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2009.06.16

箱に入った男

20090615_053 現実社会を象徴的に描き出し、ロシア社会の様々な様相を描き出した、狭い箱に押し込められたように自分の殻に閉じこもった男の滑稽な物語、アントンP.チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、中村喜和訳『箱に入った男』(未知谷)。晴天の日でもオーバーシューズ、こうもり傘を必ず持参、シャツを着れば顔が見えなくなるほどに襟を立て、身の回りに膜をつくるかのように自分の殻に閉じこもる箱男…そんなギリシャ語教師のベリコフの前に彼とは正反対の活発なウクライナ女性のワーレンカが現れて、周囲を息苦しくしていた彼の生活が変わると思われたが、周囲の期待を裏切ることになってしまう。晩年のチェーホフらしい、落ち着いた深い洞察と卓抜なユーモア溢れる物語になっている。

 物語は、獣医のイワン・イワーヌイチと中学教師のブールキンが狩りに行く途中、ブールキンがイワン・イワーヌイチに亡くなった同僚のことを語る形式で進む。その同僚というのは、ベリコフというギリシャ語教師のことで、彼は周囲の人目につかぬように、もし可能ならば頭まですっぽり穴倉にでも入って暮らしたいという欲望を持っていた。彼の一種の願望は異様な外見にはっきり表れており、それは前述したとおりであるが、ベリコフの防御壁はさらにエスカレートしてゆく。彼が安心して受け入れられるものは、何かを禁止したり制限を設けたりする通知や新聞の論説だけだった。そして何かが許されるたびに“あとで何か起こらなければいいが”と陰気臭く何度も繰り返すのが癖だった。

 このようにして、ベリコフは本人も気づかぬうちに町の注目の人物となっていき、あるとき結婚話が持ち込まれる。相手の女性というのはベリコフの同僚の姉で、30過ぎの、いたって陽気な騒々しい性格のワーレンカで、ベリコフは人間の義務として承諾した。だが、この出来事のため、彼はますますやせ細り、その姿はますます箱の中にすっぽり入り込んでしまったようだった。けれど、この結婚話は、ひょんなことで御破算を迎える。それどころかベリコフの生命まで奪ってしまうのである。同僚たちや町の人々はベリコフから解放されたことを不謹慎ながら心から喜んだ。長年自分たちを縛っていた規則からようやく放たれたときのようなのびのびとした気持ちで葬儀から帰ってきたほどである。

 けれど1週間たっても2週間たっても生活は相変わらず息苦しく、無味乾燥で、無意味な毎日であった。彼らは自分たちを縛っていたのがベリコフ一人ではなくて、まだ町のいたるところに大勢残っているベリコフであり、自分たちの中にいるベリコフであることに気がつくのだった。しかし、どんなふうに生きればよいのか。その答えは簡単には見つからないし、見つかるはずもない。だがこんな問いかけが生じるということは、停滞した古臭い生活にうんざりし、この疑問に新しい答えを求めようとする人間が少しずつ生まれはじめたことを意味していると言えるのではないだろうか。ベリコフのような存在は、ロシア中にも、下手をすると自分の中にも恐ろしくもいるのかもしれないのである。

4896422376箱に入った男
イリーナ ザトゥロフスカヤ 中村 喜和
未知谷 2008-09

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 ≪チェーホフの本に関する過去記事≫
 ・『中二階のある家 ある画家の物語』(2006-10-02)
 ・『ロスチャイルドのバイオリン』(2006-10-08)
 ・『大学生』(2006-10-21)
 ・『可愛い女』(2006-10-28)
 ・『たわむれ』(2006-11-01)
 ・『カシタンカ』(2006-11-09)
 ・『すぐり』(2006-11-19)
 ・『少年たち』(2007-02-02)


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