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2009.01.04

血液と石鹸

20081231_005 奇妙なる味わいの毒気に心侵されながらただただ読み耽る。時間を飛び越え、自分自身の存在さえもいつしか遠のいて、誰でもないわたしはどこでもない場所に誘われて運ばれてゆく。おかしくて、おかしくて。くつくつと笑うこと三十七篇。名高い詩人であり、小説家としても活躍する、ベトナム系アメリカ作家である、リン・ディン著、柴田元幸訳『血液と石鹸』(早川書房、ハヤカワepiブック・プラネット)は、なんとも心地よいブラックユーモアと皮肉たっぷりの一冊である。短いもので数行、長いものでも十数ページという短さゆえに、その潔いまでの実験的切り口に圧倒されながら呑み込まれてゆく。どこから読んでもよし。繰り返し読んでもよし。もちろん、はじめからじっくり読むのもよし。とにもかくにも一度足を踏み入れたが最後、この一冊の虜になってしまうのだ。

 中でも印象的なのは、一番はじめに収録されている「囚人と辞書」。牢獄に放り込まれた一人の若者が、何語か不明な言語の解読に挑む姿を描いてゆく。この一篇だけでもう、著者の描く世界にずるずると引きずり込まれてゆくのがわかる。また、「囚人と辞書」とも通ずるようなテーマを扱っている、偽英語教師が米軍兵士のしゃべっていた声の記憶をもとに実際とは異なった英語を再構築する「“!”」や、隣人が夜中に叫ぶ不可思議な言葉の正体をあれこれ推測する「自殺か他殺か?」などを読んでゆくと、外国語という言語のブラックホールにぽつんと取り残された心地にさえなる。これは、母国語とは異なる言語での生活を強いられてきた著者ならではの、自虐的なユーモアと皮肉なのかもしれない。

 三十七の物語の端々には、こういった言語に対する毒が含まれている。もちろん、それらは読み手としたらなんとも不思議な心地になりながら、気持ちよく漂えるものである。そして、読み終えたあと現実に引き戻されたとき、ふと考える。言語に対する正しさなどというものは、この数々の物語においては問題ではないのだと。むしろ、自分なりの言語を持っていることは、当人にとってはとてつもなく幸福であることを。牢獄で辞書と格闘する若者も、偽英語教師も、夜中に不可思議な外国語を叫ぶ隣人も…それぞれが自分の言語を持ち、自分の世界を満ち足りたものとして楽しんでいるのだと。それは社会の中でどういう位置にあろうとも、人としてこの世界を生きる上での徳であるように思うのだ。

4152089571血液と石鹸 (ハヤカワepiブック・プラネット)
柴田元幸
早川書房 2008-09-26

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コメント

>人としてこの世界を生きる上での徳であるように思うのだ。
私であれば「徳」ではなく「技(術)」とか「能力」という言葉を使ったと思います。おそらく込められている意味はほぼ同じだと思うのですが、私の感覚では「徳」という言葉には「精神的あるいは道徳的にすぐれた品性・人格」というニュアンスが含まれているのです。ただ、ここで徳があるとされている人達は、そういうものとは無関係であるように思われます。それだけに「徳」という言葉に多少の違和感をおぼえました。
このへんについて管理人さんは、どうお考えでしょうか?

投稿: 冬の西瓜 | 2009.01.08 14:52

冬の西瓜さん、コメントありがとうございます。
「徳」という言葉に対して、わたしはさまざまな捉え方をしています。
レビューを書くときに、「得」と使った方がわかりやすいかもしれない、
「技」や「能力」という候補ももちろん考えました。
いっそ「徳」という言葉から離れようとも思いました。
でも、作品を繰り返し読んでいるうちに、
これは人の精神性にかかわることだとわたしは考えました。
その場合、「技」や「能力」「得」といった言葉は安っぽい印象を受ける。
だから敢えて、含みのある意味を持つ「徳」を選んで使いました。

わたしは、この物語に登場する人々は皆それぞれに、
ただの自虐に終わらないユーモアと皮肉の中に、
人を心服させる力や天性があると思っています。
ネタバレになるので詳しいことは書きませんが、
あなたのおっしゃる「徳」とは少し違うニュアンスを感じたのかもしれませんね。

投稿: ましろ(冬の西瓜さんへ) | 2009.01.09 06:23

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