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2009.05.05

あの庭の扉をあけたとき

20090422_074 夢のように脆く淡い小さな奇跡は、それでも確かなものとしていつまでも心に残る。そのほろ苦さ、やわらかな心地よい感触、どこか懐かしさを呼ぶ光景…すべてが愛おしい。ありとあらゆる何もかもが愛おしくなる。もう戻れない日々だから。残酷にも時は確実に流れ、わたしたちの記憶はいつしか薄れてしまうものだから。どんなに大切な記憶も色褪せ、やがては消えゆくものだから。佐野洋子著『あの庭の扉をあけたとき』(偕成社)には、そんなやわらかな記憶への思いが詰まった物語が紡がれている。そうして、リアルな世界からするりとファンタジーの世界へ誘い、著者独特のユーモアと力強いタッチで描かれる物語は、どこかひねくれていておかしさをも誘う。1987年刊の改訂版である。

 5歳の<わたし>と70歳のおばあさん。父親との散歩の途中で見かけるおばあさんを怖がりながらも、興味津々な<わたし>。ふたりはどこか似た部分を持っていた。ある時ジフテリアで入院した<わたし>は、病院で見知らぬ強情な少女と出会う。強情な似た者の同士の心が通い合うとき、小さな奇跡が起こる。<わたし>が少女に差し出されてかけたメガネで目にしたのは、強情だった少女と強情だった少年の遠い日の記憶だった…。強情ゆえのその切なさったら、ないのである。けれど当の本人は、その強情さを楽しんでいるかのよう。物語はこの後思わぬ展開を迎えるわけだけれど、さり気なく毒も含んでいて、児童書といえど、なかなか侮れない。妙なリアリティを持って読み手の心を揺さぶる。

 物語の中でおばあさんがこんなことを言う。“わたしは七十になったけど、七十だけってわけじゃないんだね。生まれてから七十までの年を全部持っているんだよ。だからわたしは七歳のわたしも十二歳のわたしも持っているんだよ。”と。記憶は年々薄れてゆくものだけれど、確かにわたしの中にも何歳もの自分があるのだ…とはっとさせられる言葉である。大人になり過ぎてしまったわたしも子どものままでいるわたしも、まるごとすべてわたし。わたしという構成要素を作るかけらたちなのだろう。どれが欠けてもわたしじゃない。わたしはこれまでの日々すべてがあって、今のわたしなのだ。そんなふうに思うと、何だかとてもほっとする。今の自分がほんのりと好きになる。そして、もっと好きになる。

 表題作の他に収録されている「金色の赤ちゃん」。こちらは、ちょっと他の友だちより成長の遅れているとも子ちゃんの世話を頼まれた<わたし>の物語。本当はとも子ちゃんの面倒を見ずに、他の友だちと遊びたい。ほんのり気になっている男の子もいる。そんな中、<わたし>は子どもならではの残酷さで、とも子ちゃんをひそやかにいじめてみたりする。けれど、とも子ちゃんは遊んでもらえると思っているらしく無邪気に喜んでいる様子。ある日、とも子ちゃんがいなくなって、探し回ることになる<わたし>は、不可思議な光景を目にするのである。現実から一気にファンタジーに変化する展開は、夢をみているかのように脆くて淡い小さな奇跡のよう。けれど、鮮やかに脳裏に焼きついて離れない。

4036430505あの庭の扉をあけたとき
佐野 洋子
偕成社 2009-04

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