った女たちがいて、読み手であるわたしたちがここにいる。愛されていた、愛されていなかった……それぞれの思いを胸の中にしまって、ゆっくりそっと本を閉じる。

410473103Xつやのよる
新潮社 2010-04

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 ≪井上荒野の本に関する過去記事≫
 ・『静子の日常』(2009-08-12)
 ・『雉猫心中』(2009-03-18)
 ・『あなたの獣』(2008-12-27)
 ・『ベーコン』(2008-07-27)
 ・『切羽へ』(2008-07-10)
 ・『夜を着る』(2008-03-26)
 ・『ズームーデイズ』2007-08-12)
 ・『潤一』(2006-12-28)
 ・『誰よりも美しい妻』(2006-12-27)
 ・『不恰好な朝の馬』(2006-12-07)
 ・『ひどい感じ 父・井上光晴』(2005-10-21)
 ・『だりや荘』(2005-05-06)
 ・『ヌルイコイ』(2005-05-03)
 ・『しかたのない水』(2005-04-27)
 ・『もう切るわ』(2005-02-19)


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コメント

初めまして、Pokeと申します。
『つやのよる』を検索していてこちらにたどり着きました。
井上荒野さんのファンです。
たくさんお読みになっている様子に、うれしく思わずコメント&TBさせていただきました。
よろしければ、またおいで下さいませ。。

投稿: Poke | 2010.06.07 19:16

はじめまして。
コメント&TBありがとうございます。
わたしも井上荒野さんの作品、とても好きです!
ここのところ新刊が立て続けに出て、
ファンとしてはとても嬉しいですよね。
ウキウキとしてしまう。
これからも追いかけたいと思っています。

投稿: ましろ(Pokeさんへ) | 2010.06.08 12:10

TBさせていただきました。
読んで、あああ、いいもの読んじゃったとドキドキして、でも、うまいこと言葉にならずもどかしい思いをしていたときに拝読して、ずいぶんすっきりいたしました。
艶の輪郭の浮かび上がらせ方が絶妙だとは感じてはいましたが、ましろさんのを読んで、そのうまさとは、単に井上さんの構成力や表現力のうまさにとどまらず、読者の想像力をコントロールする巧みさにまで及ぶと考えてみたとき、私が、よくわからないけど、すごいものを読んじゃったかも・・・と感じた戦慄の読後感に、一つの輪郭(仮説(笑))を得た気分になりました。
どうもありがとうございます。

投稿: 時折 | 2010.06.14 19:14

時折さん、コメント&TBありがとうございます。
ああ艶という人物の輪郭の浮かび上がり方は、
どきりとするような感じでもあったなぁと、
読み終えて少し経つ今は思い出します。
さまざまに想像を掻き立てるようでもあり、
とても魅惑的な読書時間でした。
“いいものを読んじゃった”と思える読書なんて、
なかなか味わえるものじゃないから、大事にしたいですよね。

投稿: ましろ(時折さんへ) | 2010.06.15 16:16

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井上荒野さんの最新刊です。 荒野さんの本が続いたので、ちょっと疲れました。 彼女の世界は一筋縄ではいかなくて 何かを壊していくような、作風に見受けられます。 題名は、いくつもの謎かけを感じます。 「つや」は「艶」であり「通夜」なのです。 夫、恋人、父と関係のあったらしい、「艶」という女の危篤の知らせ。 知らせを受けた女たちの、とまどいの連作短編集となっています。 艶という文字に象徴されるように、 艶という名の女は、性的に奔放な一生を送るのです。 でも、その実像に迫るような物語ではないのです。... [続きを読む]

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» 井上荒野『つやのよる』 [時折書房]
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