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2009.03.10

やさしい現代詩

20090218_011 言葉は無限の存在か、はたまたちっぽけなものでしかないのか。自分の内に秘めた言葉は、自分だけのものに過ぎない。けれど、その言葉をほんの少し放ったらどうだろう。言葉は放った先から、別人のものになる。わたし以外の誰かの。あるいは、わたしも含む誰かの。言葉は、そうやって届く。あらゆる人々へと。そしてまた、ただ放たれたまま、消えゆく言葉もあるだろうと思う。悲しいかな、言葉というものには限りがあることも認めざるを得ない。そんな言葉を自由自在に操る詩人たちの言葉がひそやかに煌めく、小池昌代、林浩平、吉田文憲・編著『やさしい現代詩』(三省堂)。自作朗読CD付きで、目で、耳で詩人たちの思いや息づかいを楽しむことができる17の詩が一冊となっている。

 谷川俊太郎の「私は私」。“私”という概念が心地よくゆらぐ作品である。<私>はもちろん<私>でありながら、<私>以外の誰かにも流れ出す。<私>はとどまることを知らず、<あなた>へとはみ出してゆくのだ。それは自分以外の誰か、つまり他者とのつながりのようにも思える。名前は知らなくても、どこにも戸籍がなくても、<あなた>を知っている。なぜなら他者とのつながりなしに、<私>は存在しないから。“私はほとんどあなたです”という一言が、やわらかに読み手に絡みつく。谷川氏のあたたかな声もまた、読み手の心にすとんと落ちゆく。ああ、この声の主がこの言葉たちを生んだのだと納得する。そして途端に、この世のすべての人々が、身近に転がる物たちが愛おしくなるのだ。

 小池昌代の「夕日」では、淡き恋心を思い起こさせる。結婚したばかりの<私>の前に久しぶりに現れた片岡という男性。ぎこちないやりとりは、可笑しくも切実だ。結婚した<私>に“あ、あ、あい、あいませんか…”と迫る。もちろん、受け入れられない。だが、問いかけてみたい気もする。いつ?どこで?と。ほんの一瞬のゆらぎのドラマが、展開されている。平田俊子の「宝物」。こちらも恋心を描いたものだが、また一味違ったゆらぎがある。愛する人が放った“コンセルトヘボウ”という言葉。その愛しいやわらかな響きに夢中になる。オランダ語でコンサートホールというただそれだけの言葉が、まるで魔法をかけられたみたいになる。そして、潔い結末。読み手は言葉が変化する様を目にする。

 新川和江の「欠陥」には、人の心の隙間や空洞にこそ、受け入れる間口があることを教えてくれる言葉たちが紡がれる。空地に捨てられた瀬戸ものは、同じ場所にいて、ずっと同じものを見ている。何でもすべてを受け入れ、けれどそれ自体は変わらない存在でいる。空っぽでいながらにして、嬉しくすべてを照り返す。誰にでも。何に対しても。その受け皿は広がっている。欠けているわたしたちだからこそ、つながれるのだと。欠けているわたしたちだからこそ、伝えるための言葉があるのだと言っているかのように。言葉は放った先から、別人のものになる。わたし以外の誰かの。あるいは、わたしも含む誰かの。言葉は、そうやって届く。あらゆる人々へと。そしてきっと、わたしの元へも。

4385363838やさしい現代詩―自作朗読CD付き
小池 昌代
三省堂 2009-01

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