« 逃れの森の魔女 | トップページ | 野球の国のアリス »

2008.11.04

ことば汁

20081031_015 言葉の持つ、無限のイメージが紡ぎ出す物語たちがある。心のあわいまで深くえぐるように描写しながら、どこまでも冷酷に、どこまでも感覚を研ぎ澄まして。そして、自虐的なまでに鋭利な刃物を我が身に向ける。そうしてざわめくほどに不穏な空気を予感させながら、叶わない恋に、果てしない欲望に、嫉妬心に、諦めの後に幻想の渦に巻き込まれてゆく。小池昌代著『ことば汁』(中央公論新社)に収録されている六つの物語はいずれも、官能的な異世界へと繋がっていて、その主人公たちは皆、妖しげな世界に魅入られた者たちばかり。淡々と過ぎゆくはずだった日常を、ふとしたことから歪められてしまうのである。もはや後戻りなどできない。ぐいぐいとその世界に読み手までも溺れさせるのだ。

 どの物語も印象的で好きだったが、とりわけ「すずめ」が鮮烈だった。これは、五十代の孤独なカーテン専門店の女主人の話である。自分の生き方や仕事に対して、どこまでもストイックに自身を貫いてきた彼女。だが、新しい顧客である滝沢氏の屋敷でのパーティーに招かれたことから、見知らぬ欲望が目覚めてしまうのだ。珍しいという貝の料理を貪る人々、謎めいた美少年の存在、パーティーに顔をなかなか見せない滝沢氏の存在の不可解さ…などから一気に物語は加速してゆき、支配されて身を委ねるようになる欲望の果てを描く。どこまでが悪夢なのか、現実なのか、もはや最後はどうでもよくなる。いいや、すべては物語の一部になる。あなたもわたしも誰もが“すずめ”。嗚呼、おそろしや。

 「つの」では、詩人の先生の秘書である女性が主人公である。三十年以上先生に尽くしてきた日々のことを、誇りに思っている。手のかかる先生に対する思いは、もはや恋以上のもの。けれど、肝心の先生は恋多き人。一生叶わぬ恋慕は、先生をまるごと分身のように理解している彼女のバランスを不意打ちのように狂わせるのだった。“わたしはさびしい。わたしはむなしい”と。そんな、どこかケモノめいた心の果てにあるもの。それがどんなかたちであれ、ほんの少しでも叶えられたのならば、わたしたちは幸せである。息を呑むほどの後半部分の加速加減が何とも心地よく、その設定の妙に思わず納得してしまうから不思議である。三十年ごしの思いが届いたか否かは、読んでみてのお楽しみ。

 もうひとつ、「野うさぎ」。こちらでは、小説が突然書けなくなってしまった女性作家が主人公だ。森に入って老婆と出会い、ぽつぽつと聞かされた話は、まるで自分がかつて書こうとしていた物語のようだと思う。物語は誰かがかわりに書いてくれる…そんなふうに様々なしがらみから少しずつ解き放たれてゆく彼女は、名前もなくし自由になり、やがて老婆に導かれるままにある仕事をするようになる。“日常は、死へと続くゆるやかな灰色の坂道。ゆっくり下りながら、たんたんと暮らしていく。それが動物たちの生き方…(省略)”…そうだ、わたしたちは皆どこかケモノとしての生き方を忘れている。もっとケモノであれ。どうか恐れずに。わたしのままであれ。そんなふうに思わせてくれる結末だ。

4120039749ことば汁
小池 昌代
中央公論新社 2008-09

by G-Tools

人気ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログ←宜しければクリックお願い致します。

|

« 逃れの森の魔女 | トップページ | 野球の国のアリス »

21 小池昌代の本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/43006438

この記事へのトラックバック一覧です: ことば汁:

« 逃れの森の魔女 | トップページ | 野球の国のアリス »