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2007.11.30

うつつ・うつら

20070811_001 同じような一日が繰り返し、繰り返される。それでも今日に耐えて、明日に耐える。その繰り返しに耐えることが、きっと“老いてもなお生きる”ということに繋がっているのではないだろうか。そこではもはや、日常における鬱屈や閉塞感などについて考える余地はない。許されていない。立ち止まって考えることができるのは、きっと若さゆえの特権なのである。赤染晶子著『うつつ・うつら』(文藝春秋)には、そうやって耐える人々の姿が印象的に描かれている。人は皆、生活から逃れることはできない。できないからこそ、耐えるすべを嫌でも学ばなくてはならない。そうして、いつしか苦しさが日常になり、慣れてゆくのを待つのである。

 収録されている「初子さん」の舞台は、昭和50年代。洋裁職人としての道を貫いている初子さんの必死さは、のんびりと流れる町からは浮いている。このままの暮らしを続けていけば間違いがないはずだが、職人を目指し始めた頃の情熱が揺らぎ、毎日がしんどい初子さんである。そのしんどさは、若さゆえのものであるのか、繰り返しの日々へのささやかなる抵抗なのかは定かではない。物語は、初子さんの母親の生き方や町の人々の姿をまじえながら、穏やかに展開してゆく。物語の端々には“堪える”という言葉が目立って用いられ、どうかするとぐらつく思いがあることに恥じ入ったわたしだ。日々堪えること、それはつまり生きることなのである。

 表題作「うつつ・うつら」。こちらの舞台は場末の劇場である。マドモアゼル鶴子は来る日も来る日も漫談をすることに耐えている。古い劇場では、芸人が舞台に立っていようとも、階下の映画館からの音が洩れ聞こえてくる。客は気もそぞろになり、そのノイズに弄ばれてしまう。ただでさえ客が少ないというのに、芸すら成り立たない劇場なのだった。芸人たちが一人また一人と劇場から逃げてゆく中、鶴子がここにしがみつく理由はただひとつ、女優になるためである。そんな鶴子をも脅かす存在として、ある日九官鳥がやってくる。パリ千代と名づけられたそれは、次から次へと音や言葉を覚えては、言葉から意味を剥がし、破壊してゆくことになる。

 やはりここでも、一日一日にしがみつき辛抱する鶴子の姿は、“堪える”という一言に終結する。危うく沈みかけながらも、必死になってもがき足掻いて見せる鶴子。苦しんでも苦しみ足りないとばかりに。ときに劇場を飛び出して、外の世界で生きたい衝動にかられながらも、彼女は舞台に立ち続ける。彼女はきっと知っていたのだろう。いつしか絶望する日が来ることを。いや、絶望そのものの意味を。生きるほどに荷物を増やすわたしたちが、生きにくくなる理由を。彼女のしがみつき。そして堪える様。きっとそれらは人が人で在り続けるための、あるひとつのすべである。今、ここにいるための、今を生きるための。そしてこれから、先へと向かうための。

4163259309うつつ・うつら
赤染 晶子
文藝春秋 2007-05

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