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2009.06.12

舞い落ちる村

20090610_040 夢の中をさまよっているかのような浮遊感の中で、ただただ酔いしれていた。描写される言葉というものの美しさに、描かれる人間というイキモノの立ち位置の不確かさに。現実という輪郭が曖昧になればなるほどに、物語に呑み込まれているわたしに気づいたときには、もう遅い。酔いはぐるりと体中をめぐり、わたしという輪郭をも曖昧にしてゆく。この酔いが醒めぬままに、夢からも醒めぬままに、いつまでもずぶりと浸っていたい心地になる。谷崎由依著『舞い落ちる村』(文藝春秋)に収録されている表題作「舞い落ちる村」と「冬待ち」の2編は、いずれもそんな気持ちにさせる物語である。紡がれる描写は美しく丁寧で、ゆらゆらとゆれる不均衡さと共にほのかな余韻を残してゆく。

 言葉という概念も時間の感覚も異なる奇妙な村で生まれ育った主人公は、大学進学と共に街へ出る。ここで言う街とは、わたしたちに馴染みの街であり、現実である。一方、村では時間の進み方も年齢の重ね方も、ものの数も曖昧で、人々は個々の名前すら持たない。そんな村の中で主人公は異端児のような扱いで、彼女自身も違和感を抱きながら村を出たのだった。そんな彼女は朔と出会い、互いに強く惹かれるようになる。言葉を巧みに操る機論好きの朔と言葉をうまく発せられない主人公。やがて朔のいない夏休みに病み始めた主人公は村へと戻り、また街へ戻るという生活を繰り返すようになるのだった。村と街。この間にある計り知れない距離と靄のかかったような感覚とが、魅力的に描かれている。

 一方、「冬待ち」では、かつて惠子という親しい友人のいた大学院生の糸乃(しの)が、彼女が留学したことにより、彼女を失ってしまう。そんな中、再び惠子に代わる大学図書館で司書をしている慧子と出会うことで救われる心地になる。糸乃は夢で見た「x」という文字を手がかりに慧子に導かれて長い間失っていたあるものを捜し始める。夢とも現実ともつかぬその過程が、妖しくも魅力的に描かれてゆく。糸乃にとってのそれが、生身の恋人よりもずっと優先させるべきものであることはわかるが、最後まで明かされないその正体を思うとき、はっと夢から醒めたような心地になるのは、わたしだけではないだろう。夢から醒めた後の何とも言い難い感覚は、虚しさにも似た色をしている気がしてしまう。

 「舞い落ちる村」と「冬待ち」。いずれの主人公も自分というものの意義を見出そうと思考をめぐらせて、揺れ惑っているように感じられる。「舞い落ちる村」では朔という友人が、「冬待ち」では慧子という人物が、自分というものの存在を見出す助けとなっていたように思える。一方で、何かにつけて呪縛のように主人公を追いつめてゆく存在が常にすぐ傍にある。思考の中に押し入ってくる呪縛は、無機的に主人公の脳内を埋めてゆく。それは、夢の中をさまよっているかのような浮遊感の中にいる読み手を、酔いしれさせ、現実という輪郭が曖昧になればなるほどに、物語に呑み込まれるほどの吸引力を持って、迫ってくる。その酔いはぐるりと体中をめぐり、わたしという輪郭をも曖昧にしてゆくのだった。

4163278702舞い落ちる村
谷崎 由依
文藝春秋 2009-02

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