« 猫風船 | トップページ | 雪沼とその周辺 »

2007.10.30

雨男、山男、豆をひく男

20071021_019 男の静けさの中には、確かな躍動があった。ささやかな、けれど確かな躍動である。生であり、性であるその躍動に、ひどく眩暈をおぼえたのは、きっとわたしがそれらと向き合うのを嫌うからであろう。生であり、性である。その、男という生き物に対して、わたしはかつてこれほどまでに躍動を感じたことがあっただろうか。穏やかで、無口な。そして、ひどく孤独な魂を持った。街のどこにでもいる、ありふれた男たちに対して。けれどわたしは、この男たちを知らない。どこにでもいるからこそ、ありふれた男たちであるからこそ、少しも知らないのだ。だからこそ、自分が女であることを恥じ入り、同時に相対する女であることを喜びに思う。

 小池昌代著『雨男、山男、豆をひく男』(新潮社)。男たち、女たち、水源への三部構成からなる詩集である。先に述べたように、男たちへのまなざしがとても強く残る1冊だ。著者のまっすぐに人やものを見据えたまなざしは、ボクシングジムの逞しい男たちにそそがれてはじまり、旅人に滝の場所を案内する山男にそそがれて終わる。ときに、人という生命の躍動を感じさせながら。ときに、躍動の裏側にありありと存在する孤独を照らしながら。日常を鮮明に語る言葉の端々には、何気なくも強く、芯のあるものが連なっているのだった。そうして、読み手の心に深く言葉を染み入らせて思わせるのだ。わたしは、こういうふうに生きていきたい、と。

 とりわけ、わたしが何度も繰り返し読んだ詩がある。「浮浪者と猫」という作品である。黒猫を抱くのがうまい浮浪者の話である。やがて浮浪者が死を迎えるとき、その腕から黒猫がするりと離れてゆく様子が、鮮やかに描かれている作品だ。生と死。それが分離したところを見た者は誰もいない。ただ紡がれる言葉だけが穏やかでやさしい。そして同時に、残酷でもある。そんな詩である。わたしが心打たれたのは、誰にでも起こり得る最期というものへの思い。著者のまなざしの深みに対してである。目の前にあるものを、見る。目を背けずに、見る。確かなものを、見る。それだけのことがひどく困難なことに気づくのは、わたしだけではないはずだ。

4104509019雨男、山男、豆をひく男
小池 昌代
新潮社 2001-12

by G-Tools

にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。
もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…

|

« 猫風船 | トップページ | 雪沼とその周辺 »

21 小池昌代の本」カテゴリの記事

68 エッセイ・詩・ノンフィクション本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/16921447

この記事へのトラックバック一覧です: 雨男、山男、豆をひく男:

« 猫風船 | トップページ | 雪沼とその周辺 »