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2010.01.03

わたしを離さないで

20100103_4003 強いられた運命を目の前に、悲しみに呑み込まれてはいけない、と思う。感傷に浸り込んでもいけない、と思う。ひそやかにただ、彼女たちの生を見届けること。それがわたしたちにできる唯一の手段であり、役割であり、慰めでもある。悲しみを悲しみとして処理することがためらわれるような心地は、うまく言葉にならない。言葉にならないからこそ、わたしたちの無力さや虚しさが、どうしようもなくおおいかぶさる。カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)の語り手の言葉に耳を傾ければ傾けるほど、その生を、その命を通して、我が身をまっすぐに見つめざるを得ない。“生きる”という、“生きてゆく”という、現実のやりきれない手ざわりを痛いほどに感じながら。

 物語は31歳になる"介護人“のキャシーが、“ヘールシャム”という施設で学んでいた頃の過去を主に回想してゆくかたちを取っている。彼女の語る記憶は、わたしたちが知り得るものとは似ているようでどこか異なり、奇妙なざらつきを残してゆく。キャシーたちを指導する教師たちの振る舞いや言動、施設内での生活習慣や行事をはじめ、冒頭から登場する“介護人”や“提供者”という言葉に、なんとなく胸騒ぎを覚える。外界との接触を遮断された“ヘールシャム”という施設とは一体何なのか、そこに集められている生徒たちは一体何者なのか…読み手であるわたしたちは、言葉にならないもどかしさを抱きながら、キャシーの記憶を手繰り寄せるように、恐る恐るただページをめくることになる。

 閉ざされたヘールシャムでの一見幸福そうに見える日々。けれど、わたしたちに与えられているような将来の夢や可能性という言葉は、キャシーたちには当てはまらない。なぜ生きるのか、どう生きるのかという模索は与えられていないのである。ただ生まれ、ただ生きることを許されたわたしたちとは異なるのだ。ある目的のまま生を受け、決められた自分の役割を果たす…終着地点をあらかじめ定められたキャシーたちは、その生について、不思議なくらい穏やかに受け入れている。ヘールシャムでの教育は、さりげなさを保ちながら、自分たちが特異な存在であることをするすると教えてゆく。そうして、悲しみも憤りも静かにそっと呑み込んで、ごくありふれたあたりまえのこととして読ませてゆく。

 それでもキャシーたちは、すべてをただまるごと納得したわけではない。あらかじめ決められた生であっても、確かに生きたのだという強い主張を重ねてゆく。どんな力がキャシーたちを縛ろうとも、彼女たちの内なる命は運命に抵抗しようと必死にもがいて、ただ生きるために生きようとする。物語の中に広がるその主張に、わたしたちは新鮮な驚きと深い感動を新たにする。キャシーたちが抱える悲しいさだめを、ただ単に悲しみとして処理することにためらいを覚えながら、その生を、その命を、まっすぐに見つめてしまう。ゆっくりとキャシーの口から語られてきた物語は、わたしたちが味わう“生きる”という現実のやりきれなさと、ほんのりと似た色を帯びてくる。そして、絡まり合って離さない。

4151200517わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
カズオ・イシグロ 土屋政雄
早川書房 2008-08-22

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コメント

ましろさん、こんばんは!
ミクシィから来たふゆこです。

『わたしを離さないで』、すごくこころに残っている本です。
運命を静かに受け入れているように見えるけれど、
奥底にじっとりと離れない悲しみや無力感、
そして、本能としてのくやしさ、の混ざり合ったようなかたまりが
文章の間からにおいたっていますよね。

読後数日間は小説世界をひきずってしまいました。

投稿: ふゆこ | 2010.01.04 00:36

ふゆこさん、コメントありがとうございます。
わたしも読み終わってからずいぶん長いことひきずりました。
レビューを書こうと思いつつ、言語化するのが難しくて難しくて…。
ホントいろいろな感情が行間に詰まっていますよね。
ずしりとした余韻に浸り込みました。
カズオ・イシグロの作品は、もっと読んでみたいと思っています。

投稿: ましろ(ふゆこさんへ) | 2010.01.04 14:14

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