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2007.07.31

いつか王子駅で

20070520_033 あたたかくやわらかなぬくもりに包まれて、ゆうるりとした日常を感じていた。抑制の効いた文章から滲み出る情感は、時の狭間に埋もれそうになるいくつもの光景を甦らせ、至福の時を与えてくれるのである。そして、愛すべきもの、懐かしい日々、いつまでも大切にしたい記憶の数々を回想することができる。堀江敏幸著『いつか王子駅で』(新潮文庫)は、印鑑職人の正吉さんと偶然に知り合った時間給講師の<私>を語り手にした作品である。正吉さんは、大切な人に印鑑を届けるといったきり、さっと姿を消してしまう。<私>は、正吉さんの置き忘れたカステラの箱を手に、さまざまなことに思いをめぐらせながら、路面電車の走る下町の生活を語ってゆく。

 <私>の語る下町の暮らしには、古書、童話、昭和の名馬たちが何度も登場する。とりわけ、昭和の名馬たちについての回想ではスピード感が溢れていて、きゅっと身が引き締まる思いがする。<私>の教え子の一人である咲ちゃんの走りと、名馬のレースを重ね合わせる場面では、さらにスピード感が増し、ぐいっと前のめりになってしまうくらいである。その語りは、まさに競馬中継のそれとよく似ていて、レースの臨場感と熱気とを読み手に真摯に伝えてくれる。もちろん、その端々には人間の内面も外面も、流れゆく風景までも描かれている。はっとするほどの美しさに、呑み込まれそうになるほどのスピードで。何とも爽快な語り口なのである。

 それから、文学についての語りも見逃せない。今日ではあまり馴染みのない作家、島村利正、安岡章太郎、徳田秋声などの文学の解釈について語るのである。中でも、咲ちゃんの宿題に出てくる安岡章太郎の「サアカスの馬」については、その内容から相応しいタイトルを考えるという難問が出題される。元々タイトルを知っていた<私>と新たなタイトルを考えた咲ちゃんが、肩を並べて語る様子は、なんだか妙に可笑しくて印象的である。そして驚かせられる。文学と現実とがこんなにも結びつきを感じさせるものなのか、と。濃くも淡く、淡くも激しく寄り添って、ゆるやかにもスピード感顕わにも流れる時間は、とてつもない魅力を秘めていたのだ。

4101294712いつか王子駅で (新潮文庫)
堀江 敏幸
新潮社 2006-08

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