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2007.08.05

クヌルプ

20070802_036 悔いてもなお、悔いきれない思いがある。願っても、叶わない思いがある。もっとこうなれたはずだとか、ああできたはずだとか。けれど悔い改めたところで、人は生きている限り、愚かしい問いを繰り返さずにはいられない。なぜこうできなかったか、どうしてああできなかったか、と。あるがままの自分と理想の自分の狭間で揺れながら、いつまでも何度でも繰り返し、繰り返し。ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳『クヌルプ』(新潮文庫)は、そんな悔いきれないわたしにとって、学ぶところの多い作品だった。自分らしく生きるとはどういうことなのか。そして、人生を全うするとは、どういうことなのか。深い心の奥底から、しみじみと考えさせられたのだった。

 クヌルプ。彼は一生を放浪して、孤独の中に生きた。まるで、自分の帰り着く場所を探すみたいに。生活力はなかったが、その人間性から友人たちはクヌルプに宿を提供し、ときに尊敬の念や憧れを彼の中に見出すのだった。だが、流れ者のごとく、とうとう失意に倒れるクヌルプ。何者にもならず、何事も成し遂げないまま。けれど、クヌルプの思いとは裏腹に、彼の死の間際、神はそれを“よし”としてくれるのである。彼らしく生き、彼らしく在ったという、ただそれだけで。そして、どの生にも無駄はなかったとして。クヌルプと神との対話は、この物語の核として眩しいくらいに煌めいているように感じられる。あたたかに。すべてをまるごと包み込むように。

 また、この偉大なる肯定は、深く救われる心地がする。こんなにも大きな救いを、他に知らないと思うほどに。きっとこれは、罪人すらも自分らしく在ったと肯定しかねない偉大さである。あるがままの自分を認めるのも、受け入れるのも、容易いことではないこと。それすらも忘れてしまうほど。けれど、忘れてはならない。クヌルプはまともな親方にはならなかったが、決して罪人ではなかった。自然と人生の美しさを見出し、芸術家として生きたのである。行く先々で人々を助け、明るい光を射し込んだ人物でもあった。そんな彼だからこそ、神は彼を認めて受入れ、全てを許したのではないだろうか。彼らしく生き、彼らしく在ったと。彼らしく逝った、と。

4102001050クヌルプ (新潮文庫)
ヘッセ
新潮社 1970-11

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