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2008.02.23

聖少女

20070109_555006_2 狡猾な少女の罠に呑み込まれるようにして、わたしはしばしその迷宮に浸り込んだ。少女を、少女とたらしめるもの。その聖性。自らすすんである種の禁忌を犯してまでも、聖女にまでならんとする、その独特の感覚というものの矛盾。そこまでして、少女であらんとする切実なる思い。そういったものたちが脳内を掻き乱すのを許して、倉橋由美子著『聖少女』(新潮文庫)に読み耽ったのだった。少女はいつまでも純真無垢なままの少女ではいられない。やがてはその性に目覚め、血を流すことにも慣れ、ゆるやかな衰退という下降線(それを幸福とも呼ぶ)をたどらねばならない。これは、その、ゆるやかな下降線に対する淡き抵抗と呼ぶに相応しい物語であると言ってよいだろう。

 物語は、あるひとつの性愛のかたちを浮かび上がらせる少女小説であるとも言える。事故で記憶を喪った未紀が綴っていたノートには、「パパ」と呼ばれるほど歳の離れた男性との恋愛について詳細に書かれていた。未紀の婚約者である語り手のKは、その内容に近親相姦的な匂いを嗅ぎ取り、真偽を確かめようとするのだが、それはかつて近親相姦の関係にあった、KとKの姉との記憶を呼び起こすものだった…。物語は、ふたつの近親相姦的関係を描きながらも、ひとつは聖のものとして、もうひとつは俗のものとして描いており、読み手はその対照的なふたつの関係性を紐解いてゆくことになる。それはまるで、ミステリの謎解きのようでもあるのだ。

 性愛ということをひどく嫌悪する少女がいる一方で、性愛を武器に少女であることを主張する物語上の少女は、ある意味で選ばれし少女の、最後の手段を用いたように思える。やがて、俗物と化すことを知っているがゆえのあがきとでも言おうか。どうにもこうにもままならない現実と、じりじりと擦り寄ってくる俗物への嫌悪感、そして何よりも少女でいられる時間の儚さに対する畏れというものを感じる。著者曰く“不可能な愛である近親相姦を、選ばれた愛に聖化すること”は、一瞬のうちに駆け抜ける少女のときの中の、煌めきのようなものではないかと思うわたしだ。そうして、刻一刻と迫り来るおしまいの日までの、力の限りの抵抗の証であるとも思うのだ。

4101113092聖少女 改版 (新潮文庫 く 4-9)
倉橋 由美子
新潮社 2008-01

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コメント

こんにちは。
倉橋由美子、次々と復刊されていきますね~。

わたしもまだ初々しい乙女だった頃・・・(笑)
はじめて『聖少女』を読んだ時は、ただもう衝撃でした。
「聖性」と「魔性」
つきつめていくと、同じものなのではないか・・・
ただ、見る角度によって違ってみえるだけ・・・
なんて、眉間にシワよせながら考えたものです。
これもまた、読んでみたくなっちゃった♪

投稿: nadja | 2008.02.23 15:18

nadjaさん、コメントありがとうございます!
復刊は嬉しい限りですー。
でもとても追いつけないでいるわたしでございます。

『聖少女』の聖性と魔性は、本当に紙一重ですよね。
読む角度によっては、聖性とはあまりにも脆く思えてきます。
かつて自分自身も少女だったはずなのに、少女のことがわからない…
そんなモヤモヤをしばし引きずりそうな気がします。

投稿: ましろ(nadjaさんへ) | 2008.02.23 21:12

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