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2007.02.13

若かった日々

20070212_55013 絡まっていた糸がするするとほどけて、鮮やかに甦る記憶たちがある。ふとしたきっかけに思い出されるそれらは、眠りから覚めると心のひだを揺らして、ほんのりとした疼きと共にわたしをやわらかに包み込む。そうして、まだ幼かった日々のことをゆっくりと慈しむようになぞらせるのだ。甘さも苦さも何もかもを愛しさに変えて…。レベッカ・ブラウン著、柴田元幸訳『若かった日々』(マガジンハウス)を読み返していると、そんな感覚になるのに気づく。時を経てもなお消しきれない出来事すらも、なんだか不思議と穏やかに見つめられそうな気さえしてくるのだ。ほどけることを知らない糸さえも、さらなる絡まりから抜け出しそうな気配を見せて。

 もう子どもじゃないわたし。大人になってしまったわたし。もう若くないわたし。わたしは途切れることなく確かにここ存在しているにもかかわらず、少しずつ若さを失いゆく。或いは、今ある若さを封じ込めてゆく。その逃れようもない事実を背にして、ときどき絶望してみせるわたしがいる。単なる悪あがきかと思われるそんな行為は、実はわたしなりの密やかなる過去との格闘に他ならず、もはや一切合切の責任は自分自身にある。そうして、まだ幼かったわたしが知り得ていたもの。今は無きそれ。幼かったわたしが知り得なかったもの。今はあるそれ。これらの事象に代表される、わたしという存在の不思議に今さらながらはっと驚くのだった。

 例えば、変化の歳月というもの。例えば、自らの成長というもの。例えば、わたしという謎めき。例えば、わたしのルーツに、きっとわたしという存在の不思議を紐解く鍵がある。わたしの変化の歳月は、成長を促し、その謎めきをさらなるものへと進ませ、そのすべてはきっとわたしのルーツなのだと思うのだ。いわゆる血というもの。血。即ち家系や両親。そう、すべては両親あってのわたしである。父とよく似たわたしがいて、母とよく似たわたしがいて、たどっていけば祖父ともよく似たわたしがいて、祖母ともよく似たわたしがいる。そんな連なる血の為せる技を目の当たりにするとき、わたしは見えない繋がりを感じて、あたたかな気持ちになるのだった。

 また、いくらわたしが、もう子どもじゃないと言っても、大人になってしまったと言っても、もう若くないと言っても、変わらずに流れるこの血を思えば、わたしがわたしである所以のようなものを意識していられるのだった。それは、おごりとかではなく、ただわたしがわたしとして、ここにいるための理由のようなものだ。確固たる言葉ではなく、曖昧ながら芯に存在する意味のような。いつでもわたしをここに引き戻してくれるような、そんなものとして、在るのだ。そして、思わせてくれる。すべては間違いではないこと。すべてはまだ、はじまったばかりであること。すべては過ちじゃないこと。わたしにはまだ、やるべきことが残されているということを。

4838714661若かった日々
レベッカ・ブラウン 柴田 元幸
マガジンハウス 2004-10-21

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