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2009.06.05

薬屋のタバサ

20090604_011jpg_effected 過ぎ去った時間は戻らない。戻らないから、戻れるはずもなく、あくまでも過ぎ去った時間としてだけここにある。そして、今起こっていることのすべてが、こうなるしかなかった必然としてわたしたちの前に立ちはだかる。後戻りなどできない。逃れようもない。だから生きるしかない。自分の足でしゃんと立って、前を見据えなくてはならない。投げやりでも、無意識でも、わたしたちは進む。足の向くほうへ。導かれるままに。たどり着いた先がきっと、自分の場所。そう信じることで、自分の生を肯定できる気さえする。東直子著『薬屋のタバサ』(新潮社)は、自分の存在を消そうとしていた女がとある薬屋にたどり着き、そこの店主や町の人々との不思議な日々送る日常を描いたものだ。

 身寄りを置き去りにして山崎由実が流れ着いたのは、商店街のはずれにある古めかしい薬屋。その名も“タバサ薬局店”。彼女がどこからやってきて、なぜその町に流れ着いたのか、誰も知らないばかりか。本人すら記憶はおぼろげでわからない。独身の店主のタバサは、つかみどころがなく、謎めいた男である。けれど、町の人々からは絶対的な信頼を寄せられており、タバサの調合する薬を求めて様々な人々がやってくるのだった。“ここに置いて欲しい”という言葉に生活全般の労働と引き換えに、わずかな給与さえ与えてくれる。夫婦でもない。恋人でもないそんなふたりの関係は、いつしか当然のようになってゆく。由実もタバサに次第に馴染み、タバサの処方された薬によって解き放たれてゆく。

 代々、医者であり薬剤師であるこのタバサという人物は、つかみどころがなく謎の多い人物である。年齢も定かではないし、彼の口から語られる話はどこまでが本当なのかわからない。タバサという「奥様は魔女」から名づけられたという名前からして、怪しげである。けれど、妙な説得力があり、こちらに反論する余地を与えないところがある。何しろ由実はどこからか逃げ出してきた身。タバサのところにいると決めとき、誓う。うしろは振り向くまい。思い出さないこと。迷わないこと。<わたし>に取り残された人生を、ただ静かに生き抜くこと。平穏な時間以外に、欲しいものはもう何もないと覚悟したのだった。けれど、タバサの口から語られる過去の記憶によって揺さぶられてしまう由実である。

 タバサの調合する薬の不思議な力、謎めいた夜の巡回、店を訪れるワケありの態度の人々、あらゆるものを飲み込んできたという庭にある池。それらに、由実の決意はなんなくあっさりと揺らぎ出すのである。わからないことだらけ。けれど、それが不思議と心地よい。たゆたうことの愉悦の中で、過ぎ去った時間は戻らないことを知る。そうして今起こっていることのすべてが、こうなるしかなかった必然としてわたしたちの前に立ちはだかる。後戻りなどできない。逃れようもない。だから生きるしかない。自分の足でしゃんと立って、前を見据えなくてはならない。わたしたちは進む。足の向くほうへ。導かれるままに。解き放たれてゆくのだ。たどり着いた先がきっと、自分の場所なのだから。

4103150319薬屋のタバサ
東 直子
新潮社 2009-05

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コメント

こんにちは。「薬屋のタバサ」を購入しました。
今、まだ、夢かうつつか…という不思議な気持ちでいます。ただ、もう一度あの町に行ってみたい、
そういう気持ちです。
東直子さん、これから読んでいきたい、
と思った小説家さんでした。
また、ましろさんのレビューを読ませて頂きながら、
読書をしたいと思いました。
ありがとうございました。

投稿: mini | 2009.09.05 23:17

miniさん、コメントありがとうございます!
本当に不思議な心地よさの一冊でしたよね。
わたしもこの作品がきっかけで東直子さんの小説を読み始めました。
たまたま新刊コーナーで出会ったのが運命だった模様。
東さんは短歌の方なので、そちらの方も今度は手にとってみたいと思っています。
今後もどうぞよろしくお願いします。

投稿: ましろ(miniさんへ) | 2009.09.07 15:41

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