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2008.10.30

逃れの森の魔女

20081030_006 表面だけの、見せかけの栄誉や美をてらうこと。つまりは、人が誰でも持ち得る虚栄心というもの。それがどんなにも脆いものなのか。そして、どれほどまでに罪深いものなのか。グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」の魔女を主人公に描かれた、ドナ・ジョー・ナポリ著、金原瑞人・久慈美貴=共訳『逃れの森の魔女』(青山出版社)を読んで痛感した気がする。人は誰しも甘い話に目が眩む。そうしてひとつ手に入れば、もうひとつ欲しくなる。もっともっと欲しくなる。今ある自分の立ち位置を忘れて、すぐ先にある栄誉や美が欲しくてたまらないのだ。純粋であるがゆえに、欲しくてたまらない。ただまっすぐに見つめるから、その欲望は止まらない。とどまることを知らない。

 物語は魔女がかつては人間であり、娘を溺愛する母親であり、信仰心を持つ心優しい産婆であったところからはじまる。容姿は醜いが産婆としての腕は確かなもので、いつしか病気の源である悪魔をあやつる女魔術師となる。だが順風満帆に思えた頃、ほんの少しの油断から狡猾な悪魔の罠にはまり、魔女にされてしまうのだ。悪魔の誘惑とたたかう彼女の心情は、あまりに孤独で胸が締めつけられる思いがする。“人間の子どもを食べろ”という悪魔からの言葉から逃れるために、暗い森の奥に暮らすことを決め、ひっそりと生活していたのだが、そこにヘンゼルとグレーテルが迷い込んでくるのである。そこからは、お馴染みのグリム童話だが、その解釈に何だかひどく泣けてくる。

 主人公の魔女の名は、最後まで明らかにされない。それがこの物語をひどくせつなくさせるとともに、彼女の心の葛藤が身近な問題として読み手側に押し寄せてくる。彼女の生い立ち、未婚の母となった理由、娘アーザの父親らしき人のこと…そういったものが、物語の端々に散りばめられていて、読み手はゆっくりと、けれど確かに彼女の傍に寄り添ってゆく。彼女が美しいものに執着した理由。それは、自分自身の醜さゆえだったのか。いいや、違うだろう。彼女は特別に過ちを犯したわけではないのである。甘い誘惑に負けたのは事実だ。けれど、わたしたちの誰一人として、彼女の選択を否定することはできない。わたしたちの誰もが彼女になり得る可能性を秘めているからである。

 美しいもの。ときとしてそれは、人の心を惑わす。愛するものをすべて失ってもなお、人間でなくなってもなお、まだ人間を信じようとした魔女。そのもの悲しい生き様に寄り添いながら、もう一度あの「ヘンゼルとグレーテル」を読み返してみたくなった。童話といえども、なぜ愚かしいくらい簡単にグレーテルに殺されてしまったのか。なぜ暗い森の奥にお菓子の家を建てて住んでいたのか。その謎を紐解くためにも、この物語は読み手の期待に充分応えてくれている。そして、わたしたちの中に潜む虚栄心をほんのりと静めて、今ある日々を大事にしなくてはならないと思わせてくれる。表面だけの、見せかけのものなどいらない。本当に信じられるものを手にしたい…そんなふうに思うのだ。

4899980035逃れの森の魔女
Donna Jo Napoli
青山出版社 2000-02

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コメント

ましろさん、お久しぶりです。
このレビューのタイトルをみると『眠りの森の美女』を連想してしまいますね。
『眠り・・』は紆余曲折がありつつも最後はハッピーエンド?で終わる物語と記憶していますが、
この『逃れの・・』は私たちの心の奥に潜む欲望や虚栄心にもスポットをあてて揶揄しているような気もします。

美しいもの、甘い誘惑、お金、、、という外見上での魔物にどう対処したらいいのか?
どう逸る気持ちを静めて本当に大切なものを見極めるべきなのか?
 テーマは深いですね。


投稿: AJ | 2008.11.02 17:48

AJさん、お久しぶりです。
コメントありがとうございます!
はい。この物語は単なる童話のパロディに終わらず、
とても奥の深いテーマを取り上げているように思います。
めでたしめでたしで終わるようなハッピーエンドに隠された、
とてつもない“悲劇”を描いたとでも言ったらよいのかな。
とにかく心理描写が巧みで、思わず魔女に寄り添ってしまうのです。
欲望や虚栄心といったものは、人間であるかぎり消し去ることはできないけれど、
それでも様々な物事に対して誠実であれたらと思います。

投稿: ましろ(AJさんへ) | 2008.11.03 11:46

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