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2007.03.07

マラケシュ心中

20070106_4444012 まるごとすべてを肯定するということは、つまりは愛なのかもしれない。ありのままの姿を、ありのままの心を、ありのままのわたしを。骨の髄まで狂おしいまでに愛し、愛されること。それは誰もが何度も求め焦がれつつ、何度も繰り返し諦めて絶望して、いつしか妥協という名の下にひた隠しにして見ない振りをしている、そんな感情なのかも知れない。中山可穂著『マラケシュ心中』(講談社)を読んでいると、そういう感情の奥深いところを思って、熱いため息がもれる。何しろ、命がけの恋愛なのだ。極められるところまで、とことんまで極めて、そうして死ぬ。そこまでの覚悟を持って、恋愛すること。それがこの物語だ。痛々しいまでに傷ついて、それでも忘れられぬほどの。

 歌人の絢彦は、歌壇でも有名な女たらし。それでも、遊びと本気とは、わきまえている女性である。彼女の詠む歌は、恋愛の心髄を突くような、本能のままのもの。そんな歌は多くの女性を魅了し、歌壇の中で誰もが尊敬する歌人の妻をも惹きつける。それは、かつて彼女が怒りを買ったままの、恩師の妻でもあった。幾人ものガールフレンドがいながらも、惹かれてゆく絢彦と、恩師の妻である泉。恋い焦がれつつも、恋人同士になることを拒む泉に対して、友だちでいることの苦しさに耐えられない絢彦。そして、やがて泉から逃げゆくように、世界を旅するようになるのだった。そこで詠まれる歌の数々は、叶わぬ思いをそのまま表現したように、心に染み入ってくる。

 愛を極めること。そこに根づくものとは、なんだろう。愛を極めたことのないわたしにとっては、想像を絶するほどの苦悩に違いない。忍耐と情熱と執念と、そうして他には何があるのか。そして、もしも極めた愛に終わりが訪れたとき、残るものなどあるのだろうか。物語の結末は明かさないが、ボロボロに崩れ落ちゆく姿を読むことに、読者としてのわたしの思いまでが、ひどく痛く切なく苦しくなるのだった。こんなに狂おしい思いがこの世界にあってもいいのだろうかと、疑問に思うくらいに。もちろん、物語ではなく、実際にもこれほどにも狂おしい思いを抱える人たちがいるのかも知れない。その思いをひた隠しにして、社会を生き抜く強さを備えた人がいるかも知れないのだ。

 愛を極めること。きっと、そこには失うものが多く存在する。絢彦と泉、その他の登場人物たちにも言えることだが、地位も名誉もこれまでの生活すべても、ときには友さえも裏切り、それでも恋い焦がれるのだから。それでも、抑えきれぬ思いだから。そんなときはきっと、この世界ほど残酷なものなど存在しなくて、この世界ほど生きにくいものはなくて、この世界ほど恨むべき存在はなくて、愛した人も、愛された人も、愛し愛された人も皆、空虚な自分を抱きしめて眠るのだろう。愛を極めたことのないわたしは、身勝手ながらにそんなことを思いながら、この物語を読み終えたのだった。いつか、愛を極めることを夢見つつ、どこかで叶わぬことを願いながら。

4062750910マラケシュ心中 (講談社文庫)
中山 可穂
講談社 2005-05

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