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2008.07.10

切羽へ

20080704_018 知らず知らずのうちに傾いでゆく思いと、確固たる守るべき思いと。その狭間で揺れながら、危うい均衡を保ってゆく。誰かに気持ちを寄せる、ということがこんなにも甘美でエロティックであることなどつゆしらず、女は気がつけば視線を向けているのだ。姿形、言動、そのすべてを一瞬一瞬逃すまいとするみたいに。井上荒野著『切羽へ』(新潮社)には、主人公のそんな視線がとりわけ印象に残る。そこには、無防備な姿を晒した誰かがいて、明らかに主人公から目をそらした誰かがいる。それでも見つめる。だからこそ見つめる主人公の視線は、いつしか読み手自身の目となり、物語全体をまるごと全部包み込むみたいな心地になるのである。

 物語は、廃墟の残るかつては炭鉱が栄えた小さな島が舞台。31歳の養護教諭のセイは、画家である夫と穏やかな生活をしていた。そこへ音楽教師の石和が赴任してきたことで、島の空気全体が変わってくる。島の人々には良きも悪しきも島人ならではの接し方があるのだが、やはり石和の存在は明らかに異質の存在だ。そんな流れ者のような石和に惹かれてゆくセイ。出会った瞬間から心ざわめいたのにもかかわらず、その心のうちだけに秘められた思いを、物語はただひたすらに彼女のモノローグとして語り続ける。セイの同僚で奔放な月江とその恋人の“本土”さんの恋の行方、セイの亡き父の診療所の常連だったしずかさんの存在も、物語の大きな核となっている。

 この物語には、劇的な展開は起こらない。ただ主人公のセイがひたすらに思いを募らせるばかりだ。石和に対して。そして、夫に対しても。そのあまりの切実なる思いに、ぎゅうっと胸がしめつけられる。それはきっと、わたしがセイほどに誰かを見つめたことがないからかもしれないし、誰かに強く惹かれたことがないからかもしれない。募る思い。けれど、何も起こらない恋。こころのうちだけで起こるその葛藤や蠢きに、ひとつ大きなため息がこぼれた。ちなみに、“切羽(きりは)”とは、炭鉱の坑道の先端の石炭を掘り出す場所のこと。“先に進めないほどの究極の恋愛”という意味で用いられているそうだ。出口の見えないこの思いの終着は、そっと胸にしまおう。

4104731021切羽へ
井上 荒野
新潮社 2008-05

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コメント

ましろちゃん、こんばんは♪
TB出来ませんでした。

実はこの作品、感想あとまわしになってたもので本当にまとまらずに苦労しました。
井上さんの文章の美しさと話の展開の面白さには釘づけになったのですが、どうしてもそこから先の作者が何を言いたいのかは、男性読者の私としたらわかりづらかったのも事実です。
そのひとつの理由として石和さんに対する共感というか人間的魅力が感じられなかった部分が大きかったのですね。

今、女性読者の感想をかなり読ませていただきましたが、私同様石和に対して魅力を感じてる方は少ないと思いました。

でもさすがに巧く感想書かれてると感心しております。
飯食えるよ(笑)

ちょっと話し変わりますが、某所でのクレストブックスの件よろしくお願いします。
ましろちゃんの力が必要です(笑)

投稿: トラキチ | 2009.03.06 04:51

トラキチさん、コメントありがとうございます!
TBできませんでしたか。このブログでは結構よくあるんですよ…
申し訳ありませんが、夜間9時以降を避けてもう一度お願いできますか?
わたしの方からもさせていただきますね。

そうですね。この作品は本当にわたしもレビューを書くのに苦労しました。
石和に対しての共感はあまり持てないでしょうね。きっと。
男性であるトラキチさんが共感できないとなると、
やはり人としての魅力はあまりないのかしら。モラル的なものもありますし。

でも、いつもながら井上荒野さんの書かれる文章には魅了されました。
わたしは作者の言いたいことがはっきりしていない作品が結構好きで、
あやふやなまま何も大きなことが起こらないまま、
ひっそりと進んでゆくものが好きです。
心のうちに秘められた敢えて描かれなかった部分に魅力を感じます。

某所でのクレストブックスの件、了解しました!
わたしにできることなら、なんなりと。

投稿: ましろ(トラキチさんへ) | 2009.03.06 06:35

はじめまして。
最近とくんとその世界に魅せられていた井上荒野さんの本についてのたくさんのレビューを楽しく拝見していました。
>あやふやなまま何も大きなことが起こらないまま、
ひっそりと進んでゆくものが好きです。
同感します。またお邪魔します。

投稿: 時折 | 2009.09.22 08:20

時折さん、はじめまして。
コメントありがとうございます!

井上荒野さんの本はかなり好きで、
新刊が出るたびに追いかけております。
拙い文章を遡って読んでくださって感謝です。
またぜひいらしてくださいませ。
いつでもお待ちしております。

投稿: ましろ(時折さんへ) | 2009.09.22 11:40

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