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2007.04.16

老妓抄

20070414_008 生に取り憑く人がいる。生に取り憑かれる人がいる。自分自身の、或いは誰かのそれに。わたしたちは知り得ない。生を嘆くことのスピードを。まだ早すぎるのか、もう遅すぎるのかを。縛られるがごとく、生はただ此処に存在し、この世のままならない現実を目の前にして、悲痛な声を吐き出すだけだ。あまりにもしぶとくて。そして、淡くて。岡本かの子著『老妓抄(ろうぎしょう)』(新潮文庫)には、或る意味執念に思えるほどの生が描かれている。その生命力たるや、不気味なほどである。怪物的な、妄執的な。そういう類の不気味さなのだ。それでも、非日常ではなく、ありふれた日常のように思わせるから、なおさら恐ろしい。生とは、老いるとは何なのか、考えさせられる。

 表題作「老妓抄」。財を成し遂げた、老妓。彼女は年老いてもなお、その生を漲らせ、出入りの青年のパトロンとなる。生活の保証と、発明に没頭できる環境とを用いて。どこか人を飼う行為にも、生を吸い取る行為にも、性的な願望を満たす行為にも受け取れる。女性ならではの、性への嘆きとも受け取れる。生と性。人間にとって切り離すことの難しい2つの事柄は、わたしたちを惑わせる。物語は、老妓とその養女とに惑わされる青年、という構図を淡々と描いてゆく。老妓の妄執と、養女のあどけなさという対比には、読みながら何度もくらくらしてしまった。いずれは老いゆくわたしたちが、どこまで変わり果てるのか。そうずっと先のことを考えてしまうと、さらに物語は恐ろしさを強める。

 もちろん、恐ろしさばかりじゃない。老いた女性ならではの、深い悲しみが描かれてもいるのだ。怪物、化け物的な老妓の弱さが、ほろりとこぼれ落ちるのは見逃せないところだろう。とりわけ、老妓が詠んだ最後の一首は、この物語のすべてと言ってもいいくらい胸に染みてくるのだ。その一首、“年々にわが悲しみは深くして いよいよ華やぐいのちなりけり”をどう解釈するかで、物語のイメージは変わってくるに違いない。わたしたちそれぞれが、秘めている奥底にある心情というもの。その陰影。目に見えない不確かなものは、時には多くのことを語り出す。わたしたちを戒めるがごとく、突き放すように。生と性。そのあるべき姿というものを、わたしはこれから考えなくてはならない。

4101040028老妓抄
岡本 かの子
新潮社 1950-04

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コメント

 こんちは。久しぶりにカキコします。
 こないだ林芙美子の『晩菊』を読み返したあと、実はこのかの子さんに手を伸ばそうとしかけたのですよ。
『晩菊』のヒロインも老いた――といってもまだ五十代半ばだけれど、書かれた当時としては老年だったのでしょう――元芸者(ものの本によっては元娼婦と紹介されている場合もあるが、どう読んでも芸者だね)です。
 そんなヒロインを、冷徹に描いてしまう林芙美子という人は、つくづく怖ええよ、と思ってしまった。たぶん、かの子というひとも、怖ええひとなんだろう。
 たまに、こういう作品を読むと、とても身も心も引き締まる気がします。

 ではまた。

投稿: あらき・おりひこ | 2007.04.17 11:41

あらき・おりひこさん、コメントありがとうございます!
確かにとても“怖ええひと”に違いないです(笑)
他の短編もみな、女性を化け物的に描いていて、著者と通じている感じ。
もしや、著者そのもの!?と思ってしまうほどです。
解説を読んだら、もっと怖さが増しますよ、きっと。
林芙美子さんの作品も、こうなったら読むしかないですね。
読みたい熱がウズウズしてきちゃいました。
わたしもときどきこういう作品を読むと、きゅっと引き締まります。

投稿: ましろ(あらき・おりひこさんへ) | 2007.04.17 11:57

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