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2007.03.16

サグラダ・ファミリア[聖家族]

20070106_004 或るかたち。わたしはそういうものに縛られて、きゅうきゅうと生きている。決して窮屈ではないけれど、どこか満たされない思いを抱えて。愛に飢えつつも愛に生きられず、愛に不器用なまま。学習しつつも、ちっとも身につかない。実に無駄なサイクルで。のらりくらりと。それでも焦るばかりで。わたしなりに必死で。だから、きゅうきゅう。毎日がきゅうきゅう。なんだか無性にきゅうきゅうなのだ。中山可穂著『サグラダ・ファミリア[聖家族]』(新潮文庫)は、そんなわたしに風穴をあけるように、すうっと心を満たしてくれた。満たされなかった何かが、変化したような気がした。ゆっくりと力が抜けてゆき、きゅうきゅうなものがほどけてゆく心地にしてくれた。

 孤高に生きるピアニストの響子と、その永遠なる恋人であるルポライターの透子。ふたりは出会い、別れ、再会を果たす。けれど、透子は家族の温もりを乞い続け、ゲイの男性の子どもを生む。子ども嫌いの響子は、その存在に困惑し受け入れられずにいた。だがある日、透子が子どもをシッターに預けたまま、事故死してしまうことから、響子の日々は新たなるかたちで形成されてゆくようになる。不安定な響子と透子とその子どもの関係。そして、その後に現れる男性との奇妙なる関係。それを見守る周囲の人々との関係。それぞれが、自分なりのやり方で生き抜いているところが、何とも興味深く、胸打たれる展開である。きゅうきゅうな日々など、馬鹿らしく思えるくらいに。

 また、かたちに捕らわれないということ。その意味を、その根本にあるものを、この作品は考えさせてくれる。ここでの家族というもの。それには、血のつながりなどない。夫婦も父親も母親も、ない。確かに在るのは、誰かを愛するという気持ちと、それを守りたいという思いのみ。愛に焦がれて、愛に生きて、不器用ながらもただただ愛して。そうやって、大切なものだけを懸命に握りしめるかたち。血のつながりなどなくても、そういう強い思いがあれば、自然と生まれてくる関係性があること。あまりにも脆いから、あまりにも切ないからこそ、強い絆で結ばれるものがあることに気づく。きゅうきゅう。その状態に安住するべからず。どうか、かけがえのないものを見失わずに。

4101205310サグラダ・ファミリア 聖家族
中山 可穂
新潮社 2001-11

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コメント

はじめまして。猫ちゃんの可愛い写真いつも楽しく拝見させて頂いております。私も猫を飼っていたのですが去年のクリスマスに天国にいってしまいました。22年間一緒に暮らしていたので未だに寂しくて。。。
また、ちょくちょく遊びに来ますね。

投稿: natsu | 2007.03.17 13:42

natsuさん、はじめまして。コメントありがとうございます!
22年も一緒にいたら、もの凄い深い絆があったんだろうなと思います。
でも、クリスマスという日と、その長寿に、
なんだか不思議な繋がりのようなものもある気がするんです。
一緒の思い出が、どうかほっこりあたたかく在り続けますように。

投稿: ましろ(natsuさんへ) | 2007.03.18 20:21

こんにちははじめまして。
本の話と猫の話が聞けるところはなかなか無いので、
驚いているところです。
それにしてもかわいい猫さんたちですね。
これからもよろしくおねがいします。

投稿: めがね | 2007.03.19 00:44

めがねさん、はじめまして。コメントありがとうございます!
本と猫と、好きなモノを一緒にしただけなのに、恐縮です。
よろしければ、またぜひいらしてください。
こちらこそ、今後もよろしくお願い致します。

投稿: ましろ(めがねさんへ) | 2007.03.19 12:35

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