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2010.02.25

ガラスの街

20100224_4006 いつからか、どこからか。自己と他者との境界が曖昧になってゆく。“わたし”という輪郭がぼやけ、“わたし”という概念がぼやけ、どうかすると自分の存在の根拠を見失ってしまう。そもそものところ、“わたし”とは何者なのだろう。その存在を証明する根本を、わたしは知らない。その存在を確かにするすべを、わたしは知らない。“わたし”は宙ぶらりんのまま、この世界の迷路でさまよい歩き続ける。いつまでも、どこまでも。止まることなく、迷い続ける。ポール・オースター著、柴田元幸訳『ガラスの街』(新潮社)は、底なしの都会にずぶりずぶりと読み手を呑み込むように展開する。おのれの存在の根拠を失うほどに、どっぷりとはまり込んだら最後、繰り返し自分自身に問いをぶつけてしまう。

 はじまりは1本の間違い電話だ。小説家の主人公のもとに“ポール・オースター”という私立探偵をたずねる電話がかかってくる。一度は「いない」と答えたものの、なりゆきから、いないはずの“ポール・オースター”を演じることになってしまう。探偵に扮する主人公は依頼者を訪ね、ときに戸惑いときに混乱しながら、あるひとつの事件を追い続けることになる。だが、次第に事件には何の実体もないと思い至る。探偵を名乗ってしまった以上、それに見合うようにさまざまな物語をでっち上げてゆくしかない。事件は探偵が動き回ることでつくられてゆくようなもの。主人公が動けば動くほどに事件は込み入ったものになり、どっぷりと物語の深みへと読者を巻き込んでしまうのだった。

 例えば、自己と他者との違いはどれほどのものだろう。物語の中でいとも容易く他者になりすました主人公を思えば、自己と他者との境界の曖昧さに少し愕然となる。“わたし”を“わたし”たらしめているのは何なのだろう、“わたし”とは一体何者なのだろうと考えてしまうのだ。よくよく考えてみれば、自分の存在を証明する根本をわたしは知らないし、自分の存在を確かにするすべもわたしは知らないと気づく。言葉を尽くして切々と何かを書きつけても、言葉の連なりは虚しいほどに散り散りになる。この世界という迷路で、わたしたちはさまよいながら生きているのだ。手探りのまま、あてもなく、“わたし”という曖昧な器の中で。ときに傷つきながら、ときに喜びながら。ただゆくしかない。

 物語の前半部分にこんな箇所がある。“ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並や通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである”ニューヨークという迷路に迷い込んでしまった主人公は、もはや誰でもない。どこにもいない。彼は彼であって、実のところ彼でない。底なしの迷路の中で、永遠に迷い続ける。“わたし”という輪郭がぼやけ、“わたし”という概念がぼやけ、どうかすると自分の存在の根拠を見失うほどに、どこでもない場所で、何者でもない姿で、その生を生きてゆく。

4105217135ガラスの街
柴田 元幸
新潮社 2009-10-31

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 ≪ポール・オースターの本に関する過去記事≫
 ・『わがタイプライターの物語』(2006-03-08)
 ・『幻影の書』(2009-12-03)


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