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2009.05.27

海松(みる)

20090515_4023_2 生の感覚。確かにここに生き、息づいているという感覚。そういうものは、どうかするとないがしろにしがちな感覚である気がする。時間にゆとりがなかったり、日々の忙しさに追われていたり、そんな日々の中ではなかなか感じることができないものであるように思うのだ。稲葉真弓著『海松(みる)』(新潮社)には、そういう感覚があちらこちらに散りばめられており、ふとした瞬間に失ってきた時間をよみがえらせ、確かなものとして浮かび上がらせる。そして、いつしか主人公の心情のひとつひとつが、描かれる場景のひとつひとつが、どれもこれも愛おしく思えてくる。それはきっと、わたしたちの心の片隅に横たわる孤独や切なさと、どこかよく似た色合いをしているからに違いない。

 表題作「海松」で物語の舞台となるのは、志摩半島の一角。都会で働き続けることに不安を感じ始めた40代後半の独身女性である主人公は、そこに小さな土地を買い、家を建てる。そこでの暮らしの中で、改めて自分や現実のすべてについて、新しい生の感覚を見出してゆく。ある奇跡に遭遇したように心がふるえることもあれば、家の棟上式で主である木を自分が持つことに感動を覚えたりもする。生き物の生と死のはざまを垣間見て、想像しがたい一生を思う。淡々と、けれど濃密に描かれる世界は、静かな緊張感を呼び、読み手の心を穏やかなものに変えてゆく。痛みも孤独も何もかも、まるごと受け止められそうな希望すら漲るほどに。新しい光は手を伸ばせばすぐ近くにあることを教えてくれる。

 「海松」の続編のような「光の沼」では、東京で暮らす独身女性が、忙しい仕事の合間をぬって志摩半島の家に通う様子が描かれる。かけがえのない時間の中で起こる出来事のひとつひとつが何だかとても愛おしい。いつも同じ場所に陣取って迎えてくれる存在のあることの心強さは、ときによき友だちであり教師となり、主人公をほろりとも逞しくもさせるのだった。続く「桟橋」では、入江の作業小屋でアコヤ貝に真珠を入れる作業をする男のもとへ子連れで通う女の姿が描かれ、静かな余韻を残してゆく。また「指の上の深海」では、指先の冷えた女がめぐらす孤独な思いが苦しく切なく胸をかすめてゆく。これらの主人公と無縁でない自分に気づいたとき、物語がするりと心の奥底に入り込んでくる。

 その不思議。ほんのりとあたたかな、心地よいまどろみにもよく似た感覚。そして、はたと気づく、生の息づかい。主人公たちの深い孤独や切なさと共鳴しているわたし。その愛おしい感覚。やがてそれらが、身体の中に希望を育み、新しい光を見出すことを知る、喜びたるや何ものにもかえがたい。そうだ、わたしたちはしぶとくも強い。あたりまえながら、そんなことを痛感したわたしには、もはや孤独も切なさも深く根づく暗闇だって、怖くないかもしれない。生きている。そうして、生きてゆく。これからも、この先もずっと。そうして、たどり着く先が今よりもほんの少し明るい場所ならいい。逞しい生命力に満ち満ちた物語によって、何だか胸の奥がほのかにしびれる思いがするのだった。

4104709026海松(みる)
稲葉 真弓
新潮社 2009-04

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